直立不動の敬礼
十四年前の土砂災害の夜、暗い土の中で握られ続けた小さな手がありました。声を失っても口を動かし続けた元救助隊員と、その咳払いだけを頼りに朝を待った娘が再会する泣け…
胸が締め付けられるような、あの感覚。泣けるほど悲しいわけではないのに、なぜか心のどこかに引っかかって残る話があります。後悔、別れ、言えなかった言葉。切なさの中にこそ、人が生きる美しさがある——そんな短編をまとめました。
十四年前の土砂災害の夜、暗い土の中で握られ続けた小さな手がありました。声を失っても口を動かし続けた元救助隊員と、その咳払いだけを頼りに朝を待った娘が再会する泣け…
十勝の除雪車に乗る私は、兄の長靴がなぜ右足だけすり減るのか知らずにいました。封も切られぬままロッカーの底に眠っていた合格通知、柱に一本もない兄の背比べの線、二十…
五十年のあいだ、薬を一粒も飲まずに逝った銭湯の祖父。葬儀のあと、常連の理髪師が届けてくれた手紙には、生まれたばかりの私の命と引き換えに立てた誓いが綴られていまし…
七時十六分の電車。ホームで隣に座るおじいさんは、毎朝オレンジ色の花束を抱えていました。輪ゴムを二重に留める理由も、来年の春の種をもう採り終えていた理由も、私は何…
山の観測員だった夫を沢に奪われて四度目の冬。妻は毎朝、三つ目の渡し石を見おろしてから家に戻ります。甘い卵焼き、桜の櫛、所長の夜の電話。一周忌に開いた野帳の余白と…
雪深い温泉町で、十九歳の私は独りで娘を育てていました。玄関の履物をいつもそろえてくれた咲。あの子が遺した小さな習慣の本当の意味に私が気づいたのは、何年もあとのこ…
餌をやると、翌朝きまって沓脱ぎ石の右の端にどんぐりが一つ置いてある。お礼だと思っていました。けれどその置き場所には、私が越してくる三年も前から決まっていた理由が…
駅裏の小さな卓球場に、毎日ひとりで通う高校生がいました。彼が球出し機をいちばん速くする理由を、店主は長いあいだ知りませんでした。亡き父と交わした約束と、返せなか…
海の見える坂の町の活版印刷所で、わたしと志乃と省吾は出会いました。志乃が昏睡に落ちる前の晩、一人きりで組んでいたのは、自分自身の言葉でした。彼女が遺した最後の版…
藍染職人の継母を、私は最後まで「お母さん」と呼べなかった。青い手が苦手だった私を川から押し上げ、そのまま帰らなかった人。遺された日記のダイヤル錠は、私の誕生日で…
父の出て行った家で、母は市場と総菜屋を掛け持ちして俺を育てた。曲がった俺が過ちを犯した日も、家庭裁判所の帰り道も、母は決して泣かなかった。二十歳の冬、一枚の合格…
雪深い北の町の借家で、母は午前五時に家を出る前、あのアルミの弁当箱へ卵焼きを詰めていた。中学二年の春、私はその箱をダサいと言って突き返し、毎朝三百円を受け取るよ…
四つで母を亡くした俺に残った記憶は、ブランコの鎖の音だけだった。右がカ、左がコ。三十年後、親父が病室でこぼした一言と、押入れの缶から出てきた一枚の短冊が、あの夕…
反抗期の朝、私は母に「産んでくれなんて頼んだ覚えはない」と言い放った。母は言い返さず、ただ黙って夕飯を作った。大学入学の日、戸籍抄本に記されていた「養女」の二文…
蛍は亡くなった人の魂だと信じて育った娘と、言葉の少ない川漁師の父の物語。父が繕い続けた竹の火籠と、初盆の夜に籠へとまった一匹の蛍が、ついに交わせなかった親子の想…