三年前のある日、両親が離婚した。
俺と妹は、母さんについて行くことになった。
両親が別れることを知らされた夜のことを、今でもよく覚えている。
母さんは、俺と妹を前に座らせて、できるだけ静かに事情を話そうとした。
けれど途中で言葉が続かなくなって、何度も唇を噛んでいた。
妹はまだ幼くて、状況がうまく飲み込めないようだった。
俺は、自分がしっかりしなくては、とその夜に思った。
引っ越したのは、駅から離れた古いアパートの一室だった。
壁が薄くて、隣の物音がよく聞こえる部屋だった。
三人で布団を並べて寝た最初の夜、母さんは背を向けて、小さく泣いていた。
俺は気づかないふりをして、天井のしみを数えていた。
母さんはずっと専業主婦だったから、まともに働いた経験がほとんどなかった。
それでも生活のために、いくつものパートを始めた。
けれど、どこも一ヶ月と続かない。
覚えることが多すぎて、若い人たちのようには動けないのだと、母さんはこぼしていた。
家計は、目に見えて苦しくなっていった。
母さんは、スーパーのレジから、弁当工場のラインまで、いろんな仕事を試した。
どの仕事も、若い人のスピードについていけず、長くは続かなかった。
「ごめんね、母さん、不器用で」
ある晩、母さんはそう言って、頭を下げた。
親に頭を下げられるのが、俺はいちばんつらかった。
謝らなくていいよ、と言うのが精いっぱいだった。
※
当時、俺は高校生だった。
バイト代を全部入れても、三人で暮らしていくにはとても足りなかった。
妹はまだ中学生で、これからお金がかかる。
妹は妹なりに、家のことを手伝うようになった。
夕飯を作って待っていてくれる日もあった。
焦げた卵焼きを、俺は「うまい」と言って食べた。
妹は、勉強だけは決して手を抜かなかった。
「お兄ちゃんが働いてくれてるから、私は頑張れる」
そう言われたとき、俺は中退したことを、初めて少しだけ誇らしく思えた。
俺は高校を中退して、解体現場の仕事に就いた。
高校を辞めると決めた日、担任の先生は、最後まで反対してくれた。
「お前には、まだ別の道があるはずだ」と。
その言葉はありがたかったが、俺には選んでいる余裕がなかった。
教科書を後輩に譲り、制服をクリーニングに出して、俺は学校を去った。
校門を出るとき、一度だけ振り返った。
未練がなかったと言えば、嘘になる。
それでも、家族を守ることのほうが、俺には大事だった。
朝は五時に起き、まだ暗いうちに現場へ向かう。
重いハンマーを振るい、コンクリートを砕き、埃まみれになって働いた。
手のひらには、すぐに固い豆ができた。
それでも、給料日に母さんへ封筒を渡すと、少しだけ気持ちが軽くなった。
解体現場の仕事は、想像していたよりずっと過酷だった。
夏は灼けるような暑さの中で、冬は凍えながら、鉄とコンクリートを相手にする。
昼休み、先輩たちが日陰で弁当を広げる中、俺は壁にもたれて目を閉じた。
高校の教室にいたはずの俺が、今はここにいる。
そのことを、不思議に思う余裕すら、最初の頃はなかった。
一度、足場の資材で指を強く挟んで、爪が剥がれたことがある。
それでも俺は、次の日も現場に立った。
休めば、その分、家に入れる金が減ってしまうからだ。
先輩のひとりが、そんな俺を見て、よく缶コーヒーをおごってくれた。
「若いのに、えらいな」
そのひと言が、思いがけず、胸に沁みた。
※
家にあるものを、俺は次々と売った。
集めていた漫画も、ゲームも、ためらわずに売り払った。
少しでも家計の足しになればと思った。
漫画を売りに行った古本屋で、俺は段ボール箱を手放すのをためらった。
何度も読み返した背表紙が、箱の中で少しだけ眩しく見えた。
店員が値段を告げると、俺は「お願いします」とだけ言った。
帰り道、財布の中の数枚の札が、やけに薄く感じられた。
それでも、これで少しは楽になる、と自分に言い聞かせた。
そして、いちばん大事にしていたものにも、手をかけようとした。
俺のカメラだ。
※
カメラを好きになったのは、小学生の頃だった。
父さんが使い古した、古い一眼レフを譲り受けたのが始まりだった。
ファインダーをのぞくと、いつもの景色が、まるで別の世界みたいに見えた。
夕焼け、雨上がりの水たまり、妹の笑った顔。
何でもないものが、その四角い枠の中で、急に特別なものになった。
俺にとって写真は、息継ぎのようなものだった。
※
そのカメラと、何本かのレンズを、俺は売ろうとした。
離婚で家がばらばらになって、もう写真どころじゃない、と思っていた。
こんな贅沢なもの、今の俺たちには似合わない、とも。
机の上に並べたカメラを見て、母さんはすぐに気づいた。
そして、いつになく強い声で言った。
「それだけは、売っちゃだめ」
※
俺は驚いて、母さんの顔を見た。
「あんたが自分で見つけた、好きなことなんだから」
「カメラだけは、絶対に続けなさい」
母さんは、ほかのものには何も言わなかったのに、これだけは譲らなかった。
あんまりしつこく言うので、俺は結局、いちばん古いカメラを一台だけ残した。
レンズは、最初からついていた安物のキットレンズが一本きりだ。
それ以来、ずっとそのレンズだけで撮っている。
※
しばらくして、現場の先輩に声をかけられた。
「お前、カメラやるんだって? 今度、現場の集合写真撮ってくれよ」
それをきっかけに、俺はまた少しずつ、カメラを持ち歩くようになった。
現場仲間に集合写真を頼まれたとき、俺は少しだけ緊張した。
全員が並んだ瞬間、シャッターを切ると、無骨な男たちが照れたように笑った。
その写真を渡すと、先輩は「お前、ええ腕しとるな」と言ってくれた。
誰かのために撮った一枚を、喜んでもらえる。
それが、こんなに嬉しいことだとは、知らなかった。
休みの日には、自転車で町をまわって、シャッターを切った。
安いキットレンズでも、撮れる写真はちゃんとあった。
暗い場所や、遠くのものは、どうしてもうまく写らない。
それでも、ファインダーをのぞいている間だけは、現場の疲れも、家の不安も、すっと遠のいた。
写真は、やっぱり俺の息継ぎだった。
※
ある日、カメラ屋の中古コーナーで、一本の単焦点レンズを見つけた。
暗い場所でも、人の表情を、やわらかく写せるレンズだった。
値札を見て、俺はそっと棚に戻した。
今の俺には、とても手の届く値段じゃない。
いつか、と思いながら、その日も俺はキットレンズで帰った。
カメラ屋に通うのが、いつのまにか俺の楽しみになっていた。
買えるあてもないのに、あの単焦点レンズを、ガラス越しに何度も眺めた。
店員に「試してみますか」と言われても、俺は首を横に振った。
一度手にしてしまったら、欲しくてたまらなくなる気がしたからだ。
このレンズがあれば、暗い場所の妹の笑顔も、きれいに残せるのに。
そう思いながら、俺はいつもキットレンズで町を撮って帰った。
レンズのことは、家では一言も話さなかった。
※
話は変わるが、今年の俺の誕生日のことだ。
その日、仕事から帰ると、母さんがそわそわしていた。
テーブルの上に、小さな包みが置いてあった。
「いつも、無理して頑張ってくれてるから」
母さんは、照れたように笑いながら、それを差し出した。
開けてみて、俺は息を呑んだ。
※
中に入っていたのは、あの単焦点レンズだった。
あの日、カメラ屋の棚に戻した、まさにそのレンズ。
「店員さんに、いろいろ聞いてね」
「あんたが撮りたいものには、これがいいって、教えてもらったの」
母さんは、カメラのことなんて、何も知らないはずだった。
その母さんが、慣れない言葉を必死に覚えて、店員に尋ねたのだ。
少しずつ貯めていた、パート代で。
母さんは、レンズを渡しながら、ぽつぽつとその日のことを話した。
カメラ屋に入るだけでも、ずいぶん勇気がいったらしい。
若い店員に、何度も同じことを聞き返して、申し訳なかったと言っていた。
「うちの息子が、暗いところで人を撮りたいみたいなんですけど」
母さんは、そう切り出したのだそうだ。
店員は親身になって、いくつものレンズを並べて説明してくれたという。
その中から、母さんは、いちばん俺に合いそうな一本を選んだ。
カメラのことなど何も知らない人が、息子のために、必死で覚えた言葉だった。
あとで気づいたが、母さんはこの数ヶ月、自分のものを一つも買っていなかった。
擦り切れたサンダルを、テープで補修して履き続けていた。
そうして少しずつ貯めた金を、全部、俺のレンズに変えたのだ。
※
何やってんだよ、ばか。
家計が苦しいのに。
そんな金があるなら、自分の服でも買えばいいのに。
やつれた顔で、それでも精いっぱい笑いながら、母さんは言った。
「誕生日おめでとう」
「まだ若いんだから、自分のやりたいこと、頑張りなさい」
その日は、妹がめずらしく早く帰っていた。
テーブルには、スーパーで買った小さなホールケーキが置いてあった。
妹が、こっそり自分のお小遣いで買ってきたものだった。
あとで知ったのだが、妹は母さんの計画を、ずっと前から知っていたらしい。
「お兄ちゃんには内緒だよって、母さんに口止めされてたの」
妹は得意げにそう言って、笑った。
二人して、俺を驚かせるために、何週間も黙っていたのだ。
※
恥ずかしながら、俺は泣いてしまった。
体の水分が、全部出てしまうくらい、泣いた。
親の前で大泣きしたのは、中学の卒業式以来だった。
母さんは、何も言わずに、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
その手は、パートで荒れて、あかぎれだらけだった。
※
あのレンズで、俺が最初に撮ったのは、母さんの横顔だった。
台所で、夕飯の支度をしている、何でもない横顔。
やわらかい光が、あかぎれの手を、やさしく包んでいた。
後日、俺はその一枚を、ちゃんとプリントしてもらった。
光沢のある紙に焼かれた母さんの横顔は、思っていたよりずっと穏やかだった。
あかぎれの手も、ぶれずに、はっきりと写っていた。
その手が、俺たち兄妹を、ここまで育ててきたのだ。
母さんは、その写真に気づくと、「やだ、こんなおばさん撮らないでよ」と照れた。
それでも、捨てろとは言わなかった。
今でもその一枚は、棚のいちばん見えるところに置いてある。
※
現場の仕事は、相変わらず厳しい。
手の豆は固くなり、肩にはいつも鈍い痛みがある。
それでも、休みの日にあのレンズを構えると、世界はまた特別に光って見える。
暗い路地も、雨にぬれた看板も、ファインダーの中では美しかった。
母さんがくれたのは、レンズだけじゃない。
好きなものを手放さなくていい、という許しだった。
あの日、売らずに残したカメラが、今の俺をかろうじてつないでいる。
いつか、写真でちゃんと食べていけるようになりたい。
そして、母さんに新しいサンダルを、一足だけでも買ってやりたい。
俺は、その写真を安物の額に入れて、アパートの棚に飾った。
※
暮らしは、今もけっして楽じゃない。
それでも、休みの日になると、俺はあのレンズを持って町へ出る。
ファインダーの向こうの世界は、相変わらず、特別に光って見える。
やりたいことを頑張りなさい──母さんのあの言葉が、シャッターを切るたびに聞こえる。
いつか、母さんを楽にしてやれるくらい、いい写真を撮れる人間になりたい。
それが今の、俺のいちばんの夢だ。