後部座席の犬は窓に向かって鳴く

病院を見つめる秋の犬

後部座席の犬は、病院が見える角で、必ず一度だけ鳴いた。

毎週水曜の十時十分。私は介護タクシーのハンドルを握って、小川フミさんの家の前に車を寄せる。

八十二歳。左手に杖を持ち、右手で犬のリードを短く巻いている。

犬の名前は、きなこ。茶色い雑種で、十五歳になる。

フミさんは膝掛けを後部座席に敷き、きなこを先に乗せてから、自分がその隣に座る。

行き先はいつも市民病院だった。

けれど、玄関には着けない。

北側の駐車場のいちばん奥、植え込みの前で車を止めて、エンジンを切る。

それが、フミさんの決めた約束だった。

私がこの仕事について三年。水曜のこの客だけは、ずっと不思議だった。

通院ではない。診察券を出したことが、一度もないからだ。

十時四十分になると、きなこが首を持ち上げる。

病棟の四階、右から三つ目の窓に向かって、わん、と一度だけ鳴く。

すると窓が少し開いて、白い袖が出てくる。

白い袖は、いつも肘までまくってあった。

その袖が、ゆっくり手を振る。

フミさんも窓を見上げたまま、杖を持たない右手を小さく振り返す。

それだけで、十五分ほどが過ぎる。

私は、あの白い袖を、ご主人のものだと思い込んでいた。

一年のあいだ、ずっとだ。

北側の植え込みの前

初めて乗せた日のことは、よく覚えている。

四月の雨の日だった。

「運転手さん、悪いけど、玄関には着けんでね」

フミさんは、乗るなりそう言った。

「駐車場の北の端がいいの。四階の窓の下」

「お見舞いですか」

私は聞いた。介護タクシーの客の九割は、通院か見舞いだからだ。

「そうね。みたいなものね」

曖昧な答えだった。

料金は、待ち時間も含めて、いつも現金でぴったりだった。

釣り銭を出そうとすると、小銭入れを逆さにして、数えて渡す人だった。

きなこのことも、最初は気になった。

病院の敷地に犬は入れない。だから後部座席に残して、フミさんだけが降りるのかと思っていた。

けれどフミさんは降りない。

車の中から窓を見上げるだけだ。

一度だけ、聞いたことがある。

「お上がりにならないんですか」

「あの人はね、顔を見られるのを嫌がるのよ」

フミさんは窓を見たまま答えた。

「だから、犬の声だけ届ければいいの」

その言い方が、妙に明るかった。

私は、それ以上聞かなかった。

窓の中の人をご主人だと決めたのは、たぶんあのときだ。

十五分ほど窓を見て、フミさんは言う。

「ありがとう。帰りましょう」

帰りの車内で、きなこは必ず私の座席の背に鼻を押しつけて、ひとつ息を吐いた。

それが「おつかれさま」に聞こえて、私は毎週、少し笑った。

ある七月の水曜、同僚の吉田さんに聞かれた。

「あの水曜の人、毎回犬と一緒なんだって? 病院なのに」

「後部座席の犬は、降ろさないんですよ。車の中から窓を見るだけで」

「へえ。変わったお見舞いだね」

「変わっていますけど、いいお客さんです」

そう答えてから、自分でも不思議に思った。

たった十五分の用事のために、フミさんは毎週、往復の料金を払っている。

年金暮らしの老人にとって、決して軽い額ではないはずだった。

それでも一度も、欠かしたことがない。

窓の中の人に会うためなら、当然なのだろうと、私は考えていた。

駐車場の植え込みには、季節ごとに違う花が咲いていた。

四月は椿の落ちた花びら。七月は紫陽花。十月は、名前を知らない赤い実。

フミさんは、その花を一度も褒めなかった。

窓だけを見ていた。

窓以外のものを見る余裕が、ないようにも見えた。

余分な結び目

冬になって、きなこの足が弱った。

後部座席に上がれなくなったので、私は折りたたみのスロープを車に積んだ。

水曜だけ、五分早く着くようにもした。

「そんなに気を遣わなくていいのよ」

フミさんは恐縮した。

「いえ。きなこが乗らないと、窓が開きませんから」

冗談のつもりだった。

フミさんは、少しだけ目を伏せた。

「そうね。あの窓はね、この子の声で開くのよね」

その言葉の意味を、私はそのとき取り違えていた。

きなこのリードには、結び目がひとつ余分にあった。

持ち手から三十センチのところ。固くて、不格好で、指が入らないほど強く縛ってある。

ほどけば使いやすくなるのに、フミさんは決してそうしなかった。

ある日、スロープに乗せるとき、リードが手すりに引っかかった。

「直しましょうか。すぐほどけますよ」

私は何気なく手を出した。

「それは直さんでください」

フミさんの声が、急に低くなった。

「すみません」

「いいの。ごめんなさいね。……それだけは、いいの」

フミさんは、結び目を親指で何度も撫でた。

撫でながら、窓のほうは見なかった。

夏は暑かった。

アスファルトの照り返しの中で、きなこは舌を出して、浅く息をした。

私は車内の冷房を弱めに効かせ、ダッシュボードの下から、水を入れた浅い皿を出した。

「あら、そんなものまで」

「後部座席の犬も、お客さんですから」

私が言うと、フミさんは目尻にしわを寄せた。

「あの人も、同じことを言ったのよ。犬は家族じゃなくて、お客さんだって」

「ご主人らしいですね」

「そう。人にも犬にも、あいさつだけは丁寧でね」

フミさんはそこで、少し黙った。

黙ったまま、きなこの水皿を、膝の上で支えてやっていた。

その横顔を、私は今でも覚えている。

窓の下に着くと、フミさんは必ず、運転席の私にも小さく会釈をした。

待たせてすみません、という会釈だった。

待たされているつもりなど、私にはなかった。

この十五分の静けさが、一週間でいちばん好きな時間になっていた。

フロントガラスに、病棟の白い壁と、青い空と、閉じた窓だけが映る。

その窓が開く前の、息を詰めたような沈黙が、私は好きだった。

雨の水曜に、窓が開かなかった日もある。

十一時を過ぎても、四階の窓は閉まったままだった。

きなこは二度、三度と鳴いた。

フミさんは何も言わず、膝掛けの端を握っていた。

私はエンジンをかけたまま、暖房の温度を二度上げた。

四十分たって、ようやくカーテンが揺れた。

窓が開き、白い袖が出てきた。

袖は、いつもより大きく手を振った。

フミさんは、そのとき初めて、声を出して笑った。

「待たせたわね、って言ってるのよ」

「ご主人、ですか」

「そうよ。ええ、そう」

そう答えるまでに、ほんの少し間があった。

その間に気づかないふりをしたのは、私のほうだ。

車を出す前に、きなこの背に手を置いた。

毛の下で、骨がはっきり指に当たった。

その軽さを、私は見ないことにした。

後部座席の犬が鳴く角

十一月の終わり、フミさんが初めて私の名前を聞いた。

「運転手さん、お名前は」

「佐藤です」

「下の名前は」

「悠太です」

「そう。いい名前ね」

フミさんは窓を見たまま言った。

「悠太さん。来週も、その次も、お願いできるかしら」

「もちろんです。水曜は空けてあります」

「ありがとう。この子の声が出るうちは、続けたいの」

出るうちは、という言い方が、胸に引っかかった。

私は聞き返さず、ミラーの角度を直した。

ミラーの中で、フミさんはきなこの耳を、何度も指で折っては戻していた。

十二月の最後の水曜、きなこが鳴かなかった。

病院の見える角を曲がっても、きなこは膝掛けの上で丸くなったままだった。

目は開いている。けれど、首を持ち上げる力が、もう残っていなかった。

「……きなこ」

フミさんが呼んだ。

十時四十分になった。窓は閉まっている。

犬が鳴かなければ、窓は開かない。私はずっとそう思っていた。

「今日は、帰りましょうか」

私が言うと、フミさんは首を横に振った。

「運転手さん。今日だけ、お願いがあるの」

「はい」

「この子を抱いて、あの玄関から入ってもらえませんか。私の足じゃ、間に合わないから」

私は驚いた。犬は病棟に入れない。

「規則は分かっています。四階の師長さんには、先に電話をしてあるの」

フミさんは杖を握り直した。

「連れていってくれたら、頭は私が下げます」

断る理由は、なかった。

きなこは、軽かった。毛布にくるむと、体温が掌にゆっくり移ってきた。

エレベーターの扉が四階で開くと、廊下の先から人が小走りで来た。

白衣の袖を肘までまくった、五十代の女性だった。

「きなこちゃん」

その人は、犬の名前を人の名前のように呼んだ。

「師長の安藤です。やっと、会えた」

やっと、とは何だろう。私は思った。

安藤さんは、きなこの額に指を当てて、静かに言った。

「毎週水曜、窓を開けるのは私たちなんです。十時四十分になると、ナースステーションの全員が手を止めて」

「全員、ですか」

「ええ。この階の患者さんが、みんな待っているんです」

私は聞き返せなかった。

安藤さんは、廊下の突き当たりを目で示した。

四〇七号室の扉は開いていて、ベッドが畳まれていた。

「ご主人は、三月に、あの部屋から旅立たれました」

膝の力が抜けるのを、私は感じた。

「でも、窓から手を振っているのは」

「私たちです」

安藤さんは、まくった袖を指でつまんで見せた。

袖を肘までまくるのは、病棟の看護師さんの癖だった。

私が一年かけて勝手に作ったご主人の姿は、その場で音もなく崩れた。

崩れた場所に、別のものが立ち上がった。

フミさんは、旅立ったご主人に、毎週会いに来ていたのではなかった。

窓の中の、ほかの誰かに、犬の声を届けに来ていたのだ。

四〇七号室の窓

四〇七号室の窓は、駐車場の植え込みの真上にあった。

安藤さんは窓の錠を外して、半分だけ開けた。

冷たい風が入って、きなこの毛が揺れた。

廊下の向こうから、車椅子が二台、点滴の台がひとつ、ゆっくり集まってきた。

パジャマの上に毛糸のカーディガンを羽織った人たちが、窓の周りに半円を作った。

フミさんは、安藤さんの腕を借りて、遅れて部屋に入ってきた。

「ご迷惑をおかけしました」

「いいえ。みなさん、今日は鳴かないのかなって、心配していたんです」

窓の下の車は、ここから見ると小さかった。

私の介護タクシーの、屋根の白だけが見えた。

毎週、フミさんが見上げていた窓を、私は初めて内側から見ていた。

きなこは、毛布の中で首を持ち上げた。

一度だけ。ほんの小さく。

わん。

それは、後部座席で聞くよりずっと細くて、けれど窓の外へまっすぐ出ていった。

車椅子の老人が、「ああ」と言った。

別の人は、顔を押さえて笑った。

白い袖の主は、ご主人ではなく、四階の看護師さんだった。

フミさんは、きなこの背を撫でた。

撫でながら、リードの結び目をそっとほどきかけて、また締め直した。

「この結び目はね」

フミさんが言った。

「あの人が、最後の散歩の前にしゃがんで結んだの。『これで抜けないぞ』って」

リードの余分な結び目は、ご主人が最後の散歩で結んだものだった。

「それなら、直すわけにはいきませんね」

私が言うと、フミさんは小さくうなずいた。

「そうなの。この子が歩けなくなっても、あの人の手は、ここに残っていてほしいの」

翌週の水曜、私はいつもどおり十時十分にフミさんの家の前へ着けた。

きなこは、フミさんの腕の中にいた。スロープは使わなかった。

後部座席の犬は、病院が見える角で、やはり一度だけ鳴いた。

声は去年より細くなっていた。

四階の窓は、十時四十分きっかりに、半分だけ開いた。

白い袖が、肘までまくられたまま、大きく振られた。

私は今度は、クラクションを軽く一度だけ鳴らして、それに応えた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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