
最後の瓶の蓋を開けたのは、祖母の家を片づけ終えた、梅雨の晴れ間の夕方だった。
祖母の梅干しは、しょっぱすぎて食べられなかった。
僕はずっと、そう思い込んでいた。
香川の山あいの家で、祖母は長いあいだ一人で暮らしていた。
裏庭には梅の木が一本あって、六月になると祖母は梯子を掛けて実を落とした。
熟れた梅が籠の底で、甘い匂いを立てる。
祖母は梅を洗い、竹串でへたを一つずつ取った。
焼酎をくぐらせ、塩に転がし、甕に重石をのせる。
赤紫蘇を揉む指は、夏のあいだじゅう、爪の先まで染まっていた。
そうして漬かった祖母の梅干しが、秋のはじめに宅配便で東京の僕へ届いた。
新聞紙に包まれた、ジャムの空き瓶ほどの小さな瓶だった。
手紙は入っていない。
送り状の「ハツ」という角ばった字だけが、祖母の言葉だった。
僕は都内の会社で、システムを作る仕事をしていた。
小学生の夏休みには、その家で何日も過ごした。
梅は漬けて終わりではない。
土用になると、祖母は甕から梅を上げて、縁側の笊に一粒ずつ並べた。
「三日三晩、お日さまに当てるんよ」
僕の仕事は、夕立が来る前に、笊を軒の奥へ引き込むことだった。
一度だけ、乾きかけの梅をこっそりつまんだ。
口に入れた途端、顔じゅうがすぼまった。
「酸っぱ」
祖母は腹を抱えて笑った。
笑いながら、麦茶を注いでくれた。
あの縁側の匂いは、今も日向の埃と、梅酢の匂いでできている。
瓶を開けると、梅干しは塩を吹いて、皺の奥まで白かった。
一粒で、ご飯が三杯食べられる。
祖母はそう言って、いつも笑った。
その笑い皺の数まで、僕は覚えている。
僕は一粒で、舌がしびれた。
お礼の電話をかけるたびに、「おいしかったよ」と嘘を混ぜた。
瓶の残りは、冷蔵庫の奥で蓋を閉めたまま、毎年、古くなっていった。
それが、あの電話までの秋の景色だった。
秋に届く小さな瓶
お盆に帰省した朝のことを、よく覚えている。
祖母の膳には、僕のものと同じ小皿が並んでいた。
僕の皿の梅干しは、赤く締まって、皺が深い。
祖母の皿の梅干しだけが、色が薄く、ふやけていた。
「ばあちゃんのは、旨そうやな」
箸の先で、祖母の皿を指した。
祖母は片手で皿を隠して、照れたように笑った。
「これは出来損ないやけん。ばあちゃんの分は、出来損ないでええんよ」
そう言って、一粒を口に入れた。
酸っぱさに顔をしかめる様子もなく、祖母は黙ってご飯を運んだ。
縁側では、風鈴が鳴っていた。
鉄の風鈴で、風が弱いと、鳴るまでに少し間があった。
梅の木の影が、畳の上に薄く伸びていた。
台所の北の隅には、その年も甕が置かれていた。
「まだ漬けとるん」
「自分で食べる分だけな」
祖母はそう答えて、布巾で甕の肩を拭いた。
僕はそれ以上、何も訊かなかった。
訊くほどのことだとは、思わなかったのだ。
あの頃の僕は、祖母の家を、いつでも戻れる背景のように思っていた。
梅の木も、甕も、縁側も、僕が見ていなくても、同じ場所で同じ季節を迎えるのだと。
あの電話をかけたのは、二十五歳の秋だった。
その年も、小さな瓶が届いた。
冷蔵庫には、前の年の瓶がまだ半分残っていた。
終電で帰った夜で、僕は疲れていた。
机の上で、冷めたコンビニの弁当が、蓋を開けないまま待っていた。
受話器の向こうで、祖母は「元気にしとるか」と言った。
「ばあちゃん、あの梅干し、僕にはしょっぱすぎるんよ」
言葉が、勝手に口から出た。
「もう送らんでええ。ほんまに、気ぃ使わんでええけん」
返事までに、少し間があった。
受話器の奥で、水道の水が細く流れる音がした。
「そうか」
祖母は言った。
「ごめんな。しょっぱかったな」
僕は「いや」と言いかけて、やめた。
「ごめんな」の意味を、考えなかった。
電話を切ると、肩が軽くなった気がした。
その秋から、小さな瓶は届かなくなった。
玄関に宅配便が来ない秋は、思いのほか、静かだった。
会社の帰りに、コンビニで梅のおにぎりを買うようになった。
塩気がやさしくて、ちょうどよかった。
社員食堂でも、弁当でも、僕の舌は薄い味に慣れていった。
祖母の梅干しは、いよいよ、遠い味になった。
お盆の帰省は、仕事を理由に、毎年が二年に一度になった。
六月になると、祖母から短い電話が来た。
「梅がようなったで」
それだけ言って、祖母は切った。
僕は「へえ」と答えた。
何がよくなったのかを、訊かなかった。
年の暮れに帰省した夜、食卓を見渡して、気づいたことがある。
梅干しの小皿が、なかった。
毎年かならず、漬物の隣に置かれていた皿だった。
「今年は出さんのか」
訊くと、祖母は急須を持ったまま、少し笑った。
「あんたは、もう要らんやろ」
僕は「うん」と答えた。
その「うん」を、祖母がどんな顔で聞いたのか、僕は見ていない。
蛍光灯の下で、味噌汁だけが、いつもより熱かった。
祖母の梅干しの棚
この春、祖母は八十八歳で旅立った。
葬儀のあと、家の片づけは六月に回した。
梅の実が黄色くなりはじめた日に、僕は東京から一人で帰った。
駅からの坂道は、雨に洗われて、土の匂いが濃かった。
畦の水路には、澄んだ水が音を立てて流れていた。
門の脇の梅の木には、黄色い実が重たそうに垂れていた。
玄関の戸は、少し持ち上げないと開かない。
その癖を、体が覚えていた。
上がり框の板は、祖母が毎日拭いていたとおりに、鈍く光っていた。
叔母の良子が、先に来て窓を開けていた。
古い家の空気が、ようやく動きはじめた。
「健太、遅かったなあ」
「新幹線が混んどって」
「ご飯は」
「食べてきた」
電話の横には、色褪せたメモ帳が置かれたままだった。
表紙の端が、湿気で丸まっている。
祖母の字で、「米」「味噌」「梅の日」とだけ書かれていた。
壁のカレンダーの六月の欄には、鉛筆で小さな丸がいくつも付いていた。
仏壇の前には、小皿がひとつ供えられていた。
梅干しが、一粒だけのっていた。
祖父の遺影が、静かにそれを見下ろしていた。
「じいちゃんは、塩気の強いのが好きやったけんな」
叔母が言った。
「ばあちゃんの梅干しは、もともと、じいちゃんの舌に合わせた味なんよ」
その味を、祖母は何十年も、変えなかった。
変える理由が、なかったのだと思う。
二人で、茶箪笥の皿を新聞紙に包んだ。
昼を過ぎて、叔母が納戸の戸を引いた。
「奥の棚、あんた、見てみ」
「何が入っとるん」
「瓶や。ようけ」
納戸は、湿った木と防虫剤の匂いがした。
小さな窓から差す光が、床の埃を斜めに浮かせていた。
棚板は祖母の背丈に合わせた低さで、僕は膝を折らなければ届かなかった。
奥の棚の一段に、ジャムの空き瓶が並んでいた。
蓋には、マスキングテープが貼ってある。
鉛筆の角ばった字で、全部に、僕の名前があった。
「健太 塩十六」
「健太 塩十五」
「健太 塩十四」
指でなぞると、テープの端がかすかに浮いた。
瓶は、九本あった。
十六、十五、十四、十三、十二、十一、十、九。
最後の瓶だけが、八だった。
塩の数字は、一本ごとに、一つずつ減っていた。
「ばあちゃん、これ、人にやるもんと違うんか」
「違うわ。あんたの名前の棚やけん、誰にも触らせんかった」
叔母は首をかしげた。
「何の数字やろな」
「塩の割合やろ」
「そんなもん、減らして大丈夫なん」
「分からん」
本当に、僕には分からなかった。
叔母は、棚の瓶を一本ずつ眺めながら、ぽつりと言った。
「六月の電話な、あんたに切られたあと、ばあちゃん、しばらく受話器を置かんかったんよ」
「そうなん」
「声が聞きたかっただけや、言うてな」
叔母の声は、乾いた納戸に低く響いた。
ただ、喉の奥が、ひとりでに詰まった。
どこかで、蛙が鳴いていた。
叔母は何も言わず、新聞紙を裂く音だけが続いた。
棚の端に、大学ノートが立てかけてあった。
表紙には、「梅の覚え」とあった。
梅の覚え書き
縁側に腰を下ろして、ノートを開いた。
紙は湿気を吸って、わずかに波打っていた。
鉛筆の文字は、頁の端に近づくほど、小さく詰まっていた。
余白を惜しむように、祖母は書いていた。
最初の頁は、九年前の十月の日付だった。
「十月。健太から電話。しょっぱすぎる、と。」
「わたしは何十年も、これが一番ええ味やと思うとった。」
「ごめんな、しか言えなんだ。」
その一行だけ、鉛筆の芯が紙に深くめり込んでいた。
次の頁は、翌年の六月だった。
「塩十六。上に白い膜。梅酢を足す。」
「傷んだ実は捨てた。無事なのだけ、わたしが食べる。」
頁をめくるたびに、同じことが書かれていた。
「塩十四。黒い点が出た。全部あかん。」
「塩十二。やわらかすぎて崩れる。あかん。」
「三年目。夜中に台所へ降りて、蓋を開けて匂いを嗅いだ。まだ酸っぱい。」
「焼酎を倍にしてみる。梅酢を煮立てて冷まして、塩の減った分を補う。」
「塩十。うまいと思うた。けど、半月で皺が溶けた。」
「土用干し。三日三晩。夕立が来て、笊を一人で引き込んだ。腰が痛い。」
「健太は、いつも上手に引き込んだのう。」
「叔母から聞いた。健太は東京で、ええ仕事をしとるらしい。塩の話は、そのうち。」
「十年やって出来んかったら、わたしの舌が悪いんかもしれん。」
「蜂蜜を足してみた。甘すぎる。健太は、甘いのも好かんかもしれん。」
「近所のコンビニで、梅のおにぎりを買うてみた。薄い。これが健太の舌か。」
僕は、その一行で、ページから目を上げた。
軒先の雨だれが、ひとつ、ふたつ、落ちていた。
麦茶のコップを取ろうとして、指が一度、空を掴んだ。
僕が毎晩、迷いなく選んでいた梅のおにぎり。
同じ棚の前に、祖母も、立っていたのだ。
八十を過ぎた背中を、小さく丸めて。
薄い塩気を、舌の上で確かめながら。
「出来損ないは、朝のおかずにする。」
「お医者さんには叱られた。」
「それでも、朝の一粒は、やめられん。」
「健太に言えん。」
「叔母さん」
僕は呼んだ。
「ばあちゃん、お盆の朝、いつも薄い梅干しを食べとった」
「ああ、あれな」
叔母は、段ボールを閉じる手を止めた。
「ばあちゃんな、血圧のお薬飲んどって、先生に塩気を止められとったんよ。それでも朝の梅干しだけは、外さんかった」
「出来損ないやけん、言うて」
「そう。あの子に食べさせるもんやない、わたしの分や、言うて」
思い出の中の朝の皿が、静かに入れ替わっていく。
色の薄い、ふやけた梅干し。
皿を隠した、祖母の手。
あの照れたような笑い。
皿を隠した指の先には、赤紫蘇の色がまだ残っていたような気がする。
あれは、照れていたのではなかった。
僕の舌に届ける前の、味見だったのだ。
祖母が毎朝食べていた出来損ないは、全部、僕のための試作だった。
八と書かれた瓶
最後の頁は、去年の六月だった。
「塩八。ようやく、保った。」
「出来損ないでない梅干しが、やっとできた。」
「今年こそ、送ってもええか、健太に聞こう。」
日付は、そこで終わっていた。
聞かれたことは、一度もなかった。
僕は棚から、最後の瓶を取った。
テープには、「健太 塩八 送ってもええ味」とあった。
台所へ行き、蓋を開けた。
梅酢の匂いが、鼻の奥に上がってくる。
一粒を指でつまんで、口に入れた。
赤紫蘇の香りがして、そのあとで、塩が来た。
舌がしびれるほどではない。
窓の外で、梅の木が雨上がりの雫を落としていた。
「ばあちゃん」
台所の隅へ、僕は言った。
「ご飯、三杯いけるわ」
返事の代わりに、蛇口が一滴、鳴った。
祖母の梅干しは、まだ少しだけ、しょっぱかった。