彼の遺した日記

閉館の貼り紙が出た名画座の、いちばん後ろの席に、私はひとりで座っていました。スクリーンはもう真っ白で、映すものは何もありません。膝の上には、彼が遺した一冊のノートが載っていました。

築六十年になるという古い映画館です。天井は煤けて、椅子はところどころ布が擦り切れ、床は歩くたびに軋みました。それでも、この暗がりだけは、世界のどこよりも私にとって特別な場所でした。

二年間付き合った彼に振られたのは、去年の春のことです。最後は、あの穏やかな人が言ったとは思えないほど、冷たい言葉でした。

「もう、顔も見たくない」

どんなにまだ好きだと伝えても、彼は取り合ってくれませんでした。やがて連絡も途絶えて、私たちは他人に戻りました。理由もわからないまま、私はただ、置いていかれた気持ちだけを抱えて、一年を過ごしました。

彼と出会ったのも、この名画座でした。学生の頃、雨宿りのつもりで入った古い映画館で、私は一本の映画に思いがけず涙をこぼしてしまったのです。

上映が終わって明るくなったとき、通路の掃除をしていた彼が、そっとハンカチを差し出してくれました。

「よかったら、これ」

「……すみません、こんなところで泣いて」

「いいんですよ。ここは、泣いていい場所なので」

彼はそう言って、少し不器用に笑いました。それが、私たちのはじまりでした。

暗い場所で泣いている人に、彼はいつでもやさしい人でした。

彼が亡くなったと知らせてくれたのは、映写室で一緒に働いていた年上の友人でした。葬儀もとうに終わったあとで、私は最後のお別れさえできませんでした。

「これ、あいつの上映日誌。……本当は、渡すか迷ったんだ」

差し出されたノートの表紙は、指の脂で角が黒ずんでいました。

「日誌って、仕事の記録ですよね」

「表向きはね。中を見れば、わかるよ」

友人はそれだけ言って、映写室のほうへ戻っていきました。私は貼り紙の出た扉の前で、そのノートをしばらく開けずにいました。開けてしまえば、知らずにいられたことまで、全部わかってしまう気がしたからです。

彼は、この古い名画座で、映写技師の見習いをしていました。付き合って半年ほどの頃、一度だけ映写室に入れてもらったことがあります。

急な鉄の階段を上がると、油と埃の混じった匂いが鼻をつきました。年季の入った映写機は、体温よりも高い熱を持っていて、そばに立つと頬がじりじりと火照りました。

「触っちゃだめだよ。火傷するから」

「こんなに熱いんだ」

「フィルムに光を通してるからね。光って、こんなに熱いんだ」

暗い部屋の小さな窓から、一条の光がまっすぐスクリーンへ伸びていました。その光の帯の中で、埃が雪のように舞っていたのを、今でも覚えています。

「きれい」

「だろ。俺、この一瞬のためにここにいるんだ」

彼の横顔は、スクリーンの照り返しを受けて、少しだけ得意げでした。フィルムが回る、かたかたという規則正しい音が、心臓の音に似ていました。

彼の指先には、小さな火傷の痕がいくつもありました。熱いフィルムを何度も素手で直したのだと、そのとき笑って話していました。

私はその手が好きでした。無口なぶん、手のよく働く人でした。人が見ていないところで、彼はいつも黙ってなにかを直していました。

彼は無口な人でしたが、映画の話になると止まりませんでした。とりわけ古い恋愛映画には目がなくて、何度観ても同じ場面で鼻をすすっていました。

ある日並んで観た映画で、私は暗がりで人目もはばからず泣いてしまいました。その帰り道、彼は自動販売機の前で、いつまでも小銭を探していました。

「なにしてるの」

「いや、あったかいの、飲みたいだろ」

差し出された缶は、私の手のひらより先に、彼の手であたためられていました。冬の夜の、その温度を今でも思い出せます。

あとで知ったのですが、彼は私が泣いたその映画の半券を、こっそり拾って財布に挟んでいたそうです。

「なんで捨てないの」

「お前が、はじめて俺の隣で泣いた映画だから」

照れ隠しなのか、彼はぶっきらぼうにそう言って、そっぽを向きました。甘いポップコーンの匂いと、少し湿った座席の感触。あの頃の記憶は、いつも薄暗くて、けれどどこかあたたかいのです。

忘れられないのは、真夏のオールナイト上映の夜です。古い映画を朝まで五本続けて映す、彼のいちばん好きな夜でした。

客席には数えるほどしかお客さんがいなくて、私は最前列の隅で膝を抱えていました。三本目のフィルムが回る途中、雷が落ちて、館内の照明がすべて消えました。

けれど、スクリーンの光だけは、消えませんでした。非常用の電源に切り替えて、彼が映し続けていたのです。

真っ暗な客席に、一条の光だけが生きていました。そのとき、映写室の窓から、彼が小さく手を振ったのが見えました。私も振り返しました。言葉のいらない夜でした。

汗ばんだ首筋に、古い扇風機の風がゆっくりと当たっていました。フィルムの匂いと、雨のあとの土の匂いが、開いた窓から流れ込んでいました。

いま思えば、あの夜の彼は、もう自分の時間が長くないと知っていたのかもしれません。だからあんなに、一本一本を惜しむように映していたのだと思います。

秋の終わりの、雨の日のことも覚えています。お客さんが誰も来ず、彼は私ひとりのために、好きな映画を一本だけ映してくれました。

「貸し切りだね」

「たまには、こういうのもいいだろ」

がらんとした客席に、二人分の笑い声だけが響いていました。あのとき彼は、私の手をずっと握っていました。少しだけ、その手が冷たかったのを、今になって思い出します。

別れる少し前から、彼は約束を守れないことが増えました。待ち合わせに来なかったり、電話に出なかったり。

「最近、冷たいよね」

「ごめん。仕事が立て込んでて」

今なら、あれが嘘だったとわかります。彼は立て込んでいたのではなく、少しずつ、私の前から自分を消そうとしていたのです。

けれど当時の私は、ただ寂しくて、彼を責めることしかできませんでした。最後に会った日、彼はいつもより痩せて見えました。その痩せ方の理由を、私は考えようともしませんでした。

名画座の暗がりで、私はようやくノートを開きました。はじめのうちは、本当に上映の記録でした。上映作品、フィルムの傷み具合、その日の客の入り。几帳面とは言えない字が、それでも真面目に並んでいます。

けれど、ある日付から、インクの色が変わっていました。

『入院二日目。ここには映写機も、スクリーンもない。天井が、ただ白い』

私は、彼が病気だったことも、入院していたことも、何ひとつ知りませんでした。

『白い天井を見上げていると、あの一条の光を思い出す。Nは今ごろ、元気にしているだろうか』

ページをめくる指が、震えて止まらなくなりました。

『今日、談話室のテレビで、昔よく通った名画座が閉館すると知った。あの光を、もう誰も継がないのか』

『夢にNが出てきた。二人で最前列に並んで、古い映画を観ていた。目が覚めて、ここが病室だと気づくまでの数秒が、一日でいちばん幸せだ』

『点滴の音が、フィルムの回る音に似ている。目を閉じれば、あの映写室にいるふりができる』

『秋が来たらしい。窓の外の桜が、すっかり葉を落とした。来年の春を、俺は観られるだろうか』

『別れ際、ひどいことを言った。あれは、俺が生涯でいちばん言いたくなかった台詞だった』

『それでも言うしかなかった。治らない病に、あの子の時間まで巻き込むわけにはいかない』

『そう何度も自分に言い聞かせたのに、会いたい。声が聞きたい。ばかやろうだ、俺は』

『今日は体調が良くて、車椅子で中庭に出してもらった。日の光を、久しぶりに顔で受けた。あたたかい。Nと、いつか縁側でこうして日向ぼっこをしたかった』

『検査の結果が、思わしくないらしい。医者の顔を見ればわかる。俺は、映画のラストシーンを読むのだけは得意なんだ』

『眠れない夜は、頭の中でフィルムを回す。Nと過ごした日々を、はじめから順番に。何度観ても、飽きない一本だ』

それらの言葉のあいだにも、上映記録は律儀に続いていました。もう自分では映せないのに、彼はこの名画座の未来の番組を、几帳面に空想して書き留めていました。

離れていても、彼の心はいつも、この暗い映写室にあったのです。

日記のはずのそのノートは、後半になるほど、私のことばかりが綴られていました。彼は、上映の記録をつけるふりをして、消えていく自分の時間を、私への手紙に変えていたのです。

ノートの中ほどに、鉛筆で書かれた一覧がありました。

『いつか、大切な人ともう一度観たい映画特集』

そう題された下に、十本の作品名が並んでいました。最初にあの日一緒に泣いた映画。二人で笑ったコメディ。オールナイトで観た一本。

けれど、九本目まで書いて、十本目の欄は空いたままでした。その特集を、彼は組もうとして、組みきれなかったのだと思います。

そして、いちばん最後のページでした。

『もうすぐ終わる上映のことは、映してきた自分がいちばんよくわかる』

『治らないと言われてから、もう一年。思えば、ずいぶん長く映していられたほうだ』

『まだ観ていない映画が、世界にはたくさんある。Nともう一度、あの席に並んで、くだらない映画で笑いたかった』

『あの光の中に、もう一度だけ立ちたかった』

『笑って幕を下ろしたいのに、強がってはみても、やはり、こわい』

『N、やっぱりまだ、お前を愛している』

『俺のことは忘れて、どうか、明るいほうへ歩いていってくれ』

涙が、どうしても止まりませんでした。彼はずっと、私の光を消さないために、自分から暗いほうへ退いていったのです。

私が寂しさに泣いていたあいだ、彼はひとりきりで、白い天井を見上げていました。

友人の話では、このノートは病室のゴミ箱で見つかったそうです。きっと、私に見つからないように、自分で捨てたのだと思います。

最後まで、彼は私に気を遣う人でした。そして最後まで、私はそれに気づけない女でした。

四十九日の少し前、私は思い切って、彼のお母さんを訪ねました。仏壇の前で、私はただ深く頭を下げることしかできませんでした。

「あなたが、Nさんね」

お母さんは、私の顔を見るなり、そう言って涙ぐみました。

「あの子、最後まであなたのことばかりでした。一枚の写真を、ずっと握っていたのよ」

差し出されたのは、あのオールナイトの夜、私が彼を撮った一枚でした。映写機の前で、少し照れくさそうに笑っている彼です。

「どうして、教えてくれなかったんでしょう」

「あの子なりの、あなたへの精一杯だったのよ。……昔から、不器用な子でね」

お母さんの手も、彼と同じように、節くれだって働き者の手でした。私はその手を取って、声をあげて泣きました。

もっと早く来ればよかった。もっと早く、気づけばよかった。けれど、悔やんでも彼はもう戻りません。私にできるのは、彼の願いを裏切らないことだけでした。

家に帰って、私はもう一度、はじめからノートを読み返しました。二度目に読むと、彼のやさしさばかりが、いっそう胸に迫りました。

『Nは、俺がいなくなったら、しばらくは泣くだろう。でも、あの子は強い。きっとまた、誰かの隣で笑えるようになる』

『そのとき、俺のことは無理に思い出さなくていい。ただ、映画を観て泣いた夜に、少しだけ、俺がいたことを思い出してくれたら』

それだけを、彼は望んでいました。覚えていてほしいと、はっきり書くことさえ、彼はしなかったのです。

私は、その慎ましさに、何度も打ちのめされました。人を想うということは、こんなにも静かで、こんなにも強いのだと、彼にはじめて教わりました。

映写の稽古は、思っていた何倍も難しいものでした。フィルムはすぐに絡み、光の焦点はなかなか合いません。

「あいつも、はじめは何度も失敗してたよ」

友人は、私の手つきを見ながら、懐かしそうに言いました。

「大切な映写ほど、手が震えるんだって、よく言ってた」

その言葉に、私は少しだけ救われました。うまくできなくてもいい。ただ、灯し続けることが、彼から受け取った仕事なのだと思えたからです。

明日は、彼の一周忌です。閉館するはずだった名画座は、有志が引き継いで、月に一度だけ灯りをともし続けることになりました。

私は、その映写を手伝わせてもらうことにしました。

「初心者ですけど、私なんかでいいんですか」

「あいつが、いちばん教えたがってた席だ。ちょうどいいよ」

友人は、目尻を少しだけ緩めました。

はじめて映写機のスイッチを入れた夜、あの一条の光が、また暗闇へまっすぐ伸びました。頬に、あの日と同じ熱を感じました。

光は、こんなにも熱いのだと、あらためて知りました。消えてしまった光の続きを、今度は私が灯していきます。

再開初日の夜、名画座には、思いがけず多くの人が集まりました。長年の常連だったお年寄り、近所の親子連れ、彼を知る映画好きたち。

「あの子が守ってた映画館、続くんだってね」

受付でそう言って、目を潤ませてくれた人もいました。

灯りを落とし、私は震える手でスイッチを入れました。かたかたと、あの規則正しい音が回りはじめます。

一条の光が、満席に近い客席の頭上を越えて、まっすぐスクリーンへ届きました。埃が、また雪のように舞っていました。

映画の途中、暗がりのあちこちで、そっと洟をすする音が聞こえました。この場所は、やっぱり泣いていい場所なのだと、あらためて思いました。

彼が最初に私にハンカチを差し出してくれた、まさにこの暗がりで。今度は私が、誰かの涙をそっと照らす側になっていました。

上映が終わって客席が明るくなると、どこからともなく拍手が起こりました。それは、彼への拍手のようにも聞こえました。

片づけを終えて、私はいちばん後ろの席に、もう一度だけ座りました。膝の上には、いつものノートがあります。

白いスクリーンを見上げていると、映写室の熱が、まだ頬に残っているようでした。

「ちゃんと、映せたよ」

誰もいない客席で、私は小さくそう呟きました。返事はありません。けれど、不思議と胸は、あたたかいままでした。

来月、私は彼の遺した特集を、この名画座でかけるつもりです。九本目までは、彼の書いたとおりに。

そして空いていた十本目には、あの日、私がはじめて隣で泣いた映画を選びました。彼が半券を拾ってくれた、あの一本です。

十本目の灯りがともるとき、彼はきっと、いちばん後ろの席で観ているような気がします。

彼の遺した日記は、いつも映写室の棚の、手が届く場所に置いています。

彼が最後まで案じてくれた私の光は、こうして、まだちゃんと灯っています。会いに行けなかったぶん、これから何度でも、この一条の光の中で、彼に会いに行くつもりです。

暗いほうへ歩いてしまった彼のぶんまで、私は、明るいほうへ歩いていきます。お読みいただき、ありがとうございました。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

ラクリマを応援する

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。