返ってきたお守り

黄昏時の静かな港

引き出しの奥に、今も返ってきたお守りがしまってある。

色褪せた紺の袋に、金糸で「安全祈願」と刺繍がある。端のほつれは、俺が何度も指でなぞったせいだ。

港町の郵便局に勤めて、もう八年になる。

局舎は古い木造で、朝いちばんにストーブの匂いがする。

局長が淹れる濃いお茶と、仕分け棚に積もる手紙の束。それが、俺の一日のはじまりだ。

毎朝、磯の匂いをはらんだ風の中を自転車で走り、配達を終えると局に戻って仕分けをする。

赤い郵便バイクではなく自転車なのは、この町の坂と細い路地には、そのほうが似合うからだ。

その繰り返しの中に、三年間、彼女がいた。

俺より五つ年下で、地元の病院で事務をしていた。

笑うと目尻が下がって、受付の窓口でも患者さんによく声をかけられていた。

付き合いはじめた頃、俺は地元の神社でお守りを二つ買った。

石段を上がった先の、小さな神社だ。潮風で朱が剥げた鳥居の前で、俺は財布を出した。

一つを彼女に渡した。

「安全祈願って書いてあるけど、まあ何でも守ってくれるだろ」

照れ隠しにそう言ったら、彼女は両手で受け取って「大切にする」と笑った。

その夜、彼女は自分の鞄の内ポケットに、お守りを大事そうにしまった。

日曜日になると、二人で港の市場を歩いた。

彼女は干物屋の前で必ず立ち止まって、「今日はどれにしよう」と真剣に悩んだ。

俺は隣で、氷の溶ける音と、魚を焼く煙の匂いを吸い込んでいた。

三年のあいだ、そんな何でもない日曜が、何十回あっただろう。

数えたことはなかった。数えておけばよかったと、今になって思う。

秋には、彼女が焼き芋を半分に割って、大きいほうを黙って俺に差し出した。

「こっちのほうが甘いよ」と言うのだが、割ったときの断面は、どちらも同じ色だった。

俺はそれを知っていて、知らないふりをして受け取った。

夏には、仕事帰りの俺を、彼女が病院の裏門で待っていてくれた。

自転車の荷台に彼女を乗せて、坂を下った夕方もある。

背中に当たる彼女の額が、少し熱かった。

今思えば、あれは夏の暑さだけではなかったのかもしれない。

冬の日の「ごめんね」

別れたのは、付き合って三年目の冬だった。

その日は朝から冷え込んで、港には薄く霧が出ていた。

待ち合わせた防波堤の先で、彼女は先に来ていた。

「もう会えない」

コートの襟に顔を埋めたまま、彼女はそう言った。

理由を聞いても、「ごめんね」しか返ってこなかった。

俺はしつこく聞いた。好きじゃなくなったのか、他に誰かいるのか。

彼女はただ首を振って、「違う」とだけ言った。

波が防波堤を叩く音が、会話の隙間を埋めていた。

それ以上、何も言えなかった。

帰り道、霧が濃くなって、街灯の光が丸くにじんだ。

自転車を押して歩いた。ペダルを踏む気にはなれなかった。

部屋に戻っても、電気をつける気力がなかった。

暗い天井を見上げて、俺は朝まで眠れなかった。

その翌日、俺の部屋の郵便受けに小さな封筒が入っていた。

差出人の名前はなかった。見慣れた丸い字で、宛名だけが書いてあった。

中には、あのお守りと、一枚の便箋。

「返すのが遅くなってごめんなさい。ずっと持っていたかったけれど、これはあなたを守るものだから」

それだけ書いてあった。

意味がわからなかった。俺を守るために、お守りを返す?

何度読み返しても、便箋の文字は同じだった。

台所の蛍光灯の下で、俺は封筒の角を、爪の先で何度も折り返した。

お守りを開けて、中を確かめることもしなかった。

それは、彼女との三年を、自分で否定するような気がしたからだ。

返ってきたお守りは、彼女の鞄の中にあった頃より、ずっと軽く感じられた。

怒りとも悲しみとも取れない感情を持て余したまま、俺はその封筒を引き出しの奥にしまった。

それから半年、俺は毎日同じ道を走った。

配達の途中、病院の前を通るたびに、無意識にハンドルが重くなった。

年が明けて、春になった。桜が咲いて、散った。

郵便受けに彼女からの便りが届くことは、もうなかった。

局の仲間に「最近、元気ないな」と言われても、俺は笑ってごまかした。

昼休みには、局の裏の岸壁で缶コーヒーを飲んだ。

漁船のエンジン音と、カモメの鳴き声。いつもと同じ景色なのに、隣の空白だけが目に入った。

彼女の好きだった干物屋の前を通ると、焼ける匂いに足が止まりかけた。

病室の窓の向こう

半年後の秋、彼女の母親から連絡が来た。

局の電話が鳴ったのは、昼の仕分けの最中だった。

「娘が、あなたに会いたいと言っています」

受話器を持つ手が、汗ばんでいた。

その日の配達を同僚に頼んで、病院へ向かった。

自転車を病院の駐輪場に停めたとき、ハンドルを握る手が小刻みに震えているのに気づいた。

玄関の自動ドアが開く音が、やけに大きく聞こえた。

エレベーターは使わず、階段を一段ずつ上がった。

彼女は、四人部屋の窓際のベッドにいた。

別れた頃よりずっと細くなっていた。腕には点滴のチューブが繋がっている。

「来てくれたんだ」

彼女はそう言って、少し困ったように笑った。昔と変わらない笑い方だった。

付き合っていた頃から、もう病気だったこと。

当時すでに、医師から余命を告げられていたこと。

それでも、俺に言えなかったこと。

話しながら、彼女の声は少しも乱れなかった。

「心配させたくなかったから」

「迷惑かけたくなかったから」

「でもほんとうは、ずっと一緒にいたかった」

俺は、うまく返事ができなかった。

彼女の手を握ったまま、港の方角を向いた窓の外をずっと見ていた。

防波堤の先に、見覚えのある灯台が小さく見えた。

握った手は、細くて、驚くほど冷たかった。

病室には、消毒液の匂いと、窓から入る潮の匂いが混じっていた。

カーテンの端が、ゆっくり膨らんでは、しぼんだ。

向かいのベッドの老婦人が、俺たちに気づかないふりをして、静かに編み物をしていた。

「お守り、ちゃんと届いた?」

彼女が小さな声で聞いた。

「届いたよ。意味がわからなくて、しまいこんでた」

「そうだよね。ごめんね」

彼女は目を閉じて、少しだけ笑った。

「あれがあれば、あなたはきっと大丈夫だと思ったの」

俺は、何か言わなければと思った。

でも、喉の奥が固く閉じて、声にならなかった。

看護師さんが面会の終わりを告げに来るまで、俺は彼女の手を離さなかった。

帰りぎわ、彼女は枕の上から、小さく手を振った。

それが、俺が見た最後の笑顔になった。

返ってきたお守りの重さ

彼女は、その冬を越せなかった。

雪は降らなかったが、海風がひどく冷たい朝だった。

局の仲間が数人、黙って斎場の隅に立っていてくれた。

誰も何も聞かず、ただ俺の肩を、順番に軽く叩いて帰っていった。

葬儀の日、斎場の外では、海からの風が白い花を揺らしていた。

母親が、俺の前で足を止めた。手には、小さな紙の包みがあった。

「あの子ね、あなたにお守りを返したあとも、毎月、私を神社へ行かせたんです」

包みの中には、色褪せた絵馬の控えと、領収の紙が何枚も束ねてあった。

どれも日付が違う。そして、どれにも同じ言葉が書いてあった。

「配達の安全と、あの人の健康を」

彼女は動けなくなってからも、母親に頼んで、毎月ひとりで石段を上がらせていたのだ。

俺の知らないところで、三年前に俺が買った神社へ、ずっと。

「お守りを返したのは、あなたにもう何も背負わせたくなかったからだと思います」

母親は、泣き笑いのような顔で言った。

「でもね、あの子は最後まで、あなたを守るつもりでいたんです」

俺は、その場で動けなくなった。

紙の束は、薄いのに、不思議なほど重かった。

その夜、俺は引き出しの奥から封筒を取り出した。

半年ぶりに、ようやく便箋を最後まで読んだ。

裏側に、薄い鉛筆で、小さく一行だけ書いてあった。

「ありがとう。いつも安全運転でね」

郵便バイクではなく自転車だと、彼女はちゃんと知っていたはずなのに、そう書いてあった。

俺は声を出して笑って、そのまま長いこと泣いた。

守られていたのは、俺のほうだった。何も知らずに、毎朝この町を走っていた間も。

今でも俺は毎朝、港町を自転車で走る。

磯の匂いをはらんだ風が吹くたびに、彼女のことを思い出す。

引き出しの奥の返ってきたお守りは、ずっとそこにある。

彼女が俺に返してくれたもの。

俺を守るためにと言って、自分の手を離したもの。

今は俺が持っている。

返ってきたお守りの端を、親指でそっとなぞる。

ほつれた金糸が、夕日にかすかに光る。

夕方、配達の帰りに、あの神社の石段を上がることがある。

朱の剥げた鳥居の下で、ポケットの中の紺の袋に、そっと手を当てる。

賽銭箱の前で、財布から小銭を二枚だけ取り出す。

一枚は自分の分で、もう一枚は、彼女の分だ。

鈴を鳴らすと、夕暮れの境内に、乾いた音がゆっくり広がっていく。

彼女の分も、守れるように。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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