
「お風呂は、今日も沸いてますよ」と、志津子さんは言った。
検針票を渡しに来ただけの私に、である。
検針票の裏に鉛筆で返事をくれる、あの志津子さんが。
私は二十九歳で、市の水道の検針員をしている。
委託の仕事だ。月に一度、担当の三百軒あまりを歩いて回る。
メーターの蓋を開け、数字を読み、検針票をポストに差す。
話しかけられることは、ほとんどない。
吠えられることのほうが多い。犬には、毎月、初対面のように吠えられる。
雨の日は、傘とバインダーと読み取り機を、腕が三本あるつもりで持ち替える。
それでも、この仕事は嫌いではなかった。
数字には、その家の一か月が、そのまま出るからだ。
洗濯の多い家、客の多い家、留守の長い家。
メーターは、持ち主よりも正直に、暮らしを語る。
志津子さんの家は、坂の途中にある平屋だった。
メーターは、家の裏手の浴室の外壁に付いている。
狭い通路を、横歩きで抜けて入る。
浴室の小窓が、指二本ぶんだけ開いている。
物干しには、バスタオルが二枚並んでいる。
排水の溝は、いつもうっすら湿っていた。
乾いた日でも、そこだけ、土の色が濃かった。
石けんとは違う、あたたかい水の匂いがした。
そのときは、どれも気に留めなかった。
気に留めたのは、検針票の裏のほうだ。
先輩に教わった習慣で、私は票の裏に一言を書き添えている。
「朝晩、冷えますね」「金木犀が咲いていました」。その程度のことだ。
三年前の十月、志津子さんの家の票にも、同じように書いた。
翌月、メーターの蓋の上に、折った紙が小石で押さえてあった。
前の月の検針票だった。その裏に、鉛筆の字で返事があった。
「ほんとうに、冷えます。お茶を飲んでいってください」
私はお茶を断った。規則で、お宅には上がれない。
代わりに、また票の裏に書いた。
それが毎月続いて、検針票の裏の往復は、いつのまにか三年になった。
検針票の裏の鉛筆
志津子さんの字は、丸くて、少し右に傾いていた。
七十八歳。ご主人は七年前に先に旅立ち、今は一人で暮らしている。
返事は、毎月、天気や庭の話だった。
「ゆずが十個なりました」
「回覧板の字が小さくて困ります」
坂を上がると、どこかの家の台所から、味噌汁の匂いがした。
その匂いを吸い込みながら、私は通路に入る。
蓋の上の小石は、いつも同じ、白くて丸いものだった。
六月の返事は、梅の実の話だった。
「庭の梅を、全部漬けました。瓶が三つです」
一人で食べきる量ではない。そう思ったが、書かなかった。
八月の返事には、蝉の絵が添えてあった。
鉛筆で描いた、羽の大きすぎる蝉だった。
私はその絵を、ロッカーの内側に貼った。
同僚に、お子さんの絵かと訊かれた。
七十八歳の絵です、と答えたら、みんな黙って、それから笑った。
志津子さんの庭には、冬でも何かしら咲いていた。
水仙、山茶花、南天の赤い実。
蓋の上の小石の横に、ときどき、摘んだ花が一輪、添えてあった。
一度だけ、返事のない月があった。
蓋の上には、小石だけが残っていた。
私は初めて、規則を少し越えて、玄関のチャイムを押した。
「風邪でね、寝込んでたの。書けなくてごめんなさいね」
志津子さんは、鼻の頭を赤くして、戸の隙間から言った。
たかが票の裏に、私は思いのほか、ほっとしていた。
そのとき一度だけ、こんな返事をもらったことがある。
「あなたの字は、うちの息子に似ています」
息子さんの話は、それ一度きりだった。
私は、聞かなかった。聞かないのも、検針員の仕事だと思っていた。
志津子さんの使用量は、ほぼ毎月、六立方メートルだった。
一人暮らしの高齢者としては、ごく普通の数字だ。
数字は嘘をつかない。だから私は、数字の変わらない家が好きだった。
去年の十一月までは。
十四立方メートルの月
去年の十一月、メーターの針は、十四を指していた。
倍以上だ。読み間違いかと思って、蓋を閉め、もう一度開けた。
十四のままだった。
漏水を疑うのが、検針員の基本だ。
トイレの水が止まらない。庭の散水栓が緩んでいる。
私は通路を戻り、玄関のチャイムを押した。
志津子さんは、すぐに戸を開けた。待っていたような速さだった。
「数字、変わりましたか」
「ずいぶん増えています。どこか漏れていないか、見てもいいですか」
志津子さんは、少し笑った。
「漏れてません。息子が、ときどき帰るもんで」
「息子さんが」
「お風呂が好きなのよ、あの子は。長いの」
「それは、賑やかですね」
私はそう答えた。
玄関には、女物の靴が一足あるだけだった。
見なかったことにして、その月の票の裏に書いた。
「息子さんがお帰りで、よかったですね」
事務所に戻って、先輩の堀さんに、十四の話をした。
堀さんは、検針歴が二十六年ある。
「年寄りの一人暮らしで倍はな。漏れてるか、孫が来てるかだ」
「孫は、いないそうです」
「じゃあ、息子か。帰ってきてるなら、結構な話じゃないか」
堀さんは、湯呑みの茶を啜って、それ以上は何も言わなかった。
翌月も、その翌月も、数字は十四前後だった。
十二月に十五、一月に十三。ほとんど動かない。
一月の検針日は、冬至の翌週だった。
蓋を開けると、通路いっぱいに、柚子の香りが満ちていた。
小窓の隙間から、湯気に混ざって流れてくるのだ。
「ゆず湯ですか」と票の裏に書くと、返事は短かった。
「息子が、好きなので」
十二月の朝には、別のこともあった。
通路に入ると、排水の溝から、薄く湯気が立っていた。
午前九時だ。溝の水に手をかざすと、まだ温かかった。
昨夜の湯ではない。ついさっき抜かれた湯だ。
それなのに、小窓の奥から、誰かが湯を使う気配はしなかった。
私はその違和感を、メーターの数字と一緒に、手帳の隅に書き留めた。
動かないことが、かえって引っかかった。
息子さんが帰ってくるなら、月ごとに増減があるはずだ。
同じ数字が続くのは、同じことが毎日繰り返されているからだ。
そこまで考えて、私は想像をやめた。
他人の家の数字を、他人の暮らしにしてはいけない。
けれど、数字は、毎月、同じ顔で私に問いかけてきた。
蓋を開けるたび、針の先から、志津子さんの声が聞こえる気がした。
指二本ぶんの小窓
二月の、冷たい雨の日だった。
同じ班の堀さんが熱を出し、私の順路が半日ずれた。
志津子さんの家に着いたのは、午後の四時を回っていた。
いつもは午前だから、その時間は初めてだった。
傘をたたんで通路に入ると、浴室の小窓から、白い湯気が流れ出ていた。
小窓は、いつもの指二本ぶんだけ開いている。
窓の下の溝に、湯が勢いよく流れていた。
排水口から立つ湯気に、私の眼鏡が曇った。
湯気の向こうで、志津子さんが浴槽の栓を抜いていた。
栓の鎖が、じゃらり、と音を立てて、湯面に長い波が立った。
浴槽は満杯だった。澄んだ湯だった。誰かが入った様子は、少しもない。
メーターの数字は、曇ったガラスの内側にあった。
指で拭くと、拭った指先に、湯気の熱が移った。
志津子さんは、私に気づいて手を止めた。
「あら。今日は、遅いのね」
「すみません、順路が変わって」
「見られちゃったわね」
叱られた子どものような顔で、志津子さんは笑った。
私のほうが、悪いことをした気分になった。
志津子さんは腰を伸ばし、エプロンで手を拭いた。
「冷めるとね、もったいないから、抜くの。それで、また沸かすの」
「何回くらい、ですか」
「朝に一回、昼に一回、夜に二回。ガス代はひどいことになってるけど、水道局には黙っててね」
冗談のつもりらしい。私は笑えなかった。
志津子さんは、浴槽に手を沈めて、湯加減を確かめる手つきをした。
「四十一度。あの子は、熱いのが好きだから」
その指先は、ふやけて、白くなっていた。
「息子さんは、今日は」
志津子さんは、湯の抜けていく渦を見たまま答えた。
「十五年、帰ってないの」
十五年前、夫の仕事のことで、息子さんと大きな口論になったそうだ。
息子さんは家を出た。電話番号も、変わってしまった。
「でもね、帰ってきた日に冷たいお風呂じゃ、かわいそうでしょう」
「いつ帰ってきても、すぐ入れるように。ずっと、沸かしてるの」
私は、小窓を見上げた。
志津子さんも、同じほうを見た。
小窓が指二本ぶん開いているのは、門の開く音を聞くためだった。
お風呂にいても、帰ってきた足音を、聞きのがさないように。
「嘘をついて、ごめんなさいね。ときどき帰る、なんて」
「いえ」
「あなたの書く字を見てるとね、あの子が書いてるみたいで。嘘でも、言ってみたかったの」
私は、何も言えなかった。
代わりに、読み取り機の画面を、必要もないのに二度確認した。
物干しのバスタオルを、私は初めて見直した。
二枚のうち一枚は、きれいに乾いて、角まできちんと畳まれたままだった。
検針票の数字が語っていたのは、水の量ではなかった。
待っていた時間の、長さだった。
「この数字、直したほうがいいですか」
そんなことを訊いた自分が、情けなかった。
「いいえ。あなたの読んだとおりでいいの」
志津子さんは、湯気の中で笑っていた。
帰り際、門の前で振り返った。
門扉は、鉄の蝶番がさびて、開けるたびに、きい、と短く鳴る。
私は毎月、その音を、何も考えずに聞いていた。
志津子さんは、十五年、その音だけを待っていたのだ。
私は門を、できるだけ静かに閉めた。かえって、きい、と長く鳴った。
熱いという文句
その夜、私は事務所で、何を書けばいいのか一時間考えた。
正解は、なかった。
帰り道に、実家へ電話をかけた。三年、帰っていなかった。
「何かあったの」と、母はすぐに訊いた。
「何もないよ。声が聞きたかっただけ」
母の声の後ろで、台所の換気扇が回っていた。
その音を、私は電話を切ったあとも、しばらく聞いていた。
次の休みに、帰ることにした。切符は、その場で取った。
翌月の票の裏には、結局、いつもの一行を書いた。
「梅が、ほころんでいました」
三月の票の裏には、私は初めて、自分から質問を書いた。
「お風呂の湯加減は、いかがですか」
翌月の蓋の上に、返事はなかった。小石だけが、雨に濡れていた。
それが、四月への不安を、ひどく大きくした。
三月のメーターは、十四のままだった。
四月、蓋を開けると、数字が六に戻っていた。
胸の奥が、すっと冷えた。
志津子さんが、待つのをやめたのかもしれない。
沸かし直すのを、あきらめたのかもしれない。
坂の桜は、もう半分、散っていた。
玄関のチャイムを押す指が、重かった。
戸は、開かなかった。
メーターの蓋の上には、いつものように、折った紙が小石で押さえてあった。
前の月の検針票の裏に、鉛筆の字。
「沸かし直すのを、やめました」
「息子が、自分で沸かすようになったので」
「熱すぎると、文句を言われました。十五年ぶりに」
「今は一日に一回だけ。親子で、おなじお湯です」
読みながら、通路の壁に手をついた。
浴室の小窓から、水の音がした。
蛇口から落ちる湯の音。それから、低い咳払い。男の人の声だった。
「母さん、窓、閉めていい? 寒いんだけど」
「開けといて」と、志津子さんの声が答えた。
物干しを見上げると、二枚のバスタオルは、その日、どちらも濡れていた。
勝手口が開き、志津子さんが顔を出した。
私を見て、人差し指を唇に当てて、笑った。
「お風呂は、今日も沸いてますよ」と、志津子さんは言った。
窓の向こうで、湯の音が、ゆっくり揺れていた。