
「十時のお客さんは、まだ来んかね。」
祖父は毎朝、客のいない椅子に白い布を掛けてから、その日の剃刀を研いだ。
十二月の最初の月曜、私は店の入口から、その背中と、机の上の祖父の予約表を、黙って見ていた。
駅から商店街まで歩く間に、閉まったシャッターを数えた。十一枚あった。
商店街の端にあるヒロタ理容室。椅子は二脚で、一脚は私が生まれる前から壁際で埃をかぶっている。
戸口の脇では、赤と青と白の回転灯が、昼も夜も回っている。
祖父は八十一歳になった。
店を閉めるかどうか話し合うために、私は電車で二時間かけて帰ってきた。
母は電話で「朝の様子を見てきて」とだけ言った。それ以上は何も言わなかった。
床には髪の毛一本落ちていない。祖父は客が来ない日でも、朝いちばんに床を掃く。
祖父は砥石に水をかけ、剃刀を寝かせる。
シュッ、シュッ、と一定の音がする。石鹸とヘアトニックの匂いが、閉めきった店の中に薄く残っていた。
机の上には、黒い表紙の祖父の予約表が、開いたまま置いてある。
十時の欄には、鉛筆で「ミツル」と書いてあった。名前の横に、消しゴムの滓のような小さな点がひとつ付いていた。
ミツルは、私の父の名だ。
父は私が八歳の冬に、旅立った。
祖父は毎朝、客のいない椅子の高さをいちばん低いところまで下げた。それから、布を掛ける。
ああ、と思った。
祖父はもう、客と息子の区別がつかなくなっている。
店を閉める話をする前に、まず祖父の予約表を片づけなければならない、と私は思った。
「じいちゃん。今日の十時は、誰」
「ミツルよ」祖父は剃刀から目を上げずに答えた。「予約は、うちの決まりじゃけん」
「……そう」
それ以上は、聞けなかった。
十時の欄の小さな点
九時二十分、常連の佐伯さんが、杖の先で戸を鳴らして入ってきた。
毎月、第一月曜だけ来る客だ。八十を過ぎている。
「ヒロタ、また空の椅子に布を掛けとるんか」
「空じゃない」
「へいへい」
佐伯さんは笑って椅子に腰を下ろし、私に目配せをした。
「嬢ちゃん、あれには触るな。十時は、あの人の時間じゃけん」
あの人。父のことだと思った。
「嬢ちゃんは、都会で髪を切っとるんじゃろ」
「はい。美容室で」
「ヒロタの孫が美容師とはのう」佐伯さんは目を細めた。「こいつは嬢ちゃんの話をするとき、必ず鋏を落とす」
「落としたことなんか、ない」祖父がぼそりと言った。
佐伯さんの肩が、笑いで小さく揺れた。
祖父が湯を沸かし、番茶を出してくれた。
湯気の向こうで一口すすると、渋みが舌の奥に残った。
祖父は佐伯さんの首に布を巻き、泡を立てる。
刷毛が頬を回る音。熱いタオルを載せると、佐伯さんの口から、ふう、と長い息が漏れた。
刃が肌の上を滑る。祖父の手は、八十一歳のものとは思えないほど静かだった。
私は美容師だ。都会の店で毎日、他人の髪を切っている。
それなのに、前髪だけは自分で切る。人に触らせたことがない。理由は、考えたことがなかった。
窓ガラスに映った私の前髪は、今朝も左だけ少し短かった。
棚の端に、赤い缶が置いてあった。蓋を開けると、棒付きの飴が数本、色褪せた紙に包まれて入っている。賞味期限は、とうに切れていた。
子どもが泣かずに切り終えたら、一本もらえる。小さい頃に、誰かからそう聞いた気がする。誰だったかは、思い出せない。
十時になった。
祖父は手を止めて、壁の時計を見た。それから、空の椅子をくるりと入口のほうへ向けた。
白い布は、膝の上の客を待つように、静かに垂れている。
祖父は窓の外の人通りを見ていた。
三十分、動かなかった。
十時半になると、祖父は布を外し、きれいに四つに畳んだ。
「来んかったか」
誰に言うでもなく呟いて、祖父は剃刀を洗い始めた。
佐伯さんは、新聞を顔の前に立てていた。読んでいないのは、紙の揺れでわかった。
喉の奥が、熱くなった。毎朝これを、ひとりでやっているのか。
昼は、祖父が鯖の煮付けを作ってくれた。生姜が効いていて、箸の先まで温かい。
「じいちゃん。店のことなんだけど」
「閉めるんじゃろ」
祖父は湯呑みを置いた。思っていたよりずっと、はっきりした声だった。
「閉めるんは、かまわん。月末までで、ええ」
「……いいの?」
「ただな。十時の予約だけは、断らんでくれ。月末までは、あそこを空けとく」
どうして、と聞こうとして、やめた。
聞けば、祖父が父の名前を呼ぶかもしれない。私はそれが怖かった。
午後、祖父が昼寝をしている間に、私は床を掃き、鏡を拭いた。
鏡は曇りひとつなく、毎日磨かれているのがわかった。誰も座らない椅子のために。
自分の店では、閉店後に疲れて、鏡を拭かない日もある。
その夜、実家の台所から母に電話をかけた。
「おじいちゃんね、お父さんの髪、最後まで自分で切ってたのよ」
母の声は、少し眠そうだった。
「病院まで、バリカンだけ持って、毎週」
「……知らなかった」
「あなたの前髪も、あの冬に、切ってもらう約束だったの」
「私の?」
「覚えてない? あなた、あれから前髪を、誰にも触らせなくなったでしょう」
覚えていなかった。八歳の冬の記憶は、雪の匂いと、台所で何かを刻む音しか残っていない。
「明日の夜、店の中を、もう一度見てみる」
そう言って、私は電話を切った。
いちばん低い椅子
火曜の昼過ぎ、戸が鳴いた。
母親に手を引かれた男の子が、入口で立ち止まっていた。五歳くらいだろうか。目がもう赤い。
「初めてなんです。他のお店では、泣いて逃げてしまって」
母親は小声で言って、頭を下げた。
祖父は何も言わずに、椅子の肘掛けに板を一枚渡した。それから男の子の前にしゃがみ、目の高さを合わせた。
「兄ちゃん。うちの鋏は、切っとる間、鳴るだけじゃ。痛うない。鳴るだけ」
鋏が、ちょき、と空で鳴った。男の子が、ほんの少し笑った。
祖父は前髪を切るあいだ、ずっと小さな声で、数を数えていた。
「ひとつ、ふたつ、みっつ」
床に、細い髪がはらはらと落ちる。男の子は一度も泣かなかった。
終わると、祖父は赤い缶を開けて、飴を一本、小さな手に握らせた。
「えらかったのう」
帰り際に、母親が言った。
「あんなに静かに座っていたの、初めてです」
私は箒を握ったまま、黙って見ていた。
祖父の手は、子どもの頭の上でだけ、もう一段、ゆっくり動く。
その手が、どうして私の記憶の中だけ、あんなに遠いのだろう。
火曜の夜、祖父が二階で寝息を立てるのを確かめてから、私は鍵を持って店に降りた。
電気は点けず、机の上の小さなライトだけを灯す。
店の中は、冬の底のように冷えていた。吐く息が、ライトの光の中で白くほどける。
空の椅子の前に立った。
布が掛かったまま、背もたれが外の街灯を受けている。
二階から、祖父の咳が一度だけ聞こえた。私は息を止めて、天井を見た。咳はそれきり、静かになった。
壁に、色褪せた写真が一枚だけ貼ってある。若い祖父の腕に抱かれた、赤ん坊の父。
窓の外を、終電の音が遠ざかっていった。
私はためしに、その椅子に座ってみた。
足の裏が、床にぴたりと着いた。
膝は高く曲がり、肘掛けは肘より少し上にある。
大人が座る椅子ではなかった。
祖父は毎朝、この椅子を、いちばん低いところまで下げていた。
低いところで止めてあった。八歳の私の背に合わせた高さのままだった。
背もたれから垂れた白い布が、肩に触れた。洗いざらしの綿の、少しかたい感触。
父は髪を切りに来るたび、祖父の鏡の前で、少しだけ背筋を伸ばした。
私はその足元で、床に落ちた髪を集めて、山を作るのが好きだった。
祖父はその山を、いつも最後まで掃かずに残してくれた。
そのとき、思い出した。
八歳の十二月。父の見送りが終わった日の夕方。
父は、祖父が整えた短い髪のまま、白い花の間に眠っていた。
祖父は店の鍵を開け、「来週の十時にしよう」と言って、私の前髪に手を伸ばした。
その手は、父の髪を最後に切った手だった。
私は叫んだ。
「お父さんの髪を切った手で、触らないで」
祖父の手は、空中で止まった。
祖父は何も言わず、その手を下ろした。
そして、静かに言った。
「そうか。ほな、来週の十時な」
私はその週も、その次の週も、店に行かなかった。母に連れられて町を出るまで、一度も。
出ていく朝、母が台所の鋏で切ってくれた前髪は、左だけ短かった。
前髪を自分で切るようになったのは、それからだ。
鏡の中の私は、泣いていなかった。ただ、膝の高い椅子の上で、小さくなっていた。
祖父の予約表と虫眼鏡
机のライトの下で、私は黒い表紙の祖父の予約表を手に取った。
ページをめくる。毎日、十時の欄に、同じ字がある。「ミツル」。
昨日も、その前の日も、同じだった。
棚の下に、同じ黒い表紙の帳面が積んであるのに気づいた。
引き出して数えると、十九冊あった。十九年分の、十時の欄。
どの欄の端にも、天気が小さく書き添えてある。「雪」「雨」「晴」。その下に、必ず二文字。
「来ず」。
一冊目のいちばん最初の頁は、十二月十三日、雪、来ず。
盆も、正月も、祖父が風邪をひいた週も、鉛筆の字は途切れていなかった。
ほかの頁に、「ヨシエ 子」という走り書きがあった。近所の子どもの予約だ。
子どもの予約には、親の名前の横に必ず小さく「子」と書く。頁の端に、祖父の字でそう注意書きがしてあった。
一冊目を開いてみた。「ミツル」の横の字は、名前と同じ大きさで書かれていた。
冊を重ねるごとに、その字は少しずつ小さくなっていた。まるで、見られるのを恐れるみたいに。
同じ引き出しの奥に、紙に包まれた小さな鋏があった。
子ども用の、刃の短い鋏だ。柄に、ほどけかけたテープが巻いてある。
刃は、毎年研がれているのか、ライトの下で光っていた。
包み紙の端に、祖父の字で「くるみ」とあった。私の名前だ。
引き出しから、剃刀の刃を見るときの虫眼鏡を取り出した。
十時の欄の「ミツル」の横の、消しゴムの滓のような小さな点に、レンズを当てる。
滲んだ鉛筆の中に、字が浮かんだ。
「子」。
「ミツル」の横に十九年間書き続けられていたのは、「子」の一字だった。
祖父は、息子を待っていたのではなかった。
私は鉛筆の跡を指でなぞった。紙の凹みが、指先に残った。
水曜の朝、九時五十五分。
私は白い布の掛かった低い椅子に、先に座っていた。
階段を降りてきた祖父は、戸口で足を止めた。
「……十時のお客さんです」
私は鏡の中の祖父に向かって言った。
「ミツルの、子です」
祖父は何も言わなかった。
しばらくして、予約表を開き、鉛筆の先で「子」の字の上を、そっと一度だけなぞった。
「遅かったのう」
祖父の声が、少しだけ震えていた。
「前髪を、お願いします」
「じいちゃん。あのとき、私」
「ええ」
祖父は私の前髪を、指でそっと持ち上げた。
「手は、洗うてある」祖父は短く言った。「ずっと、洗うて待っとった」
祖父は、客のいる椅子に白い布を掛けてから、その日の剃刀を研いだ。
襟元に入った指は、あたたかかった。
鋏の音が、額の上で鳴る。
鏡の中で、私の前髪は、左右そろっていった。
終わると、祖父は赤い缶から飴を一本出して、私の掌に載せた。
「泣かんかったら、これじゃ」
「泣いてない」
私は泣いていなかった。たぶん。
口に入れた飴は少し固くて、それでも、ちゃんと甘かった。