桶の豆腐は売り物ではなかった
店先の桶の豆腐は、毎朝一丁だけ、値札もなく沈んでいた。閉店した実家の片づけの日、向かいの八百屋の吉村さんが、その一丁の始まりを語り出した。6歳の朝に泣いた私は、…
店先の桶の豆腐は、毎朝一丁だけ、値札もなく沈んでいた。閉店した実家の片づけの日、向かいの八百屋の吉村さんが、その一丁の始まりを語り出した。6歳の朝に泣いた私は、…
駅前の補聴器店に、毎週かならず空の電池ケースを持って来る水野さんがいた。補聴器の電池はなぜ、毎晩そんなに減るのか。耳にかけない補聴器の理由を、私は雨の日の台所で…
学童の閉め作業のたび、三年生の颯くんはブラインドの羽根を一枚だけ開けて帰っていった。私は規則どおり、毎晩それを閉め直していた。理由を知ったのは、寒い冬の朝、まだ…
木曜の夜、妻の青い点は商店街の外れで止まったまま動かなかった。問い詰めるつもりで路地の奥の自転車屋へ向かった私は、三年前に手放したはずの赤い色が吊られているのを…
犬の散歩の記録が届き続け、猫の銀の鈴が鳴り、九官鳥がおかえりと繰り返す。ペットの泣ける話を11本選び、犬・猫・鳥と山羊の順に案内します。別れのあとも寄り添う小さ…
卵焼きの形も、割烹着の匂いも、母は何も言わずに残していた。台所と道具と遅れて届いた言葉から、母の泣ける話を十四編ならべました。弁当や携帯、ボタン缶といった小さな…
白内障の手術だと言って、八十三の祖父が俺の1Kに三週間泊まりに来た。食卓で向かい合うと、祖父の目はいつも俺の右耳の横にある。仕事を辞めたことを隠している俺を、ま…
夜10時、佐渡の柿畑から届くビデオ通話。画面の中の彼は、いつも左の耳にだけ片耳のイヤホンを挿していた。聞き逃されるたびに笑い合った2年のあいだに、私は少しずつ片…
大学の食堂で、私の前に置かれる茶碗だけがいつも重かった。底の厚い茶碗は7つしかなく、みんなが避けた外れくじなのだと思っていた。3年間そう思い込んだまま、私は一度…
砥石はいつ行っても濡れていた。誰も褒めない場所で手を動かし続けた人たちの、仕事の泣ける話を十四編ならべました。職人、恩師、同じ職場にいた人、そして誰かの夜を静か…
海沿いの営業所に入って二年目、私はまだ誰からも名前で呼ばれなかった。誰も乗っていないのに、夕方の便で辻堂前のボタンが鳴る。配線の不良だと思った私に、定年間近の先…
母の鞄には、よく晴れた日にも折りたたみ傘が入っていた。第二日曜だけは用事があると言って、私の誘いはいつも断られた。母が入院した週、財布に残っていた交通系ICカー…
毎月第1火曜の夕方だけ、先生は9本だけ塗らせる客としてやって来た。右手の薬指はいつも「そこはいいから」と折り曲げて、私に触らせない。3年で36回。手の震えで筆を…
夜になると、フクは玄関で一度だけ短く鳴いて出かけていった。前脚の内側を灰色に汚して、朝には帰っている。夜だけ出かける犬の行き先を、私は薄々知っていて、確かめには…
雨の日、片方の肩ベルトが切れたランドセルを抱えた男の子が、父の小さな店に立っていた。ランドセルの修理の代金を、父は一度も受け取らない。ただ甘いだけの人だと思って…