番地の箱だけが棚に残った

雨上がりの小さな工房店

「それ、戻せ。売り物じゃない」

工藤の声が、店の奥から飛んできた。

私は持ち上げかけた箱を、棚の段に載せたまま手を止めた。

段ボールの側面には、鉛筆で短い数字の組が書いてある。

住所の番地のような印だ。

そんな箱が、奥の棚にずらりと並んでいた。

私は心の中で、その棚を番地の箱と呼ぶことにした。

持ち上げたとき、箱の中で小さな丸いものが転がった。

からから、と乾いた軽い音だった。

閉店セールの最終週、土曜日の昼だった。

工藤金物店は、駅から商店街を抜けた先の、角の酒屋の隣にある。

間口は狭いのに、奥行きだけはやたらと深い。

釘、ねじ、蝶番、蛇口のパッキン、荒縄、一斗缶の塗料。

天井まで届く棚が、迷路みたいに店の中を区切っている。

その棚のほとんどに、赤い紙が貼ってあった。

「半額」「三割引」、そして「持ってけ」。

最後の一枚だけは、工藤の字ではなかった。

誰かが筆ペンで書き足したらしい。

私は、実家の片づけの合間にここへ来た。

軍手と、脚立の代わりになる踏み台を探しに来た、というのは半分だけ本当だった。

もう半分は、顔を見に来たのだ。

年賀状のやり取りだけで、ここ何年も会っていなかった。

幼なじみの店が終わるというのに、顔も出さないわけにはいかなかった。

駅前の商店街は、シャッターの降りた店のほうが多かった。

パン屋は去年、電器屋はその前の年に閉まった。

歩くたびに、閉じた店の前で足音だけが大きくなる。

その突き当たりで、工藤金物店の看板だけが、まだ灯りをつけていた。

開け放した引き戸から、鉄と油の匂いが流れ出ていた。

子どものころ、私はその匂いを嗅ぐと、なぜか落ち着いた。

「悪い。客じゃない相手には、つい声が出る」

工藤はそう言って、レジの脇から出てきた。

前掛けの紐を、後ろ手で結び直している。

その手つきが、昔と少しも変わっていなかった。

「いや、俺のほうこそ勝手に触った」

「お前はいい。いいけど、そこだけは触るな」

それ以上は、何も説明しなかった。

私も、訊かなかった。

赤い紙のない棚だけが、店の奥で静かに黙っていた。

釘を数える手

工藤は、釘を一本ずつ数えて紙袋に入れる。

量り売りの店なのだから、はかりに載せれば早い。

けれど彼の父親も、そのまた父親も、釘だけは手で数えて売る店だった。

「八本」と言われれば八本。

「十五本」と言われれば十五本。

指先でつまんだ釘を、小さな紙袋にひとつずつ落とす。

ちゃり、ちゃり、と軽い音がする。

私はその音を聞きながら、レジの脇の丸椅子に座っていた。

中学生のころ、私は毎週のようにこの椅子に座っていた。

工藤は店の手伝いで、私は卓球部の帰りに寄るだけの客だった。

はかりのばねが軋む音。

鉄と機械油の混じった匂い。

夕方になると、店の入口から斜めの日が差し込んで、棚の埃が金色に浮いた。

「なあ、八本って言われて、なんでちょうど八本入れるんだ」

十四か十五のころの私は、そんなことを訊いた。

釘なんて、一本や二本多くたって誰も気づかない。

工藤は、顔も上げずに答えた。

「足りなくて困るのは、買った人だ。余って困るのは、おれだけだ」

「だから多めに入れとけって話か」

「違う。きっちり入れる。そのかわり、足りなかったらすぐ戻ってこいって言う」

「戻ってきたら」

「もう一回、数える」

あの店では、それが当たり前だった。

釘の袋は、数えた手の数だけ小さく鳴った。

雨の日は、特に店が静かだった。

屋根を叩く雨の音の下で、工藤は私に、釘の数え方を教えてくれた。

「三本ずつ、指で寄せる。三、六、九。端数が出たら、そこだけ数える」

「そんな面倒なこと、はかりでいいだろ」

「はかりは、釘の気持ちが分からない」

「釘に気持ちなんかあるのか」

「ない。でも、数える手には、ある」

意味が分からなくて、私は笑った。

工藤は笑わなかった。

濡れた傘の先から、水が土間にぽとぽと落ちていた。

私はいま、ビルの空調や給水の設備を保全する仕事をしている。

現場に出ると、いちばん困るのは故障そのものではない。

壊れた部品が、もう世の中のどこにも売っていないことだ。

型番は廃止され、メーカーにも在庫がなく、図面だけが残る。

そのたびに私は、古い機械を丸ごと入れ替える見積もりを書く。

それが正しい仕事だと、疑ったことはなかった。

ただ、この店の棚の前に立つと、その正しさが、少しだけ冷たく思えた。

いま私の目の前で、工藤は老いた女の客に、蝶番を二つ渡している。

数えるのは、やはり手だった。

白髪が増えた。

肩のあたりが、少しだけ丸くなった。

けれど釘をつまむ人差し指と親指は、中学生のころと同じ形のままだ。

「ほら、これで」

「悪いわねえ、閉めちゃうのに」

「閉めるのは、店です。蝶番は残ります」

老いた女は笑って、代金を小銭で数えて置いた。

その小銭も、工藤はひとつずつ数えてから、レジに落とした。

値札のない奥の棚

昼過ぎになると、店は意外なほど混んだ。

閉店の貼り紙を見て来た人もいれば、昔からの客もいる。

赤い紙の半額札をめくって、カゴに入れては、また戻す。

誰もが、少しだけ名残惜しそうな顔をしていた。

私は頼まれもしないのに、レジの脇で袋詰めを手伝った。

「あんた、ケンちゃんの友達?」

「ええ、まあ」

「そう。いい店だったのよ、ここは。ほかじゃ売ってないものが、ちゃんとあるんだもの」

「ほかじゃ売ってないもの、ですか」

「ねえ。ホームセンターに行ったら、品物はあるのよ。でも、うちの家のには合わないの」

その客は、何も買わずに帰っていった。

帰り際、工藤にだけ聞こえる声で、こう言った。

「うちのは、まだある?」

「ある」

それだけだった。

私はその短いやり取りを、聞かなかったことにした。

しばらくして、小学生の男の子が一人で入ってきた。

握った手のひらに、十円玉が三枚。

「ねじ、一本だけ、ください」

「どのねじだ」

「自転車の、ベルのやつ。この前、落とした」

工藤は小さな引き出しをいくつも開けて、一本のねじを探し当てた。

手のひらに載せ、男の子の目の前でゆっくり転がしてみせる。

「これか」

「これ!」

「代金は、一本ぶんだ。十円」

十円玉を一枚だけ受け取り、残りの二枚は男の子の手に押し戻した。

男の子はぺこりと頭を下げ、走って出ていった。

釘もねじも、一本から売る。

それが、この店のやり方だった。

男の子の姿が見えなくなってから、私はあらためて奥の棚を見た。

十個を超える箱が、整然と並んでいる。

どれも同じ向きで、背筋を伸ばしたように揃っていた。

番地の箱だけが、この店で唯一、値段の話をしない場所だった。

売らない、と工藤は言った。

でも、捨てるとも、言わなかった。

それが、少しだけ引っかかった。

客が引けた夕方、店の奥で弁当代わりのおにぎりを食べた。

コンビニで買った二つを、工藤が自分の分と私の分に分けてくれた。

箱の積み上がった事務机の端が、私たちの食卓になった。

「いつ閉めるって決めたんだ」

「去年の十月」

「後継ぎは」

「いない。ひとり息子の娘は、東京だ。継ぐ気はない」

「そうか」

「それだけの話だ」

おにぎりの海苔が、口の中でぱりぱり鳴った。

工藤の肩越しに、奥の棚が見えた。

値札のない、箱だけの棚だ。

鉛筆の数字は、薄く、けれど丁寧な字で書かれていた。

「二の九」「五の二」「一の四」。

どれも、ふたつの数字を短い横棒でつないだだけの印だった。

「あれは、売らないのか」

「売らない」

「じゃあ、どうするんだ」

「そのうち、片づく」

工藤は、おにぎりの包みを几帳面に小さく畳んだ。

畳み終えるまで、こちらを見なかった。

私は、それ以上は訊かなかった。

訊いてはいけない棚なのだと、そのとき思った。

軽くなった雨戸

その夜、私は実家の雨戸を閉めた。

三日後に、この家は引き渡しになる。

母は膝を悪くして、先月から私の住む街の、介護つきの住宅に移っていた。

荷物の大半は運び出した。

あとは、がらんとした畳と、日に焼けた鴨居と、柱の背比べの傷だけだった。

畳の上に、荷物の形をした日焼けの跡だけが残っていた。

簞笥の跡は濃く、仏壇の跡は薄い。

ここで過ごした何十年かが、色の差になって床に貼りついている。

母は引っ越しの前の晩、この縁側に座って言った。

「あんたが小さいころは、雨戸を閉めるのが好きでね」

「重い重いって、俺は嫌いだったけど」

「それでいいの。閉めるとね、今日はおしまいって、ちゃんと思えるから」

母は、膝をさすりながら笑っていた。

その笑い方が、いまも耳に残っている。

縁側に腰を下ろすと、遠くから、雨戸の音が聞こえてきた。

がらがら、と近所の家が、一軒ずつ今日を閉めていく。

軽い音の家もある。重い音の家もある。

この町は、そうやって毎晩、順番に終わっていくのだと思った。

私の家の雨戸だけが、まだ開いたままだった。

番地の箱の棚が、ふと頭に浮かんだ。

なぜ浮かんだのか、そのときは分からなかった。

玄関の鍵をかけ、縁側の雨戸に手をかける。

この雨戸には、子どものころの悪い思い出がある。

重いのだ。

閉めるたびに、母が横から手を添えて、「ちょっと持ち上げて、そう、引くんじゃなくて押す感じで」と言った。

それでも途中で、ごろごろと嫌な音を立てて引っかかった。

私は毎晩、その音が嫌いだった。

ところが、今夜の雨戸は違った。

指を添えただけで、すうっと走った。

走りながら、ひとつだけ、軽い音が鳴った。

からから、と乾いた、小さな音だった。

私は手を止めた。

どこかで聞いた音だ、と思った。

雨戸を戻し、敷居に膝をついた。

下の溝のなかに、手のひらほどの小さな戸車が見えた。

古い戸車の隣に、真鍮色に光る新しい戸車が、一つだけ嵌まっていた。

指で触ると、油がうっすらと指先に移った。

つい最近、誰かが替えたものだった。

私はその場で母に電話をかけた。

「雨戸、直した?」

「雨戸? ああ、軽いでしょう。ずっと軽いのよ、ここ何年か」

「誰かに頼んだ?」

「頼んでないのよ。業者さんが、勝手に見に来てくれてね。お代は、いらないって言うの」

「業者さんって、名前は」

「聞いても教えてくれないのよ。『使い切ってください』って、それだけ」

電話を切ってから、私は戸車の溝にしばらく座っていた。

使い切ってください。

その言い方を、どこかで聞いたことがあった。

けれど、それを誰の声と結びつけるのか、そのときの私にはまだ思いつかなかった。

番地の箱が減っていく夕方

日曜日の閉店日は、朝から小雨だった。

店先の傘立てに、濡れた傘が次々と差し込まれていく。

最終日だというのに、客の数は昨日よりも少なかった。

けれど午後になると、様子が変わった。

最初に来たのは、昨日の老いた女だった。

「二の九の、ちょうだい」

そう言って、レジの前に立った。

工藤は黙って奥へ行き、棚の下の段から箱を一つ降ろした。

側面の鉛筆の字は、二の九だった。

「持てるか」

「大丈夫よ、軽いもの」

「使い切ってください」

その言葉を聞いた瞬間、私の背中が冷たくなった。

昨夜、母が電話で言ったのと、同じ言葉だった。

老いた女は箱を胸に抱え、小さく頭を下げて出ていった。

代金は、受け取っていなかった。

次に来たのは、作業着の男だった。

「五の二」

次は、小さな男の子を連れた若い母親だった。

「一の四だって、おばあちゃんが」

工藤は、一人ずつ名前を訊かなかった。

家の数字だけで、箱が出てきた。

私はようやく、棚の仕組みを理解した。

あの数字の組は、番地だ。

町の家々の、番地だった。

工藤はこの店の奥で、何十年ものあいだ、家ごとの部品を取り置いていたのだ。

ホームセンターには売っていない、古い家だけの蝶番や、パッキンや、戸車を。

家のほうが先に傷むのではなく、部品のほうが先に世の中から消える。

だから、その家のぶんを、先に箱へ入れておく。

減った分を足して、足りなくなる前に渡す。

あの日の中学生の私に言った言葉は、このことだったのだ。

足りなくて困るのは、買った人だ。

余って困るのは、おれだけだ。

箱は、一つずつ減っていった。

私は途中から、棚の前に立って手伝った。

脚立がないので、踏み台を使った。

箱は意外なほど軽かった。

中で、小さな部品がかさかさ鳴った。

「お前、昔ここで宿題してたな」

箱を渡しながら、工藤が言った。

「卓球部のあとにな。お前の親父さんに、よく叱られた」

「叱ってないよ。邪魔だと言っただけだ」

「それを叱るって言うんだ」

二人とも、少しだけ笑った。

笑ったあとで、工藤の手がほんの少し止まった。

次の箱を持ち上げる前に、彼は棚の奥をちらりと見た。

その視線の先が、いちばん下の段だったことに、私はそのときまだ気づいていなかった。

午後三時を過ぎたころ、背広の男が傘をたたみながら入ってきた。

「四の七です。ただ、建て替えるので、もう要らなくて」

男は紙袋を差し出した。

中には、使われなかった部品が、きちんと戻されていた。

「全部は使わなかったんです。余ってしまって」

「余ったぶんは、返してくれるのが一番ありがたい」

工藤は袋を受け取り、中身を一つずつ数えた。

指先でつまんで、台の上に並べていく。

「ちゃんと揃ってる。ありがとう」

「こちらこそ、長いあいだ」

男が帰ったあと、工藤はその部品を、空いた箱の中に戻さなかった。

別の袋に入れて、レジの下にしまった。

「どうして戻さない」

「あの家は、もうないからな。戻す棚が、ない」

そう言ったときの工藤の声は、不思議なほど静かだった。

番地の箱は、そうやって一つずつ、持ち主のもとへ戻っていった。

その音を聞くたびに、私の胸のあたりが、少しずつ重くなっていった。

夕方の五時が近づくころには、奥の棚は、ほとんど空になっていた。

雨は、止みかけていた。

最後に残った一箱

閉店の時刻になった。

工藤はシャッターを半分だけ降ろし、店の灯りを落とした。

奥の棚の、いちばん下の段に、箱が一つだけ残っていた。

段ボールの角が、他の箱よりも少しだけ潰れている。

手前の箱を全部降ろして、はじめて見える場所だった。

棚の木の板に、箱の底の跡が白く残っていた。

二年のあいだ、誰にも動かされなかった跡だった。

私は、その箱の側面の鉛筆に目を落とした。

三の十二。

それは、私の実家の番地だった。

声が出なかった。

踏み台の上で、膝が震えた。

「ずっと、そこにあったのか」

「ずっとだ。いちばん奥の、いちばん下に置いてた」

工藤は、事務机の椅子に腰を下ろして、前掛けの紐をほどいた。

「ほかの十三軒は、この二年で、みんな使い切った。家を直したり、建て替えたりしてな」

「残ったのが、うちか」

「おばさん、毎晩、雨戸を閉めるだろう。よく使う家なんだ。戸車が減る」

「頼んでもいないのに、勝手に」

「頼まれたら、行かないよ」

工藤は、少しだけ笑った。

ふと、去年の十月を思い出した。

母の膝が悪くなって、実家を閉めると決めた日のことだ。

私は誰にも言わなかったが、工藤にだけは、年賀状の返事のついでに、短いメールを送った。

「実家を閉めることにした」

返事は、二日後に来た。

たった一行だった。

「店、閉めるわ」

私はあのとき、後継ぎがいないのだから仕方ないのだと、勝手に受け取っていた。

違った。

順番が、逆だった。

「お前の家が最後の一軒だって、決めてたわけじゃない」

工藤は、私の顔を見ずに言った。

「ただな、閉めるって聞いたとき、ほっとしたんだ。これで、終わりにしていいって」

「俺のせいか」

「違う。お前のおかげだ」

箱を、そっと棚から降ろした。

蓋を開けると、真鍮色の戸車が六つ、新聞紙に包まれて並んでいた。

一つ手に取り、掌で転がした。

からから、と軽い音がした。

昨夜、実家の敷居で鳴った音と、同じ音だった。

「持ってけ。もう、お前んちには要らないだろうけど」

「新しく住む人に渡せ。古い雨戸は、最初の冬が重いんだ」

私は、レジの脇の紙袋を一枚取った。

戸車を、ひとつずつ数えて袋に入れた。

一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。

ちゃり、ちゃり、と小さく鳴った。

六つ、ちゃんとあった。

「足りなかったら、戻ってこい」

「戻る店が、もうないだろ」

「そうだな」

私たちは、二人とも黙って笑った。

引き渡しの日、私は若い夫婦に、紙袋を手渡した。

「雨戸の替えです。最初の冬は、重いので」

返す店は、もうない。

それでも私は、渡す前に、もう一度だけ数えていた。

袋の中で、小さな丸いものが、からから鳴った。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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