書けなかった婚姻届
生花店で出会った五つ年上の彼女は、胸の手術の傷をひそかに隠して、私を遠ざけ続けました。書けなかった婚姻届と、押し花の勿忘草に託された最後の手紙。忘れてほしいと願…
胸が締め付けられるような、あの感覚。泣けるほど悲しいわけではないのに、なぜか心のどこかに引っかかって残る話があります。後悔、別れ、言えなかった言葉。切なさの中にこそ、人が生きる美しさがある——そんな短編をまとめました。
生花店で出会った五つ年上の彼女は、胸の手術の傷をひそかに隠して、私を遠ざけ続けました。書けなかった婚姻届と、押し花の勿忘草に託された最後の手紙。忘れてほしいと願…
港町の小学校で受け持った九歳の柚は、遠足の弁当箱にりんどうを隙間なく並べて持ってきた。白いご飯と焦げた卵焼きを、あの子は仏壇の花で隠していたのだ。母を見送った、…
閉館の貼り紙が出た古い名画座で、私は別れた彼が遺した上映日誌を開いた。映写室の熱、雷の夜のオールナイト、病室の白い天井。鉛筆の特集リストは九本で止まり、十本目だ…
大阪から雪国の高校へ移った二年生の冬、私は訛りを笑われて口を閉じました。渡り廊下の隅で泣いていた私に声をかけたのは、いつも古いカメラを持つ七海さんです。フィルム…
造船の町に生きた父は、病に伏してなお息子の全力のキャッチボールを受けとめました。痩せた腕で一球も落とさず、痛みと引き換えに投げ返してくれた三十球。最後の手帳に遺…
雨の県道で倒れた身元不明の女性の首に、錆びた留め金のペンダントが下がっていた。ピンセットでこじ開けた蓋の中の写真を、当直医の佐伯先生は知っていた。結婚式まであと…
電気もガスも止まった冬、母は蝋燭の夜を「キャンプの日」と笑った。惣菜屋の割烹着、茶碗の底のご飯、家計簿に挟まれた質屋の預り証。進学を願ってくれた母への、保育士に…
生まれる前から家にいた白猫のミーコ。嵐の夜に父が拾ったその子は、漁師の父を持つ港町の少女のそばで、つらい日もうれしい日もいつも静かに寄り添い続けてくれました。一…
単身赴任先の横浜へ何度誘っても来なかった母。四十九日の夜、簞笥の奥から見つかった母のガイドブックには、赤鉛筆の線と「息子と」の三文字が並んでいました。言えなかっ…
下町の蕎麦屋そば処やなぎ。二十歳の暮れ、病床の父が引き出しから出したのは黄ばんだ封筒でした。差出人は、僕が十二の冬に逝った母です。角に重なったテープの跡が四つあ…
三百二十円を握りしめ、入院する母へ贈り物を探して古書店を訪れた男の子あきら。棚の奥で見つけた古い星の絵本が、巡り巡って母から子へと想いを運びます。命の尊さと親子…
祖父にもらった青い硝子のかけらを、幼なじみの千夏は「彼にあげてくる」と言って持っていきました。春の前に千夏を見送ったあと、私は菓子の缶の底で、あの雪の朝になくし…
りんごの花が咲くころ、私はいつも父を思います。顔も写真も知らない父。仏壇の花立ては二つあるのに、花はいつも片方だけでした。中学二年の春、祖父に連れられて訪ねた畑…
感動する話をお探しの方に。山岳救助隊員だった無口な父は「情熱だけは持ち続けろ」とだけ言い遺し、雪の山で要救助者を庇って亡くなりました。押し入れに遺された私のサイ…
隣の家の章にいと二人で作った川の生きもの図鑑は、九十三番で止まったままでした。塀一枚向こうの窓を見ないようにして過ごした二年のあと、私の手に残されたのは絵のない…