父と息子のキャッチボール

父の形見のグローブは、今も玄関の棚に置いてあります。

革はすっかり硬くなり、指を差し入れるとひやりと冷たい。

それでも掌を押し当てると、あの秋の日の音が、耳の奥でよみがえるのです。

そのグローブは、父が高校時代に、初めての給料をはたいて買ったものだと聞いています。

甲子園を逃したあとも、父はそれを捨てずに、油を差しては大切に使い続けました。

就職しても、結婚しても、私が生まれてからも、父はこのグローブでボールを受けてきたのです。

革の掌の部分には、長い年月をかけて刻まれた、深いくぼみがありました。

それは、無数の球を受けとめてきた、父の歳月そのものでした。

私が父から受け継いだのは、このグローブだけではありません。

手を抜かないこと。まっすぐであること。そして、謝ることを忘れないこと。

父が言葉少なに教えてくれたものは、今も私の芯になっています。

革はすっかり硬くなり、指を差し入れるとひやりと冷たい。

私の父、耕平は、若い頃に投手として甲子園を目指した人でした。

瀬戸内の小さな港町、汐見町の高校で、背番号1を背負っていたそうです。

「地区大会の決勝、九回裏に逆転されてな」

父はよく、湯呑みを両手で包みながら、そう言って目を細めました。

「あと一人で甲子園やった。あの最後の一球が、今でも忘れられん」

悔しさよりも、どこか懐かしむような、やわらかい声でした。

その一球を、父は生涯、胸の奥にしまい続けていたのだと思います。

そんな父に育てられた私が、野球を好きにならないはずがありません。

物心がつく前から、防波堤の内側の空き地で、父とボールを投げ合っていました。

潮の匂いのする風の中で、革のミットがぱしりと鳴る。

父の手が動くたび、油と鉄の匂いがふわりと立ちました。

それが、私のいちばん古い記憶です。

夏になると、父は仕事終わりに、私を港の突堤へ連れ出しました。

沈む夕日を背に受けながら、二人で何時間もボールを投げ合ったものです。

「ええか、握りはこうや」

父は私の小さな手に、自分のごつごつした手を重ねました。

指の腹に感じた、鉄を扱う職人の硬い皮の感触を、今もはっきり覚えています。

「指にかけて、最後まで押し出す。そうすれば球は伸びる」

うまく回転がかかった球が、まっすぐ父のミットに吸い込まれると、父は決まって短く笑いました。

その笑い声が聞きたくて、私は日が暮れるまで投げ続けました。

祭りの夜には、屋台の光の下で、父はラムネを二本買ってくれました。

「わしが甲子園に行けんかった分、お前が行け」

ラムネの玉を鳴らしながら、父はそう言って、少し照れくさそうに海を見ていました。

約束というほど大げさなものではなく、けれど私の胸には、そっと火が灯りました。

父が甲子園を逃した、その最後の一球の話を、私は一度だけ、詳しく聞いたことがあります。

九回裏、二死満塁。父の投じた球は、内角低めに決まったと、父自身は今も信じていました。

けれど審判の手は上がらず、押し出しの四球で、試合は終わったのです。

「あの球はストライクやった。今でもそう思う」

父は笑いながら、けれど拳をかたく握っていました。

「でもな、弘。悔いが残るのは、手を抜かんかった証拠や」

その言葉の重さを、私はまだ、幼くて量りかねていました。

父は、町の造船所で船の鉄板を組む職人でした。

朝が早く、日に焼けた首の後ろには、いつも汗の塩が白く残っていました。

どんなに疲れて帰ってきても、私が「投げよう」と言えば、父は作業着のまま庭に出ました。

「肘を下げるな。指の先まで、まっすぐ力を通せ」

父の教えは、いつも短くて、具体的でした。

言葉は少ないのに、その一言で、私の球は不思議とまっすぐになりました。

小学四年のある日、暴投して隣家の窓ガラスを割ってしまったことがあります。

私が泣きべそをかいていると、父は黙って頭を下げに行きました。

帰り道、叱られると身をすくめる私に、父は一言だけ言いました。

「思い切り投げた球や。恥じることはない。ただし、謝ることは一生忘れるな」

叱られると思っていた私は、その言葉に胸を撫でおろしました。

父はいつも、結果よりも、球に込めた気持ちのほうを見ていた人でした。

小学五年で少年野球のチームに入ると、父は仕事帰りに練習を見に来てくれました。

グラウンドの隅で、腕を組んで立つ父の姿が、私の背中を押しました。

「まっすぐ投げれば、まっすぐ返ってくる。球も、人もな」

帰り道の自転車で、父はよくそんなことを言いました。

意味がわかったのは、ずっと後になってからでした。

中学、そして高校と、私は迷わず野球部の門を叩きました。

汐見高校のマウンドは、かつて父が立った、あの場所でもあったのです。

ところが、私が高校に入ったその春、父が倒れました。

はじめは働きすぎの疲れだろうと、家族の誰もが軽く考えていました。

けれど検査入院が退院につながらず、入退院がくり返されるようになりました。

一年の冬には、父はほとんど病室から出られなくなっていました。

見舞いに行くたび、父の腕は細くなっていきました。

かつて私の球を受けとめた、あの分厚い掌が、日ごとに骨の形を浮かせていくのです。

点滴の管につながれた父を見るのは、正直、つらいことでした。

それでも父は、私の部活の話を聞くのを、何より楽しみにしていました。

「今日は何球投げた。ストレートの走りはどうやった」

病室での父は、日ごとに眠っている時間が長くなっていきました。

それでも私が投球フォームの話を始めると、父は決まって薄く目を開けました。

「膝の使い方が、まだ硬い」

かすれた声で、父はそう指摘しました。

「下半身で投げるんや。腕は、最後についてくるだけでええ」

私は病室の床で、何度もシャドウピッチングをして見せました。

父はうなずいたり、首を振ったりしながら、最後まで私のコーチでした。

ある晩、帰り際に、父がぽつりと言いました。

「弘。お前が投げてる姿を見てると、わしはまだ、マウンドに立ってる気がするんや」

その言葉の意味を、私はあの河川敷で、痛いほど思い知ることになります。

私はベッドの脇で、その日の投球を一球ずつ、身ぶりを交えて話しました。

父は目を閉じ、頭の中で私の球を受けているようでした。

「ええぞ。今のお前の球は、わしの若い頃より、たぶん速い」

痩せた頬をゆるめて、父はそう言って笑いました。

その笑顔を曇らせたくなくて、私は苦しい走り込みの日も、決して弱音を吐きませんでした。

父が病室にいる間、私は誰よりも早くグラウンドに出て、誰よりも遅くまで残りました。

冬の朝は、吐く息が白く凍り、指先の感覚がなくなるほどでした。

それでも私は、父に報告できる一球を投げたくて、走り込みをやめませんでした。

監督が「無理をするな」と声をかけてくれても、私は首を横に振りました。

「父が、病室で待ってるんです」

そう答えると、監督は何も言わずに、私の球を受け続けてくれました。

日が暮れて、誰もいなくなったグラウンドで、私はよくマウンドに立ちました。

父ならこの場面でどう投げるだろうと、暗がりの中で問いかけました。

答えは返ってきません。

けれど、まっすぐ投げれば、まっすぐ返ってくるという父の言葉が、いつも背中を押しました。

母は毎日、仕事の合間を縫って病院に通いました。

父の好きな塩むすびを握り、枕元でぽつぽつと町の話をしていました。

「あなたが甲子園を目指した頃と、今のこの子は、同じ顔をしてるのよ」

母がそう言うと、父は少しだけ照れたように、窓の外を見ていました。

一年の秋、私はまだベンチ入りしたばかりの控えでしたが、大差のついた試合の最終回、初めてマウンドを任されました。

その日、母は小さなラジオを病室に持ち込み、地方大会の中継を父の枕元で流していたそうです。

三者凡退に抑えたと聞いた父は、点滴の管につながれたまま、声を上げて喜んだといいます。

「あいつは、ここからや。ここから伸びる」

看護師さんに何度もそう話していたと、あとで母から聞きました。

私がマウンドで感じていた震えの向こう側で、父もまた、同じ試合を生きていたのです。

高校二年の秋、私はついに新チームのエースに指名されました。

背番号1を渡されたその日、私は真っ先に病室へ走りました。

報告を聞いた父は、しばらく天井を見つめ、それから静かに言いました。

「明日、家からわしのグローブを持ってこい」

その声には、久しく聞かなかった張りがありました。

翌日、油紙に包まれた古いグローブを差し出すと、父は看護師の制止を振り切って身を起こしました。

「近くの河川敷まで行く。母さん、車を頼む」

母は反対しかけて、けれど父の目を見て、口をつぐみました。

秋の夕暮れ、私たちは町外れの河川敷の球場へ向かいました。

風は冷たく、川面がオレンジ色に光っていました。

父は一歩ずつ、私の肩につかまりながら、ホームベースまで歩きました。

そして、捕手のように、ゆっくりとしゃがみ込んだのです。

「マウンドから、本気で投げてこい」

私は、その場に立ち尽くしました。

骨と皮ばかりになった父に、全力の球を投げられるはずがありません。

最初の三球、私は明らかに手加減した、緩い山なりの球を投げました。

すると父は、ミットを地面に叩きつけて、立ち上がったのです。

「そんな球で、お前はエースになったんか」

その声が、河川敷にびりびりと響きわたりました。

「わしを憐れむな。お前の全力は、まだこんなものか」

胸を、まっすぐに突かれた気がしました。

私は唇を噛み、腕を大きく振りかぶりました。

渾身のストレートが、夕闇を切り裂いて飛んでいきました。

父は、細い腕で、その球を正面から受けとめました。

ミットが、乾いた、いい音を立てました。

ワンバウンドになった球さえ、痩せた体を投げ出して止めました。

一球ごとに、掌が痺れているのが、私にも伝わってきました。

それでも父は、一度も「もういい」とは言いませんでした。

三十球ほど投げ終えた頃、私の視界は、涙でぐしゃぐしゃににじんでいました。

父は肩で大きく息をしながら、ぽつりと言いました。

「球の回転が、まだ甘い。もっと腕を振れ。お前は、もっと上へ行ける」

それが、父と交わした、最後のキャッチボールでした。

河川敷での最後のキャッチボールから数日後、私は公式戦のマウンドに立ちました。

相手は、その年の優勝候補でした。

スタンドの片隅には、母が父の帽子を膝に置いて座っていました。

一球ごとに、父の声が耳の奥で響きました。

下半身で投げろ。腕は最後についてくるだけでええ。

九回、最後の打者を三振に打ち取った瞬間、私は空を見上げました。

「見てたか、父さん」

声にならない声で、私はそうつぶやきました。

勝ったのに、涙が止まりませんでした。

その試合のことを、母は病室の父に、一球残らず伝えたそうです。

父はもう多くを語れませんでしたが、うっすらと微笑んで、うなずいたといいます。

その数週間後、父はもう起き上がれなくなりました。

やがて言葉も少なくなり、ある霜の降りた朝、父は静かに旅立ちました。

病名を母から聞いたのは、そのあとのことでした。

父は、あの河川敷で球を受けたとき、すでに握力もほとんど残っていなかったはずだと、医師は言いました。

それでも父は、私の球を、一球も落とさなかったのです。

憐れむなと言った父の言葉の意味が、ようやく胸に落ちました。

あれは、親としての最後の意地であり、私への、最後の授業だったのだと。

父の葬儀の日、造船所の同僚たちが、作業着のまま大勢、駆けつけてくれました。

「耕平さんは、鉄板を組ませたら町一番やった」

日に焼けた男たちが、そう言って洟をすすっていました。

父が黙々と組んだ船は、今も瀬戸内の海を、荷を積んで渡っていきます。

父の生きた証は、球場の外にも、たしかに残っていました。

病室を引き払う日、ベッドの下から、一冊の古い手帳が出てきました。

父の几帳面な字で、私の投球の記録が、日ごとに綴られていました。

「息子、今日は三振七つ」「今日は打たれて悔し泣き。ええ経験や」

一ページ一ページが、父が病室で私の球を追い続けた、証でした。

そして最後のページに、こうありました。

「今日、高校で育った息子の全力の球を、この掌で受けた。指の先まで痺れて、涙が出た。わしの現役の頃より、ずっと速い、ええ球や。人生の最後に、息子と本気の勝負ができた。もう二度と、この掌でボールを握ることはないやろう。それでも、わしは幸せ者や。弘、ありがとう」

あの手帳を、私は今も大切に持っています。

社会人になってしばらく経った頃、母がもう一つ、教えてくれたことがありました。

父は河川敷から帰ったあの夜、痛み止めの量をこっそり増やしてもらっていたそうです。

「あの人、掌がぱんぱんに腫れてね。それでも、笑ってたのよ」

母は、そう言って少しだけ涙ぐみました。

「久しぶりに、あの子の球を受けた。ええ球やった、って。何度も、何度も」

父は、痛みと引き換えに、あの三十球を受けとめてくれていたのです。

知らなかった私は、その夜、一人で声を上げて泣きました。

あれから、十年の歳月が流れました。

私は今、生まれ育った汐見町に戻り、少年野球のコーチをしています。

子どもが暴投して肩を落とすたび、私は父の言葉を、そのまま借りて言います。

「思い切り投げた球や。恥じることはない」

すると子どもたちは、少し驚いた顔をして、それから小さくうなずくのです。

チームには、去年、父親を亡くしたばかりの少年がいます。

その子は、しばらくボールを握ろうとしませんでした。

私はある夕方、その子を港の突堤に連れていきました。

かつて父が私を連れていった、あの場所です。

「思い切り、投げてみろ」

最初はためらっていた少年も、やがて夕日に向かって、力いっぱい腕を振りました。

その球が私のミットに収まったとき、乾いた、いい音が鳴りました。

少年の頬に、涙がひとすじ流れていました。

私は何も言わず、ただ、もう一球を投げ返しました。

父が私にしてくれたように。

練習の帰り、私は時々、あの硬くなったグローブに掌を当てます。

すると、ぱしりと、あの日の乾いた音が、耳の奥でよみがえります。

父はもう、私の球を受けてはくれません。

けれど私は、父から受け取ったあの一球を、今も投げ続けています。

少年野球の練習が終わると、子どもたちは口々に「コーチ、また明日」と手を振ります。

その背中を見送るたび、私は父が私を見送ってくれた日々を思い出します。

きっと父も、こんなふうに、私の背中に何かを託していたのでしょう。

球は、投げれば必ず、誰かの手に届きます。

そして受けとめた誰かが、また次の誰かへと投げ返していく。

父から受け取ったあの一球は、そうやって、これからも旅を続けていくのだと思います。

まっすぐ投げれば、まっすぐ返ってくる。

父が遺したその言葉を、今度は私が、次の誰かへ手渡していくのだと思います。

お読みいただき、ありがとうございました。

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