彼女が残した二通の手紙と嘘

最後の夜

彼女の葬儀の翌日、私は二通の手紙を受け取りました。

一通は彼女の父親から。もう一通は、彼女自身から。

二通の手紙のどちらにも、私がついたたった一つの嘘のことが書かれていました。

彼女と出会ったのは、七年ほど前のことです。

当時、彼女は大学一年生で、私は社会人になったばかりでした。

最初に会ったのは、サークルの先輩が開いた飲み会でした。

彼女は端の席で、烏龍茶を飲んでいました。

「お酒は、だめなんです」

隣に座った私に、彼女は小さくそう言いました。

理由は、聞きませんでした。

帰り道、駅まで並んで歩く間、彼女はずっとリンゴ飴の話をしていました。

「齧ると、中のリンゴが酸っぱいのがいいんだよね」

その話し方が、なぜか耳に残りました。

月に一度の遠距離

付き合い始めて間もないころ、彼女は寂しそうに笑ってこう言いました。

「持病があってね。あと五年生きられるかどうか、なんだって」

それを承知で、私は彼女の隣にいることを選びました。

けれど私の仕事の都合で、関西と東北に離れて暮らすことになります。

「会えるついでに旅行もできるね」

彼女はそう笑って、月に一度、新幹線に乗って会いに来てくれました。

実家暮らしの彼女と、貧乏サラリーマンの私。

負担をかけまいと、いつも足を運んでくれたのは彼女のほうです。

改札の向こうで、大きなリュックを背負って手を振る姿。

リュックの半分は、いつも私への土産でした。

地元の漬物や、母親が焼いたというクッキー。

机に並べるたび、彼女は「食べて食べて」と急かしました。

その姿を、私は何度待ち焦がれたか分かりません。

二人で行った旅行の中で、いちばん覚えているのは、五月の青森です。

リンゴの花が、雪が積もったように白く咲いていました。

「ここの花が、全部実になるんだよ」

彼女は花の下で、大きく息を吸いました。

「実になるまで、長いよね。来年も、再来年も来ようよ」

私は「うん」としか言えませんでした。

五年という言葉が、その日も胸のどこかにありました。

彼女は大学を卒業して、地元で就職しました。

「お金を貯めて、必ずそっちに行くからね」

その約束を信じて、私も必死に貯金を始めました。

けれど就職から一年が過ぎたころ、彼女が来る間隔が少しずつ伸びていきました。

毎晩の電話も、繋がらない夜が増えていきました。

嫌な予感は、小さな針のように胸の奥に刺さっていました。

彼女が来なくなった週末、私は一人で、駅の改札の前に立ち続けました。

ある日、彼女の父親から電話がありました。

「持病が悪化して、来週から入院する。もう電話もするな。放っておいてくれ」

それだけを言って、電話は切れました。

「放っておいてくれ」という言葉を、私は何度も頭の中で繰り返しました。

けれど、その言葉の裏側にあるものに、そのときの私は気づけませんでした。

すりおろしたリンゴ

覚悟していたはずの瞬間でした。

それでも、受話器を置いた手が震えました。

翌朝、私は上司に頭を下げました。

「東北へ、転勤させてください」

返ってきた答えは、NOでした。

何度話し合っても、答えは変わりませんでした。

私は退職届を出し、荷物のほとんどを処分しました。

彼女の入院する病院の近くに、窓から病院の屋根が見える小さな部屋を借りました。

そして病室を訪ねたとき、私は彼女に嘘をつきました。

「会社をリストラされたから、地元に戻ってきたんだ」

「新しい職場も近いから、仕事終わりに会いに来られるよ」

彼女は目を丸くしてから、「そうなんだ」と笑いました。

「リストラかあ。大変だったね」

「うん。でも、ちょうどよかったよ」

彼女はそれ以上、何も聞きませんでした。

その沈黙の意味を、私は考えもしませんでした。

昼間は母親が、週末は父親が病室にいたため、面会は夕方の短い時間だけでした。

両親が帰ったあとの、わずかな時間です。

待つ時間の長さを思うとき、台所の時計だけが正確だったという話を、ふと思い出します。

窓の外では、病院の庭の桜が、少しずつ葉の色を濃くしていきました。

季節だけが、私たちを置いて先へ進んでいくように感じました。

彼女は日に日に痩せ、頬はこけていきました。

足も、思うように力が入らなくなっていました。

それでも私の顔を見ると、いつも笑ってくれました。

「今日はどんな一日だった?」

「面接が一件あって、緊張したよ」

「そっか。頑張ってるんだね」

面接というのも、半分は嘘でした。

私は彼女の枕元で、嘘を少しずつ積み上げていきました。

大好物のリンゴを、私は毎日すりおろしました。

最初の日は、手が滑って果汁を床にこぼしてしまいました。

見かねた看護師さんが、使いやすいおろし金を貸してくれました。

絞った果汁を、スプーンで少しだけ口に含ませます。

気づけば、病室の窓辺には、毎朝、新しいリンゴが一つ置かれていました。

誰が置いているのか、彼女は笑って教えてくれませんでした。

後になって、それが父親だったと知りました。

「美味しい」

そう言って微笑む顔が、私の幸せのすべてでした。

リンゴの甘い匂いが、病室の消毒の匂いを少しだけ和らげてくれました。

ある日曜の夕方、看護師さんの許しをもらって、車椅子で屋上の庭へ出ました。

夕焼けの色が、街の屋根を橙に染めていました。

「ここ、風が気持ちいいね」

彼女は目を閉じて、風を深く吸い込みました。

「ねえ、リンゴの花、また見に行きたかったな」

「行こう。来年、必ず」

私はそう答えました。

彼女は何も言わず、私の袖を、そっとつまみました。

エレベーターの前の父

ある夜、面会を終えて病室を出ると、エレベーターの前に彼女の父親が立っていました。

「話がある」

低い声に、私は背筋を伸ばしました。

「会社を辞めて、フリーターになってまで、どうして戻ってきた」

私は迷わず答えました。

「好きな人のそばにいるのに、理由が必要ですか」

父親はしばらく黙っていました。

やがて、深く息を吐いて言いました。

「わかった。これからは気兼ねなく、あの子に顔を見せてやってくれ」

その日から、母親は面会の終わる一時間前に席を外してくれるようになりました。

父親も、私と彼女の時間を守ってくれました。

エレベーターの扉が閉まるまで、父親は頭を下げたままでした。

「お父さんがね、好きにしていいって言ってくれたんだよ」

彼女は嬉しそうに教えてくれました。

一週間後の深夜、電話が鳴りました。

父親の声でした。

「今から来てやってくれ。ただし……覚悟して来い」

病室に駆け込むと、そこには変わり果てた彼女がいました。

髪は抜け、頬はこけ、顔は青白くなっていました。

彼女の両親は目を真っ赤に腫らして、私に彼女の手を取らせました。

骨ばった手は驚くほど軽く、冷たくなりかけていました。

耳を近づけると、かすかな声が届きます。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

「大丈夫だよ」

私は心の中で繰り返しながら、必死に握り返しました。

やがて彼女は、別の言葉を口にしました。

「ありがとう。すごく幸せだったよ」

それが、最後の言葉でした。

電子音が、長く続く一本の音に変わりました。

医師が静かに頭を下げました。

母親は声を上げて泣き、父親と私は声を殺して涙を流しました。

握った手から、温もりがゆっくりと消えていくのを感じました。

渡された二通の手紙

翌日、父親が喪服と、二通の手紙を持ってきてくれました。

一通目は父親からでした。

「すまなかった。そして、ありがとう」

短い言葉に、すべての想いが詰まっていました。

続けて、もう一行ありました。

「電話を切らせたのは、あの子の頼みだった。君の人生を巻き込みたくなかったそうだ」

放っておいてくれと言ったのは、彼女の願いだったのです。

私は父親の手紙を読み終えても、しばらく動けませんでした。

毎朝、窓辺に置かれていた一つのリンゴを思い出しました。

あとから読み返した母が売りに行ったカメラの物語に、あの父親の背中がよく似ていました。

二通目は、彼女からの手紙でした。

出会ったころから入院までの日々が、便箋にびっしりと綴られていました。

どれほど幸せだったか。どれほど救われたか。

便箋の終わりのほうに、こう書かれていました。

「リストラなんて嘘だって、最初から知っていたよ」

「あなたは嘘が下手だから。でも、騙されたふりをする時間が、わたしの宝物でした」

「嘘をつかせてしまって、ごめんね。そして、ありがとう」

「私がいなくなっても、元気でいてね。たくさん幸せになってね」

「新しい彼女、見つけなきゃダメだよ」

「私のこと好きなら、絶対に幸せになってね。約束」

私はシャワーの音に紛れて、声を上げて泣きました。

今、私は父親の紹介で得た職場で働いています。

休日には、ときどきリンゴをすりおろします。

ひとさじ口に含むと、あの病室の匂いがします。

あの手紙の「約束」を守るために、今日も私は生きています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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