
その猫は、人の顔を見なかった。
改札の猫は、毎晩、券売機の隣の柱の根元に座っている。
茶色い縞で、右の耳の先が少し欠けていた。
俺が勤める私鉄の駅は、各駅停車しか止まらない小さな駅だ。
ホームは二本。改札は一つ。終電は日付が変わる少し前に着く。
その年の俺は27歳で、駅員になって三年目だった。
猫は、改札を出ていく人の顔に、一度も目を向けない。
見ているのは足元だけだ。
スニーカー、ハイヒール、泥のついた作業靴。
電車が着くたびに、流れていく足を端から端まで眺める。
そして、たいていはあくびをして目を閉じる。
「待ってるんだよ、飼い主を」
駅長の佐久間さんは、煮干しの袋を引き出しにしまいながら言った。
「捨てられたのか、置いていかれたのか。どっちにしても、来ない人を待ってる」
「俺が来て三年、一度も現れてないじゃないですか」
「だから待ってるんだろう」
佐久間さんは笑って、猫の皿に水を足した。
「名前、付けないんですか」
「付けないのが、この駅の昔からの決まりなんだ」
俺は猫が嫌いではなかった。
ただ、現れない誰かを待ち続ける姿が、少し苦手だった。
理由は、はっきりしている。
俺の父も、三十一年間、この駅の改札に立っていた人だからだ。
去年の春に定年で辞め、今は家で盆栽の鉢を並べている。
子どもの頃、父の改札は、俺にとって世界でいちばん遠い場所だった。
夕方になると、母が俺の手を引いて、改札の外から父を見せに連れてきた。
制服の父は、背筋を伸ばし、客に一人ずつ会釈をしていた。
俺が手を振っても、父は顔を動かさなかった。
目の端だけが、少し笑った気がした。
気がしただけで、確かめたことはない。
父は靴の踵を指で撫でる癖があった。
減りが偏るのを嫌い、自分で小さな金具を打つ人だった。
同じ会社に入った俺に、父は一度も「頑張れ」と言わなかった。
入社式の朝、黙ってスーツの襟を直しただけだ。
助言は、あとにも先にも一つだけだった。
「駅の猫には名前を付けるな。付けたら、家に連れて帰りたくなる。」
それきり、父とはまともに話していない。
一人暮らしの俺の部屋には、母が毎月、野菜を段ボールで送ってくる。
父の字で書かれた住所の伝票を、俺は見ないふりで畳んで捨てた。
改札の猫の定位置
その猫には、変な癖が一つだけあった。
木曜の夜だけ、立ち上がるのだ。
最後から二本目の下り電車が着く少し前、猫は背筋を伸ばす。
尻尾を一度だけ、ゆっくり振る。
それから体の向きを、改札の一番端の通路に合わせる。
他の曜日には、しない。
俺は日報の隅に小さく印を付け、三週間、確かめた。
「木曜だけ立つの、気づいてますか」
俺が聞くと、佐久間さんは帽子のつばを指で押し上げた。
「去年から知ってる。降りてくる客のうち、立つのは決まって一人のときだ」
「誰ですか」
「分かってたら、とっくに声をかけてる」
佐久間さんは、猫の来歴も教えてくれた。
十二年前の雨の日、駅の裏の資材置き場に、段ボール箱ごと捨てられていたそうだ。
拾って改札の脇に置いたのは、当時の改札係の誰かだという。
ある金曜の夜、終電で酔客が一人、改札機に三度ぶつかった。
改札の猫は、そのふらつく足を、首ごとゆっくり追っていた。
酔客は猫の前でしゃがみ込み、財布を落として、小銭を床にばらまいた。
十円玉が転がって、券売機の下へ消えた。
拾うのを手伝いながら、俺は気づいた。
猫は、拾う手を見ていなかった。
小銭の転がる、ちりんという音だけを、耳で追っていた。
この猫は、目より先に耳で、人を覚えているのだ。
窓口の小窓から見えるのは、客の腰から下だけだった。
だから俺も、猫と同じように、毎晩、足元ばかりを見ていた。
石油ストーブの上で、薬缶が小さく鳴っている。
缶コーヒーの甘い匂いと、床の冷たさが、いつも同じ夜をつくっていた。
ホームの端の蛍光灯は、一つだけ切れかけて、羽虫のような音で瞬いていた。
電車の去ったあと、レールが冷えて、ぴしりと鳴る音が窓口まで聞こえた。
ドアが開く。ホームの奥から、冷たい風が改札まで走ってくる。
最初に、ヒールのコツコツ。
次に、サンダルのぺたぺた。
それから、重たい作業靴。
そして最後に、硬貨を三枚、床に落とすような細かい金属の音がした。
カチ、カチ、カチ。
その音が柱に近づくと、猫は立った。
音が通り過ぎるまで、顔を上げず、足元だけをじっと追った。
通り過ぎると、何事もなかったように座り、右の前足を舐めた。
小窓の向こうを、黒い革靴が、まっすぐ出口へ消えていく。
よく磨かれた靴だった。
新しい革の匂いが、一瞬だけ窓口まで届いた。
俺は、その靴の持ち主の顔を、一度も見なかった。
見ようとしたことも、なかった。
その夜までは。
踵に打った鋲
その週の俺は、落ち着かなかった。
休憩室で食べた弁当の味が、しなかった。
猫の待つ誰かが、もし来なくなったら、猫は立ったまま朝を迎えるのだろうか。
そんなことばかり、考えていた。
休憩室の古い時計は、遅れていた。
秒針の音だけが、やけに大きかった。
顔を見るのが怖いのではない。
見てしまったら、猫の待ち人を、ただの客として扱えなくなる気がした。
それでも、確かめることにした。
十一月の最初の木曜、俺は窓口の鍵を佐久間さんに預けた。
「煙草か」
「ちょっと、外の空気を」
嘘だった。
自動ドアを抜けると、駅前のロータリーには街灯が一本だけ点いていた。
吐く息が白い。
足元で、枯れた銀杏の葉が乾いた音を立てた。
自販機の陰は、コーンスープの缶の熱で、そこだけ少し暖かかった。
モーターの低い唸りに隠れて、俺は息を殺した。
黒い革靴の男は、ロータリーの端のベンチに座っていた。
灰色のコートに、ハンチング帽。
背中を丸め、膝の上に小さな紙包みを載せている。
改札の猫が、いつの間にか出てきていた。
いつもは決して越えない自動ドアの外まで、足音も立てずに歩いてくる。
街灯の光の輪の、ぎりぎり手前で止まった。
そこから先へは、入らなかった。
男はゆっくりしゃがみ、紙包みを開いて、猫の前に置いた。
煮干しの匂いが、冷えた空気に混じって俺の鼻まで届く。
「悪いな。今日は、これだけだ」
低い声だった。
どこかで聞いた気がした。
猫は、それを食べながら、男の靴だけを見ていた。
顔を上げることは、一度もなかった。
男が立ち上がる。膝が小さく鳴った。
その拍子に、革靴の踵が、街灯の真下に入った。
踵の三つの小さな金具が、街灯の下で光った。
胸の奥が、すとんと落ちた。
俺は、その金具を、知っていた。
小学生の頃、日曜の夜は、父の革靴を磨くのが俺の仕事だった。
黒いクリームの匂いと、布の擦れる音。
踵の金具を爪で弾くと、カチと小さく鳴った。
「壊すな」と言いながら、父は磨き上がった靴を見て、毎回、黙って頷いた。
あの音を、俺は二十年近く、聞いていなかった。
冷えたベンチの隣
声が、出なかった。
男が、ゆっくり振り向いた。
帽子の下の顔は、去年の春より、少し痩せていた。
「……航」
「なんで、ここにいるんだよ」
「通院の帰りだ」
父は目を逸らして言った。
「病院は、ふたつ先の駅だろ。ここで降りる必要はない」
「歩きたくなっただけだ」
「毎週、木曜に?」
父は答えなかった。
猫が、父の靴に、ゆっくり頭をこすりつけた。
俺は、日報の隅の印を思い出した。
木曜は、俺が遅番の日だ。ずっと、そうだった。
「母さんが、卓球の日なんだ」
父が、ぼそりと言った。
「家にいても、することがない。それだけだ」
「それだけで、猫に煮干しまで持ってくるのか」
「……家に、余ってたから」
嘘が下手な人だった。
三十一年間、改札で客の嘘を見抜いてきた人なのに。
「病院は、本当に行ってる。血圧の薬をもらいに」
父は小さく付け足した。
「それは、嘘じゃない」
俺はベンチの端に腰を下ろした。
木の板は、冷たく湿っていた。
父との間に、猫が一匹ぶんの隙間があった。
しばらく、どちらも喋らなかった。
遠くで、終電が走り去り、レールが細かく震える音がした。
「その猫を拾ったのは、俺だ」
父が、手元の紙包みを見たまま言った。
「雨の日だった。段ボールの中で、鳴きもしないで濡れてた」
「三十一年、駅で客を一人も家に連れて帰らなかった。猫を連れて帰ったら、それが最初になる」
「だから、改札に置いた」
「猫が熱を出した冬は、仮眠室で朝まで毛布にくるんだ」
「辞める日、佐久間に頼んだ。あいつの皿だけは、切らすなって」
「……それで、毎週来てたのか」
「猫の様子を、見に来ただけだ」
父は、そこで言葉を切った。
「お前が、ちゃんと窓口に座ってるかも、ついでに見えた」
「小窓から、足しか見えないのに?」
「客は、顔より先に足に出る。お前の靴は、ちゃんと揃ってた」
毎晩、窓口の下で、俺の靴の先を、父が見ていたのだ。
「母さんは、知ってるのか」
「煮干しを買ってるのは、母さんだ」
「……何も言わなかったぞ、あの人」
「お前に言うなと言ったのは、俺だ」
「小学生のとき、一度だけ、お前が学校帰りに改札を通っただろう」
「……覚えてない」
「俺は、他の客と同じ声で『ご利用ありがとうございました』と言った」
「振り向きもしなかった。仕事中だからな」
「お前の背中は、足音で見送った。小さい靴の音だった」
父は帽子のつばを、深く下げた。
「あれから、お前に『お帰り』を言ったことが、一度もない」
「連絡ひとつ、しなかったくせに」
俺は、やっと言った。
「それは、お前も同じだ」
父は、少しだけ笑った。
「どっちも、先に電話を取らなかった」
首輪の小さな札
猫が、ふいにベンチへ飛び乗り、俺と父の間に丸くなった。
喉が、低く鳴っている。
ぬくい体が、コート越しに膝へ伝わった。
俺は無意識に、首のうしろを撫でた。
毛の下で、小さな金属が、指に触れた。
そのとき、首輪についた小さな金属の札が、街灯を弾いた。
今まで、毛に埋もれて見えなかった。
俺は指で、札を裏返した。
油性ペンの字は、かすれて薄くなっていた。
首輪の小さな札には、俺と同じ名前が、父の字で書いてあった。
「航」
息が止まった。
「名前は付けるなって、言ったよな」
「……付けた覚えはない」
「じゃあ、この字は誰のだよ」
父は、膝の上の空になった紙を、小さく、小さく、指のあいだに隠れるまで折り畳んでいた。
「お前が、この駅に配属された日だ」
「呼べば、ごまかしがきくと思った」
次の木曜、俺は窓口を出て、改札機の横に立った。
制服の襟を、自分で直した。
最後に、カチ、カチ、カチ。
猫が立ち上がり、尻尾を一度だけ振った。
黒い革靴が、俺の前で止まった。
俺は、顔を上げて言った。
「お帰りなさい」
帽子の下で、父の目が、ゆっくり細くなった。
「……ただいま」
声は、ほとんど聞こえなかった。
それでも猫は、きちんと聞いたらしい。
その猫は、今夜も人の顔を見ない。
足元の音だけで、帰ってきた人を知っている。