妻が遺した裁縫箱

海辺の匠の作業場

三陸の春は、桜が散ってから本物だ。

葉桜の青が深まり、海から吹き上げる風が冷たさを失った頃、ようやく集落の屋根が朝陽で温まり始める。

私──佐々木健一、七十八歳になった元漁師は、その朝、いつものように妻の裁縫箱の蓋を開けた。

幸枝が逝って、ちょうど三年が過ぎた、五月の朝のことだった。

桐の小さな箱だ。

蓋に薄っすらと、波の模様の蒔絵が彫り込んである。

嫁入りの時に、幸枝の母親が持たせてくれた品だと、何度か聞いたことがあった。

幸枝はこの家に嫁いでから亡くなる日の前夜まで、五十年の間、この箱を一日たりとも閉じっぱなしにすることはなかった。

箱の中には、糸巻きと針山と、銀色に光る小さな鋏が入っている。

糸の色は黒と濃紺と白の三色だけ。

漁師の作業着を繕うのに必要な、たったそれだけの色が、几帳面に並んでいる。

幸枝はあまり華やかなものを好まない人だった。

嫁いできた日に着てきた赤い銘仙の着物も、たった一度袖を通したきり、二度と箪笥から出すことはなかった。

普段は、紺の作業着に白い前掛け。

髪は後ろで一つに束ねて、笑う時だけ、目尻が深くなる人だった。

私が網を上げて家に戻ると、土間の上がり框には、いつも繕われた漁師着が畳んで置かれていた。

「ほつれてたから、ほどいて縫い直しといたよ」

幸枝はそれだけ言って、台所のほうへ戻る。

私は、ありがとうとも言わずに、その服を黙って羽織り、また海へ出る。

そんな朝が、五十年続いた。

礼の言葉は、結局、最後まで言わずじまいだった。

言わなくても、伝わっているのだろうと、勝手に決めつけていた。

男というのは、ときどき、本当に愚かな生き物だと思う。

幸枝が逝ったのは、三年前の晩秋だった。

胃の癌だと、五月の検査で分かった。

その時にはもう、医者は手の施しようがないと言った。

幸枝は最後の半年、痛み止めの量を増やしながら、それでも台所と庭の畑の間を、よく行き来していた。

不思議なことに、幸枝は最後まで縫い物の手を止めなかった。

「健ちゃんの服はね、ほつれが多いから」

そう言って、痛みに歪む顔を私には見せまいとして、縁側で陽を浴びながら、針を運んでいた。

その姿を、私は今でも、目を閉じれば思い出すことができる。

逝く前夜、幸枝は私の手をぎゅっと握った。

「健ちゃん、寒くなるからね。風邪、引かないようにね」

それが、最後の言葉になった。

その夜、私は幸枝の枕元で、まんじりともせずに座っていた。

夜が明ける頃、幸枝はもう、ほとんど息をしていなかった。

けれども、握っていた私の手だけは、最後まで温かかった。

幸枝が逝ってから、私は漁師を辞めた。

息子はとうに東京で家庭を持っていて、釜石には戻ってこなかった。

私は一人、古い家屋に取り残された。

家を出る用事はほとんどなくなり、漁師着を着ることも、もうなくなった。

けれど、毎朝、起き抜けに、裁縫箱の蓋だけは開ける。

蓋を開けるのは、たったそれだけの動作だ。

けれども、それをしないと、幸枝がこの家から本当に消えてしまう気がした。

糸巻きの色を見て、針山に並んだ針の本数を数えて、また蓋を閉める。

それだけで、幸枝が、台所のあたりからふっと声をかけてくれそうな気がした。

──健ちゃん、お茶、入ったよ。

そんな声が、聞こえそうな気がした。

その朝、私は珍しく、納戸の奥から古い漁師着を一枚、引っ張り出してきた。

幸枝が逝った年の春に、最後に繕ってくれた一着だった。

袖口がほんの少しほつれていた。

幸枝が逝ってから、私はその服を一度も着ていなかった。

着ると、なぜか、ひどく寂しくなりそうで、怖かったのだ。

けれど、その朝はどうしてだか、無性にその服を見たくなった。

納戸の奥から引っ張り出して、土間で広げてみて、私は手を止めた。

袖口のほつれが──消えていた。

もう一度、糸の縫い目を指でなぞる。

三年前に幸枝が縫ってくれた縫い目の上に、新しい縫い目が、丁寧に重ねられている。

白い糸だった。

幸枝が、よく使っていた糸の色だ。

誰が、繕った。

三年前、幸枝が逝ってから、私はこの服を一度も外に出していない。

納戸の奥に、しまったままだった。

あのほつれを縫えるのは、幸枝以外、誰もいないはずだった。

その日、私は震える手で、家の中の他の漁師着を、すべて納戸から引っ張り出した。

七着あった。

どれもこれも、すでに繕われていた。

新しい縫い目だった。

幸枝の糸ではない、僅かに艶の違う、けれども色の選び方だけは同じ──白か紺の、絹糸だった。

私は、息ができなくなった。

幸枝が、まだ家のどこかにいるのではないか。

夜中に出てきて、私の知らぬ間に、繕ってくれているのではないか。

そんな馬鹿げたことを、本気で思いそうになった。

そう思いそうになって、自分の馬鹿さ加減に、少し笑った。

笑った瞬間に、目の奥が熱くなった。

その時だった。

玄関のガラス戸が、控えめに叩かれた。

「健一さん、おはようございます」

千秋さんだった。

隣家の若妻──息子よりも幾つか若い、三十一歳の千秋さんが、いつものように、朝の卵を持ってきてくれていた。

千秋さん夫婦は、五年前に都会から釜石に移り住んできた。

夫の方は、震災の復興に関わる仕事をしているらしかった。

幸枝が病気と分かった時から、千秋さんはよく家を訪ねてくれていた。

幸枝とは、まるで実の親子のように仲が良かった。

幸枝が亡くなった後も、千秋さんは月に何度か、夕方になると、煮物の小鉢や、繕った手拭いなどを、ふいに持ってきてくれていた。

私は、千秋さんを土間に呼び入れて、繕われた漁師着を見せた。

「これ──誰が、縫ってくれたんだ」

千秋さんは、卵の入った籠を框に置いて、しばらく漁師着を見つめていた。

そして、ゆっくりと、頭を下げた。

「私です」

千秋さんは、土間に座り込んで、ぽつぽつと話し始めた。

「幸枝さんが逝かれる、ひと月前くらいでした」

「ある朝、幸枝さんが、納戸にあった漁師着を全部出して、私に教えてくれたんです」

「ほつれの繕い方を、ひとつひとつ」

「私、最初は、何の話をされてるのか、分からなかったんです」

「でも、幸枝さんは私の手を取って、針の運び方を、本当にゆっくりと、教えてくださって」

「『この糸は艶があって滑りやすいから、こうやって少し湿らせて、ね』とか」

「『袖口は外側からじゃなくて、内側から針を入れるのよ』とか」

「私、お裁縫なんて、ほとんどやったことがなかったから、何度も何度も、針を落としてしまって」

「幸枝さんは、笑いながら、何度でも、教え直してくださいました」

「そして、最後に、こう言われたんです」

千秋さんは、そこで、声を詰まらせた。

けれど、目は伏せずに、まっすぐに私を見て、続けた。

「『私が逝った後でね、健ちゃんの服のほつれを、私の代わりに繕ってあげてくれる? そうじゃないと、あの人、寒いから』」

千秋さんは、あれから三年間、月に一度、私が近所の集まりで家を空ける日を選んで、納戸の漁師着を、ひとつずつ、繕ってくれていた。

誰にも言わずに。

幸枝さんとの約束だから、と。

「ごめんなさい、健一さん」

千秋さんは、頭を深く下げた。

「黙っていて、本当に、ごめんなさい」

「言ってしまったら、幸枝さんとの約束を、私が守れない気がして」

私は、何も言えなかった。

ただ、繕われた漁師着の、白い糸の縫い目を、指でなぞっていた。

その指が、いつの間にか震えていた。

幸枝が逝く前に、私の知らないところで、私のほつれは、もう既に──誰かに引き継がれていた。

あの人は、最後まで、私の寒さを心配していた。

自分が逝った後の私の、たったひとつの寒さを。

それを、自分が逝く前から、ずっと考えていた。

私は、土間に膝を突いて、繕われた漁師着を、両手でぎゅっと握りしめた。

幸枝、お前は、今も繕い続けてくれているのか。

千秋さんの手を借りて、私の知らぬ場所で、私のほつれを。

その夜、千秋さんが帰ってから、私は納戸の奥から、もう一度、裁縫箱を出してきた。

土間の電球の下に座って、ひとり、蓋を開けた。

糸巻きと、針山と、小さな銀の鋏。

幸枝が遺したものたち。

私は、裁縫箱の底を、指で軽く押してみた。

子供の頃、何かの本で読んだことがあった気がしたのだ。

古い裁縫箱には、二重底があるという話を。

軽く押してみると、底が、かすかに沈んだ。

取り外してみると、底の下から、折り畳まれた古い紙が、一枚、出てきた。

嫁入りの時から、五十年、ずっとそこに眠っていたもの、らしかった。

紙はもう、紙というより、薄い飴色になっていた。

触ると、繊維の柔らかさが指に伝わってきた。

幸枝の若い頃の、几帳面な字だった。

嫁ぐ前の夜に、書いたものなのだろう。

こう、書かれていた。

「健ちゃんへ」

「もし、私があなたより先に逝くようなことがありましたら、ひとつだけ、お願いがございます」

「あなたの漁師着の、ほつれの繕いだけは、最後まで私の役目にしてくださいね」

「私が逝った後でも、私はきっと、どこかで、あなたを繕い続けています」

「ですから、寂しいなんて、思わないでくださいね」

「幸枝より」

私は、その手紙を、震える指で、何度も、何度も、読み返した。

嫁入りの夜に、幸枝はもう、自分が私より先に逝くことを、考えていたのか。

五十年も、前から。

私が知らない、ずっと前から。

あの人は、ずっとずっと、私の寒さを心配してくれていたのだ。

嫁いできた、その夜から。

毎朝、私が海に出るたびに、繕いの針を運びながら、あの人はきっと、いつかこの服を繕えなくなる日のことを、ずっと考えていたのだろう。

そして、その日のために、若い隣人に、すべてを託していった。

礼を言われたかったわけではない。

感謝されたかったわけでもないだろう。

ただ、私が寒くないこと。

それだけが、あの人の、五十年の願いだった。

私は、土間の冷たい三和土の上に、裁縫箱を抱きかかえるようにして、座り込んだ。

泣くつもりは、なかった。

けれど、こぼれた涙が、桐の蓋の上で、小さな点になって、すぐに乾いた。

翌朝、私は珍しく、漁師着を一着、羽織って外に出た。

千秋さんが繕ってくれた、白い糸の縫い目が、袖口で、朝の陽の光を細かく返していた。

軽く、温かかった。

幸枝が逝った後も、私はずっと、誰かの手のぬくもりに包まれていたのだ。

知らないだけで、ずっと、誰かに、繕われていた。

私は、海へ向かって、ゆっくりと歩き出した。

ヤマザクラの葉が、青く、青く、揺れていた。

港の方から、かもめの声が、ひとつ、聞こえた。

幸枝、ありがとう。

五十年の間、一度も言えなかった言葉を、私は今、海に向かって、声に出してみた。

波の音が、優しく、それを受け止めてくれた気がした。

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