
明けがた、川霧が上がると、蔵の白壁だけが先に町へ戻ってくる。
土も瓦も川も、まだ乳色の底に沈んでいるのに、白壁はひとつだけ、先に形を持つ。
七十年、わたしはそれを見て起きた。
黒須河岸(くろすがし)。
利根の水に沿って蔵ばかりが並んだ町で、わたしは左官の娘に生まれ、左官のまま年を取った。
掌には、指紋がほとんど残っていない。
漆喰は灰汁が強い。
若い頃から水膨れをつくり、それが治り、また潰れて、いつのまにか指の渦が平らになった。
役所で指を押しつける機械にかけられると、いつも何度もやり直しになる。
そのたびに若い職員が申し訳なさそうな顔をするので、わたしは「壁を塗る仕事でしたから」と言って笑う。
笑うと、たいてい相手はもう何も聞かない。
七十八になっても、鏝(こて)はまだ持てる。
持てるけれど、この頃は壁の前に立つ用がない。
蔵はもう荷を入れない。
漆喰の壁は次々に金属の板で覆われて、覆ったほうが安いし濡れないと言われれば、わたしには返す言葉がない。
月に一度、川向こうの食堂で弟と飯を食う。
弟は必ずかつ丼を頼み、わたしは必ず鴨南蛮を頼む。
四十年、二人とも同じものを頼み続けている。
わたしが町の話をして、弟が「うん」と言う。
それで五分もつ。
もたなくなると、わたしは箸を置いて、外の川を見る。
※
四月の終わりに、町から封書が来た。
丸嘉(まるか)の蔵を解くという知らせだった。
丸嘉は河岸でいちばん古い米問屋で、その蔵は、父が最後に仕上げた仕事だった。
妻壁の高いところに、鏝絵(こてえ)がある。
漆喰を盛って形を出す、左官の飾りだ。
恵比寿や鶴を彫る職人が多いが、父はそこに川舟と人影を置いた。
舟が一艘。
土手に人影が三つ。
町の人はみな「高瀬さんとこの三人だ」と言った。
父と、わたしと、弟の勇(いさむ)。
わたしもそう思って、六十四年、下から見上げてきた。
近くで見たことは、一度もない。
あれから足場が組まれたことが、一度もなかったからだ。
※
弟に電話をした。
勇は七十一で、川向こうの団地にひとりでいる。
「蔵、解くって」
「知ってる」
「鏝絵、どうすんだろうね」
受話器の向こうで、湯呑みを置く音がした。
「姉ちゃんが見に行けばいい」
それだけ言って、勇は電話を切った。
弟は昔からこういう物言いをする。
短くて、角がなくて、こちらの話を受け取ったのか受け流したのか分からない。
七つのときから、そうだった。
※
昭和三十七年の春を、わたしはよく覚えている。
わたしは十四で、勇は七つだった。
家は蔵と蔵の間の細い路地の奥にあって、朝は川の音より先に、父が桶を洗う音で起きた。
左官の朝は水から始まる。
前の日に使った桶を洗い、砂を篩(ふるい)にかけ、貝灰と麻の繊維を練る。
漆喰を練ると、水の匂いがする。
石灰の匂いだと人は言うけれど、わたしにはずっと、雨が降り出す少し前の川の匂いに似ていた。
母のしづは、その匂いが嫌いだと言っていた。
「頭が痛くなる」
そう言って、練り舟のある土間には決して降りてこなかった。
母は河岸の外から嫁いできた人で、川の匂いも漆喰の匂いも、たぶん最後まで自分のものにならなかったのだと思う。
紅を塗るのが上手な人だった。
夕方、鏡台の前で唇を作るときだけ、母の背中はまっすぐになった。
※
その春に一度、母がわたしを渡し舟に乗せた。
対岸の町に、紅を売る店があった。
河岸には無い店だった。
舟の上で、母はわたしの手を取って、掌をひっくり返した。
十四で、もう硬くなりかけていた。
「あさ。この手じゃ、紅は似合わんね」
そう言って笑ったけれど、母の目は笑っていなかった。
「あんたは、いつか町を出な」
「どこ行くの」
「どこでもいい。ここじゃないところ」
わたしは黙っていた。
母の手は白くて、爪の際にも土が入っていなかった。
その手を、わたしはきれいだと思った。
同時に、その手が河岸の女たちにどう見られているかも、もう知っていた。
紅を買って帰る帰りの舟で、母は舳先に立って、風で崩れる髪を押さえていた。
対岸から見ると、わたしたちの町は蔵の白壁ばかりで、家がどこにあるのか分からなかった。
※
勇は篩が好きだった。
砂が銀色に落ちるのを、口を半分開けて見ている。
「しくい、つくる」
「しっくい」
「しくい」
何度直しても勇は言い直さなかった。
ある日、父が壁に塗りつけたばかりの漆喰に、勇が両手をついた。
まだ柔らかい面に、小さな手形が二つ、はっきり残った。
父は鏝を置いて、勇の前にしゃがんだ。
叩くと思った。
父は叩かなかった。
「勇。壁は消せん」
「……」
「塗ったもんは、残る。上から百回塗っても、下にあるもんは残っとる」
勇は分かったような顔で頷いて、それから泣いた。
父はその手形を、削らずに上から押さえた。
いまでも、家の土間の壁のあの高さには、指で触るとかすかな波がある。
七つの掌の幅で。
※
同じ年の夏、勇が父の小鏝(こごて)を一本失くした。
刃先の歯が少し欠けた古いやつで、父がいちばん細かい仕事に使っていたものだ。
「川に落とした」
勇はそう言った。
わたしは激しく怒った。
道具は職人の指だと、耳にたこができるほど父から聞かされていたからだ。
「あんた、それがどれだけ大事な物か分かってんの」
「……ごめん」
「川って、どこ。探しに行くよ」
「わかんない」
「わかんないって、あんた」
勇は俯いたまま、爪の先を見ていた。
父は何も言わなかった。
新しい小鏝を買って、それで終わりにした。
わたしはしばらく勇と口をきかなかった。
※
その夏の終わりに、父は丸嘉の蔵にかかった。
大きな仕事だった。
漆喰の上塗りだけで半月、鏝絵はそのあと、父ひとりで十日かけた。
わたしは足場の下で、練った漆喰を桶に入れて上げる役をした。
盛り上げる漆喰は、普段の上塗りより硬く練る。
硬いのに、乾くまでは生きている。
生きているうちに形にしないと、二度と動かない。
父の背中はほとんど動かなかった。
肩だけが小さく回って、その先の鏝が、川舟の舳先を出し、人影の丸い頭を出した。
「父ちゃん、それ、誰」
「わからん」
「三人いるよ」
「そうか」
父は振り向きもしなかった。
わたしは「わたしがいる」と思って、その日は帰りに一度も転ばずに歩いた。
漆喰は乾くとき、少し熱を持つ。
上げたばかりの桶を抱えた腹のあたりが、ずっと温かかったのを覚えている。
※
鏝絵が仕上がったのは、十一月のはじめだった。
その日、丸嘉の当主が近所に声をかけて、みんなで下から見上げた。
足場は三日後に解くことになった。
「高瀬さんとこの三人だ」
最初にそう言ったのは、隣の桶屋のばあさんだった。
それが町の言い方になった。
わたしは家に帰って、母に言った。
「お母さん、蔵の絵、見に来て」
母は鏡台の前にいた。
「頭が痛いから」
「三人いるって、みんな言ってる」
母は振り向かなかった。
鏡の中で、唇に紅が引かれていくのを、わたしは後ろから見ていた。
そのとき何か言うべきだったのだと、七十年経ったいまでも思う。
けれどわたしは、三人のうちの一人が自分であることの方が、嬉しかった。
十四だった。
嬉しかったのだ。
※
母が出て行ったのは、その晩だった。
足場が、まだ立っているうちだった。
三日ほど前から、町の噂がわたしの耳にも入っていた。
対岸の材木屋の男のことだ。
十四のわたしには、噂の意味が半分だけ分かった。
半分だけ分かるというのは、いちばん残酷な分かり方だと思う。
その夜、母は玄関で下駄の鼻緒に指を通していた。
風呂敷包みが一つ。
紅は塗っていなかった。
わたしは、母が振り向くのを待っていた。
待っていた、はずだった。
けれども口から出たのは、こうだった。
「行って」
母の背中が止まった。
「早く行って。恥ずかしいから」
わたしは、そう言った。
引き留めなかったのではない。
追ったのだ。
母は何も言わずに三和土に降りて、戸を引いて、そのまま川の方へ歩いていった。
冷えた空気が土間に入ってきて、練り舟の水の面が細かく震えた。
※
翌朝、勇は起きて、いつもの場所に座って、いつもの声で言った。
「おはよう」
わたしは息が止まりそうになった。
七つの子が、母がいないことに何も言わなかった。
「お母さんは」と一度も訊かなかった。
一度も。
わたしは、それを「まだ分からない年だから」と思った。
思うことにした。
※
その日の晩、わたしは勇を土間に呼んだ。
父は練り舟の前に座って、入れる先もない水を、ただ混ぜていた。
一晩、混ぜていた。
わたしは弟の肩を掴んで、顔を近づけて言った。
「勇。うちに、お母さんはいない」
「……」
「誰にも訊くな。誰にも言うな。学校でも、近所でも」
「うん」
「言ったら、姉ちゃん、あんたのこと知らない」
七つの子に、わたしはそう言った。
いま書き写していても、指が止まる。
勇は「うん」と言って、それから土間の隅に置いてあった母の下駄を見た。
わたしはその下駄を、翌朝、川に捨てた。
捨てるところを、勇が土手の上から見ていたことを、わたしはずっと知らないふりをしてきた。
※
そこから先の七十年を、わたしは一言でまとめられる。
塗ってきた。
上から、上から、塗ってきた。
父はわたしを職人にした。
女の左官は当時ほとんどいなかったが、河岸の蔵はいくらでもあって、腕があれば誰も文句を言わなかった。
わたしは勇を高校に出し、父を看て、父が旅立ってからは家と道具を守った。
嫁ぐ話は二度あって、二度断った。
勇がいたからだ、と自分に言い聞かせた。
そしてその物語を、六十年かけて厚く厚く塗り重ねた。
——わたしが、この家を守った。
法事の席でも、町の寄合でも、それは誰も疑わない話だった。
だから誰も、あの夜のわたしの言葉を知らない。
わたし以外に、知っている者はいない。
そう思っていた。
※
正直に書くと、わたしは弟を少し軽く見ていた。
勇は高校を出て町の建材屋に入り、そのまま定年まで勤めて、結婚もしなかった。
出世もしなかった。
団地の部屋には物が少なく、湯呑みが一つしかない。
法事の段取りはいつもわたしが決めて、勇は「わかった」と言うだけだった。
七十年、勇はわたしに言い返したことがない。
それを、わたしはどこかで、頼りなさとして数えていた。
数えていたのだと思う。
いま思えば、あんな恥ずかしいことはない。
※
解体は五月の連休明けに決まった。
丸嘉の当主が、鏝絵の部分だけを切り出して町の資料館に納めると言い出して、県から若い左官が三人来た。
そのうちの一人が、尾崎という三十半ばの男だった。
「高瀬さんですよね。うちの親方の親方が、高瀬源次さんに習ってます」
「そりゃ、ずいぶん遠いね」
「あの鏝絵、教科書に載ってるんですよ。河岸の鏝絵で人が三人立ってるのは、あれだけなんです」
三人。
わたしはまた、そう聞いた。
尾崎は足場を見上げてから、変なことを言った。
「切り出す前に、上まで登られませんか」
「わたし、七十八だよ」
「うちの親方も八十二で登ります」
尾崎は笑って、それから真面目な顔になった。
「あの絵の下の押さえを最後に触った人が、まだ触れるうちに触ったほうがいい。そういう仕事なんで」
わたしは足場に登った。
勇も来た。
呼んだわけではないのに、朝の八時に、団地から自転車で来ていた。
※
足場は三段。
上がるほど、川の音が遠くなって、風の音が近くなる。
いちばん上の段で、わたしは六十四年ぶんの距離を、ようやく詰めた。
鏝絵は、思っていたよりずっと小さかった。
舟が一艘。
土手の人影。
一つ、二つ、三つ。
そして、そのすぐ後ろ。
三つ目の人影の陰に重なるように、もう一つ、丸い頭があった。
小さい。
肩がなくて、頭だけのようにも見える。
けれど確かに、顔の位置に、二つの窪みと一本の線がある。
四人目だった。
わたしは、声が出なかった。
尾崎が横から光を当てた。
その瞬間に分かった。
四人目のところだけ、漆喰の肌が違う。
父の押さえは、鏝の跡が消えるまで押す。
だから父の面は、なめらかで、指で撫でても引っかかりがない。
けれどそこだけは、波打っていた。
母の顔だけ、押さえが甘い。
七つの子の掌の幅で、そこだけ波打っていた。
※
尾崎が、絵の裏の目地に指を入れた。
「なんか、挟まってますね」
抜き出した手に、細い鉄が乗っていた。
黒く錆びて、刃先の歯が一つ欠けている。
小鏝だった。
わたしは、それを六十四年前に川で失くしたことになっている道具だと、見た瞬間に分かった。
父が細かい仕事に使っていた、あの一本だ。
振り向いた。
勇は、足場の二段目に立っていた。
登ってこないで、下から鏝絵を見上げていた。
七十一の顔が、七つの顔と同じ角度で上を向いていた。
「勇」
「うん」
「これ、あんた」
「うん」
「いつ」
勇は少しだけ考えて、それから言った。
「お母さんが出て行った次の日」
風が一度、強く鳴った。
「父ちゃんが足場を解く前でさ。夜、上がった。梯子、まだあったから」
「七つで、あの高さに」
「怖かった」
勇は笑った。
笑ってから、続けた。
「姉ちゃんが玄関で言ってたの、階段から聞いてた」
わたしは手すりを掴んだ。
「行って、って言ったの、聞いてた」
「……」
「姉ちゃん、あのあと、ずっと壁塗ってたろ」
「……うん」
「だから、消えないとこに置いた」
勇は、それだけ言った。
「壁は消せんって、父ちゃんが言ったから。だから、あそこなら残ると思って」
わたしは訊いた。
訊かなければよかったのに、訊いた。
「なんで、あの日だったの」
勇は、川の方を見た。
「朝、姉ちゃんが下駄捨てるの、土手から見てた」
膝から力が抜けた。
「捨てちゃったから、うちにもう、お母さんのもの、ひとつもなくなって」
「……」
「だから、いっこ、いるなって思った」
七つの子が、そう思ったのだという。
家の中の母を全部わたしが流したから、流せない場所に一つ置いたのだという。
そのために、夜、梯子を登った。
歯の欠けた小鏝を握って、暗い足場を三段上がって、七つの掌で漆喰を押さえた。
そして翌朝、「おはよう」と言った。
※
七十年、勇は一度も言わなかった。
母のことも、わたしのことも。
学校でも、近所でも、法事の席でも、一度もだ。
わたしが「わたしが家族を守った」という話を、年忌のたびに厚く塗り直すのを、勇はいつも「わかった」と言って聞いていた。
上塗りを、剥がさずにいてくれた。
そのうえで、剥がされないところに、母をひとり置いた。
父の目の届かない、町のいちばん高い壁の、絵の中に。
わたしは足場の上で、手すりを掴んだまま、しばらく動けなかった。
七十年、わたしは守ってきたと思っていた。
守られていた。
※
「なんで言わなかったの」
やっと出たのは、それだった。
勇はずいぶん長く黙って、それから言った。
「言ったら、姉ちゃん、また塗るだろ」
わたしは笑ってしまった。
笑って、それから、川の方を向いた。
顔を見せたくなかった。
弟は、七十年、わたしのために黙っていたのではない。
わたしが塗り続けられるように、黙っていたのだ。
守るというのは、たぶん、そういうことなのだと思う。
相手の嘘を、崩さないでおくこと。
崩さないまま、その裏に本当のことを置いておくこと。
※
尾崎たちは、鏝絵を壁ごと切り出した。
厚みを持たせて、木の枠を回し、資料館の壁に据えた。
据える日、尾崎がわたしに鏝を渡した。
「枠と壁の隙間、押さえてもらえますか」
「わたしがやることじゃないよ」
「高瀬さんの仕事だと思います」
わたしは漆喰を練った。
七十八の腕でも、水の量は指が覚えている。
隙間に漆喰を詰めて、鏝を寝かせて、押さえた。
押さえながら、四人目の顔を見た。
そこだけは、直さなかった。
波打ったままでいい。
上から百回塗っても、下にあるものは残る。
父の言った通りだった。
※
資料館は、川の土手のすぐ下にある。
硝子の向こうに鏝絵が据わって、朝の光が入る。
わたしは開館前に鍵を借りて、ときどき見に行く。
明けがた、川霧が上がる。
土も瓦も、まだ乳色の底にいる。
そのなかで、切り出された白壁だけが先に形を持つ。
舟が一艘。
土手に、人影が四つ。
数えるのは、いつもわたしだ。
勇は隣で、湯呑みも持たずに、ただ黙って上を向いている。