停まったままの時計

春の山村の静かなひととき

祖父が駐在所を退いてから、もう二十年になる。

八十三になった春、認知症がいよいよ進み、祖父は隣町の施設に入った。

母から「家を片付けに来てくれないか」と電話がかかってきたのは、その一週間後のことだった。

東京から急行と各駅を乗り継いで、半日かけて辿り着いた集落は、雪解けの遅い春の透明な光に包まれていた。

駅から二キロほどの坂を上り切ると、山あいに四十軒ほどの家屋が肩を寄せ合う集落が見えてくる。

子どもの頃に夏休みのたびに見た景色そのままだった。何ひとつ、変わっていない。

鳥取の山あいにある祖父の家は、小さな駐在所の隣に建っていた。

木造の平屋。瓦の縁は苔で薄く緑色になっていて、玄関の三和土には祖父の長靴が並んだままだった。

泥がそのまま乾いて残っている。施設に入る数日前まで、まだ歩き回っていた人の靴だった。

桜にはまだ早い。風はまだ冬の匂いを引きずっていた。

「お父さんは、何でも一人でやろうとする人だったから」

母は仏間で、祖父の若い頃の写真を布で拭きながら、ぽつりとそう言った。

白い制帽をかぶった祖父の写真。

駐在さんとして二十二歳でこの集落に着任した日のものだ、と母は言った。

祖父は寡黙な人だった。

私が幼い頃、夏休みのたびに泊まりに来ても、ほとんど話さなかった。

朝早く起きて駐在所の前で立哨し、夕方になれば書斎で日誌を書く。

食事のときも、ほとんど何も言わない。

ただ──私が箸を落とせば、無言で新しい箸を出してくれる人だった。

畳の上で泣いて起きた朝には、いつのまにか枕元に湯呑みがひとつ置かれていた。

誰が運んでくれたのか、寝ぼけた子どもの私には分からなかった。

母は笑いながら「お父さんよ」と言ったけれど、肝心の祖父は、すでに駐在所の前で背筋を伸ばして立哨を始めていた。

湯呑みの底には、祖父の手の温度が、まだぬくく残っていた。

集落の人たちは、祖父のことを「先生」とも「駐在さん」とも呼ばずに、ただ「あの人」と呼んだ。

困ったことがあれば、まずは「あの人」のところに行く。

失せ物の相談、雪かきの応援、夜の山道の見送り、酔っぱらいの仲裁。

三十五年の間に、祖父は集落のすべての家の事情を、誰よりも知っていた。

けれど、それを誰かに話すことは、決してなかった。

誰の家の庭の柿が今年は豊作なのか、誰の息子が遠くへ働きに出たのか、祖父は黙って胸の内に仕舞ったまま、四季を回し続けた。

祖父の机の引き出しを開けたとき、一番上に置かれていたのが、その懐中時計だった。

銀色の蓋に、細い線で「警」の字が刻まれている。

三十五年勤めた退官の日に、署からもらったものだと母が言った。

私はそっと蓋を開けた。

針は止まっていた。

長針が短針の先で重なるようにして、十四時四十七分。

「電池が切れているのかしら」

母が覗き込んだ。

振っても、巻いても、針は動かない。

蓋の裏の銀色の縁に、小さな字で何かが彫られているのに気づいた。

灯りに近づけてみる。

「五月十四日 十四時四十七分」

それだけだった。

「お母さん、五月十四日って、何の日?」

私が訊ねると、母はしばらく押し黙ったまま、写真の中の若い祖父の顔を見つめていた。

その目に、ほんの少し震えるものがあった。

「咲、ちょっと待って」

母は立ち上がり、押入れの奥に手を伸ばした。

取り出してきたのは、革表紙の古い綴じ本だった。

背に「駐在日誌」と墨で書かれている。

めくると、几帳面な祖父の字でびっしりと埋まっていた。

三十五年分の記録だった。

巡回した道の名前、挨拶を交わした人の名前、子犬を保護した記録、雪かきの量。

「奥山にて山菜採りの老婆道に迷う。発見、無事に送り届ける」

「集落入口の地蔵、頭に積もりし雪を払う」

「山田家の犬、夜更けまで吠える。確認、別状なし」

「分校の生徒、下校途中で雷雨に遭う。三名を駐在所にて待機させ、家まで送り届ける」

一日に一行か、長くても三行ほどの、淡々とした文字の連なり。

祖父が見て、聞いて、歩いた集落の三十五年が、その綴じ本の中にあった。

母は、ゆっくりとページをめくっていく。

あるページで、母の手が止まった。

普段の業務記録とは明らかに違う、長い文章が綴られていた。

「五月十四日。十四時十分、緊急通報。集落奥の杉林にて、三歳前後の女児行方不明の報。黄色き雨合羽を着用。雨脚強くなる中、即時出動」

私はそれを読みながら、なぜか息が詰まった。

続きを目で追う。

「十四時四十七分、女児発見。杉の根元に蹲り、雨に震えて啼泣。抱きかかえて駐在所まで搬送、湯にて身体を温める。怪我なし。母方祖母宅にて保護中」

私は字面を何度も読み返した。

女児。三歳。黄色い雨合羽。

頭の奥に、ぼんやりとした何かが浮かびかけて、すぐに消えた。

母は、私の顔をじっと見ていた。

「あんた、覚えてないわよね」

母の声は、震えていた。

「三歳だったし、私もずっと話さなかったから」

母は静かに息を吐いた。頬を一筋、湿ったものが流れていた。

あの春、私は祖父の家に預けられていた。

父が病で逝った直後で、母は東京の看護学校に通い直している最中だった。長い休みのたびに、私はこの平屋へやって来た。

三歳のとき、祖父が一瞬目を離した隙に、私は家を出て歩き出したらしい。

春の雨の中、子どもの私は集落の奥の山道へ入っていった。

祖父はそれに気づくと、駐在所の前から雨合羽だけを掴んで山に駆け込んだ。

制帽も外したまま。長靴の紐すら結ばないまま。

三十七分間、祖父は雨の中の杉林を走り回ったのだという。

知らせを受けた集落の人たちが集まり始めた頃には、もう祖父はずぶ濡れの腕に私を抱えて、山の麓まで戻ってきていた。

「あの日、お父さんは家に帰ってきても、何も言わなかったの」

母はそう言った。

「ただね、その夜から、お父さんは懐中時計を肌身離さず持つようになったのよ。最初は針もちゃんと動いていたわ。けれど、いつからか時計を止めて持ち歩くようになって。理由を聞いても、何も言わない人だったから」

私は綴じ本を一日かけて読んだ。

すると、不思議なことに気づいた。

毎年の五月十四日のページに、業務とはまったく関係のない、たった一行の文字が書き加えられていた。

「咲、今年も健やかなり」

「咲、小学校に上がる。電話にて声を聞く」

「咲、運動会の徒競走にて二着の由。母より報あり」

「咲、東京の中学に進学。背がだいぶ伸びた様子」

「咲、看護学校合格。母と同じ道を選んだ由。よろしき道なり」

「咲、看護師として勤務開始。本日、母より報あり」

「咲、夜勤あけと聞く。寒き季節、健やかにあれ」

三十年以上、ひと年も欠けることなく書き続けていた。

読み続けるうちに、薄黄色く変色した紙が、ページごとに少しずつ手触りを変えていくのが分かった。

私の名前を、ただひと文字。

そのあとに、たった一行。

祖父は、ほとんど話さない人だった。

会いに行っても、私の頭を撫でることすらしなかった。

ただ──箸を落とせば、新しい箸を出してくれる人だった。

その人の中に、こんなにも長い言葉が積み上がっていたとは、思いもしなかった。

最後の数ページに目を通した。

祖父が施設に入る三日前の日付に、いつもより少しだけ長い書き込みがあった。

「明日にも娘の迎えあり。施設へ移ること、覚悟は決めた。机の上に懐中時計と日誌を残しておく。咲が来た折に、母から伝えてくれぬかと頼みたきものなり。あの林の前を昨日通った。雨は降っていなかったが、足が止まった。あの日、走り出して本当によかった。本当に、よかった。咲、健やかにあれ」

私は、声も出せずにその文字を見つめていた。

頬を伝うものを、母も拭おうとはしなかった。

仏間の高窓から、橙色の夕日が、綴じ本の上にひと筋落ちていた。

その光の中で、祖父の字が、まだ生きているように細かく揺れて見えた。

翌日の昼過ぎ、私は懐中時計と日誌を抱えて、施設まで祖父に会いに行った。

面会室の窓際の椅子に、祖父は背筋を伸ばして座っていた。

白い髪は短く整えられ、色違いのカーディガンが少しだけ大きく見えた。

「おじいちゃん」

呼びかけても、祖父は遠くを見たまま、こちらに目を向けなかった。

母から聞いていた通りだった。

──最近は、私の名前も、母の顔も、もう分からないことが多いのだという。

私は祖父の隣に椅子を寄せた。

そして、懐中時計を、そっと祖父の手のひらに乗せた。

蓋を開けて、止まったままの針を見せる。

「五月十四日。十四時四十七分」

声に出して読んだ。

祖父の指先が、ほんの一瞬、針の上で止まった。

遠くを見ていた目が、ゆっくりと懐中時計に降りてきた。

そしてもっとゆっくりと、私の顔へと上がってきた。

「……無事で」

祖父の口が、言葉を探すように動いた。

「無事で、よかった」

掠れた声だった。

あの三十七分の杉林から、四十年かけてようやく届いた声のようだった。

私は、祖父の手を、両手でくるんだ。

節くれ立った、骨ばかりの手だった。

その手が、雨の春の山道で、震えていた小さな私を抱き上げてくれた手だった。

「うん、無事だよ。おじいちゃんのおかげで、ここに居るよ」

祖父は何も言わずに、ただ私の手の中の懐中時計を見つめていた。

蓋の中の十四時四十七分を、まるで初めて見るような目で。

そして、まるで一生忘れたことがなかったような目で。

面会室の壁にかかった時計が、静かに音を刻んでいた。

祖父の手のひらの温度は、雨の山道を走った日とおなじ熱を、まだほんの少しだけ宿しているように思えた。

外の桜の蕾は、まだ硬く閉じたままだった。

けれど、祖父の手の中の止まったままの時計だけが、確かに何かを動かし始めたような気がした。

帰り道、駅までの道のりを、私はゆっくりと歩いた。

春の風が、田んぼの水面を細かく波立たせていた。

あぜ道に、小さなつくしが顔を出している。

四十年前の春の雨の中で、祖父が走った道は、この集落のどこかにある。

懐中時計の針は、もう二度と動かないだろう。

それでいいのだと思う。

祖父が止めたまま、四十年も大切に守ってくれた時刻を、私はこれから先、自分の時計で生きていく。

たとえ祖父が私の名前を忘れても、あの日走った三十七分間は、もう祖父の中から失われない。

あの三十七分が、私の三十年を作ったのだから。

遠くで、山の鳥がひと声、長く鳴いた。

「ありがとう、おじいちゃん」

誰にも届かなかったかもしれない言葉が、それでも、確かに集落の山の方角へと吸い込まれていった気がした。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。