
私は一年七か月、時枝さんの左手の薬指を、見ないふりをしていた。
時枝さんは、駅前のビルの三階にある小さなネイルサロンの、いちばん古い常連さんだった。
私が入社する前から通っていたと、店長の奥山さんは言う。
毎月、第一土曜の十一時。
窓際の席に座り、ハンドバッグを膝に置いて、背筋を伸ばして待っている。
色はいつも、薄い藤色だった。
親指から小指まで、爪の先まで丁寧に塗り、トップコートを重ねる。
左手の薬指だけが、いつも素爪だった。
そこだけを、きれいに空けて帰っていく。
ベースも塗らない。ファイルで形を整えるだけだ。
初めて担当した日、私は迷ったあげく、おそるおそる尋ねた。
「あの、左の薬指は、本当に何も塗らなくていいですか」
時枝さんは、少しだけ笑った。
「ええ。そこは、いいの」
それきり、会話は続かなかった。
アルコールとジェルの甘い匂いだけが、二人の間に静かに溜まっていった。
薬指の付け根には、細い白い痕が残っていた。
長いあいだ指輪をはめていた人の、肌の痕だ。
きっと、もう会えなくなった旦那さんの指輪だ。
私はそう決めてしまって、二度と尋ねないことにした。
今思えば、それは気遣いではなく、ただの決めつけだった。
第一土曜の予約表
予約は毎回、二名分の時間で取られていた。
九十分の枠が、二人分、つながって押さえてある。
けれど時枝さんは、いつも一人で来て、一人で帰る。
「連れの方、遅れていらっしゃるのかもしれませんね」
一度だけ、私は奥山さんにそう言ってみたことがある。
奥山さんは、予約表から目を上げずに答えた。
「時枝さんはね、昔からそうなの。二人分の時間で取るのよ」
「でも、いらっしゃったこと、ないですよね」
「ないわね。一度も」
「それでも、二人分なんですか」
「そう。隣の椅子も、空けておいてあげて」
言われたとおり、私は窓際の隣の席に、小さなクッションを置くようになった。
誰も座らない椅子に、毎月、同じクッションが置かれる。
時枝さんは、それを見て何も言わず、ただ静かに会釈した。
施術の間、時枝さんはほとんど話さない。
ヤスリが爪を撫でる、さらさらという音だけが続く。
窓の外では、電車がホームに入るたびに、ブレーキの金属音が遠く響いた。
一度、右手の爪を塗り終えたところで、時枝さんがぽつりと言った。
「あなた、手が温かいのね」
「ネイリストは、指先が冷たいと嫌がられるので。お湯で温めてきます」
「そう。それはいいことだわ」
時枝さんは目を閉じて、少しだけ口の端を上げた。
十二月の第一土曜は、朝から雪だった。
時枝さんは、肩に白い雪を載せたまま、いつもの時間に入ってきた。
「こんな日に、ありがとうございます」
「いいえ。約束の日は、動かさないの」
「一度も、休まれたことがないんですよね」
「ええ。一度も」
コートの裾から、冷たい外気の匂いがした。
凍えた指先を、私は両手で包んで温めた。
指は細く、節が少し高く、爪の根元には、小さな縦の筋が走っている。
長いあいだ、同じ色を塗り続けてきた手だった。
藤色のボトルを振ると、中の小さな玉が、からからと鳴った。
その音を、時枝さんは目を閉じて聞いていた。
「この音、好きなの」
「ボトルの中の玉ですか」
「ええ。誰かの足音みたいで」
私はそのとき、深くは考えなかった。
帰り際、会計のとき、時枝さんは決まって百円玉を一枚、レジの横に置いた。
「これは、何のお代ですか」
「いいのよ。気持ち」
それが何の気持ちなのか、私はその頃、まだ知らなかった。
ゼロ番のチップ
違和感に気づいたのは、秋の棚卸しの日だった。
サンプルのチップ箱の、いちばん小さいゼロ番だけが、毎月一枚ずつ減っていた。
他の番号は、練習で使う分しか減らない。
ゼロ番は、小学生の指より小さい。
うちのお客さんで、そのサイズが合う人はほとんどいない。
それが、第一土曜の翌日になると、決まって一枚ずつなくなっている。
「奥山さん、ゼロ番が減ってます」
「ああ、それ。時枝さんが持って帰るのよ」
「持って帰る、って。あの方の爪、幅広めですよね」
「そうよ。ゼロ番なんて、とてもはまらない」
「じゃあ、どうして」
「さあねえ。お代はいらないって言ってるのに、毎回、百円置いていくの」
奥山さんは、肩をすくめて笑った。
それ以上は、誰にも分からなかった。
次の第一土曜、私は施術が終わったあとで、思い切って尋ねてみた。
「時枝さん、ゼロ番のチップ、持ち帰られていますよね」
時枝さんの手が、会計の財布の上で止まった。
「ええ。一枚だけ。小さいのが、ほしくて」
「お子さんの、ですか」
「子どもじゃないのよ。大人の、小さな手」
「そうですか」
私は、それ以上を聞けなかった。
小さな手の、大人。
薬指を空ける人。指輪の痕。ゼロ番。
頭の中で、ばらばらの欠片が、勝手に一つの形に組み上がっていった。
大切な誰かを見送った人が、その人の爪の代わりに、小さなチップを手元に置いている。
形見のような、お守りのような、そういうものだと私は思った。
その夜、サロンを閉めたあとで、私はゼロ番の箱に、そっと補充を足した。
持っていかれる分より、少し多めに。
理由の分からない優しさだった。
けれどそれも、私の思い込みの上に立った優しさだった。
翌月、時枝さんは補充されたゼロ番の箱を、ちらりと見た。
何も言わなかったが、箱の前で、ほんの少し立ち止まった。
その日も、百円玉が一枚、レジの横に置かれた。
私はその百円玉をレジに入れず、小さな缶の中に取っておくことにした。
左手の薬指を空ける理由
九月の終わり、台風が近づいた日に、時枝さんは傘をたたみながら、サロンの入口で転んだ。
ハンドバッグの中身が、床に広がった。
私は慌てて駆け寄り、拾い集めた。
ポーチ、ハンカチ、のど飴の缶。
その中に、白い小さな封筒が一通あった。
表には、きれいな楷書で、宛名が書かれていた。
〈石渡千夏様〉。
住所の横に、切手が貼られている。
差出人の欄は、空白だった。
私が封筒を差し出すと、時枝さんはしばらく、それを見つめていた。
それから、観念したように言った。
「妹の名前なの」
私は、返事に詰まった。
「……妹さんは」
「元気よ。たぶんね」
「たぶん、ですか」
「二十年、会っていないの。連絡も、取っていない」
二十年。
もう会えなくなった人ではなかった。
私の組み上げた形は、最初の一枚から、まるで違っていた。
待合の椅子に座り直してもらい、温かい麦茶を出した。
外では、風が窓を叩いていた。
時枝さんは湯呑みを両手で包み、ゆっくりと話し始めた。
「あの子が結婚する前の晩にね。私、あの子の薬指から塗ってあげるって約束してたの」
「薬指から、ですか」
「指輪をはめる指だから。いちばん先に、きれいにしてあげたかった」
「約束したのに、行かなかったんですか」
「相手の人に、反対だったの。私、ひどいことを言ったのよ」
時枝さんは、湯呑みの縁を親指でなぞった。
「式には出た。でも、前の晩は行かなかった。その後、一度も顔を合わせていない」
私は、黙って聞いていた。
時枝さんの左手が、膝の上で小さく丸まった。
「だからね。あの子の薬指が塗れるまで、私の薬指も塗らないことにしたの」
「同じにして、待つんですか」
「そう。私だけ先に塗ってしまったら、あの子の分が、なくなってしまう気がして」
それが、素爪の薬指の理由だった。
指輪の痕のことを、おそるおそる口にすると、時枝さんは声を上げて笑った。
「ああ、これ。別れた夫のよ。三年前に外したの」
「あ。……そうだったんですか」
「元気に生きてるわよ、あの人は。年金の手続きまで、うるさいくらい」
私は、顔が熱くなった。
旦那さんは亡くなったのだと、一年七か月も、勝手に決めていたのだ。
時枝さんは、目の端を拭いながら、まだ肩を揺らして笑っていた。
笑い声が収まったあとで、時枝さんは、ぽつりと言った。
「あなたが黙っていてくれて、助かったのよ。みんな、すぐ聞くから」
私の沈黙は、気遣いではなかった。
それでも、誰かの救いになることがあるのだと、初めて知った。
二名分の時間
十月の第一土曜は、よく晴れた朝だった。
サロンの窓から、駅の高架と、その向こうの青い空が見えた。
私は、いつもより早く出勤して、窓際の席を拭いた。
予約表の時枝さんの欄には、ふだんと同じ、二名分の枠が取ってある。
けれど、その横に、小さな字で書き足されていた。
〈本日、お連れ様あり〉。
前日、時枝さんから電話があったのだと、奥山さんが教えてくれた。
「二人分、ほんとうに使うんだって」
私は、胸の奥が、きゅっと鳴った。
十一時ちょうど、時枝さんがドアを開けた。
いつもの、背筋の伸びた歩き方だった。
ただ、今日は、後ろに誰かがいた。
小柄な、ショートカットの女性だった。
時枝さんより少し若く、肩に小さなトートバッグを下げている。
その手が、バッグの持ち手を、強く握りしめていた。
「石渡です」
女性は、頭を下げた。
「千夏、と申します。姉が、お世話になっております」
千夏さんは、ほとんど聞き取れないような声だった。
時枝さんは、隣に立ったまま、何も言わなかった。
私は、窓際の席と、その隣の席を示した。
「どうぞ、お二人で。お隣の席に、ずっとクッションを置いていたんです」
千夏さんは、隣の席のクッションを見て、小さく息を吸った。
そして、トートバッグの口を開いた。
取り出したのは、古い菓子缶だった。
蓋を開けると、中は、藤色でいっぱいだった。
小さな、小さな爪が、数えきれないほど、整然と並んでいる。
ゼロ番のチップに、薄い藤色が、一枚ずつ丁寧に塗られていた。
私は、息をのんだ。
「毎月、届いたんです」
千夏さんは、缶を両手で支えたまま言った。
「手紙もなくて、差出人もなくて。ただ、封筒の中に、これが一枚」
「二十年、ですか」
「数えたら、二百四十枚ありました」
手紙のない封筒の中身は、いつも、妹の薬指の大きさのチップだった。
ゼロ番は、妹さんの薬指の大きさだった。
結婚式の前の晩、時枝さんは約束の代わりに、電話で妹の爪の幅を聞いて、手帳に書きつけていたのだという。
千夏さんは、涙をこらえるようにして続けた。
「返事を書こうと思っても、何を書けばいいのか、分からなくて。でも、捨てられなくて」
「そう」
時枝さんは、やっとそれだけ言った。
「今月だけ、封筒の中に、一行だけ入ってたんです」
千夏さんは缶の底から、折りたたんだ紙を取り出した。
紙には、時枝さんの字で、こう書かれていた。
〈十月の第一土曜、十一時。二名分、取りました〉。
二名分の時間は、最初から、二人目のために空けてあったのだ。
二十年、同じ日、同じ時間に。
時枝さんは、薬指を空けて、待ち続けていた。
私は、そっとその場を離れ、ポットでお湯を沸かした。
二人の邪魔をしないように、背中を向けた。
それでも、背後の声は、はっきり聞こえた。
「ごめんなさいね、千夏」
「ううん。……私も、ごめん」
「塗らせてくれる? 薬指から」
「うん。お願いします」
時枝さんは、私の道具箱から、藤色のボトルを自分で選んだ。
カウンターの上で、千夏さんの左手を、両手で包んだ。
細い筆が、薬指の爪の根元から、すうっと先へ走る。
二十年ぶりの、藤色の線だった。
千夏さんは、その様子を、瞬きもせずに見つめていた。
やがて、千夏さんが、時枝さんの左手を取って、筆を持った。
姉の薬指に、ゆっくりと、同じ色を乗せていく。
ふたつの手が、窓の光の中で、並んだ。
左手の薬指だけが、藤色に染まった。