
水曜の午前三時十分になると、窓際の端の席に、鮭のおにぎりがひとつ置かれる。
置くのは、作業着の男の人だ。
髪に白いものが混じっていて、爪の間にはいつも油の黒が残っている。
国道沿いのこのコンビニで、僕は夜勤に入っている。
大学院の研究費の足しにするための、週に四日の夜だ。
その人が来るのは、水曜だけだった。
自動ドアのチャイムが鳴り、迷わず棚へ向かう。
鮭のおにぎりを二つ取って、レジに置く。
「温めなくていい」
毎回、同じ声で同じことを言う。
会計が済むと、彼は窓際のカウンターへ歩いていく。
カウンター席は三つ。
駐車場に向いたガラスの前に、丸椅子が並んでいる。
彼は端の席に、おにぎりをひとつだけ置く。
自分は二つ離れた席に座って、残りのひとつを食べる。
置かれたおにぎりには、誰も手を付けない。
彼は食べ終えると、お茶を半分だけ飲んで、席を立つ。
置いたおにぎりに向かって、小さく頷く。
それから、何も言わずに帰っていく。
窓際の端の席には、誰も座らない。
座っているように見える夜もあった。
けれどそれは、駐車場の外灯が椅子の背に落とす影だった。
僕は、あの席を供え物だと思っていた。
もう会えない人に、毎週ひとつ。
そういう習慣を持つ人は、案外いる。
墓参りの代わりに、好物を置いて、一緒に食べるふりをする。
だから僕は、何も訊かなかった。
訊いてはいけないことだと、勝手に決めていた。
店長の戸倉さんは昼勤で、僕とは引き継ぎの時間にしか会わない。
背が低く、腰の曲がりかけた人だ。
夜勤に入った最初の水曜、戸倉さんは僕にこう言った。
「三時すぎに、作業着のお客さんが来る。窓際の端の席に何か置かれたら、朝までそのままにして、六時前に下げといてくれ」
「触らなくていいんですか」
「朝まではな。六時前に、ちゃんと下げてくれればいい」
理由は言わなかった。
僕も訊かなかった。
窓際の端の席
その夜から、僕の水曜は決まった形になった。
午前二時に品出しを終える。
二時四十分に揚げ物のケースを洗う。
三時十分、自動ドアのチャイムが鳴る。
作業着の男の人は、今日も鮭を二つ取る。
僕はバーコードを読み取りながら、手元だけを見る。
顔を見たら、何か訊いてしまいそうだったからだ。
「温めなくていい」
「はい」
「ありがとう」
それだけの会話が、三か月続いた。
五時五十分を過ぎると、僕は端の席へ向かう。
ビニールの包みは、外灯の冷えを吸って、指先に冷たい。
海苔はもう、湿り気を帯びている。
僕は両手でおにぎりを持ち、一度だけ頭を下げた。
それから、廃棄の袋の底に、そっと入れた。
廃棄の袋は、朝六時の前にまとめる決まりだった。
下げるというのは、そういうことだと思っていた。
食べ物を捨てるのは、いつも胸が重かった。
けれど、供えられたものを口にする方が、ずっと失礼だと思った。
その頃の僕は、水曜の夕方から何も食べていなかった。
奨学金の返済と、研究室の学会費が重なる週だったからだ。
食堂の定食は、僕には高い。
店の廃棄は、規則で持ち帰れない。
だから水曜の夜は、水を飲んで朝まで立っていた。
午前四時を過ぎると、腹が鳴る。
そのたびにレジの下へしゃがんで、音をごまかした。
揚げ物のケースの油の匂いが、やけに甘く鼻に残った。
窓際の端の席では、鮭のおにぎりが、白い包みのまま夜を越していく。
僕はその横を、何度も通った。
通るたびに、見ないふりをした。
ある雨の晩、若い女性客が入ってきた。
濡れた傘を傘立てに差して、窓際のカウンターを見回す。
「ここ、座ってもいいですか」
彼女が指したのは、端の席だった。
鮭のおにぎりは、そこに置かれたままだ。
「すみません、その席は」
僕は、自分でも驚くほど早口で言った。
「先約が、いるんです」
彼女は怪訝な顔をして、二つ隣の席に座った。
スマートフォンの明かりが、彼女の頬を青く照らす。
僕は手の甲で、額の汗をぬぐった。
供え物を守ったつもりだった。
それが正しいことだと、少しも疑わなかった。
ある朝、四時半を過ぎたころ、胃が痛いほど鳴った。
僕は気づくと、端の席の前に立っていた。
包みの角が、外灯を受けて白く光っている。
指先が、おにぎりの手前で止まった。
海苔の匂いが、かすかに届く。
唾を飲み込む音が、静かな店内にやけに大きく響いた。
これは、僕のものじゃない。
そう言い聞かせて、一歩下がった。
腹の音を、もう一度、レジの下でごまかした。
六時に、戸倉さんが出勤してくる。
水曜の夜は、飯は食ったのか、と戸倉さんは必ず訊いた。
「大丈夫です」
「大丈夫、か」
戸倉さんは眉を寄せて、それ以上は訊かなかった。
代わりに、僕の背中を、ぽん、と一度だけ叩いた。
掌が大きくて、少し湿っていた。
僕はその意味を、考えないようにしていた。
水曜の廃棄袋
その一週前の水曜は、雨だった。
チャイムが鳴ったとき、柴田さんの作業着は肩まで濡れていた。
床に落ちた水の筋を、僕はモップで追いかけた。
「すまない」
「いえ。これ、使ってください」
僕は、バックヤードからタオルを持ってきた。
柴田さんは、受け取るのを一瞬ためらった。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとう」
いつもと同じ言葉なのに、その夜は少しだけ長く聞こえた。
タオルからは、洗剤と機械油の匂いがした。
返されたとき、湿った布の端が、きちんと四つに畳まれていた。
僕はその畳み方が、なぜか気に入っていた。
十三回目の水曜、チャイムは三時十分に鳴らなかった。
三時二十分になっても、駐車場に車は入ってこない。
三時三十分、僕は端の席の前に立って、空いた丸椅子を眺めていた。
今日は、来ないのかもしれない。
そう思ったとき、ガラスの向こうにヘッドライトが滑り込んだ。
作業着の男の人が、いつもより足早に入ってきた。
「遅くなった」
「いえ」
彼はいつものように、鮭を二つ取った。
レジに置く手が、わずかに震えていた。
「温めなくていい」
「はい」
バーコードを読むと、いつもと同じ小さな電子音が鳴った。
会計を済ませた彼は、端の席へ行かなかった。
レジの前に立ったまま、僕の顔を見た。
初めて、目が合った。
目の下に、濃い影があった。
「戸倉が、倒れた」
言葉が、すぐには頭に入らなかった。
「店長が、ですか」
「火曜の夜に。いまは病院にいる。命に別状はない。ただ、しばらく店には出られない」
僕は、レジの縁を握った。
冷蔵ケースが、低い音で唸っていた。
僕は、レジの奥に貼られたシフト表を、無意識に見た。
水曜の欄には、戸倉さんの丸い字で『小野』とだけ書かれている。
その字が、急に遠く見えた。
柴田さんの指が、手の中の紙の端を、何度も折り返している。
紙は、すでに柔らかくなっていた。
六時に出勤してくる背の低い人の姿が、浮かんだ。
水曜の夜、飯は食ったのかと訊く声が、耳の奥で鳴った。
「あいつから、伝言を預かってきた」
彼は作業着のポケットから、折り畳んだ紙を取り出した。
けれど、渡す前に、手を止めた。
「その前に、ひとつ訊いていいか」
「はい」
「あの席に置いた分は、ちゃんと食べてくれているか」
僕は、声が出なかった。
駐車場の外灯が、ガラスの向こうで細かく揺れていた。
店の外で、風が看板の紐を鳴らしていた。
柴田さんの作業着の袖口は、油で光っていた。
その袖口が、僕の目の高さで、ゆっくり動いた。
「あれは、供え物ですよね」
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「もう会えない方の席だと、戸倉さんから聞いて」
「聞いて、いない」
彼は、ゆっくり首を横に振った。
「あいつは、そんなこと、言ってない」
お下がりの意味
彼は、端の席に腰を下ろした。
僕も、気づくと隣の丸椅子に座っていた。
自分で座ったのは、初めてだった。
丸椅子の座面は、思ったより低くて、冷たかった。
「俺は柴田という。戸倉とは、高校の同級生だ」
彼は、おにぎりの包みを指でなぞった。
「三十年前、俺の勤め先が潰れた。何も食えない冬があった。そのとき、あいつが店の裏口に、毎晩、売れ残りの弁当を置いてくれた」
「戸倉さんが」
「礼を言ったら、借りは返さなくていい、と言われた。回せばいい、と」
「あいつは、裏口の段ボールの上に、弁当を置いた。チャイムも鳴らさず、声もかけず」
柴田さんは、遠くを見る目で言った。
「湯気はとうに消えていた。唐揚げの衣が冷えて、すこし固かった。それでも、あんなにうまいものは、後にも先にもない」
僕は、冷えた衣の固さを、舌の上に思い浮かべた。
柴田さんは、板金工場で働いているという。
水曜は、夜勤の前に取れる短い休みだった。
「仕事の前にあの席で食う鮭が、俺の一週間の区切りなんだ」
区切り。
僕にとっての水曜は、水を飲んで耐える夜でしかなかった。
柴田さんは、そこで小さく笑った。
「それから三十年、返しそびれたままだ。だから去年、あいつに頼まれたとき、断れなかった」
「頼まれた、というのは」
「夜勤に、金のない学生が入った。水曜は何も食わずに立っている。金を渡しても、受け取る子じゃない。お前、客として来て、あの席に置いてやってくれないか、と」
僕の喉が、きゅっと鳴った。
「あの席は、供え物じゃない」
「じゃあ」
「君の席だ。君が朝まで食べられるように、あいつが、俺に置かせていた」
六時前に下げといてくれ、という戸倉さんの声が、耳の奥でほどけた。
下げる。
お下がりをいただく、の、下げる。
僕は、その言葉を、廃棄の意味に取っていた。
十二個の鮭おにぎりは、六時前の廃棄の袋の底にあった。
一個ずつ、僕が頭を下げて、そっと沈めた。
手が、膝の上で震えはじめた。
「俺は、君に言うなと、あいつに言われた」
柴田さんは、膝の上の紙を、僕に差し出した。
「受け取れない子だから、気づくまで言うなと」
紙には、戸倉さんの癖のある字が並んでいた。
『小野君へ。水曜の夜は飯を抜くと聞いた。柴田の鮭は、お前が食え。うまいぞ。借りは返さなくていい。回してくれ』
字の端が、少しだけ滲んでいた。
僕は、端の席に置かれたおにぎりを、両手で取った。
包みを開けると、海苔が、しっとりと歯に張りついた。
ひと口目は、塩が強かった。
ふた口目で、鮭の脂が、舌の奥に広がった。
冷たい米の粒が、喉のところでつかえて、熱を持った。
三か月分の水曜が、全部いっぺんに胃に落ちてきた。
僕が十二回捨てた鮭おにぎりは、供え物ではなく、僕の夜食だった。
柴田さんは何も言わず、自分の分のおにぎりを、黙って食べていた。
外では、始発前の国道を、トラックが一台だけ通り過ぎた。
三時十分の隣
翌週の水曜、僕は三時に、端の席の前に立っていた。
ガラスの向こうに、ヘッドライトが入ってくる。
チャイムが鳴る。
柴田さんは、棚で鮭を二つ取って、レジに置いた。
今日は、顔を見て会計をした。
「温めなくていい」
「はい」
「ありがとう」
「こちらこそ」
言い慣れない返事に、二人で少し笑った。
僕は自分の財布から、三百円を出した。
柴田さんは受け取らず、僕のレジの引き出しに、そのまま戻した。
「借りは回すものだ」
「回し方を、まだ知りません」
「そのうち分かる。戸倉も、最初は知らなかった」
来週には、戸倉さんも退院するらしい。
その朝、僕は水の代わりに、あたたかいお茶を二つ買った。
窓際の端の席に、僕は初めて座った。
隣の丸椅子には、柴田さんが腰を下ろした。
空がゆっくり白くなる。
鮭の味は、前の週より、少しだけ塩が控えめに感じられた。