
父が逝って三ヶ月が経ったとき、ようやく遺品整理に取り掛かる気になった。
商店街の外れにある実家は、俺が独立してからも父が一人で守り続けた古い家だ。
父の店は、俺が子どもの頃から続く小さな時計屋だった。
玄関を開けると、柱時計の音がした。
止まっているはずの柱時計の振り子が、ゆっくりと揺れていた。
誰もいないはずの家で、その音だけが廊下に響いている。
父が生前に巻いておいたのだろう。そう自分に言い聞かせて、俺は奥へ進んだ。
この家で見つけることになる壊れた眼鏡のことを、そのときの俺はまだ知らなかった。
父に「時計屋でも継がんか」と言われたのは、一度きりだ。
中学の卒業式が終わった夜のことだった。
父は酒を飲まない人間だったが、その夜だけは缶ビールを一本開けていた。
いつもより少し赤い顔で、俺の隣に座って言った。
「継がんでもいいんやが、一応聞いとかないとな」
俺は、その言葉を流した。
時計を直す仕事は好きだった。けれど、商店街の小さな店に一生を捧げる気にはなれなかった。
「考えとくわ」
そう答えて、俺は部屋に戻った。
父は、それ以上何も言わなかった。
その代わり、俺は隣町で時計修理士として独立した。
修理専門で、新品は扱わない。壊れたものを直す仕事だ。
父から学んだ技術で、飯を食っている。
父が倒れたのは、去年の秋口のことだった。
病院から連絡が来たとき、父が入院して三週間が過ぎていたことを、俺は初めて知った。
「心配させたくなかったから」
病室のベッドで、父は笑いながら言った。
骨と皮になった手で、俺の手を軽く握りながら。
叱ろうとしたが、できなかった。
父の目が、俺を見て細まったからだ。
子どもの頃、俺が何かを仕上げるたびに、父はあの目をした。
誇らしそうで、でも口には出さない目だ。
三週間後に父は逝った。
俺は最後まで、なぜもっと早く知らせなかったのかを聞けなかった。
大切なものの箱
居間の押し入れを開けると、段ボール箱が三つ積まれていた。
父の几帳面な字で「大切なもの」とラベルが貼られている。
その下に「捨てないこと」と、わざわざ線まで引いてあった。
押し入れの奥から、ほのかに防虫剤の匂いがした。
箱の角は丁寧にガムテープで補強されていて、父の手の癖がそのまま残っている。
俺は箱の前に正座をして、背筋を伸ばした。
父の「大切なもの」を、立ったまま触る気にはなれなかった。
一番上の箱を開けると、見覚えのない眼鏡ケースが入っていた。
中には、セロハンテープで補修された眼鏡が収まっていた。
右のテンプルがひび割れ、テープが何重にも巻かれている。
かなり古い補修だ。テープは日焼けして、飴色に変わっていた。
父の普段使いの眼鏡は、茶の間の引き出しにあった。
どうして、この壊れた眼鏡が、大切なものの箱に入っているのか。
俺は眼鏡を手に取り、しばらく眺めた。
修理士の目で見れば、素人仕事だとすぐに分かる。
丁寧にやろうとした跡はあるが、接着剤を使った形跡がない。
俺なら三十分で直せる程度の破損だ。
なぜ父は、俺に頼まなかったのか。
あの卒業式の夜の話を、まだどこかで引きずっていたのだろうか。
息子の店に客として来ることへの、遠慮のようなものがあったのかもしれない。
俺は壊れた眼鏡を、窓の光にかざしてみた。
レンズには、細かな傷がいくつもついている。
毎日、毎日、同じ手で拭かれてきた傷だ。
鼻パッドは黄ばんで、片方が欠けていた。
それでも父は、この壊れた眼鏡で、細かい部品を見ていたのだろう。
時計屋の眼鏡は、飾りではなく道具だ。
ピンセットの先の、髪の毛ほどの歯車を見るための目だ。
その目を、父は七年のあいだ、テープで継ぎながら使い続けていた。
俺は思わず、自分の仕事用のルーペを握りしめた。
同じ道具に頼って生きてきたのに、俺たちはなぜこんなに遠かったのだろう。
眼鏡ケースの底には、小さなノートが折り畳まれて入っていた。
覚え書きの七年
表紙には、父の字で「覚え書き」とあった。
開くと、日付と短い文が、毎日一行か二行ずつ続いている。
最初の日付は、七年前だった。
「眼鏡が壊れた。龍也に頼めばすぐ直してくれるだろうが、独立したばかりで忙しいだろう。自分で補修した。思ったより手こずった。明日からはこれで仕事をする」
次のページには、こうあった。
「腰が少し痛む。湿布で誤魔化している。龍也には言わないでおく。今日の晩飯はサバの味噌煮にした。酒の量が合っているのか、よく分からない」
天気のこと、商店街の顔なじみとの立ち話。
俺の誕生日に電話をかけようか迷った夜のこと。
どのページにも、俺の名前が出てきた。
五年前の項目で、俺の手が止まった。
「胃の調子がよくない。病院で検査を受けることにした。龍也には言わない」
その次の頁。
「結果が出た。しばらく通院とのこと。先生の顔が少し硬かった。龍也には言わない。心配させても仕方がない」
通院した日、飲んだ薬の名前、副作用の具合。
すべてが、淡々と記されていた。
そして、すべてを俺は知らされていなかった。
「今日は、龍也が還暦祝いにくれた懐中時計を持って病院へ行った。待合室で時計を見るたび、龍也の顔が浮かぶ。不思議と落ち着く。あいつは、もう俺より上手い修理士だ」
俺は、息ができなくなった。
還暦祝いに贈った懐中時計を、父は病院の待合室で眺めていたのだ。
一人で。何年も。
会いに行けばよかった。もっと電話をすればよかった。
でも父は、知らせなかった。
俺が心配するからと。
商売をしていると、周りを安心させるのが習慣になる。
父は、客に対しても、息子に対しても、そういう人だった。
壊れた眼鏡を、誰に
ノートの後半には、俺に宛てたような文が増えていた。
「龍也へ。この覚え書きをいつか読むなら、怒らないでほしい。心配をかけたくなかっただけだ」
「眼鏡を自分で補修したのも、同じ理由だ。ただそれだけで、特別な理由はない。本当は、あの店へ持って行けばよかった。息子の手で直してもらえたら、もっと嬉しかったかもしれない」
「毎日、修理台に向かう龍也の姿を想像する。俺は、時計屋を継がせたかった。だが龍也は、もっと大きな道を選んだ。壊れたものを直す仕事は、世界でいちばん大切な仕事だと、本気で思っている」
「誇りに思っている」
ページをめくると、最後の文があった。
入院する三日前の日付だった。
「眼鏡、龍也に直してもらえばよかった」
たった一行だった。
俺は眼鏡ケースを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
窓の外で、商店街のアーケードが朝の光を受けて、ぼんやり白く光っていた。
子どもの頃、父がその眼鏡をかけてレジを打つ姿を思い出した。
夕暮れの閉店間際、父の背中はいつも大きく見えた。
高価な時計が並ぶショーケース。油と金属が混じった、独特の匂い。
あの匂いは、今でも俺の工房にある。
俺は、泣いていた。声も出さずに。
工房の棚に並べて
翌週、俺は父の眼鏡を工房へ持ち帰った。
テープを丁寧に剥がすと、割れ目は思ったより浅かった。
専用の接着剤と細い金属ピンで固定すれば、十分に使える。
七年も放置されていたのに、フレームの傷みは少なかった。
大切に使っていたのだと、手が教えてくれた。
一時間かけて、丁寧に直した。
フレームを磨き、レンズも拭いた。
誰がかけるわけでもない眼鏡だ。直しても、もう父には届かない。
それでも、俺は丁寧にやった。
壊れたものを直すのが、俺の仕事だからだ。
それが、父から教わったことだからだ。
工房の棚に、父の懐中時計と並べて眼鏡を置いた。
病院の待合室で眺めていた時計と、俺に頼めなかった眼鏡。
二つが並ぶと、父がそこにいるような気がした。
その日の午後、常連のおばあさんが、古い柱時計を抱えて訪ねてきた。
「うちの人の形見やけど、止まってしもうてな」
木のケースが、何十年分の手の脂で黒ずんでいる。
俺は少し緊張しながら、背板を外した。
「あんた、手つきがお父さんにそっくりやね」
おばあさんが、そう言って目を細めた。
俺は何も言えず、ただ小さく頭を下げた。
修理を終え、俺は柱時計のネジを巻き、振り子を指で揺らした。
カチ、カチ、と小さな音が工房に広がっていく。
言えない想いを遺して逝った人の話を、俺はこれまでにも読んだことがある。
父が渡した十二年分の通帳の話もそうだった。
あのときは、遠い誰かの涙だと思っていた。
けれど今は、父の護衛をしていた猫の話まで、他人事に思えない。
不器用な父親ほど、言葉の代わりに物を遺していくのだ。
俺の父は、壊れた眼鏡とノートを遺した。
棚の上で、父の眼鏡が、その音をじっと聞いているように見えた。
俺はいつの間にか、父と同じことをしている。
一つひとつ、丁寧に直していく。
それが、俺が父から受け継いだことだ。