父と息子のキャッチボール

父と息子のキャッチボール

父の形見のグローブは、今も玄関の棚に置いてあります。

革はすっかり硬くなり、指を差し入れるとひやりと冷たい。

それでも掌を押し当てると、あの秋の日の音が、耳の奥でよみがえるのです。

そのグローブは、父が高校時代に、初めての給料をはたいて買ったものだと聞いています。

甲子園を逃したあとも、父はそれを捨てずに、油を差しては大切に使い続けました。

就職しても、結婚しても、私が生まれてからも、父はこのグローブでボールを受けてきたのです。

革の掌の部分には、長い年月をかけて刻まれた、深いくぼみがありました。

それは、無数の球を受けとめてきた、父の歳月そのものでした。

私が父から受け継いだのは、このグローブだけではありません。

手を抜かないこと。まっすぐであること。そして、謝ることを忘れないこと。

父が言葉少なに教えてくれたものは、今も私の芯になっています。

※

革はすっかり硬くなり、指を差し入れるとひやりと冷たい。

私の父、耕平は、若い頃に投手として甲子園を目指した人でした。

瀬戸内の小さな港町、汐見町の高校で、背番号1を背負っていたそうです。

「地区大会の決勝、九回裏に逆転されてな」

父はよく、湯呑みを両手で包みながら、そう言って目を細めました。

「あと一人で甲子園やった。あの最後の一球が、今でも忘れられん」

悔しさよりも、どこか懐かしむような、やわらかい声でした。

その一球を、父は生涯、胸の奥にしまい続けていたのだと思います。

そんな父に育てられた私が、野球を好きにならないはずがありません。

物心がつく前から、防波堤の内側の空き地で、父とボールを投げ合っていました。

潮の匂いのする風の中で、革のミットがぱしりと鳴る。

父の手が動くたび、油と鉄の匂いがふわりと立ちました。

それが、私のいちばん古い記憶です。

※

夏になると、父は仕事終わりに、私を港の突堤へ連れ出しました。

沈む夕日を背に受けながら、二人で何時間もボールを投げ合ったものです。

「ええか、握りはこうや」

父は私の小さな手に、自分のごつごつした手を重ねました。

指の腹に感じた、鉄を扱う職人の硬い皮の感触を、今もはっきり覚えています。

「指にかけて、最後まで押し出す。そうすれば球は伸びる」

うまく回転がかかった球が、まっすぐ父のミットに吸い込まれると、父は決まって短く笑いました。

その笑い声が聞きたくて、私は日が暮れるまで投げ続けました。

祭りの夜には、屋台の光の下で、父はラムネを二本買ってくれました。

「わしが甲子園に行けんかった分、お前が行け」

ラムネの玉を鳴らしながら、父はそう言って、少し照れくさそうに海を見ていました。

約束というほど大げさなものではなく、けれど私の胸には、そっと火が灯りました。

※

父が甲子園を逃した、その最後の一球の話を、私は一度だけ、詳しく聞いたことがあります。

九回裏、二死満塁。父の投じた球は、内角低めに決まったと、父自身は今も信じていました。

けれど審判の手は上がらず、押し出しの四球で、試合は終わったのです。

「あの球はストライクやった。今でもそう思う」

父は笑いながら、けれど拳をかたく握っていました。

「でもな、弘。悔いが残るのは、手を抜かんかった証拠や」

その言葉の重さを、私はまだ、幼くて量りかねていました。

※

父は、町の造船所で船の鉄板を組む職人でした。

朝が早く、日に焼けた首の後ろには、いつも汗の塩が白く残っていました。

どんなに疲れて帰ってきても、私が「投げよう」と言えば、父は作業着のまま庭に出ました。

「肘を下げるな。指の先まで、まっすぐ力を通せ」

父の教えは、いつも短くて、具体的でした。

言葉は少ないのに、その一言で、私の球は不思議とまっすぐになりました。

小学四年のある日、暴投して隣家の窓ガラスを割ってしまったことがあります。

私が泣きべそをかいていると、父は黙って頭を下げに行きました。

帰り道、叱られると身をすくめる私に、父は一言だけ言いました。

「思い切り投げた球や。恥じることはない。ただし、謝ることは一生忘れるな」

叱られると思っていた私は、その言葉に胸を撫でおろしました。

父はいつも、結果よりも、球に込めた気持ちのほうを見ていた人でした。

小学五年で少年野球のチームに入ると、父は仕事帰りに練習を見に来てくれました。

グラウンドの隅で、腕を組んで立つ父の姿が、私の背中を押しました。

「まっすぐ投げれば、まっすぐ返ってくる。球も、人もな」

帰り道の自転車で、父はよくそんなことを言いました。

意味がわかったのは、ずっと後になってからでした。

中学、そして高校と、私は迷わず野球部の門を叩きました。

汐見高校のマウンドは、かつて父が立った、あの場所でもあったのです。

※

ところが、私が高校に入ったその春、父が倒れました。

はじめは働きすぎの疲れだろうと、家族の誰もが軽く考えていました。

けれど検査入院が退院につながらず、入退院がくり返されるようになりました。

一年の冬には、父はほとんど病室から出られなくなっていました。

見舞いに行くたび、父の腕は細くなっていきました。

かつて私の球を受けとめた、あの分厚い掌が、日ごとに骨の形を浮かせていくのです。

点滴の管につながれた父を見るのは、正直、つらいことでした。

それでも父は、私の部活の話を聞くのを、何より楽しみにしていました。

「今日は何球投げた。ストレートの走りはどうやった」

病室での父は、日ごとに眠っている時間が長くなっていきました。

それでも私が投球フォームの話を始めると、父は決まって薄く目を開けました。

「膝の使い方が、まだ硬い」

かすれた声で、父はそう指摘しました。

「下半身で投げるんや。腕は、最後についてくるだけでええ」

私は病室の床で、何度もシャドウピッチングをして見せました。

父はうなずいたり、首を振ったりしながら、最後まで私のコーチでした。

ある晩、帰り際に、父がぽつりと言いました。

「弘。お前が投げてる姿を見てると、わしはまだ、マウンドに立ってる気がするんや」

その言葉の意味を、私はあの河川敷で、痛いほど思い知ることになります。

私はベッドの脇で、その日の投球を一球ずつ、身ぶりを交えて話しました。

父は目を閉じ、頭の中で私の球を受けているようでした。

「ええぞ。今のお前の球は、わしの若い頃より、たぶん速い」

痩せた頬をゆるめて、父はそう言って笑いました。

その笑顔を曇らせたくなくて、私は苦しい走り込みの日も、決して弱音を吐きませんでした。

父が病室にいる間、私は誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くまで残りました。

冬の朝は、吐く息が白く凍り、指先の感覚がなくなるほどでした。

それでも私は、父に報告できる一球を投げたくて、走り込みをやめませんでした。

監督が「無理をするな」と声をかけてくれても、私は首を横に振りました。

「父が、病室で待ってるんです」

そう答えると、監督は何も言わずに、私の球を受け続けてくれました。

日が暮れて、誰もいなくなったグラウンドで、私はよくマウンドに立ちました。

父ならこの場面でどう投げるだろうと、暗がりの中で問いかけました。

答えは返ってきません。

けれど、まっすぐ投げれば、まっすぐ返ってくるという父の言葉が、いつも背中を押しました。

※

母は毎日、仕事の合間を縫って病院に通いました。

父の好きな塩むすびを握り、枕元でぽつぽつと町の話をしていました。

「あなたが甲子園を目指した頃と、今のこの子は、同じ顔をしてるのよ」

母がそう言うと、父は少しだけ照れたように、窓の外を見ていました。

※

一年の秋、私はまだベンチ入りしたばかりの控えでしたが、大差のついた試合の最終回、初めてマウンドを任されました。

その日、母は小さなラジオを病室に持ち込み、地方大会の中継を父の枕元で流していたそうです。

三者凡退に抑えたと聞いた父は、点滴の管につながれたまま、声を上げて喜んだといいます。

「あいつは、ここからや。ここから伸びる」

看護師さんに何度もそう話していたと、あとで母から聞きました。

私がマウンドで感じていた震えの向こう側で、父もまた、同じ試合を生きていたのです。

※

高校二年の秋、私はついに新チームのエースに指名されました。

背番号1を渡されたその日、私は真っ先に病室へ走りました。

報告を聞いた父は、しばらく天井を見つめ、それから静かに言いました。

「明日、家からわしのグローブを持ってこい」

その声には、久しく聞かなかった張りがありました。

翌日、油紙に包まれた古いグローブを差し出すと、父は看護師の制止を振り切って身を起こしました。

「近くの河川敷まで行く。母さん、車を頼む」

母は反対しかけて、けれど父の目を見て、口をつぐみました。

秋の夕暮れ、私たちは町外れの河川敷の球場へ向かいました。

風は冷たく、川面がオレンジ色に光っていました。

父は一歩ずつ、私の肩につかまりながら、ホームベースまで歩きました。

そして、捕手のように、ゆっくりとしゃがみ込んだのです。

「マウンドから、本気で投げてこい」

私は、その場に立ち尽くしました。

骨と皮ばかりになった父に、全力の球を投げられるはずがありません。

最初の三球、私は明らかに手加減した、緩い山なりの球を投げました。

すると父は、ミットを地面に叩きつけて、立ち上がったのです。

「そんな球で、お前はエースになったんか」

その声が、河川敷にびりびりと響きわたりました。

「わしを憐れむな。お前の全力は、まだこんなものか」

胸を、まっすぐに突かれた気がしました。

私は唇を噛み、腕を大きく振りかぶりました。

渾身のストレートが、夕闇を切り裂いて飛んでいきました。

父は、細い腕で、その球を正面から受けとめました。

ミットが、乾いた、いい音を立てました。

ワンバウンドになった球さえ、痩せた体を投げ出して止めました。

一球ごとに、掌が痺れているのが、私にも伝わってきました。

それでも父は、一度も「もういい」とは言いませんでした。

三十球ほど投げ終えた頃、私の視界は、涙でぐしゃぐしゃににじんでいました。

父は肩で大きく息をしながら、ぽつりと言いました。

「球の回転が、まだ甘い。もっと腕を振れ。お前は、もっと上へ行ける」

それが、父と交わした、最後のキャッチボールでした。

※

河川敷での最後のキャッチボールから数日後、私は公式戦のマウンドに立ちました。

相手は、その年の優勝候補でした。

スタンドの片隅には、母が父の帽子を膝に置いて座っていました。

一球ごとに、父の声が耳の奥で響きました。

下半身で投げろ。腕は最後についてくるだけでええ。

九回、最後の打者を三振に打ち取った瞬間、私は空を見上げました。

「見てたか、父さん」

声にならない声で、私はそうつぶやきました。

勝ったのに、涙が止まりませんでした。

その試合のことを、母は病室の父に、一球残らず伝えたそうです。

父はもう多くを語れませんでしたが、うっすらと微笑んで、うなずいたといいます。

※

その数週間後、父はもう起き上がれなくなりました。

やがて言葉も少なくなり、ある霜の降りた朝、父は静かに旅立ちました。

病名を母から聞いたのは、そのあとのことでした。

父は、あの河川敷で球を受けたとき、すでに握力もほとんど残っていなかったはずだと、医師は言いました。

それでも父は、私の球を、一球も落とさなかったのです。

憐れむなと言った父の言葉の意味が、ようやく胸に落ちました。

あれは、親としての最後の意地であり、私への、最後の授業だったのだと。

父の葬儀の日、造船所の同僚たちが、作業着のまま大勢、駆けつけてくれました。

「耕平さんは、鉄板を組ませたら町一番やった」

日に焼けた男たちが、そう言って洟をすすっていました。

父が黙々と組んだ船は、今も瀬戸内の海を、荷を積んで渡っていきます。

父の生きた証は、球場の外にも、たしかに残っていました。

※

病室を引き払う日、ベッドの下から、一冊の古い手帳が出てきました。

父の几帳面な字で、私の投球の記録が、日ごとに綴られていました。

「息子、今日は三振七つ」「今日は打たれて悔し泣き。ええ経験や」

一ページ一ページが、父が病室で私の球を追い続けた、証でした。

そして最後のページに、こうありました。

「今日、高校で育った息子の全力の球を、この掌で受けた。指の先まで痺れて、涙が出た。わしの現役の頃より、ずっと速い、ええ球や。人生の最後に、息子と本気の勝負ができた。もう二度と、この掌でボールを握ることはないやろう。それでも、わしは幸せ者や。弘、ありがとう」

※

あの手帳を、私は今も大切に持っています。

社会人になってしばらく経った頃、母がもう一つ、教えてくれたことがありました。

父は河川敷から帰ったあの夜、痛み止めの量をこっそり増やしてもらっていたそうです。

「あの人、掌がぱんぱんに腫れてね。それでも、笑ってたのよ」

母は、そう言って少しだけ涙ぐみました。

「久しぶりに、あの子の球を受けた。ええ球やった、って。何度も、何度も」

父は、痛みと引き換えに、あの三十球を受けとめてくれていたのです。

知らなかった私は、その夜、一人で声を上げて泣きました。

※

あれから、十年の歳月が流れました。

私は今、生まれ育った汐見町に戻り、少年野球のコーチをしています。

子どもが暴投して肩を落とすたび、私は父の言葉を、そのまま借りて言います。

「思い切り投げた球や。恥じることはない」

すると子どもたちは、少し驚いた顔をして、それから小さくうなずくのです。

チームには、去年、父親を亡くしたばかりの少年がいます。

その子は、しばらくボールを握ろうとしませんでした。

私はある夕方、その子を港の突堤に連れていきました。

かつて父が私を連れていった、あの場所です。

「思い切り、投げてみろ」

最初はためらっていた少年も、やがて夕日に向かって、力いっぱい腕を振りました。

その球が私のミットに収まったとき、乾いた、いい音が鳴りました。

少年の頬に、涙がひとすじ流れていました。

私は何も言わず、ただ、もう一球を投げ返しました。

父が私にしてくれたように。

※

練習の帰り、私は時々、あの硬くなったグローブに掌を当てます。

すると、ぱしりと、あの日の乾いた音が、耳の奥でよみがえります。

父はもう、私の球を受けてはくれません。

けれど私は、父から受け取ったあの一球を、今も投げ続けています。

少年野球の練習が終わると、子どもたちは口々に「コーチ、また明日」と手を振ります。

その背中を見送るたび、私は父が私を見送ってくれた日々を思い出します。

きっと父も、こんなふうに、私の背中に何かを託していたのでしょう。

球は、投げれば必ず、誰かの手に届きます。

そして受けとめた誰かが、また次の誰かへと投げ返していく。

父から受け取ったあの一球は、そうやって、これからも旅を続けていくのだと思います。

まっすぐ投げれば、まっすぐ返ってくる。

父が遺したその言葉を、今度は私が、次の誰かへ手渡していくのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

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