冷凍庫の容器は日付の先まで続く

夜の小さなアパートの台所で、背中を向けた男性が、柔らかな琥珀色の光を放つ冷凍庫を開けている。庫内には同じ形の保存容器が整然と並び、曇りガラスの引き戸や小さなランプが灯る炊飯器、白いスイートピーの花瓶が、静かな暮らしの気配を添えている。藍色の夜と温かな橙色の光が溶け合う、懐かしさとほのかな切なさを湛えた印象派の油彩画。

冷凍庫の扉を開けると、妻の字が私を見上げた。

十一月十三日の夜だった。

仕事から帰って、上着も脱がないまま、私は冷凍庫の前に立っていた。

冷凍庫の下の段に、四角い容器が縦に並んでいる。

百円ショップで買った、同じ形の冷凍庫の容器だ。

蓋にはマスキングテープが貼ってあり、丸みのある字で日付が書かれていた。

「11/13」

今日の分だ。

取り出すと、指先に霜の冷たさが張りついた。

電子レンジに入れて、五分。

その間、流しの縁に寄りかかって、庫内の灯りを眺めた。

冷凍庫の容器の蓋が、奥まで同じ高さでそろっている。

十一月三日から、ずっと先まで。

誰かが一日ずつ並べて置いていった、時間の列に見えた。

レンジが鳴り、蓋を開けると、鶏と大根の煮物から湯気が立った。

醤油の甘い匂いが、台所に広がる。

妻は今、病院にいる。

十一月二日に入院して、今日で十二日目になる。

私はその煮物を、立ったまま食べた。

味は、妻の味だった。

それだけで、箸が止まりそうになった。

「日付の順にね。先に食べたら、怒るよ」

入院の朝、妻は玄関でそう言った。

キャリーケースの持ち手を握ったまま、いつもの調子で。

「怒るって、どうやって」

「一週間、口をきかない」

「それは困る」

私が笑うと、妻も笑った。

その笑い顔がドアの向こうに消えるまで、私は手を振っていた。

冷凍庫の容器の並び

数えてみると、冷凍庫の容器は二十九個あった。

十一月三日から十二月一日まで、ちょうど一日に一つだ。

十二月一日は、妻が退院する日になっている。

一か月ほどの入院だと、妻は私に説明した。

手術のあとの治療で、通院では難しいのだという。

私は施工管理の仕事をしている。

その秋は、駅前の商業ビルの竣工が重なっていた。

現場に朝七時に入り、帰るのは日付が変わる頃だ。

妻はそれを知っていた。

だから私が何も言わないうちに、容器を並べておいたのだろう。

ふと、三年前のことを思い出した。

私が半年だけ、単身赴任をしたときだ。

妻は週末ごとに、作り置きを段ボールで送ってくれた。

電話で、私は言ってしまった。

「ありがたいけど、私は三日で飽きる人間だ。同じものが続くと、もういいとなる」

受話器の向こうで、妻は少し黙った。

「じゃあ、毎回違うのにする」

「いや、そこまでしなくていい」

「する。決めた」

結局、その半年の間、箱の中身が同じだったことは一度もなかった。

私は、そんなことを忘れていた。

忘れていたのに、妻のほうは覚えていたらしい。

夫の好き嫌いも、帰宅の遅さも、疲れた夜に箸が進まない献立も、妻は全部、数えていた。

数えたうえで、一か月ぶんを、先に作った。

それがどれほどの手間か、私は台所に立たない人間なので、見当もつかなかった。

ただ、容器の底に残る煮汁の色が、日ごとにわずかに違うのを見て、どれも別々の鍋から来たのだと知った。

鍋のものも、焼いたものも、和えたものも、並んだ容器は全部違った。

二十九個の献立に、同じものは一つもなかった。

十一月四日は、ひじきと豆の炊いたもの。

五日は、鮭と野菜の味噌焼き。

六日は、豚のしょうが焼きに、細く切ったキャベツ。

レンジで温めるたびに、私は一日分ずつ、妻の台所を食べた。

病院に電話をすると、妻はいつも小さな声で聞いた。

「今日のは、何だった」

「煮物。大根の」

「ああ、あれ。味、濃くなかった」

「ちょうどよかった」

「よかった」

それだけの会話が、毎晩の十分間だった。

通話を切ったあと、私は空になった容器を洗って、水切りかごに伏せた。

一つ洗い終わるたびに、日付が一つ、私の側へ移っていくようだった。

夜中にトイレへ起きたとき、台所の灯りが点いていた日があったのを、私は思い出した。

入院の前の週だ。

覗くと誰もいなくて、まな板の上に、玉ねぎの皮だけが残っていた。

疲れて寝ぼけていた私は、その灯りの意味を考えなかった。

日付の順に食べる

十一月十六日は、日曜日だった。

私は面会の時間に合わせて、病院へ行った。

四人部屋の窓際のベッドで、妻は上半身を起こしていた。

髪を結んでいなくて、顔が少し小さく見えた。

「来たね」

「来た。全部、日付の順に食べてる」

「えらい」

妻は笑って、毛布の端を指でつまんだ。

「卵焼きは、まだ出てきてない」

「ああ、あれは取っておいた。もっと先」

「先なんだ」

「あなた、卵焼き、自分で焼けないでしょう」

私は言い返せなかった。

私は卵を割ると、いつも殻が入る。

結婚して七年、朝食の卵はずっと妻が割ってきた。

「焼くのは、大丈夫だよ」

「割れてないくせに」

「そのうち練習する」

「そのうち、ね」

妻はそう言って、また窓のほうを見た。

外では、銀杏の葉が風に動いていた。

葉の黄色が、病室の白い壁に薄く映っていた。

面会の終わりを知らせる放送が流れた。

廊下には消毒液の匂いと、夕食のワゴンの温い匂いが混ざって流れていた。

隣のベッドでは、見舞いの家族が、小さな声で笑っていた。

その笑い声が、妻には聞こえているはずだった。

妻は聞こえないふりをして、私の顔ばかり見ていた。

立ち上がると、妻は私の袖を、指先だけでつかんだ。

「ねえ、日付の順だからね。まとめて食べたりしないでよ」

「しないよ」

「約束」

「約束」

袖から離れた指は、少し冷たかった。

約束を破りかけたのは、その四日後だ。

十一月二十日、現場で配管の不具合が見つかった。

私は帰りの電車に乗り遅れ、家に着いたのは午前二時だった。

冷凍庫を開ける気力もなく、そのまま眠った。

翌日の夜、二日分の容器が残った。

私は少し迷って、二つ並べて電子レンジに入れた。

二つとも食べるつもりだった。

それを、面会のとき、うっかり話してしまった。

妻の顔から、笑いが引いた。

「二日分、いっぺんに食べたの」

「疲れてて。一日抜けたから、取り戻そうと思って」

「だめ」

妻の声は小さかったが、強かった。

「一日ずつ。ずらさないで」

「ずれても、中身は同じだろう」

「同じじゃない」

妻は、シーツを握りしめていた。

「日付が合ってないと、だめなの」

私は、そこまでの強さで怒られる理由が、わからなかった。

「わかった。もうしない」

そう言うと、妻は目を閉じて、長く息を吐いた。

帰り際、廊下で看護師に呼び止められた。

若い女性の看護師で、名札には「大西」とあった。

「あの、先生からのお話は、ご主人もお聞きになっていますよね」

「先生には、いつも会えないんです。診察の時間に、間に合わなくて」

「あ……」

大西さんは、一拍だけ言葉を探した。

「十二月一日が退院だと、聞いています。妻から」

「ご本人は、そうおっしゃってますね」

その言い方の端に、私は引っかかった。

けれど、疲れていた。

エレベーターの扉が開いたので、会釈をして乗り込んだ。

ホワイトボードの未定

十二月一日の朝、私は有休を取った。

前の晩、二十九個目の容器が空になった。

洗って、水切りかごに伏せたとき、冷凍庫は初めて、がらんとした。

庫内の灯りが、霜の跡だけを照らしていた。

私は車で、花屋に寄った。

退院祝いに、小さな白いスイートピーを買った。

店員さんに「どなたかのお祝いですか」と聞かれて、「妻の退院です」と答えた。

口にした途端、誇らしいような気持ちになった。

駐車場からの道は、冬の入口の風が冷たかった。

エレベーターの鏡に、スイートピーを抱えた自分が映っていた。

似合わない、と思った。

けれど、似合わなくてもいい、とも思った。

病棟の自動ドアをくぐり、ナースステーションの前を通る。

通りがかった四人部屋の入口で、足が止まった。

妻のベッドの頭側に、小さなホワイトボードが掛かっている。

氏名の欄。

主治医の欄。

その下の「退院予定」の横が、消しかけの跡で白く汚れていた。

そこに、赤いペンで二文字だけ書かれていた。

「未定」

妻は、ベッドに座っていた。

荷物はまとめられていなかった。

私の手の中の花を見て、妻の顔がゆっくり歪んだ。

「……ごめん」

「今日、帰れるんじゃなかったのか」

「もう少し、かかるの」

「もう少しって」

「わからない。年明けになるかもしれない」

私は、花を握りしめたまま、立っていた。

「だって、一日って、お前が」

「最初から、なかったの」

妻は膝の上で、両手を重ねた。

「入院の前の週に、先生に言われてた。一か月で帰れる人は、ほとんどいないって」

「それを、どうして」

「言ったら、あなた、休むって言うでしょう」

返事ができなかった。

実際、私は休んでいたと思う。

竣工の検査より、妻の側にいることを選んだはずだ。

「現場、止まっちゃう」

「止まってもいい」

「止めたくなかったの。あなたの仕事でしょう」

妻は、私の目を見た。

赤くなった目の縁が、まばたきを繰り返していた。

「だからね、日付の順なの」

「どういう意味だ」

「帰ったら、流しの下、見て」

「流しの下」

「それだけ。今は、聞かないで」

帰りの車の中で、スイートピーは助手席で揺れていた。

家に着いて、私は靴を脱ぐ前に台所へ走った。

流しの下の引き出しを、引いた。

空の容器が、重ねて入っていた。

冷凍庫のものと、同じ形で、同じ百円ショップのものだ。

蓋にはマスキングテープが貼ってあった。

日付が、書いてあった。

「12/2」

その次は「12/3」。

その次は「12/4」。

年明けの一月の終わりまで、蓋の日付が続いていた。

数えようとして、途中でやめた。

空の容器の蓋には、日付のほかに、材料の名前が一つずつ書いてあった。

殻の入った卵焼き

「12/2」の蓋には、「卵」とあった。

「12/3」は「豆腐」。

「12/4」は「鶏もも」。

どれも、買い物のメモのような、小さな字だった。

妻は、入院の前の夜中に、これを貼っていたのだ。

玉ねぎの皮が残っていた、あの夜に。

自分が戻れない日の分まで、先に、日付を貼っていた。

二十九個の、できあがったものを並べたあとで。

私は、床に座り込んだ。

引き出しの奥に、折りたたんだ紙が一枚あった。

開くと、妻の字で、箇条書きが並んでいた。

卵は、割る前にテーブルの角で軽く叩かないこと。

フライパンは、最初に温めておくこと。

焦げたら、それは焦げた味ということで食べること。

最後の一行だけ、字が少し大きかった。

「できなくても、食べて。日付の順に」

私は、その夜、冷蔵庫から卵を出した。

割ろうとして、指が震えた。

テーブルの角ではなく、まな板の縁に打ちつけた。

殻が、ぱきりと割れて、白身と一緒にボウルへ落ちた。

箸で拾おうとした。

拾えなかった。

砂糖と醤油の分量が、わからなくて、紙を何度も読み返した。

焼いてみると、卵焼きは巻けずに、ちぎれた。

焦げた匂いが、台所に立った。

それでも私は、ちぎれた卵を、「12/2」の蓋の容器に詰めた。

翌日の面会のとき、私は保温バッグから容器を出した。

一日遅れの、「12/2」だった。

妻は蓋を開けて、中を見た。

しばらく、何も言わなかった。

箸でひと口を取って、口に入れる。

「……じゃり」

「殻、入ってた」

「入ってる」

妻は笑った。

笑いながら、目の端を指でぬぐった。

「入るんだよね、あなたは」

「そのうち練習する、と言っただろう」

「うん。言った」

妻は、もうひと口食べた。

「日付、ずれてるよ」

「一日だけ」

「今日だけ、許す」

病室の窓の外は、もう暗くなっていた。

ガラスに、ベッドの端に座る私と妻が、並んで映っていた。

その夜、家に帰ると、私はもう一つの容器の蓋をなぞった。

「12/3」「豆腐」。

まだ、白いままの容器だ。

私は、冷凍庫に残った自分の卵焼きの容器を、一番手前へ置いた。

明日の分の材料は、買ってきてある。

扉を閉めて、また開けてみた。

冷凍庫の扉を開けると、妻の字が私を見上げた。

その下には、ちぎれた私の卵焼きが、入っていた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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