白猫のミーコ

潮の匂いのする玄関に、いつも白い影が座っていました。

わたしが学校から帰って引き戸を開けると、ミーコはたたきの隅で前足をきちんと揃え、まっすぐにこちらを見上げているのです。雪のように白くて、首のあたりだけがほんのり灰色がかっていて、抱き上げると決まって日なたの匂いがしました。

生まれる前から家にいた猫でしたから、わたしにとってミーコは、飼い猫というよりも家族そのものでした。ごはんの時間になれば足元にすり寄り、わたしが泣けば黙って隣に座る。言葉を持たないぶん、この子はいつもわたしより先に、わたしの気持ちに気づいていたように思います。

父は遠洋の漁に出る人で、ひとたび船に乗れば一月も二月も帰らないことがありました。母は港の干物屋で朝の暗いうちから働いていて、わたしが目を覚ます頃にはもう家にいません。だだっ広い借家に、放課後はわたしとミーコの二匹きり。いえ、一人と一匹きり、でした。

それでもわたしが寂しさに押しつぶされずにいられたのは、玄関にあの白い影が待っていてくれたからです。ただいま、と言うと、みゃあ、と返ってくる。その小さなやり取りだけで、家じゅうにぬくもりが戻る気がしました。

小学三年生の冬のことを、今でもはっきりと覚えています。

父の船が時化に遭い、しばらく無線の連絡が取れなくなったことがありました。母は台所で洗い物の手を止めたまま、じっと暗い窓の外を見ていました。その背中が細く強張っているのが、子供のわたしにも分かりました。

「お母さん、お父さん、大丈夫かな」

わたしがそう尋ねると、母は振り向かずに答えました。

「大丈夫よ。お父さんは海のことをよく知っているから」

けれど、その声はいつもより少し掠れていました。わたしは怖くて、母にこれ以上心配をかけてはいけない気もして、何も言えずに布団にもぐり込みました。膝を抱えて、暗がりの天井を見上げていました。

すると襖の隙間から、白いものがするりと入ってきたのです。ミーコでした。ミーコはためらいもなくわたしの布団に潜り込み、背中にぴたりと体を寄せて、喉を鳴らしはじめました。ごろごろ、ごろごろ、と。その音は小さなエンジンのようで、規則正しく、途切れることがありませんでした。

温かいお腹を背に感じているうちに、強張っていたわたしの体からいつの間にか力が抜けていきました。大丈夫だよ、大丈夫だよ。あの喉の音は、そう繰り返しているように聞こえました。気づけばわたしは眠っていて、父の船が無事に港へ戻ったという知らせが届いたのは、その三日後のことでした。

ミーコが我が家に来たいきさつを、わたしは母から何度も聞かされました。

わたしが生まれる前の、ある嵐の夜のことです。仕事帰りの父が、港の防波堤のそばで、震えている小さな白い子猫を見つけたのだそうです。段ボールも何もなく、ただ濡れた体を丸めて、雨に打たれていたといいます。

「見て見ぬふりができなかったんだ」

父はそう言って、上着の中に子猫を入れて帰ってきました。母は最初、猫を飼う余裕なんてないと渋ったそうですが、父の手のひらの上で必死に鳴くその子を見て、結局折れてしまったと笑っていました。

「あのとき助けなかったら、わたしたちはずっと後悔していたと思うの」

母のその言葉のとおり、ミーコはやがて、わたしたち家族にとってなくてはならない存在になっていきました。海が父を連れ去ろうとした夜も、貧しさがわたしの心を尖らせた日も、この白い子は、あの嵐の夜に受けた恩を、静かに、少しずつ返し続けてくれたのです。

わたしの家は、決して裕福ではありませんでした。

同じ組の子が次々と塾に通いはじめ、新しい筆箱や靴を持ってくるようになっても、わたしはそういうものをねだれませんでした。母の手が、朝から晩まで干物の塩と冷たい水で荒れているのを知っていたからです。それでも、幼い胸のどこかには、やはり母を責める気持ちが確かにありました。

ある夜、わたしはとうとう言ってしまいました。

「どうしてうちには、お金がないの」

母は箸を置いて、しばらく黙っていました。それから、ごめんね、と小さくつぶやきました。怒鳴られるより、その一言のほうがずっと胸に刺さりました。言ってはいけないことを言った、と子供ながらに悟って、わたしは食事の途中で立ち上がり、自分の部屋に逃げ込みました。

畳の上で膝を抱えていると、また白い影が寄ってきました。ミーコはわたしの手の甲を、ざらざらの舌でそっと、そっと舐めるのです。責めるでもなく、慰めるでもなく、ただそこにいてくれました。その舌の少し痛いような感触が、わたしの尖った気持ちを、時間をかけて溶かしていきました。

翌朝、わたしは思い切って、台所に立つ母の背中に声をかけました。

「お母さん、昨日はごめんなさい」

母は振り返って、少しだけ笑いました。

「いいのよ。おいしいお魚、いっぱい食べて大きくなってね」

その足元で、ミーコがみゃあ、と鳴きました。まるで仲直りを見届けたかのように。

父が漁から帰る日、ミーコには不思議とそれが分かるようでした。

連絡もないのに、その日に限って朝から玄関の前をそわそわと行き来し、耳をぴんと立てて外の音を聞いているのです。そして夕方、遠くから父の自転車の音が近づいてくると、ミーコは一目散に駆け出して、たたきに立って尻尾を高く立てました。

「ただいま。おう、ミーコ、留守を守ってくれてたか」

潮と機械油の匂いをまとった父が、大きな手でミーコの頭を撫でます。父はぶっきらぼうな人でしたが、その時だけは目尻を下げて、少年のように笑うのでした。わたしはその光景が好きで、父の帰る日はいつも、ミーコの隣で一緒に玄関を見張っていました。

家族がそろう。ただそれだけのことが、どれほど得がたい幸せだったのか。あの頃のわたしは、まだ半分も分かっていませんでした。

夏の祭りの晩のことも、忘れられません。

港の広場に櫓が組まれ、太鼓の音が家まで届く夜でした。わたしは友達と出かけることになり、久しぶりに心が浮き立っていました。玄関で下駄をつっかけていると、ミーコが足元に来て、いつになく長く鳴きました。

「すぐ帰ってくるから、待っててね」

そう言って出かけ、綿菓子とりんご飴を手に、夜遅くに帰ってきました。引き戸を開けると、ミーコは玄関のたたきに座ったまま、じっと待っていたのです。毛には夜露が少し降りていました。ずっとそこで、わたしの帰りを待っていたのだと思うと、胸の奥が温かくなりました。

わたしはミーコを抱き上げて、その冷えた背中に頬をつけました。祭りのどんな出し物よりも、この子の待っていてくれた姿のほうが、ずっと胸に残りました。

中学に上がる頃には、ミーコはずいぶん年を取っていました。

人の歳でいえばもう百歳を超えているのだと、母が教えてくれました。あれほど軽々と塀を跳び越えていたミーコが、縁側の低い段差の前でためらうようになりました。毛づやも褪せ、抱き上げると背骨の感触が近く感じられて、わたしはそのたびに胸の奥がきゅっと縮みました。

それでもミーコは、わたしが帰ると必ず待っていてくれました。待つ場所が、冷たいたたきの隅から、日の当たる縁側へと移っただけのことです。わたしは学校で嫌なことがあると、縁側に座り込んで、ミーコに何もかも話しました。

「今日ね、仲良しの子とけんかしちゃった」

「先生に怒られたの。わたし、悪くないのに」

ミーコは細くなった目で、うんうん、と聞いているように見えました。言葉なんて一つも返ってこないのに、話し終える頃には、いつも心が少しだけ軽くなっているのです。この子は、わたしの吐き出した言葉を全部、どこか温かい場所にしまっておいてくれる。そんなふうに、わたしは本気で信じていました。

年に一度、山の集落から祖母が泊まりに来ることがありました。

祖母は猫が得意ではないと言いながら、ミーコにだけはなぜか手を焼いて、煮干しをこっそり分けてやっていました。

「この子は、人の心の痛いところが分かるんだねえ」

縁側でミーコの背を撫でながら、祖母がしみじみと言ったことがあります。その言葉の意味を、当時のわたしはよく分かっていませんでした。けれど大人になった今なら、深くうなずけます。ミーコはいつも、いちばん寄り添ってほしい人の、いちばん寄り添ってほしい場所に、そっと座る猫でしたから。

中学二年の秋、わたしは合唱コンクールの伴奏を任されました。

不器用なわたしには荷が重くて、毎晩、家の古いオルガンに向かって遅くまで練習しました。指がもつれるたびに、隣でミーコが丸くなって、鍵盤の音をじっと聴いていました。

本番の朝、緊張で指先が冷たくなっているわたしの膝に、ミーコがそっと乗ってきました。いつもは自分から膝に乗ることなどしない子です。まるで、行っておいで、と背中を押すように、ひとしきり喉を鳴らして、それからゆっくりと降りていきました。

わたしは一音も間違えずに弾き終え、放課後、家まで駆けて帰りました。

「ミーコ、できたよ。一回も間違えなかったよ」

縁側のミーコは、みゃあ、といつもより高い声で鳴きました。その声が、わたしには確かに「よかったね」と聞こえたのです。西の空が燃えるような夕焼けで、その光の中で目を細めるミーコの横顔を、わたしは一生忘れないと思います。

ミーコが弱りはじめてからも、わたしの帰りを待つ習慣だけは変わりませんでした。

足がもつれて、縁側に上がるのにも時間がかかるようになっても、わたしが門をくぐる頃には、必ずそこで待っているのです。わたしはランドセルを下ろすより先に、ミーコの隣に腰を下ろすようになりました。

「ねえミーコ、わたし、大きくなったら何になれるのかな」

先の見えない不安を、わたしはこの子にだけ打ち明けました。ミーコは答えの代わりに、わたしの膝にそっと顎を乗せて、ゆっくりと目を閉じるのです。その重みが、言葉よりもずっと雄弁に、大丈夫だと言ってくれている気がしました。

冬の入り口の、風の強い日でした。

学校から帰って引き戸を開けると、縁側にいつもの白い影がありませんでした。胸の奥がざわりとして、わたしは鞄を放り出し、家じゅうを呼びながら探しました。

「ミーコ、ミーコ、どこにいるの」

ミーコは、寝床にしている押入れの下で、体を小さく丸めて眠っていました。けれど、いくら呼んでも、いくら撫でても、目を開けませんでした。恐る恐る触れたその体は、もう冷たくなっていました。

不思議と、すぐには涙が出ませんでした。ミーコがいなくなるということが、頭では分かっても、心がどうしても飲み込めなかったのです。

仕事から帰った母と二人で、庭の椿の木の下に、小さなお墓を作りました。凍った土は固くて、スコップの刃がなかなか入りません。土を掘っている間じゅう、わたしは一言も口をききませんでした。母も、何も言いませんでした。ただ二人の白い息だけが、寒空にのぼっていきました。

雪の降る朝には、ミーコとよく縁側で並んで庭を眺めました。

白い庭に白い猫。ミーコはときどき前足でそっと雪をつつき、その冷たさに驚いたように耳を伏せて、わたしを見上げるのです。その仕草がおかしくて、わたしはよく声を上げて笑いました。

「ミーコは白いから、雪の中じゃ迷子になっちゃうね」

そう言うと、ミーコはむっとしたように、わたしの膝に頭からもぐり込んできました。障子越しの淡い光の中で、二匹分の体温を分け合うあの時間が、わたしはこの世でいちばん好きでした。何も特別なことのない、けれど二度と戻らない、かけがえのない朝でした。

家に上がって、こたつで温かいお茶を一口飲んだとき、突然、実感が津波のように押し寄せてきました。

玄関に、もう白い影は待っていない。縁側に、もうあの日なたの匂いはしない。ただいまと言っても、みゃあ、と返す声は、二度と聞こえない。

涙が、堰を切ったようにあふれ出しました。わたしは上着も羽織らず、裸足のまま椿の木の下まで走りました。冷たい土の上に膝をついて、声を上げて泣きました。

「ミーコ、今までありがとう」

涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでもわたしは、最後は笑おうとしました。ありがとうを泣き顔のまま言うのは、なんだか違う気がしたのです。ミーコはいつも、わたしのそばで静かに笑っているような猫でしたから。せめて同じ顔で、送り出してあげたかったのです。

その晩、母がぽつりと言いました。

「あの子はきっと、あなたが一人前になるのを、見届けてから逝ったのね」

わたしは布団の中で、声を殺してもう一度泣きました。

夏の祭りの晩のことも、忘れられません。

港の広場に櫓が組まれ、太鼓の音が家まで届く夜でした。わたしは友達と出かけることになり、久しぶりに心が浮き立っていました。玄関で下駄をつっかけていると、ミーコが足元に来て、いつになく長く鳴きました。

「すぐ帰ってくるから、待っててね」

そう言って出かけ、綿菓子とりんご飴を手に、夜遅くに帰ってきました。引き戸を開けると、ミーコは玄関のたたきに座ったまま、じっと待っていたのです。毛には夜露が少し降りていました。ずっとそこで、わたしの帰りを待っていたのだと思うと、胸の奥が温かくなりました。

わたしはミーコを抱き上げて、その冷えた背中に頬をつけました。祭りのどんな出し物よりも、この子の待っていてくれた姿のほうが、ずっと胸に残りました。

あれから、ずいぶんな年月が過ぎました。

わたしは大人になり、港町を離れ、自分の家庭を持ちました。今では我が家にも、やんちゃな猫が一匹います。玄関で待っていてくれる白くはない影を抱き上げるたび、わたしはあの日のミーコを思い出します。

つらいことがあると、心のどこかで、今でもあの喉の音が聞こえる気がするのです。ごろごろ、ごろごろ、と。あれは、大丈夫だよ、と繰り返し言ってくれていたのだと、大人になった今ならよく分かります。

ミーコ。わたしはちゃんと、笑って生きているよ。あなたがそばで教えてくれた温もりを、今度はわたしが、小さな家族に返しているところ。

いつか天国で会えたら、今度はわたしがあなたの話を聞かせてね。楽しい話をたくさんできるように、わたしはこれからも、ゆっくりでも歩いていきます。

今でも椿の花が咲く季節になると、わたしはあの庭を思い出します。赤い花びらが白い墓石の上に散る様子は、まるでミーコが「見ているよ」と手を振ってくれているようで、そのたびにわたしは、少しだけ泣いて、それからちゃんと笑うのです。悲しみは時間とともに柔らかくなり、今ではやさしい思い出だけが胸に残っています。あの子がくれた温もりは、形を変えて、わたしの中で今も生き続けています。

白くて、ふわふわで、温かかった、わたしの大切な家族へ。今までありがとう。ほんとうに、心から、大好きだよ。

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