
志村さんは、プレス機の腹に手を当てて、目を閉じた。
「目で追うより、耳で聞いたほうが間違いがない。だから、読み合わせは新人の役目だ。」
入社した朝、志村さんは私にそう言った。
それが、この工場の朝の読み合わせだった。
4月の始業前の工場は、吐く息が白かった。
朝7時50分。始業の10分前。
プレス機の前の台に、作業指示書が1枚だけ置かれている。
A4が1枚。品番と寸法と手順が、小さな字でびっしり並んでいる。
それを声に出して読むのが、私の最初の仕事になった。
「じゃあ、頼む」
私は紙を両手で持った。指先が冷たくて、紙の端が小さく震えた。
「本日の型替え。品番4172。上型、下型とも前日の点検済み。取り付けボルトは4本──」
自分の声が、がらんとした工場に響いた。
切削油の甘い匂いがした。足の裏から、遠くのプレスの鼓動が伝わってきた。
読み終えるまで、志村さんは身じろぎもしなかった。
「よし」
それだけ言って、軍手をはめる。
毎朝、それだけだった。
最初の週、私は読み合わせを儀式か何かだと思っていた。
運動会の選手宣誓みたいに、背筋を伸ばして読んだ。
「白石、声がでかい」
先に来ていた浅野さんが、石油ストーブの前で笑った。
28歳の浅野さんは、この工場で私の次に若い。
「志村さん、耳が遠いんだよ。でかいくらいでちょうどいい」
「遠くない」
志村さんは、目を閉じたまま言った。
「聞こえすぎるくらいだ」
燕の町には、金属を叩く工場が数えきれないほどある。
うちは、台所用品の部品を打ち抜く小さな工場だった。
工場には社員が11人いた。
社長の大川さんは、朝のうちだけ事務所で新聞を広げている。
昼休みには、全員がストーブを囲んで、カップの味噌汁をすする。
志村さんは、この工場に47年いた人だ。
二年後の3月で辞めることは、私が入社した日にはもう決まっていた。
私は24歳。前の職場は、駅ビルの雑貨店だった。
金属のことも機械のことも、何も知らなかった。
知らないまま、毎朝、声だけを出した。
その二年間の朝が何だったのか。私が知ったのは、志村さんの最後の朝だった。
12.05の読み間違い
入社して2か月が過ぎた頃、私は一度だけ大きな読み間違いをした。
その朝の指示書には、板厚の公差が載っていた。
「板厚、12.05。許容差、プラスマイナス0.02」
そう読んだつもりだった。
けれど実際には、点のあとのゼロを一つ飛ばして、「じゅうに、てん、ご」と読んでいた。
「ちがう」
志村さんは、目を開けなかった。
「じゅうに、てん、れい、ご。ゼロが入る」
私は慌てて紙を見直した。
確かに、点の右にゼロがあった。
「すみません。見落としました」
「見落とすのはいい。声に出して間違えるのが、新人のいいところだ」
志村さんは、そう言って軍手をはめた。
私は感心した。
紙も見ずに、数字の間違いを言い当てるなんて。
47年同じ品番を触ってきた人は、数字が体に入っているのだと思った。
昼休み、浅野さんにその話をすると、浅野さんは味噌汁を吹き出しそうになった。
「志村さんの記憶力は、化け物だよ」
「そんなに?」
「この工場の品番は、全部頭に入ってる。注文が来る前に、来週の段取りを当てる」
「へえ」
「そのくせ、機械には疎い。携帯はガラケーで、電話しかしない」
「メールは?」
「打てない。年賀状も、毎年印刷屋まかせだ」
浅野さんは笑った。
私も笑った。
そこに何かが隠れているとは、少しも思わなかった。
指示書の一番下には、確認欄がある。
読み合わせが終わると、私が日付と担当を鉛筆で書き、志村さんが判を押す。
志村さんの判子は、象牙色の古い認印だった。
角が丸く磨り減っていて、押すたびに「志村」の字が少しずつ滲んだ。
「新しいのを作らないんですか」
「これでいい」
志村さんは、それ以上、何も言わなかった。
火曜と金曜だけ、志村さんは終業のチャイムと同時に帰った。
「火曜と金曜は、碁だ」
そう言って、ロッカーの鍵をかちりと鳴らした。
五目並べしか知らない私は、碁の話で盛り上がる志村さんの背中を、なんとなく羨ましく見送った。
入社して半年が過ぎた秋、私は初めて一人で型替えを任された。
志村さんは、少し離れたところで腕を組んでいた。
金型を台に載せ、ボルトを回し、位置を合わせる。
ところが、試し打ちの音が、いつもと違った。
カン、と乾いた音。いつもなら、どすん、と腹に響くはずだった。
「ずれてる」
志村さんは近づいてきて、金型の縁を親指でなぞった。
「0.1ミリ、左だ」
「見て分かるんですか」
「見ても分からん。手が、そう言ってる」
志村さんは、私の手を取って、金型の縁に当てた。
大きくてざらざらした手のひらに包まれて、私の指が、縁のわずかな段差に触れた。
「ほら」
「……あ」
たしかに、そこに、髪の毛一本ぶんの段差があった。
ロッカーの上の老眼鏡
志村さんのロッカーの上には、老眼鏡のケースが置いてあった。
老眼鏡はいつもロッカーの上に置いたままだった。
毎朝、同じ場所に、同じ向きで。
「また忘れてるよ、志村さん」
浅野さんが言うと、志村さんは顔をしかめた。
「かけると頭が痛くなる」
「じゃあなんで買ったんですか」
「娘が買ってきた」
それで、話は終わりだった。
志村さんは、そういう人だった。
言い訳が下手で、短くて、少しだけ不機嫌そうに見える。
昼休みには、ちょっとした勝負があった。
カップ味噌汁の具を、蓋を開ける前に当てるのだ。
志村さんは、湯気の匂いだけで、わかめか豆腐か、あさりかを言い当てた。
「ずるい」
「耳と鼻は、俺の商売道具だ」
そう言って、勝ち誇ったように味噌汁をすすった。
けれど手は、驚くほど正直だった。
型替えの日、志村さんは金型の位置を、指の腹で確かめた。
ミクロンの世界を、軍手の指先の穴から出た親指一本で探る。
「見るな。触れ」
「見ないと、分かりません」
「見ても分からん。手は目で盗め。字は耳で聞け」
志村さんの口癖は、いつも二つで一組だった。
私は意味もわからず、その言葉をノートに書いた。
手順をスマホで撮って、マニュアルにしようと言ったこともある。
「いらん」
即答だった。
「紙に書くと、人は紙を見る。紙を見ている間、手が止まる」
一理あると思った。
いまなら、少しだけ別の理由があったと分かる。
12月、事務所で社長が年賀状の宛名を書いていた。
「志村さんも書きますか」
私は気を利かせたつもりで言った。
「取引先の分、私、手伝いますよ。字、まあまあ綺麗なので」
「いい」
志村さんは、いつもより少し早く答えた。
「うちは、印刷屋まかせだ」
「でも、お得意さんには手書きのほうが──」
「白石」
「はい」
「ありがとうな」
礼を言われる理由が分からなくて、私はきょとんとした。
志村さんは、もう背中を向けて、ロッカーの鍵を鳴らしていた。
梅雨の朝は、工場のなかが湿って重かった。
その日の私は、前の晩に友達と飲みすぎて、頭が割れそうだった。
指示書を読む声が、自分でもおかしいほど低くなった。
「本日の型替え。品番2208」
「白石」
「はい」
「落語みたいになってる」
「すみません」
「いや、続けろ。そのままでいい」
私はやけになって、落語家の口調で最後まで読んだ。
「え〜、取り付けボルトは4本、ご用心ご用心」
工場に、浅野さんの笑い声が響いた。
志村さんも目を閉じたまま、肩を震わせていた。
「でかした」
読み終わると、志村さんは笑い混じりに言った。
「今日の朝の読み合わせが、一番よく入った」
褒められたのか、からかわれたのか。
私は赤い顔のまま、指示書の端を折りたたんだ。
あの朝、志村さんは、いつもより少しだけ長く目を閉じていた。
機械の声は早口だ
入社して1年が過ぎた11月に、私は喉を壊した。
声がかすれて、指示書を読むと咳が出た。
その朝、私はスマホを取り出した。
前の晩に指示書を写真に撮って、読み上げアプリにかけておいたのだ。
「今日は、これでいきましょう」
再生ボタンを押すと、平らな女性の声が工場に流れた。
「本日の型替え、ヒンバン、4172──」
「止めろ」
志村さんが、目を開けた。
「どうしてですか。内容は同じです」
「同じじゃない」
「機械のほうが正確ですよ。噛まないし、咳もしないし」
「機械の声は早口だ。間がない」
志村さんは静かに言った。
「間がないと、耳に入らん」
私は、少しむっとした。
2年近く、毎朝声を出してきた。
それが、昨日覚えたばかりのアプリに負けるような言い方をされたのだと思った。
「間があるかないかなんて、そんなに大事ですか」
自分でも、声が尖っているのが分かった。
「内容は全部、紙にあるんです。だったら、志村さんが自分で読めばいいじゃないですか」
言った瞬間、工場が静かになった。
ストーブの上で、やかんが小さく鳴った。
志村さんは、何も言わなかった。
3秒。もっと長かったかもしれない。
「そうだな」
志村さんは、そう言って軍手をはめた。
怒っていなかった。それが、かえって居心地が悪かった。
翌朝、私のロッカーの上に、のど飴の袋が一つ置いてあった。
黒糖の、古い味のやつだった。
メモはなかった。
私は小さく頭を下げて、飴を口に入れた。
その日の朝の読み合わせは、いつもより少しだけ遅く始まった。
かすれた声で読む私に、志村さんは目を閉じたまま言った。
「句点で息をしろ。無理に続けるな」
「はい」
「間があるほうが、耳に入る」
昨日のアプリの話を、志村さんはそれ以上、蒸し返さなかった。
あの沈黙の長さを、私はその時、志村さんの怒りの長さだと思っていた。
2月の火曜日、私は高熱を出して、初めて仕事を休んだ。
翌朝、出勤すると、工場の様子が少し違った。
金型が一つだけ、新品のように光っていた。
台の上には、指示書の束が角をそろえて積まれていた。
どの紙にも、折り目ひとつなかった。
「昨日、午前中はライン止まったよ」
浅野さんが小声で言った。
「志村さんが『今日は金型の機嫌が悪い』って言って、一日じゅう磨いてた」
「え、私のせいですか」
「いや。志村さんが、そう言い張っただけ」
志村さんが、事務所から出てきた。
「熱は」
「下がりました。すみません、休んで」
「そうか」
志村さんは、私の顔を見ずに言った。
「明日からも頼む」
最後の朝の読み合わせ
最後の1週間、志村さんは、ずいぶん無口になった。
昼休みの味噌汁も、半分しか飲まなかった。
火曜と金曜は、あいかわらず終業のチャイムと同時に帰っていった。
それでも朝の読み合わせだけは、一日も欠かさなかった。
3月の最終週の月曜日、大川社長が全員を集めた。
「志村さんの後任の型替え担当は、白石にお願いする」
私は耳を疑った。
入社して2年。手の技術では、浅野さんのほうがずっと上だ。
「私には無理です。読んでいただけですから」
思わず言うと、志村さんが、ふっと息で笑った。
「読んでいただけ、か。それが一番むずかしいんだ」
意味は分からなかった。
けれど、反論する言葉も出てこなかった。
最後の日は、3月31日だった。
前の夜に雨が降って、朝の工場は水の匂いがした。
窓から斜めに入る光のなかを、鉄粉がきらきら漂っている。
朝7時50分。
プレス機の前の台に、指示書が1枚置かれていた。
いつもと同じA4。
ただ、一番下の担当欄だけが違った。
いつもは私が鉛筆で書き込む欄に、事務の人が前日に打ち込んだ、明朝体の名前が入っている。
「担当 白石遥」
志村さんは、プレス機の腹に手を当てた。
目を閉じかけて、やめた。
「白石」
「はい」
「今日は、担当のところだけ、俺に読ませてくれ」
私は頷いて、指示書を読み始めた。
品番、寸法、手順、ボルトの数。
最後の一行を残して、私は紙を差し出した。
志村さんは、その紙を、両手で受け取った。
2年間、一度も手に取らなかった紙を、初めて自分の手で持った。
そして初めて、目を開けた。
その目は、紙の上の一点だけを、じっと見ていた。
太い指が、担当欄の下に添えられる。
爪の根元に、油が黒く染みていた。
「たん」
志村さんの唇が動いた。
「とう」
一字ずつ、確かめるように。小学生が、教科書を読むように。
「しら、いし」
指が、ゆっくり右へ滑る。
「は、る、か」
読み終えて、志村さんは息を吐いた。
「よし」
紙を折りたたみ、私に返した。
私は声が出なかった。
目で追うより、耳で聞いたほうが間違いがない。
朝の読み合わせは、新人を鍛えるための決まりではなかった。
志村さんは、見ていなかったのではない。見えなかったのでもない。
読めなかったのだ。
12.05のゼロを言い当てたのは、見ていたからではなく、47年聞き続けた数字だったからだ。
老眼鏡は、かけても字がそこにあるだけだった。
自分で読めばいいじゃないですか、と私は言った。
あの3秒の沈黙の重さが、いまごろになって、喉の奥に落ちてきた。
「なんて顔だ」
志村さんが笑った。
「読み合わせは終わりだ。さあ、型替えだ」
いつもと同じ声だった。
私は洟をすすって、軍手をはめた。
判子のない名前
その日の型替えは、2年間で一番うまくいった。
金型は一度で収まった。浅野さんが親指を立てた。
昼休み、浅野さんが味噌汁のカップを持って、私の隣に座った。
「知ってたよ、俺」
「え」
「去年、たまたま見ちまってさ。志村さんに口止めされた」
浅野さんは、カップの縁を見たまま言った。
「白石には言うな。あいつは今、声に出すのが楽しくなってきたところだ、って」
「……なんですか、それ」
「いや。俺もそう思った」
浅野さんは笑いながら、鼻をすすった。
夕方、事務所で小さな送別会があった。
大川社長が花束を渡し、浅野さんが缶コーヒーで乾杯の音頭を取った。
志村さんは短く言った。
「世話になった。以上」
それで全員が笑った。
17時を過ぎて、工場は静かになった。
志村さんのロッカーは、空っぽだった。
その上に、老眼鏡のケースだけが残っていた。
開けると、レンズには、指紋ひとつついていなかった。
窓の外が、夕焼けで赤かった。
石油ストーブの芯が、ちり、ちりと小さく鳴っている。
「白石」
志村さんが、事務所の机の前に立っていた。
「日報、貸してくれ」
日報には、担当欄がある。
いつもは私が鉛筆で名前を書いて、志村さんが判を押す欄だ。
私が日報を渡すと、志村さんは、短くなった鉛筆を握った。
軍手を外した手は、思ったより小さかった。
「白」
一画目に、長い時間がかかった。
「石」
線が震えて、ところどころで紙が鳴った。
「遥」
辶のところで、鉛筆が止まった。
志村さんは、辶の波をやり直した。
2度、3度。
紙の上で、細い線がいくつも重なった。
書き終えるまで、5分以上かかった。
それは、定規で引いたように硬くて、辶だけが大きく波打つ、不格好な字だった。
志村さんは、日報の確認欄に、あの丸くなった判子を押した。
かち、と小さな音がした。
志村さんの名前は、47年、判子が書いてきた。私の名前には、判子がなかった。
志村さんは、鉛筆を置いて肩を回した。
「辶が、いちばん難しかった」
「……いつから」
「2年前の4月からだ」
それだけ言って、志村さんは作業着の埃を払った。
火曜と金曜は、碁ではなかった。
私は何も言えず、日報の上の自分の名前を、ずっと見ていた。
志村さんは、18時に工場を出た。
最後に一度だけ、プレス機の腹に手を当てて、振り返らずに歩いていった。
4月になって、工場に19歳の新人が入った。
名札に「田村」とある。去年まで高校生だった青年は、指示書を渡すと、緊張で手が震えていた。
朝7時50分。
私はプレス機の腹に手を当てた。
「目で追うより、耳で聞いたほうが間違いがない。だから、読み合わせは新人の役目だ。」
田村くんが、紙を両手で持った。
「本日の型替え。品番4172」
私は新人の隣に座り、志村さんと同じように目を閉じた。