家じゅうの針が五分進んでいた家
実家の時計は、どれも五分進んでいました。
玄関の掛け時計も、茶の間の置き時計も、母の枕元の目覚ましも、きっちり五分。
私が小学校のころ、朝がどうにも起きられない子どもだったからです。
「五分あれば、走れば間に合う」
母はそう言って、家じゅうの針を進めて回りました。
脚立に上がって、柱時計の硝子の扉を開けて、爪の先で長針をつまむのです。
私が高校を出て新庄を離れてからも、母はそれを戻しませんでした。
盆に帰っても、正月に帰っても、家の中だけが世間より五分早い。
帰るたびに、腕時計を直すのが癖になっていました。
けれど、台所の時計だけは、いつも正確でした。
ラジオの時報と秒針が、ぴたりと重なるのです。
一度だけ、理由を聞いたことがあります。
母は菜箸を持ったまま、こちらを見ずに答えました。
「あれは、合ってねぇと困んなだ」
それきりでした。
私はてっきり、煮物か何かの時間を計っているのだろうと思っていました。
台所の時計に、それ以上の意味があるとは、考えもしませんでした。
※
母は、市の学校給食センターの調理員でした。
朝の五時前に家を出て、身の丈ほどある寸胴で二百人分の汁をかき混ぜ、昼過ぎに帰ってくる。
木のへらは、母の腕より長いのです。
手の甲がいつも赤く荒れていて、冬になると指の関節が縦に割れました。
絆創膏を巻いた上から、薄い手袋をして働くのだと言っていました。
父はいません。
私が四つのときに家を出て、それきりです。
母子家庭という言葉を、私は自分の家に当てはめて考えたことがありませんでした。
そういうものだと思っていたからです。
雪の朝、母が玄関の前をスコップで切っていく音が、私の目覚ましでした。
ざく、ざく、という音が、だんだん道のほうへ遠ざかっていく。
その音が聞こえなくなったころに、私は起きるのです。
五分進んだ時計を見て、慌てて走る。
そういう朝が、十二年続きました。
※
帰りのタクシー代を、冗談のふりでせがんだ日
専門学校の二年目、二月の帰省でした。
新庄は雪の底にありました。
屋根から落ちた雪が玄関の高さを越えて、家が白い壁に囲まれているようでした。
私は仙台で一人暮らしをしていて、毎月、母から仕送りをもらっていました。
四万円です。
封筒に入れて、月の初めに郵便で届きました。
宛名の字が、いつも少しだけ右に傾いていました。
三日いて、帰る日の朝のことです。
私は炬燵に足を入れたまま、わざと軽い声で言いました。
「なあ、帰りのタクシー代と、電車賃ちょうだい」
冗談めかしたつもりでした。
甘えているという自覚も、たぶん、少しはありました。
母は流し台の前で手を止めて、振り返りました。
「何言ってんの。うちだってキツキツで暮らしてんだ。自分で払いなさい」
怒鳴り声でした。
台所の低い天井に、その声がぶつかって返ってきました。
母が私に大きな声を出したのは、たぶん、それが二度目か三度目です。
私はかっとなりました。
二十歳の、いちばん薄い皮しか持っていない頃です。
黙って立ち上がって、廊下の電話でタクシーを呼びました。
受話器の向こうの女の人が、住所を二度、確かめました。
「本町の、佐藤さんとこですね」
私は、はい、とだけ答えました。
それから出るまでの三十分ほど、母とは一言も口をききませんでした。
※
その間、母は台所で、水を出しっぱなしにしていました。
ざあざあという音が、ずっと続いていました。
私はそれを、私を無視しているのだと受け取りました。
鞄に着替えを詰めながら、聞こえよがしに音を立てたのを覚えています。
幼稚な意地でした。
※
玄関から走って出てきた母
タクシーが来ました。
雪をよけながら、ゆっくり門の前まで入ってきました。
白い息を吐きながら、運転手さんが後ろのドアを開けてくれました。
私は何も言わずに家を出て、後部座席に乗り込みました。
ドアが閉まって、車が動き出した、そのときです。
玄関のガラス戸が、乱暴に開きました。
母が財布を持って、慌てて外へ出てきました。
雪の上を、つっかけのまま走ってきました。
かかとが半分、外に出ていました。
けれど車はもう出てしまっていて、母は少し行ったところで足を止めました。
私は振り向けませんでした。
ムキになった自分の情けなさと、申し訳なさと、後ろめたさで、首が動かないのです。
膝の上で、鞄の持ち手をずっと握っていました。
指の先が、白くなっていました。
運転手さんは何も言いませんでした。
ラジオもつけませんでした。
ワイパーの音だけが、規則正しく続いていました。
途中の信号で、その人が飴を一つ、肩越しに差し出しました。
「舐めれ」
それだけでした。
私は涙をこらえるのに必死でした。
後味の悪い帰省でした。
※
その日から、私はその話を誰にもしませんでした。
母にも、二度と触れませんでした。
思い出すたびに、胸のあたりが薄く冷えるので、蓋をしていたのだと思います。
仙台で就職して、電話の回数はだんだん減りました。
盆と正月に帰って、二泊して、また出ていく。
母は毎回、駅まで送ると言い、私は毎回、いいよ、と断りました。
※
十四年後、給食センターの通用口に立っていた人
それから十四年が経ちました。
私は仙台の会社を辞めて新庄に戻り、母がいたのと同じ給食センターで働いています。
母は六十を過ぎて腰を悪くし、今は市営住宅で猫と暮らしています。
ある年の十一月、通用口の外に、知らない年配の男の人が立っていました。
紺のジャンパーに、白い髪。
作業ズボンの膝が、片方だけ黒く光っていました。
「ここに、佐藤さんの息子さんが働いてると聞いだもんで」
その人は、佐々木さんと名乗りました。
もう廃業した、個人タクシーの運転手でした。
「あんた、あの雪の日の子だべ」
顔を見て、すぐに分かったと言うのです。
私は自分の耳を疑いました。
十四年前の、たった一度の客です。
「なんで、覚えてるんですか」
佐々木さんは、少し困った顔で笑いました。
「覚えてるも何も。あの晩の運賃はな、四年かかって払われたんだ」
私は、その言葉の意味が、しばらく分かりませんでした。
運賃は、私が駅で払いました。
千八百円と、たしか記憶しています。
※
水を出しっぱなしにしていた理由
佐々木さんの話は、こうでした。
あの日、私が呼んだのは、新庄の小さな組合の配車電話です。
受けたのは、母と同じ町内の、三浦さんという女の人でした。
三浦さんは住所を聞いて、すぐに佐藤さんの家だと分かりました。
そして、車を出す前に、母の家へ電話を折り返したのだそうです。
「お宅、車、頼まれたけども、どこまで行ぐ人だ」と。
母は、駅までだと答えました。
そのあとで、こう言ったそうです。
「悪いけども、駅で降ろさねぇでもらえねぇべか。仙台まで、やってもらえねぇべか」
三浦さんが、料金の話をしました。
新庄から仙台までは、当時で三万を超えます。
母は、少し黙ってから言いました。
「必ず払うから。月に、三千円ずつでもいいべか」
その電話の向こうで、ずっと水の音がしていたのだそうです。
三浦さんは、後になって母に「水、止めろよ」と笑ったといいます。
母は、それには答えなかったそうです。
※
私はそこで、あの朝の台所の音を思い出しました。
ざあざあという、あの音です。
あれは私を無視していたのではなく、声を隠していたのでした。
電話をしていたことにも、私はまるで気づいていませんでした。
受話器は、廊下と台所の両方にあったのです。
私は、二十歳の自分の後頭部を、うしろから見ている気持ちになりました。
※
断られた三万円と、佐々木さんの返事
けれど、その話には続きがありました。
佐々木さんは、仙台までは行かなかったのです。
「駅まででいいって、俺が言ったんだ」
私は意味が分からず、聞き返しました。
「どうしてですか。母がお願いしたのに」
佐々木さんは、通用口の壁に背中を預けて言いました。
「あんたのお母さん、あの年の三月で、ここ、切られてたんだ」
その年、調理の委託先が変わりました。
残る人の名簿に、母の名前はありませんでした。
二月の帰省は、その通知が来た、二週間後だったのです。
母はそれを、誰にも言っていませんでした。
三浦さんだけが、町内会の噂で知っていたのだそうです。
「仙台まで乗せて、三万取ったら、あの人、冬を越せねぇ」
だから駅までにした、と。
「んだけども、あの人は、駅までの分も払わせてくれって言って聞かねぇんだ」
結局、母は駅までの千八百円ではなく、仙台までの三万三千円を払い続けました。
月に三千円ずつ、四年かけて。
「何度も、もういいって言ったんだけどもな」
佐々木さんは、そこで少しだけ笑いました。
「あの人、毎月、給料日の次の日の、同じ時間に来るんだ。一分も違わねぇ」
母は四月から、隣町の弁当屋のパートに入っていました。
そこの給料日が、二十六日だったのだそうです。
「二十七日の、午後三時十分。四年間、ずっとだ」
※
四年目の十二月、最後の三千円を渡したとき、母は封筒を二つ出したそうです。
一つは三千円。
もう一つには、飴が入っていました。
「あの子に、飴くれたでしょう。あれ、返してねがったから」
佐々木さんは、それを財布に入れて持ち歩いていました。
十年も経って、袋の柄はほとんど消えていました。
「返しに来た」
そう言って、私の手のひらに置きました。
※
三浦さんが見ていた四年間
三浦さんにも、後になって話を聞きました。
配車の詰所は、駅の裏の、プレハブの二階でした。
階段が外にあって、冬は手すりが凍ります。
母は毎月、その階段を上ってきたのだそうです。
「あの人、下から声かけねぇんだ」
戸を開けて、封筒を出して、頭を下げて、また下りていく。
お茶を出しても、湯呑みに口をつけないまま帰る月もあったといいます。
「長居したら、こっちが悪ぐ思うべ、って」
雪の日も、風の日も、二十七日の午後三時十分でした。
一度だけ、三浦さんが窓から見ていた日があります。
母は階段を下りきったところで立ち止まり、手袋を外して、両手を口に当てて息を吐いていました。
それから、また手袋をはめて歩いていった。
「あれ見だら、もう、いいですよって言えねぐなった」
三浦さんは、そう言って笑いました。
笑いながら、目のふちを人差し指で拭いていました。
※
その四年のあいだ、私は仙台で二回引っ越しました。
友達と旅行にも行きましたし、安い時計を一つ買いました。
母には、月に一度、短い電話をかけました。
「元気か」「元気だ」
そのくらいの会話です。
いま思えば、私が電話をかけていたのは、たいてい月の初めでした。
仕送りが届いた日です。
二十七日の午後三時十分に、母が何をしていたか、私は一度も想像したことがありませんでした。
※
高校の弁当と、割れた指
ひとつ、思い出したことがあります。
高校三年の冬、私の弁当箱の蓋に、赤い点がついていた日がありました。
母の指の、割れたところから出たものでした。
私はそれを、教室で見つけて、慌ててティッシュで拭きました。
誰かに見られたら恥ずかしいと思ったのです。
家に帰って、母に言いました。
「絆創膏、ちゃんとしてよ」
母は、うん、と言いました。
それだけでした。
翌日から、弁当の蓋にラップが一枚、余分に巻いてありました。
指の絆創膏は、増えていませんでした。
母が変えたのは、自分の手のほうではなく、私が目にする側だったのです。
あの人は、ずっとそういう直し方をする人でした。
※
台所の時計だけが正確だった理由
その日、私は母の市営住宅へ行きました。
玄関に、実家から持ってきた掛け時計が下がっていました。
やはり五分進んでいました。
台所の壁には、あの白い丸い時計がありました。
秒針が、ラジオの時報とぴたりと重なりました。
私は、湯呑みを両手で包んだまま、聞きました。
「なんで、台所のだけ、合ってるの」
母は、猫の背中を撫でながら、少し考えてから言いました。
「営業所さ、着く時間、間違えらんねがったから」
それだけでした。
言い訳も、恩着せがましさも、一切ありませんでした。
私は、湯呑みの縁をずっと見ていました。
台所の時計だけが正確だったのは、電話をかける時刻と、封筒を持って行く時刻を、一分も間違えられなかったからでした。
家じゅうの針を進めたのは、私を走らせるためです。
台所の針だけを合わせたのは、自分が走らないためでした。
遅れて行けば、佐々木さんを待たせてしまう。
待たせれば、次から受け取ってもらえなくなるかもしれない。
母はたぶん、そこまで考えていました。
※
母は最後に、こう付け足しました。
「あんた、あの日、振り向かねがったべ」
私は、返す言葉がありませんでした。
「よがった。振り向かれたら、渡してしまうところだった」
財布の中には、三月からの暮らしの分しか入っていなかったのだそうです。
それでも母は、走って出てきました。
渡すつもりで走って、渡せないと知っていて走ったのです。
私はそこで初めて、あの朝の母の走り方の意味が分かりました。
あれは、間に合わないように走っていたのでした。
※
いま、私が進めている時計
あの帰省を、私はずっと「後味の悪い帰省」と呼んでいました。
いまは、少し違う名前で呼んでいます。
私が知らないうちに、誰かが四年かけて払っていた、その始まりの日です。
佐々木さんは、翌年の春に亡くなりました。
お通夜の受付で、三浦さんに会いました。
三浦さんは、私の顔を見るなり、目をぬぐって言いました。
「あんた、あの子だべ。よぐ、帰ってきたな」
私は、頭を下げることしかできませんでした。
帰り道、雪がまた降りはじめていました。
※
いま、私の家の時計は、五分進んでいます。
玄関も、居間も、寝室も。
娘が二人いて、二人とも朝が起きられないからです。
けれど、台所の時計だけは、きっちり合わせてあります。
合わせておかないと困る用事は、まだ何もありません。
それでも私は、その針を、毎月一度、ラジオの時報で直しています。
いつか、誰かのために時刻を間違えられない日が来るかもしれない。
そのときに、慌てないためです。
母は今年、七十四になりました。
猫は、二代目です。
あの飴は、まだ舐めずに、台所の時計の下に置いてあります。
あの飴の袋を、私はときどき指でつまんでみます。
中身はもう固まっていて、かたかたとも鳴りません。
それでも捨てられずにいるのは、あれが母から佐々木さんへ、佐々木さんから私へと、十四年かけて渡ってきたものだからです。
渡した人は、二人とも、渡したことを口にしませんでした。
受け取った私だけが、いま、こうして書いています。
書くことしか、返す方法を思いつかないのです。
※
同じように、言葉にされないまま渡された親心をたどった話として、母が片手で作り続けた弁当の話と、四歳の娘が書いた手紙の話も、あわせて読んでいただけたら嬉しく思います。
あの朝、私が振り向かなかったことを、いまは責めずにいます。
振り向かなかったから、母は四年かけて、私に何も知らせずにいられたのです。
知らせずにいられたことが、たぶん、母の望みでした。
読んでくださって、ありがとうございました。