教壇を降りて家庭に入った私は、夕方のスーパーで四年ぶりに先生と再会した。恩師に教えた味噌汁の湯気の向こうで、あの日の「逃げるんか」が静かにほどけていく。ガリ版刷…
続きを読む
昭和四十年代の織物の町。心の臓が弱い藍染職人の夫は、息子の節目のために十二反の藍布を染め残してこの世を離れた。染め帳に残る藍色の指の跡、夕立の出会いから続いた夫…
続きを読む
母が倒れて、私は商店街の小さなクリーニング店に立った。カウンターの隅の青い缶には、色も形もばらばらのボタンが何百個。常連客の一言で、私はその缶の正体を知る。見送…
続きを読む
結婚して港町へ嫁いだわたしは、年に一度の盆だけ、幼なじみの八重が営む時計店に腕時計を預けに帰った。「少し遅れるんよ」という小さな嘘。八重が遺した修理伝票の控えに…
続きを読む
祖母の椿油のにおいに、私は三十年逃げ続けていた。髪結いだった祖母が毎朝梳いてくれた髪を、私は年ごろに嫌い、短く切ってしまった。取り壊される家の鏡台で見つけた小瓶…
続きを読む
弟との約束は、いつか私が迎えに行くこと。戦時中、出征する弟に一本の麦笛を持たせた姉。けれど遺された手帳に綴られた、たった一行で、私はようやく気づく。暗がりが怖い…
続きを読む
昭和の炭鉱町。厄介者として家族に疎まれた一頭の子山羊ユリが、貧しさでほどけかけた一家を、もう一度ひとつの輪に結び直した。父が小刀で削った飼い葉桶に残るぬくもりと…
続きを読む
九官鳥のおかえりという二言だけが、四十年たった今も耳の奥に残っている。北の山あいの谷へ単身赴任した若き日、凍える独りの夜を支えてくれた一羽の鳥に、私はある約束を…
続きを読む
昭和の終わり、雪深い町の小学校。夜ごと窓辺に牛乳を置く独りの女教師と、一匹の三毛猫。猫の恩返しのように、口を閉ざした転校生の心が、少しずつほどけていきます。一つ…
続きを読む
犬との別れを、私は父のせいだと三十年恨み続けた。だが父を見送ったのち、引き出しから現れた白い犬の赤い首輪と古いバスの半券が、語られなかった真実を静かに告げる。毎…
続きを読む
昭和の城下町で時計店を継いだ男と、北の港町へ移っていった人。季節の押し花を挟んだ文通は七年目の春に途絶え、誤解を抱えたまま二十数年が流れた。出されることのなかっ…
続きを読む
いつか島へ行こう——七海と交わした親友との約束を、私は仕事を口実に先延ばしにし続けた。彼女がいなくなった夏、鳴らさないまま仕舞っていた水色の風鈴を抱え、私は初め…
続きを読む
昭和六十年の冬、夜勤の病室で、衰えた恩師が出席をとる仕草を始めた。吃音だった僕の名を、先生は昔いつも、あいうえお順を飛ばして一番に呼んでくれた。透明だった少年を…
続きを読む
機械が牧場にやってきた昭和の冬、私は世話をしてきた三頭の馬を手放すことになった。最後の朝、ハナはそっと私の肩に額を押しあてた。北の開拓村で交わした別れと、今も引…
続きを読む
戦時中、町役場に勤める祖父は毎晩ひと粒の大豆を空の袋へ移していた。これは祖父の思い出をたどる泣ける短編小説です。孫と過ごした一日を宝として数え続けた祖父が、ある…
続きを読む