父が渡した十二年分の通帳

父が渡した十二年分の通帳

引き出しの奥の、記帳していない通帳

机の引き出しの奥に、古い通帳が一冊しまってあります。

表紙の角はすり切れて、もう何年も記帳していません。

それでも、僕はこれを捨てられずにいます。

父は、給料日の晩だけ、湯呑みに酒を注いで、それを飲まずに置いておく人でした。

注いだきり、朝までそのままです。

母がそれを流しに捨てるところを、僕は子どもの頃から何度も見ていました。

もったいない、とも、変わった人だ、とも思いませんでした。

父とは、そういう人なのだと思っていたのです。

その意味がわかったのは、十二年も経ってからでした。

※

銅を煮る町で育ちました

僕の家は、富山県高岡の、鋳物工場の並ぶ一角にありました。

父は銅器の着色師です。

鋳物屋から上がってきた花瓶や香炉を、煮汁につけたり、火であぶったりして色をつける仕事でした。

緑青の緑、鉄錆のような赤、烏のような黒。

父の手にかかると、同じ形の銅が、まるで違う年月を生きてきた顔になります。

作業場は家の裏の、屋根の低い小屋でした。

夏は釜の熱で四十度を超え、冬は土間から冷えが上がってきます。

煮汁の匂いは、酸っぱいような、金気のような、独特のものでした。

学校の友達には「お前んち、変な匂いする」とよく言われました。

そのたびに、僕は少しだけ、いやな気持ちになりました。

父は昔から、無駄を嫌う人でした。

おもちゃをねだっても、簡単には買ってくれません。

小遣いも、近所の子より少なかったように思います。

電気をつけっぱなしにすれば小言が飛び、テレビを長く見ていれば、また小言が飛びます。

「電気代は、誰が払うとると思っとる」

そんな父のことを、子どもの頃の僕は、ただ「けちな人だ」と思っていました。

今になって、その思い込みが、どれほど浅はかだったかがわかります。

※

修学旅行の朝の、財布とメモ

ただ、一度だけ、不思議なことがありました。

高校の修学旅行の朝、玄関に、新しい財布がそっと置いてあったのです。

中には、僕が想像していたよりずっと多い小遣いが入っていました。

誰も何も言いませんでしたが、父の字で「気をつけて」とだけ、メモが添えてありました。

角ばった、力のこもりすぎた字でした。

バスが出るまで、僕はその財布をポケットの中で何度も握り直しました。

帰ってから礼を言おうと思っていたのに、結局、言えませんでした。

父が、いつもどおりむすっとしていたからです。

あのときの父の、少し照れたような横顔だけを、僕はなぜか今もはっきり覚えています。

※

三万円が五万円になった年

大学を出て、僕は地元の運送会社に就職しました。

当時の手取りは、十七万円ほどだったと思います。

実家から通っていたので、毎月、家に三万円を入れていました。

それでも生活には十分で、貯金も少しずつできていました。

ところがある日、父から「これからは五万円入れろ」と言われたのです。

僕は、正直、納得がいきませんでした。

二万円増えるだけで、自由に使える金がぐっと減ります。

「なんで急に上げるん」

「上げるもんは、上げるんや」

それだけでした。

理由の説明は、一言もありませんでした。

その頃の父は、なぜか、お金のことにやけに厳しくなっていました。

風呂の湯を張る量まで言われるようになり、僕は少しずつ嫌気がさしていきました。

母にこっそり「お父さん、最近どうしたん」と聞いたこともあります。

母はただ、困ったように笑って、何も答えませんでした。

今思えば、母はあのとき、すべてを知っていたのでしょう。

知っていて、父の不器用なやり方を、黙って支えていたのです。

家の手伝いも、なぜか僕にばかり多く回ってきました。

作業場の煮汁を捨てに行くのも、釜の灰を掻き出すのも、いつも僕でした。

兄や弟に比べて明らかに負担が多いのが、若かった僕には不公平に思えました。

新入社員で、慣れない仕事に毎日くたくただったこともあります。

だから僕は、家を出る決心をしました。

一人暮らしをすれば、会社から月に四万円ほど住宅手当が出ることも分かっていました。

五万円を家に入れるくらいなら、その金を家賃に回したほうがいい。

何より、口うるさい父の顔を、毎日見なくて済む。

そう考えて、僕は半ば逃げるように、実家を出ていきました。

家を出たのは、五万円にしろと言われてから、四ヶ月目のことでした。

※

バックミラーの中の家

引っ越しの日のことは、今でもよく覚えています。

軽トラの荷台に段ボールを積んで、助手席に乗り込むとき、母は玄関先でそっと目元をぬぐっていました。

父は、二階の窓から、腕を組んでこちらを見下ろしているだけでした。

「行ってきます」も「ありがとう」も言わず、僕は車を出しました。

バックミラーに映る家が、坂を曲がるところで見えなくなりました。

あのとき、ちゃんと振り返って手を振れなかったことを、今でも悔やんでいます。

一人暮らしは、思っていたよりずっと気楽でした。

誰にも文句を言われず、好きな時間に帰り、好きなものを食べる。

はじめのうちは、その自由が、たまらなく心地よかったのを覚えています。

けれど、その分、僕はだんだんと実家に寄りつかなくなりました。

正月もお盆も、適当な理由をつけては、顔を出さずに済ませました。

母から時々かかってくる電話も、「忙しいから」と短く切ることが増えました。

父とは、ほとんど口をきかなくなっていました。

それでも母は、季節の変わり目になると、決まって荷物を送ってきました。

米や、缶詰や、僕の好きだった煮しめが、いつも箱いっぱいに詰まっていました。

御車山祭の頃には、決まって鱒寿司がひと折り入っていました。

電話口の母の声も、年々、少しずつ細くなっていきました。

それでも母は、僕の体のことや、仕事のことばかりを気にかけていました。

自分たちのことは、何ひとつ言いませんでした。

父の還暦の誕生日にも、僕は仕事を理由に顔を出しませんでした。

後から母に、父が僕の好きだったすき焼きを用意して待っていた、と聞きました。

それでも僕は、忙しいから仕方ない、と自分に言い訳をしていました。

心のどこかで、まだあの五万円のことを、根に持っていたのだと思います。

※

婚約者に背中を押されて

時は流れて、僕にも結婚の話が持ち上がりました。

長く付き合った人と、ようやく所帯を持つことになったのです。

式の費用も、新居にかかる金も、自分の貯金から出すつもりでいました。

親には頼らない。

散々お金のことで揉めた手前、今さら援助してくれと頭を下げる気にはなれませんでした。

それは、若い僕なりの、ささやかな意地でもあったのだと思います。

両親に報告に行くと決めたときも、僕はどこか身構えていました。

また、お金の話で何か言われるのではないか、と。

婚約者は、そんな僕の態度を、やわらかくたしなめました。

「一度くらい、ちゃんとご両親に甘えてみたら」

「甘えたら、また何か言われる」

「言われたら、そのとき考えたらいいよ」

その言葉に背中を押されて、僕はようやく、実家の戸を叩く決心がつきました。

※

「おめでとさん」

久しぶりに帰った家は、少しだけ古びて、小さく見えました。

裏の作業場からは、もう煮汁の匂いがしませんでした。

母は嬉しそうに僕を迎え、父は相変わらず、むすっとした顔で座っていました。

ひととおり結婚の話をして、そろそろ帰ろうとしたときのことです。

父が、奥の部屋から何かを持って戻ってきました。

そして、ぶっきらぼうに、それを僕の前に置きました。

一冊の通帳でした。

「おめでとさん」

父は、たったそれだけ言って、目をそらしました。

何だろうと思って、僕はその通帳を開きました。

そこに記された残高を見て、息が止まりました。

二百万円。

はじめは、記帳ミスか見間違いではないかと、何度も目をこすりました。

毎月、判で押したように同じ額が、同じ日に積み立てられていました。

その地道な数字の列が、何よりも雄弁に、僕に何かを語りかけてきました。

見覚えのある金額。

それは、僕が独身時代に、毎月家に入れていた、あの五万円でした。

五万にしろと言われ、あれほど腹を立てた、あのお金です。

父も母も、それを一円も使わずに、ずっと貯めていてくれたのだ。

僕は、そう思いました。

喉の奥が熱くなって、通帳を持つ手に力が入りました。

けれど、そこで、ひとつの数字に目が留まりました。

※

四ヶ月しか入れていないはずでした

入金の欄が、十二年ぶん、途切れずに続いていたのです。

僕が家に五万円を入れていたのは、家を出るまでの、たったの四ヶ月です。

僕が入れたのは、はじめの四ヶ月ぶんだけでした。

残りの百四十回近い入金は、僕の金ではありません。

それでも、日付は毎月同じでした。

通帳のいちばん古い頁から、いちばん新しい頁まで、一度も飛んでいません。

僕が正月に帰らなかった年も。

父の還暦をすっぽかした年も。

電話を「忙しいから」と切った月も。

入金は、判で押したように、続いていました。

「これ……」

僕は、それだけ言って、続きが言えませんでした。

母が、隣でそっと教えてくれました。

「本当はね、お父さん、あんたから生活費なんてもらう気はなかったのよ」

「でも、ただであずかったら、あんたが甘えると思って」

「家にお金を入れる、っていう気持ちを、ちゃんと持ってほしかったんですって」

「だから、わざと厳しくしてたの」

「そやけど、僕、四ヶ月しか入れてへん」

母は、少し笑って、うなずきました。

「そう。だから、そのあとは、お父さんが」

※

飲まれなかった酒の意味

父は、月に一度、朝いちばんに信用金庫へ行っていました。

作業場に入る前の、三十分ほどのことです。

父が飲まなかったのは、翌朝、いちばんに信用金庫へ行くからでした。

着色師の朝は、手が命です。

前の晩に飲むと、指先の感覚が鈍り、色の乗り方を見誤るのだと、父はよく言っていました。

だから給料日の晩は、注いだ酒を飲まずに置いて、朝の窓口に向かう。

それを、百四十回以上、繰り返していたのです。

母が続けました。

「あの頃ね、お父さん、仕事を畳もうかって話をしてたのよ」

問屋からの注文が細り、鋳物屋も次々に工場をたたんでいた時期でした。

父が急にお金に厳しくなったのは、そういう年だったのです。

それでも、積み立てだけは止めなかった。

風呂の湯の量に口を出していたのは、そのぶんを窓口へ持っていくためでした。

「なんで、言うてくれへんかったん」

「言うたら、あんた、受け取らんでしょう」

母の言うとおりでした。

若い頃の僕なら、意地でも突き返していたはずです。

「あんたが四ヶ月でやめたときね、お父さん、ちょっとだけ笑ったのよ」

「よう出ていったわ、って」

僕は、その言葉で、こらえていたものが崩れました。

父が本当に願っていたのは、家に金を入れる息子ではなかったのです。

自分の足で出ていく息子でした。

それが四ヶ月で来てしまったから、あとは黙って、自分で埋めた。

それだけのことだったのです。

※

たった一度の出金

その晩、下宿に帰ってから、僕は通帳をもう一度、頭から見返しました。

入金ばかりの列の中に、たった一度だけ、出金がありました。

金額は三万二千円。

日付は、僕が高校二年の、十月でした。

修学旅行の朝です。

玄関に置かれていた、あの財布の中身でした。

父は、自分で積み立てた金から、それを下ろしていました。

財布ごと買って、メモを添えて、何も言わずに置いた。

あの角ばった字を思い出して、僕はまた、目の前が滲みました。

「気をつけて」の四文字を書くのに、父はどれだけ時間をかけたのだろうと思いました。

※

親方が父に言った言葉

後になって、僕は伯父から、もうひとつのことを聞きました。

父が二十六で親方から独立を許された日、その親方はこう言ったそうです。

「おめでとさん」

たった一言だったといいます。

祝いの席も、餞別もなく、その五文字だけだったと。

父はそれを、生涯でいちばんの祝いの言葉として、ずっと胸に置いていたのだそうです。

だから、息子の結婚にも、それを使った。

父にとって「おめでとさん」は、ぶっきらぼうな一言などではありませんでした。

持っている中で、いちばん重い言葉だったのです。

それを知ったとき、僕はあの日の父の、目をそらした横顔の意味が、ようやくわかりました。

※

玄関先で、ようやく言えた言葉

通帳を握りしめたまま、僕は、子どものように泣いてしまいました。

あれほど避けていた実家の、畳のにおいの中で。

その畳のにおいは、子どもの頃から少しも変わっていませんでした。

変わってしまったのは、僕の心のほうだったのだと、思い知らされました。

父は、何も言わずに、ただ静かに茶をすすっていました。

その横顔が、少しだけ照れているように見えました。

帰り際、玄関まで見送りに出てきた父が、ぽつりと言いました。

「体に気ぃつけてな。困ったときは、いつでも帰ってこい」

あの父の口から、そんな言葉が出るとは、思ってもみませんでした。

僕は涙をこらえながら、今度はちゃんと、深く頭を下げました。

「今まで、ごめん。ありがとう」

言えなかった言葉を、ようやく伝えることができました。

父は、うん、とだけ言って、先に家の中へ入っていきました。

戸を閉める音が、いつもより静かでした。

※

父と同じ年になって

結婚式の日、父と母は、いちばん前の席に座っていました。

父は、慣れない礼服に身を包んで、終始、背筋をぴんと伸ばしていました。

僕が新婦と腕を組んで入場したとき、父は、そっと目頭を押さえていました。

あんなに泣くところを見たのは、後にも先にも、あのときだけです。

結局、その二百万円には、まだ手をつけていません。

使ってしまうのが、どうしても惜しいのです。

あのお金は、金額そのものよりも、飲まれなかった百四十杯の酒だからです。

今では僕にも子どもが生まれ、あの頃の父と同じくらいの年になりました。

我が子が生まれたとき、僕がいちばん最初にしたのは、その子名義の通帳を作ることでした。

窓口で用紙に名前を書きながら、ふと、父も同じ気持ちだったのだと気づきました。

言葉にするのが下手な人ほど、こうして、形に想いを残そうとするのかもしれません。

夜泣きする我が子を抱きながら、僕はよく、父のことを思います。

きっと父も、眠れない夜に、僕の寝顔を見ていたのでしょう。

父は去年、作業場をたたみました。

最後に色をつけたのは、僕の子どものために作った、小さな風鈴でした。

高岡の銅の、緑がかった黒。

軒に吊るすと、風のない日でも、ときどき鳴ります。

僕は今、給料日の晩に、湯呑みに酒を注いで、それを飲まずに置いてみることがあります。

母のように捨てはせず、翌朝、自分で流します。

父がどんな気持ちで、あの一杯を見ていたのか。

それを知りたくて、ときどき、真似をしてみるのです。

「おめでとさん」

あの日の、ぶっきらぼうなひと言が、今も僕の胸を、あたたかく締めつけます。

不器用な父の背中については、柿渋の色に染まった父の手にも書かれています。誰かが黙って守り続けたものの話は、土のにおいの紳士もあわせてお読みいただけたら幸いです。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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