俺が作った足で歩いてくれ

秋の街並みと静かな散歩

高山に着いたのは、十月の中旬だった。

新幹線を降りて在来線に乗り換え、松本を過ぎたあたりから車窓の景色が変わっていった。

平らな盆地が狭まり、山が両側から近づいてきて、川沿いに線路が吸い込まれていった。

斜面の木々が、赤と黄に染まり始めていた。

俺は荷物を網棚に押し込んだまま、ぼんやりとその景色を見ていた。

飛騨高山市立病院に義肢補装具室が開設される、と聞いたときから、この話は断るつもりだった。

東京の義肢装具センターで十年。

症例も豊富で、技術的な刺激には事欠かなかった。

それでも上司に「行ってみないか」と言われたとき、俺はすぐには断れなかった。

正確には、断る理由を口にできなかった。

飛騨高山という地名を聞いた瞬間に、胃のあたりがぐ、と収縮したのを感じた。

その理由は知っていた。

だから口にできなかった。

義肢装具士になろうと決めたのは、大学三年のときだった。

別に明確な動機があったわけではない。

リハビリテーション工学の授業で初めて義足の構造を学んだとき、なぜかそこだけ頭に入ってきた。

義肢は、人の体の一部を補う道具だ。

ただの道具なのに、使う人によってまったく違うものが必要になる。

体重も、歩き方も、どんな生活をしたいかも、全部違う。

だから既製品はなく、一つひとつ手で作る。

そのことが、妙に俺の心に引っかかった。

動機が、あるとすればそれだけだった。

ただ、振り返ってみると──本当の理由は別のところにあったのかもしれない、とずっと思っていた。

言葉で謝れない人間が、手で謝ろうとしていたのかもしれない──とは、高山に来てから初めて考えた。

病院に着いた翌日、担当患者のファイルを渡された。

義肢・装具の適合調整を必要とする患者が、現時点で十一名。

リストを一枚めくって、俺は手を止めた。

久保田春子、三十八歳。

左下腿切断。

住所は高山市上三之町。

春子だった。

名前を見た瞬間、二十五年前の廊下の空気が蘇った。

理科室の前の、リノリウムの床。

そこに染み付いているはずの、春子の横顔。

あの日のことを、俺は一度も忘れたことがない。

むしろ、忘れようとするたびに鮮明になった。

中学二年の冬だった。

春子は半年前に交通事故で左足を失い、松葉杖で学校に戻ってきたばかりだった。

俺たちは小学校のときから同じ班で、毎日並んで通学路を歩いてきた仲だった。

春子は口数の少ない子だったが、野良猫を見つけるのだけは人より早くて、俺は毎日その細い目でどこを見ているんだろうとずっと思っていた。

事故の後、春子が学校に戻ってきたとき、俺は何も言えなかった。

松葉杖を使って階段を上る春子を見て、助けた方がいいのか、声をかけた方がいいのか、それとも知らないふりをした方がいいのか、何も判断できなかった。

中学生の俺には、その距離感が計れなかった。

結果として、俺は春子に何もしなかった。

するつもりがなかったわけではない。

ただ、できなかった。

あの日は、理科室の前の廊下だった。

春子が松葉杖で歩いていて、俺の横をすり抜けようとしたとき、杖の先が俺の上靴の爪先にかかった。

痛くもなかった。

軽くつっかかっただけだった。

だけど俺は、こう言った。

「邪魔くさい」

口から出た瞬間に後悔した。

口から出てしまった言葉は、もう取り返せなかった。

春子の顔が、すっと固まった。

怒りでも、悲しみでもない、何かが抜け落ちたような顔だった。

何も言わずに、ゆっくりと歩いていった。

それが俺と春子の、最後のまともな会話だった。

翌日から春子は俺の方を見なくなり、俺も謝り方がわからないままずるずると時間が過ぎた。

卒業して、高校が別々になって、それきりになった。

謝れなかった。

ずっと。

義肢装具士になってからも、患者の足を計測するたびに、ときどきあの廊下を思い出した。

松葉杖の先が床を叩く音。

春子の、抜け落ちたような顔。

俺が黙っていたこと。

誰かの足に触れるたびに、その感触が遠くからずっと問いかけてくるような気がした。

お前は何をしているんだ、と。

翌朝、春子が補装具室に来た。

補助の田口さんが「本日の担当の矢野です」と紹介したとき、春子の顔が一瞬止まった。

俺もうまく笑えなかった。

「……他の人に替えてもらえますか」

春子は田口さんに向けてそう言った。

俺ではなく、田口さんに。

「現在、義肢担当は矢野だけでして」と田口さんが困り顔で言った。

春子はしばらく黙っていた。

それから小さく息を吐いて、「わかりました」と言った。

声に、感情がなかった。

俺は何も言えないまま、計測の準備を始めた。

春子の断端部を測りながら、俺はただ手を動かし続けた。

数値を記録して、形状を確認して、荷重ラインを確かめた。

謝る言葉を、何度も喉まで押し上げた。

でも「すまなかった」と言うための文脈を、俺はまだ持っていなかった。

二十五年間ずっとそうだったように、言葉が出てこなかった。

それから三週間、俺は黙って仕事をした。

石膏で型を採り、ソケットを作り、試適しては調整を繰り返した。

春子の歩行パターンは独特だった。

義足の経験が長くて、体が自分なりの動き方を覚えてしまっているので、新しい義足に合わせるのではなく、義足を春子の歩き方に合わせる必要があった。

右足の着地のタイミング、踏み込みの強さ、重心の移動の癖。

三週間かけて、俺はそれをひとつひとつ計測して、削って、加えていった。

春子は最初、必要最小限のことしか喋らなかった。

「ここが当たる」「歩くと違和感がある」「膝の曲がりが足りない」。

そのたびに俺はソケットを削り、パッドを加え、また試してもらった。

ある日の調整の途中、春子がぽつりと言った。

「なんでこの仕事してるの」

俺はヤスリを持ったまま、少し考えた。

嘘をつくつもりはなかった。

「……謝りたかったからかな」

春子は何も言わなかった。

俺も続けなかった。

それだけだった。

でも次に春子が来たとき、彼女の顔から何か、固い層のようなものが薄れていた気がした。

俺の気のせいかもしれなかった。

でも気のせいでも、作業を続ける理由にはなった。

義足の最終調整のために、俺は春子の自宅を訪ねた。

実際の生活環境での動作確認が必要だった。

上三之町の石畳の細い路地を歩いていくと、白壁の古い町家が並んでいた。

久保田家の玄関には、藍染めの暖簾が下がっていた。

紺色の地に、白い菊の模様。

出てきたのは春子の母、典子さんだった。

七十代の、背筋の伸びた小柄な女性だった。

俺の顔を見た瞬間、典子さんは静かに目を細めた。

「矢野くんね」

「はい。お世話になります」

「……少し待っててください」

典子さんは家の奥に入り、しばらくして戻ってきた。

手に、折り畳んだ手ぬぐいを持っていた。

紺色の地に、白い菊の柄。

玄関の暖簾と、同じ染め模様だった。

丁寧に糊付けされた、きれいな染め物だった。

「これ、あなたに」

俺は受け取り方がわからなかった。

「二十五年前から、箪笥に入れてあったものです」

典子さんの声は静かだった。

「あの子が中学のとき、ひどく落ち込んで帰ってきた日があってね。理由を訊いたら、廊下で誰かに邪魔くさいと言われたって」

俺の手が止まった。

「私は怒りましたよ。でも春子は、『あの子は悪くない、ちゃんと謝りに来てくれるから』って言い張って聞かなかった」

紺の手ぬぐいを、俺はただ持っていた。

「その子が来たら渡しなさいって、自分で染め方まで教えてくれて。……あの子が二十歳になっても、三十になっても、あなたは来なかった」

俺は、ずっと謝りに来なかった。

二十五年間、一度も。

「でもあの子はずっと待ってたんですよ」

典子さんの言葉が、俺の胸の中心を静かに抉った。

俺は頭を下げた。

「……申し訳ありませんでした」

こんな場所で、こんなふうに言う言葉ではなかったかもしれない。

でも他に言葉がなかった。

典子さんは何も言わなかった。

ただ小さく頷いた。

その顔に怒りはなかった。

ただ長い時間をやり過ごしてきた人の、静かな疲れのようなものがあった。

俺は帰り道、手ぬぐいをコートのポケットに入れて、石畳の路地を歩いた。

冷たい風が吹いていた。

春子が二十五年間待っていたということを、何度も確かめるようにして歩いた。

義足が完成したのは、十一月に入った最初の週だった。

高山の朝はもう冷えていた。

俺は春子を外に連れ出した。

病院の駐車場ではなく、上三之町の石畳の路地を歩いてもらいたかった。

観光客が写真を撮っていたり、酒蔵の前に人が立っていたりする、あの細い路地だ。

春子は義足を装着し、俺の隣に立った。

冬の始まりの薄い光の中で、春子の息が白くなっていた。

最初の一歩を出す前に、少し間があった。

俺は何も言わなかった。

言葉は要らないと思った。

春子が、足を踏み出した。

石畳の上を、ゆっくりと歩いていった。

足音がした。

乾いた石の上に、俺が三週間かけて作った足音が響いた。

五メートル、十メートル。

春子は止まらなかった。

路地の曲がり角まで歩いて、そこでようやく立ち止まった。

振り返らなかった。

肩が少し動いているのを見て、俺はわかった。

俺も何も言えなかった。

冬の始まりの朝の空気が、鼻の奥をひりひりとさせた。

しばらくして春子がゆっくり振り返り、俺を見た。

泣いていた。

「遅い」

と、春子は言った。

俺はゆっくりと頷いた。

「ごめん」

それだけだった。

それだけで、二十五年分の何かが、静かに降り積もっていった気がした。

春子はもう一度、石畳の先へ歩いていった。

今度は少し速く。

俺はポケットの中の手ぬぐいを握りしめながら、その足音を聞き続けた。

菊の柄の手ぬぐいは、まだ箪笥の中の匂いがした。

二十五年間、誰かが来るのを待っていた匂いだった。

俺には、ちゃんと謝る前に、作らなければならないものがあった。

そのことに気づくまでに、二十五年かかった。

手の中の手ぬぐいは、俺が想像していたよりずっと軽かった。

それでも春子の足音は、今、確かにここにある。

石畳の上を、今もなお鳴り響いていた。

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