閉館の貼り紙が出た名画座の、いちばん後ろの席に、私はひとりで座っていました。スクリーンはもう真っ白で、映すものは何もありません。膝の上には、彼が遺した一冊のノートが載っていました。
築六十年になるという古い映画館です。天井は煤けて、椅子はところどころ布が擦り切れ、床は歩くたびに軋みました。それでも、この暗がりだけは、世界のどこよりも私にとって特別な場所でした。
二年間付き合った彼に振られたのは、去年の春のことです。最後は、あの穏やかな人が言ったとは思えないほど、冷たい言葉でした。
「もう、顔も見たくない」
どんなにまだ好きだと伝えても、彼は取り合ってくれませんでした。やがて連絡も途絶えて、私たちは他人に戻りました。理由もわからないまま、私はただ、置いていかれた気持ちだけを抱えて、一年を過ごしました。
※
彼と出会ったのも、この名画座でした。学生の頃、雨宿りのつもりで入った古い映画館で、私は一本の映画に思いがけず涙をこぼしてしまったのです。
上映が終わって明るくなったとき、通路の掃除をしていた彼が、そっとハンカチを差し出してくれました。
「よかったら、これ」
「……すみません、こんなところで泣いて」
「いいんですよ。ここは、泣いていい場所なので」
彼はそう言って、少し不器用に笑いました。それが、私たちのはじまりでした。
暗い場所で泣いている人に、彼はいつでもやさしい人でした。
※
彼が亡くなったと知らせてくれたのは、映写室で一緒に働いていた年上の友人でした。葬儀もとうに終わったあとで、私は最後のお別れさえできませんでした。
「これ、あいつの上映日誌。……本当は、渡すか迷ったんだ」
差し出されたノートの表紙は、指の脂で角が黒ずんでいました。
「日誌って、仕事の記録ですよね」
「表向きはね。中を見れば、わかるよ」
友人はそれだけ言って、映写室のほうへ戻っていきました。私は貼り紙の出た扉の前で、そのノートをしばらく開けずにいました。開けてしまえば、知らずにいられたことまで、全部わかってしまう気がしたからです。
※
彼は、この古い名画座で、映写技師の見習いをしていました。付き合って半年ほどの頃、一度だけ映写室に入れてもらったことがあります。
急な鉄の階段を上がると、油と埃の混じった匂いが鼻をつきました。年季の入った映写機は、体温よりも高い熱を持っていて、そばに立つと頬がじりじりと火照りました。
「触っちゃだめだよ。火傷するから」
「こんなに熱いんだ」
「フィルムに光を通してるからね。光って、こんなに熱いんだ」
暗い部屋の小さな窓から、一条の光がまっすぐスクリーンへ伸びていました。その光の帯の中で、埃が雪のように舞っていたのを、今でも覚えています。
「きれい」
「だろ。俺、この一瞬のためにここにいるんだ」
彼の横顔は、スクリーンの照り返しを受けて、少しだけ得意げでした。フィルムが回る、かたかたという規則正しい音が、心臓の音に似ていました。
彼の指先には、小さな火傷の痕がいくつもありました。熱いフィルムを何度も素手で直したのだと、そのとき笑って話していました。
私はその手が好きでした。無口なぶん、手のよく働く人でした。人が見ていないところで、彼はいつも黙ってなにかを直していました。
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彼は無口な人でしたが、映画の話になると止まりませんでした。とりわけ古い恋愛映画には目がなくて、何度観ても同じ場面で鼻をすすっていました。
ある日並んで観た映画で、私は暗がりで人目もはばからず泣いてしまいました。その帰り道、彼は自動販売機の前で、いつまでも小銭を探していました。
「なにしてるの」
「いや、あったかいの、飲みたいだろ」
差し出された缶は、私の手のひらより先に、彼の手であたためられていました。冬の夜の、その温度を今でも思い出せます。
あとで知ったのですが、彼は私が泣いたその映画の半券を、こっそり拾って財布に挟んでいたそうです。
「なんで捨てないの」
「お前が、はじめて俺の隣で泣いた映画だから」
照れ隠しなのか、彼はぶっきらぼうにそう言って、そっぽを向きました。甘いポップコーンの匂いと、少し湿った座席の感触。あの頃の記憶は、いつも薄暗くて、けれどどこかあたたかいのです。
※
忘れられないのは、真夏のオールナイト上映の夜です。古い映画を朝まで五本続けて映す、彼のいちばん好きな夜でした。
客席には数えるほどしかお客さんがいなくて、私は最前列の隅で膝を抱えていました。三本目のフィルムが回る途中、雷が落ちて、館内の照明がすべて消えました。
けれど、スクリーンの光だけは、消えませんでした。非常用の電源に切り替えて、彼が映し続けていたのです。
真っ暗な客席に、一条の光だけが生きていました。そのとき、映写室の窓から、彼が小さく手を振ったのが見えました。私も振り返しました。言葉のいらない夜でした。
汗ばんだ首筋に、古い扇風機の風がゆっくりと当たっていました。フィルムの匂いと、雨のあとの土の匂いが、開いた窓から流れ込んでいました。
いま思えば、あの夜の彼は、もう自分の時間が長くないと知っていたのかもしれません。だからあんなに、一本一本を惜しむように映していたのだと思います。
※
秋の終わりの、雨の日のことも覚えています。お客さんが誰も来ず、彼は私ひとりのために、好きな映画を一本だけ映してくれました。
「貸し切りだね」
「たまには、こういうのもいいだろ」
がらんとした客席に、二人分の笑い声だけが響いていました。あのとき彼は、私の手をずっと握っていました。少しだけ、その手が冷たかったのを、今になって思い出します。
※
別れる少し前から、彼は約束を守れないことが増えました。待ち合わせに来なかったり、電話に出なかったり。
「最近、冷たいよね」
「ごめん。仕事が立て込んでて」
今なら、あれが嘘だったとわかります。彼は立て込んでいたのではなく、少しずつ、私の前から自分を消そうとしていたのです。
けれど当時の私は、ただ寂しくて、彼を責めることしかできませんでした。最後に会った日、彼はいつもより痩せて見えました。その痩せ方の理由を、私は考えようともしませんでした。
※
名画座の暗がりで、私はようやくノートを開きました。はじめのうちは、本当に上映の記録でした。上映作品、フィルムの傷み具合、その日の客の入り。几帳面とは言えない字が、それでも真面目に並んでいます。
けれど、ある日付から、インクの色が変わっていました。
『入院二日目。ここには映写機も、スクリーンもない。天井が、ただ白い』
私は、彼が病気だったことも、入院していたことも、何ひとつ知りませんでした。
『白い天井を見上げていると、あの一条の光を思い出す。Nは今ごろ、元気にしているだろうか』
ページをめくる指が、震えて止まらなくなりました。
※
『今日、談話室のテレビで、昔よく通った名画座が閉館すると知った。あの光を、もう誰も継がないのか』
『夢にNが出てきた。二人で最前列に並んで、古い映画を観ていた。目が覚めて、ここが病室だと気づくまでの数秒が、一日でいちばん幸せだ』
『点滴の音が、フィルムの回る音に似ている。目を閉じれば、あの映写室にいるふりができる』
『秋が来たらしい。窓の外の桜が、すっかり葉を落とした。来年の春を、俺は観られるだろうか』
『別れ際、ひどいことを言った。あれは、俺が生涯でいちばん言いたくなかった台詞だった』
『それでも言うしかなかった。治らない病に、あの子の時間まで巻き込むわけにはいかない』
『そう何度も自分に言い聞かせたのに、会いたい。声が聞きたい。ばかやろうだ、俺は』
『今日は体調が良くて、車椅子で中庭に出してもらった。日の光を、久しぶりに顔で受けた。あたたかい。Nと、いつか縁側でこうして日向ぼっこをしたかった』
『検査の結果が、思わしくないらしい。医者の顔を見ればわかる。俺は、映画のラストシーンを読むのだけは得意なんだ』
『眠れない夜は、頭の中でフィルムを回す。Nと過ごした日々を、はじめから順番に。何度観ても、飽きない一本だ』
それらの言葉のあいだにも、上映記録は律儀に続いていました。もう自分では映せないのに、彼はこの名画座の未来の番組を、几帳面に空想して書き留めていました。
離れていても、彼の心はいつも、この暗い映写室にあったのです。
日記のはずのそのノートは、後半になるほど、私のことばかりが綴られていました。彼は、上映の記録をつけるふりをして、消えていく自分の時間を、私への手紙に変えていたのです。
※
ノートの中ほどに、鉛筆で書かれた一覧がありました。
『いつか、大切な人ともう一度観たい映画特集』
そう題された下に、十本の作品名が並んでいました。最初にあの日一緒に泣いた映画。二人で笑ったコメディ。オールナイトで観た一本。
けれど、九本目まで書いて、十本目の欄は空いたままでした。その特集を、彼は組もうとして、組みきれなかったのだと思います。
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そして、いちばん最後のページでした。
『もうすぐ終わる上映のことは、映してきた自分がいちばんよくわかる』
『治らないと言われてから、もう一年。思えば、ずいぶん長く映していられたほうだ』
『まだ観ていない映画が、世界にはたくさんある。Nともう一度、あの席に並んで、くだらない映画で笑いたかった』
『あの光の中に、もう一度だけ立ちたかった』
『笑って幕を下ろしたいのに、強がってはみても、やはり、こわい』
『N、やっぱりまだ、お前を愛している』
『俺のことは忘れて、どうか、明るいほうへ歩いていってくれ』
※
涙が、どうしても止まりませんでした。彼はずっと、私の光を消さないために、自分から暗いほうへ退いていったのです。
私が寂しさに泣いていたあいだ、彼はひとりきりで、白い天井を見上げていました。
友人の話では、このノートは病室のゴミ箱で見つかったそうです。きっと、私に見つからないように、自分で捨てたのだと思います。
最後まで、彼は私に気を遣う人でした。そして最後まで、私はそれに気づけない女でした。
※
四十九日の少し前、私は思い切って、彼のお母さんを訪ねました。仏壇の前で、私はただ深く頭を下げることしかできませんでした。
「あなたが、Nさんね」
お母さんは、私の顔を見るなり、そう言って涙ぐみました。
「あの子、最後まであなたのことばかりでした。一枚の写真を、ずっと握っていたのよ」
差し出されたのは、あのオールナイトの夜、私が彼を撮った一枚でした。映写機の前で、少し照れくさそうに笑っている彼です。
「どうして、教えてくれなかったんでしょう」
「あの子なりの、あなたへの精一杯だったのよ。……昔から、不器用な子でね」
お母さんの手も、彼と同じように、節くれだって働き者の手でした。私はその手を取って、声をあげて泣きました。
もっと早く来ればよかった。もっと早く、気づけばよかった。けれど、悔やんでも彼はもう戻りません。私にできるのは、彼の願いを裏切らないことだけでした。
※
家に帰って、私はもう一度、はじめからノートを読み返しました。二度目に読むと、彼のやさしさばかりが、いっそう胸に迫りました。
『Nは、俺がいなくなったら、しばらくは泣くだろう。でも、あの子は強い。きっとまた、誰かの隣で笑えるようになる』
『そのとき、俺のことは無理に思い出さなくていい。ただ、映画を観て泣いた夜に、少しだけ、俺がいたことを思い出してくれたら』
それだけを、彼は望んでいました。覚えていてほしいと、はっきり書くことさえ、彼はしなかったのです。
私は、その慎ましさに、何度も打ちのめされました。人を想うということは、こんなにも静かで、こんなにも強いのだと、彼にはじめて教わりました。
※
映写の稽古は、思っていた何倍も難しいものでした。フィルムはすぐに絡み、光の焦点はなかなか合いません。
「あいつも、はじめは何度も失敗してたよ」
友人は、私の手つきを見ながら、懐かしそうに言いました。
「大切な映写ほど、手が震えるんだって、よく言ってた」
その言葉に、私は少しだけ救われました。うまくできなくてもいい。ただ、灯し続けることが、彼から受け取った仕事なのだと思えたからです。
※
明日は、彼の一周忌です。閉館するはずだった名画座は、有志が引き継いで、月に一度だけ灯りをともし続けることになりました。
私は、その映写を手伝わせてもらうことにしました。
「初心者ですけど、私なんかでいいんですか」
「あいつが、いちばん教えたがってた席だ。ちょうどいいよ」
友人は、目尻を少しだけ緩めました。
はじめて映写機のスイッチを入れた夜、あの一条の光が、また暗闇へまっすぐ伸びました。頬に、あの日と同じ熱を感じました。
光は、こんなにも熱いのだと、あらためて知りました。消えてしまった光の続きを、今度は私が灯していきます。
※
再開初日の夜、名画座には、思いがけず多くの人が集まりました。長年の常連だったお年寄り、近所の親子連れ、彼を知る映画好きたち。
「あの子が守ってた映画館、続くんだってね」
受付でそう言って、目を潤ませてくれた人もいました。
灯りを落とし、私は震える手でスイッチを入れました。かたかたと、あの規則正しい音が回りはじめます。
一条の光が、満席に近い客席の頭上を越えて、まっすぐスクリーンへ届きました。埃が、また雪のように舞っていました。
映画の途中、暗がりのあちこちで、そっと洟をすする音が聞こえました。この場所は、やっぱり泣いていい場所なのだと、あらためて思いました。
彼が最初に私にハンカチを差し出してくれた、まさにこの暗がりで。今度は私が、誰かの涙をそっと照らす側になっていました。
上映が終わって客席が明るくなると、どこからともなく拍手が起こりました。それは、彼への拍手のようにも聞こえました。
片づけを終えて、私はいちばん後ろの席に、もう一度だけ座りました。膝の上には、いつものノートがあります。
白いスクリーンを見上げていると、映写室の熱が、まだ頬に残っているようでした。
「ちゃんと、映せたよ」
誰もいない客席で、私は小さくそう呟きました。返事はありません。けれど、不思議と胸は、あたたかいままでした。
※
来月、私は彼の遺した特集を、この名画座でかけるつもりです。九本目までは、彼の書いたとおりに。
そして空いていた十本目には、あの日、私がはじめて隣で泣いた映画を選びました。彼が半券を拾ってくれた、あの一本です。
十本目の灯りがともるとき、彼はきっと、いちばん後ろの席で観ているような気がします。
彼の遺した日記は、いつも映写室の棚の、手が届く場所に置いています。
彼が最後まで案じてくれた私の光は、こうして、まだちゃんと灯っています。会いに行けなかったぶん、これから何度でも、この一条の光の中で、彼に会いに行くつもりです。
暗いほうへ歩いてしまった彼のぶんまで、私は、明るいほうへ歩いていきます。お読みいただき、ありがとうございました。