商店街のはずれで、亡き妻と二人で始めた小さな古書店を、いまも一人で守っております。
師走の午後は、日が落ちるのが早いものです。
客足の途絶えた店内には、古い紙とインクの、少し湿った匂いだけが漂っていました。
石油ストーブの上で、薬缶がことこと音を立てていたのを、今でも覚えています。
その日、硝子戸が、遠慮がちに鳴りました。
隙間から吹き込んだ風は、頬を刺すほどに冷たいものでした。
顔をのぞかせたのは、ランドセルを背負ったままの、小さな男の子でした。
頬を林檎のように赤くして、肩で息をしていました。
どうやら、走ってきたようでした。
襟元には、少し大きすぎるマフラーが、不器用に巻かれていました。
きっと、家を出るとき、自分で慌てて巻いてきたのでしょう。
「あの……ここで、本を売っていますか」
「ええ、たくさんありますよ。寒かったでしょう。どうぞ、お入りなさい」
その子は靴の先で敷居をまたぐと、握りしめていた手を、そっと私の前で開きました。
手のひらの上で、十円玉と一円玉が、汗ばんで鈍く光っていました。
「三百二十円で、買える本はありますか」
数えるまでもなく、それがこの子の全財産なのだと、私にはすぐに分かりました。
子どもがなけなしのお小遣いを握って本屋を訪ねるとき、その裏にはたいてい、大人の知らない大きな理由が隠れているものです。
聞けば、入院しているお母さんに、贈り物をしたいのだと言いました。
「坊やは、お名前は?」
「あきら。三年二組の、はやしあきら」
「あきら君ね。よく、一人でここまで来ましたね」
「バスに乗ってきたんだ。お小遣い、使いたくなかったから、帰りは歩く」
その健気さに、私は返す言葉を、うまく見つけられませんでした。
「お父さんは?」と、私はそっと尋ねました。
「いないよ。ずっと、お母さんと二人。だから、お母さんが元気じゃないと、困るんだ」
その「困る」という言葉の底に沈んだものを思うと、私は胸が、詰まりました。
「お母さん、ずっと寝てるんだ。ごはんも、あんまり食べないの」
「笑うときも、なんだか無理してるみたいで。だから、元気になるものを、あげたくて」
その子はまだ、知らされていないようでした。
母の病が、もう人の手の届かないところまで、静かに進んでいることを。
私は胸の奥がひとりでに軋むのを悟られぬよう、薬缶の火を、そっと細めました。
妻を病で見送ったのは、この店を構えて三年目の、やはり寒い冬のことでした。
あの頃の私も、何かを贈れば時間を引き止められるような気がして、意味もなく花ばかり買っていました。
病室が花で埋もれても、妻の顔色は、日ごとに白くなっていくばかりでした。
贈り物では、命は買えない。
それを痛いほど知っている私の前に、なけなしの小銭を握った小さな手が、差し出されている。
世界とは、時にむごく、そして不思議なものだと思いました。
妻は、この店の帳場に座って本を読むのが、何より好きな人でした。
とりわけ星や神話の物語を好み、閉店後の暗い店内で、私によく読み聞かせてくれました。
「人は死んだら星になるのよ」と、妻は本気とも冗談ともつかぬ顔で言ったものです。
その妻を見送ってから、私は星空を、正面から見上げられなくなっていました。
だからこの子が「星の絵本」と口にしたとき、私の胸は、ひとりでに騒いだのです。
※
「本なら、お母さん、喜ぶかな」
「前にね、星の絵本を、読んでくれたんだ。すごく、きれいな絵の」
「星の、絵本ですか」
「うん。夜になると、窓から星を指さして、いろんなお話をしてくれた」
「あの星はね、昔、一生懸命に生きた人なんだよ、って。でも、その絵本、引っ越すときに、なくしちゃったんだ」
その子は、去年の七夕の夜のことを、ぽつぽつと話してくれました。
熱を出して寝込んでいた母が、それでも窓を開けて、天の川を指さしてくれたこと。
「あそこに、光ってる大きな星が見える? あれが織姫だよ、って教えてくれた」
「短冊にね、お母さんの病気が治りますようにって書いたら」
「お母さん、なんだか泣きそうな顔で、笑ったんだ」
その笑顔の意味を、この子はまだ、知らないのです。
「短冊に、お母さんの病気が治りますようにって書いたら、お母さん、なんだか泣きそうな顔で笑ったんだ」
その笑顔の意味を、この子はまだ、知らないのです。
知らないからこそ、その声はどこまでも澄んでいて、私はかえって胸を突かれました。
その子は棚と棚のあいだを、宝探しでもするように、ゆっくりと歩きまわりました。
背表紙の一つひとつに指を這わせ、届かない段には、爪先立ちで背伸びをしました。
古い紙のあいだから舞い上がる細かな埃が、西日の中で、金色に光っていました。
「これ、高いよね」
「お花の図鑑もいいな。でも、枯れたら悲しいから、やめとく」
「お料理の本にしようかな。お母さん、退院したら、また台所に立ちたいって、言ってたから」
母を思う言葉が一つ零れるたびに、私は棚の陰で、そっと目頭を押さえていました。
「それにね、僕、お母さんと、まだ約束があるんだ」
「約束、ですか」
「うん。元気になったら、二人でプラネタリウムに行こうって。だから、絶対に、治ってもらわなきゃ」
「それにね、お母さんの作る玉子焼き、すごく甘いんだ」
「早く退院して、また作ってほしいな。僕、あれがいちばん好きなんだ」
「運動会のときもね、熱があったのに、来てくれたんだよ」
「一等賞を取ったら、いちばん大きな声で、名前を呼んでくれた」
小さな思い出を数えあげる声は、誇らしげで、そして、どこか祈りに似ていました。
その約束の重さを、この子はまだ、痛みとしては知らないのです。
やがてその子は、棚のいちばん下の段で、ふと動きを止めました。
色あせた一冊を、両手で、そっと引き抜きました。
夜空いっぱいに星を散らした、古い絵本でした。
「あ……これ。これだ。お母さんが読んでくれたのと、おんなじ絵だ」
表紙をなでる、その小さな手が、かすかに震えていました。
私はその絵本に、確かに見覚えがありました。
それは何年も前、まだ若い一人の女性が、生まれたばかりの子のためにと、この店で買っていった一冊だったのです。
「星のお話を、この子に読んでやりたくて」
そう言って、お腹の子をいとおしそうに撫でながら微笑んだ、あの日の母親の顔が、ゆっくりと胸によみがえりました。
巡り巡って、その同じ絵本が、いま、息子の手のなかに戻ってきている。
本というものは、時に、人の運命を静かに結び直します。
手放されたはずの一冊が、こうして持ち主のもとへ帰ってくることが、確かにあるのです。
私は、その絵本を長いあいだ売らずに棚の奥へ残していた、過去の自分に、そっと感謝しました。
私は言葉を失い、ただ、その偶然の糸のあまりの細さに、静かに震えていました。
棚に挿さっていた、たった一冊。
それを、この子が、迷いなく選び取ったのです。
値札には、千二百円と書いてありました。
※
その子が手を洗いに立った、ほんの短いあいだのことでした。
私は値札を、そっと剥がしました。
そして裏に、震える指で「三百二十円」と、書き直したのです。
足りない分は、私が払えばいい。
いいえ、本当のことを言えば、その絵本の値打ちは、もう金額では計れないものに、なっていました。
戻ってきたその子に絵本を手渡すと、値札を見て、目を大きく見開きました。
「ちょうど……ちょうど、買える」
「ええ。ちょうど、ですね」
「おじさん、ありがとう。早く、お母さんの喜ぶ顔が、見たいな」
その一言に、私はもう、堪えることが、できませんでした。
「よかったら、おじさんも、一緒に届けに行っていいですか」
その子は大きくうなずいて、私の袖を、ぎゅっと引きました。
店の鍵を閉め、二人で、夕暮れの商店街を歩きました。
外はもう、藍を溶かしたような空でした。
その子は絵本を胸に抱えて、一度も、離しませんでした。
「おじさんのお店、いい匂いがするね。古い紙の、匂い」
「そうですか。ずっと居ると、自分では分からなくなるものですよ」
「僕、大きくなったら、ああいうお店の匂いのする人に、なりたいな」
「本屋さんに、なりたいのですか」
「うーん、わかんない。でも、人が大事にしてたものを、大事にする人になりたい」
その言葉は、まるで、母から譲り受けたもののように、澄んでいました。
その言葉が、凍えた夕風のなかで、妙にあたたかく響きました。
角の花屋の灯りが、その子の頬を、ほんのり染めていました。
「おじさんは、星のこと、詳しい?」
「妻がね、詳しい人でした。今は、私にいろいろ教えてくれる人は、いなくなってしまいましたが」
「じゃあ、僕が大きくなったら、教えてあげる」
その約束に、私は思わず、声を詰まらせました。
子どもの何気ない一言が、大人の乾いた胸を、こんなにも濡らすものかと思いました。
※
病院の廊下は、消毒の匂いで、しんと冷えていました。
病室のドアを、その子は勢いよく開けました。
「お母さん、プレゼント」
白い部屋の窓際で、痩せた頬の女性が、ゆっくりと、こちらを向きました。
絵本を見た瞬間、その落ちくぼんだ目から、大粒の涙が、溢れ出しました。
「これ……お母さんが、あなたに読んだ、あの絵本」
「うん。なくしちゃったの、見つけたんだ。ね、また読んでよ」
あきら君は、母のかたわらに腰かけ、絵本の最初の頁を、自分で開きました。
「じゃあ、今日は、僕が読んであげる」
たどたどしい声が、白い病室に、ゆっくりと響きました。
「むかしむかし、空には、まだ星がひとつも、ありませんでした」
母は目を閉じ、その声に、じっと耳を澄ませていました。
頬を伝う涙を、拭おうともせずに。
「上手だね、あきら」と、母は小さくつぶやきました。
「お母さんより、ずっと、上手」
「じゃあ、続きは、お母さんが元気になったら、交代ね」と、あきら君は言いました。
母は、ゆっくりと、うなずきました。
その約束が果たされることはありませんでしたが、その夜の病室は、確かに、星でいっぱいでした。
帰り道、あきら君は、私の手をしっかりと握っていました。
「おじさん、今日、ありがとう」
「お母さん、久しぶりに、いっぱい笑ってた」
「うん。よかったですね」と、私は答えるのが、精一杯でした。
街灯の下で、あきら君の小さな影が、私の影と、並んで伸びていました。
その二つの影を、私は、生涯忘れないだろうと思いました。
別れ際、あきら君は振り返って、大きく手を振りました。
「また、絵本を買いに来るね」
その声は、冬の澄んだ空気の中を、まっすぐに届きました。
女性は絵本を胸に抱きしめ、それから、静かに、首を横に振りました。
「ありがとう。……でもね、ごめんね」
「お母さん、もう一緒に、星を見に行けないかも、しれないの」
その子は、驚いた顔をしました。
けれど、うつむいたのは、ほんの少しのあいだだけでした。
顔を上げたその子は、母の目を、まっすぐに見て、はっきりと言いました。
「一生懸命に生きた人は、星になるんだよ」
「一生懸命に光った星は、いつかまた、人間に生まれ変わるんだって、この本に、書いてあった」
「だから、寂しくないよ。空を見上げれば、いつだって、お母さんが、いるんだから」
「でもね、まだ、諦めちゃ、だめだよ」
「まだ、この絵本を最後まで、二人で読んでないもん。プラネタリウムの約束も、まだ、なんだから」
女性は震える手で涙を拭い、それから、これ以上ないほど、やわらかく笑いました。
点滴の管の付いた腕を精いっぱい伸ばして、その子を、そっと胸に抱き寄せました。
「そうね。……そうね。お母さん、頑張る。約束、まだ果たしてないものね」
それから女性は、私に気づき、目だけで、深く頭を下げました。
何もかも、分かっているのだと、その目は語っていました。
私は廊下へ出て、そっとドアを閉めました。
窓の外には、その日いちばんの、一番星が、静かに灯っていました。
しばらくのあいだ、私は、その場から動くことが、できませんでした。
看護師さんが、そっと私にお茶を出してくれました。
「お母さん、あの絵本のことを、ずっと探していたんですよ」と、その方は言いました。
「息子さんに、もう一度だけ読んであげたいって。願いが、叶いましたね」
私は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく、うつむいていました。
※
あれから、十年あまりの月日が、流れました。
先日の夕暮れ、背の高い青年が、ふらりと私の店に入ってきました。
硝子戸の鳴る音は、あの日と、少しも変わりませんでした。
「おじさん、お久しぶりです。あのときの、絵本の子です」
私はすぐには、言葉が、出てきませんでした。
「母は、あの春に、逝きました」
「でも、最後の日まで、あの絵本を枕元に置いて、何度も、読んでいたんです」
青年は、少し照れたように、目を細めました。
「約束のプラネタリウム、退院はできなかったけど、病室の天井に、星を映して、二人で見たんですよ」
「あれが、母との、最後の夜でした」
「今度、その天文台で、働くことに、なりました。星を、仕事にするんです」
「お母さんに、いちばん近い場所だと、思って」
私は、何度もうなずくことしか、できませんでした。
帰りぎわ、青年は、店の棚をぐるりと見渡して、こう言いました。
「本って、いいですね。人の想いを、ずっと預かっていてくれる」
「あの絵本も、きっと、母から僕へ、想いを運んでくれたんだと、思います」
「そういえば、僕、まだおじさんに、星のこと教えてませんでしたね」
青年はそう言って、少年の頃と同じ顔で、いたずらっぽく笑いました。
「今度、ゆっくり話しに来ます。母のこと、それから、星のこと」
「ぜひ」と、私は答えました。
青年が帰ったあと、私は表の看板を仕舞い、夜空を見上げました。
あの冬の日以来、初めて、まっすぐに星を見上げることができました。
無数の光の中に、妻の星と、あきら君の母の星が、並んでいるような気がしました。
冷たい夜気の中で、私の吐く息だけが、白く昇っていきました。
その約束だけは、必ず果たされる気がしました。
硝子戸が、あの日とまったく同じ音で鳴って、青年は、夕闇のなかへ帰っていきました。
店には、古い紙とインクの匂いだけが、静かに残りました。
私は、妻と並んで撮った古い写真に目をやり、ひとつ、うなずきました。
妻の言った通りでした。
人は、星になるのかもしれません。
そして、遺された誰かの胸の中で、いつまでも、またたき続けるのでしょう。
あきら君の母は、確かに、あの子の空に、いちばん明るい星となって、昇ったのです。
もし今、病の淵で、諦めかけている方が、いらっしゃったら。
どうか、あの子の言葉を、思い出してください。
一生懸命に生きること。その尊さを、まだ幼い子が、命がけで、教えてくれたのですから。
生きることを、どうか、諦めないでください。
そして、もし大切な人を見送ったばかりの方がいらしたら。
夜、そっと空を見上げてみてください。
きっと、いちばん明るい星が、あなたを見守っているはずですから。