ほら、笑いなよ!

雪の匂いというものを、私はあの町で初めて知りました。

父の仕事の都合で、私が大阪から雪国の高校へ移ったのは、二年生の冬のことです。

転校の初日、教室の窓の外は、見たこともないほどの白でした。

屋根も、道も、川さえも、すべてが雪に沈んでおりました。

私は、その白さと同じくらい、心細く立っておりました。

「大阪から来たんやろ。なんかしゃべってみ」

クラスの誰かが、面白半分に言いました。

私が口を開くたび、みんながどっと笑いました。

訛りが、おかしいのだそうです。

「なんやそのイントネーション」「もういっぺん言うてみ」

笑いは、日を追うごとに、少しずつ棘を含んでいきました。

私はやがて、教室で口を開くのをやめました。

しゃべらなければ、笑われることもない。そう思ったのです。

昼休みになると、私は決まって、誰もいない渡り廊下の隅にいました。

冷たい窓に額をつけて、白い校庭を、ただ見ていました。

転校して最初の数日、私は、昼ごはんも、一人で食べていました。

母が作ってくれた弁当を、渡り廊下の隅で、味もわからないまま口に運びました。

大阪の友達は、今ごろ、みんなで笑いながら食べているのだろう。

そう思うと、卵焼きが、やけにしょっぱく感じました。

窓の外では、雪が、音もなく降り積もっていくばかりでした。

ある日、こらえきれずに、そこで一人、泣いていた時のことです。

「そんな顔してたら、雪より冷たなるよ」

声のするほうを見ると、女の子が立っていました。

同じクラスの、七海さんでした。

いつも窓際で、古いカメラをいじっている子でした。

「ほら、笑いなよ!」

彼女は、そう言いました。

「私、あんたの大阪弁、好きやで。笑ってる顔は、もっと好き」

そして、返事も待たずに、手にしたカメラを構えました。

かしゃり、と乾いた音がしました。

「今の、いい顔やった。びっくりして、笑いかけとった」

私は、自分がどんな顔をしていたのか、わかりませんでした。

ただ、頬を伝っていた涙が、いつのまにか止まっていました。

大阪にいたころの私は、どちらかといえば、よくしゃべる子どもでした。

友達を笑わせるのが、得意なほうだったのです。

それが、この町では、笑われる側に変わってしまいました。

ある日、私が国語の教科書を読まされた時のことです。

一文を読み終えるたびに、教室のどこかで、くすくすと笑いが漏れました。

先生が注意しても、その笑いは、じっとりと教室に残りました。

私は席に座ったまま、自分の声が、ひどく醜いもののように思えました。

それからは、当てられても、できるだけ短く、小さな声で答えました。

大阪の町の、あの騒がしさが、たまらなく恋しくなりました。

商店街の呼び込みの声。友達と笑い転げた放課後。

それらは全部、この雪の下に、埋もれてしまった気がしました。

それから私は、写真部に入りました。

七海さんが、いるからでした。

部室は、暗室の薬品の匂いが、いつも染みついておりました。

彼女は、町のあちこちを撮って歩く子でした。

雪をかぶった地蔵。凍った川面。湯気の立つ銭湯の煙突。

そして、なぜだか、笑っている私の写真ばかりを。

「なんで、僕ばっかり撮るん」

「あんたの笑った顔、撮ってると、こっちまで楽しなるからや」

彼女はそう言って、また、かしゃりとシャッターを切りました。

不思議なもので、笑っていると、本当に嫌なことが減っていきました。

訛りをからかわれても、私は笑って返すようになりました。

すると、いつのまにか、からかう声も消えていきました。

気がつけば、私の周りには、話しかけてくれる友達が、何人もできていました。

あの時の私を救ったのは、間違いなく、七海さんのあの一言でした。

春が近づいたある休日、七海さんは私を、町を見下ろす丘へ連れていきました。

雪をこいで坂を登ると、息が白く、喉の奥がひりひりしました。

頂上に立つと、町が、雪の中に静かに広がっていました。

屋根から立ちのぼる湯気。凍った川の、鈍い光。

「どう。あんたの嫌いなこの町も、上から見たら、案外きれいやろ」

彼女は、そう言って、缶コーヒーを二つ、鞄から取り出しました。

手のひらに載せると、じんわりと温かく、指の先までしみました。

一口飲むと、甘くて、少し焦げたような味がしました。

「私もな、昔、よその町から越してきた口やねん」

彼女は、遠くを見ながら言いました。

「最初は、誰ともしゃべれんかった。せやから、あんたの気持ち、ちょっとわかんねん」

「そうやったんや」

「そのとき私を助けてくれたんが、カメラやった。ファインダー覗いとると、独りでも、平気やったから」

彼女は、そのカメラを、そっと撫でました。

「せやから、次は私が、誰かを助ける番やと思っとってん」

その横顔を、私は、忘れられません。

雪あかりが、彼女の睫毛を、白く縁取っていました。

冬のある日、私たちは二人で、暗室にこもりました。

現像液に浸した印画紙に、ゆっくりと像が浮かび上がってきます。

赤い明かりの中、彼女の横顔が、静かに光っていました。

暗室の作業は、私にとって、特別な時間になっていました。

外の世界の音が、ぴたりと止む、あの静けさが好きでした。

赤い明かりの中でだけは、訛りも、笑われた記憶も、遠くなりました。

七海さんの、薬品で少し荒れた指先が、印画紙を挟むのを、私はよく見ていました。

「浮かんでくる瞬間が、いちばんええねん。何もなかった紙に、光が戻ってくるみたいで」

その言葉を、私は、彼女がいなくなってから、何度も思い出しました。

「写真ってな、その一瞬を、ずっと閉じ込めとくんやで」

「閉じ込める、か」

「そう。何年経っても、その日の光と、その日の顔は、消えへん」

薬品の、つんとした匂いがしました。

彼女の指先は、少しかじかんで、赤くなっていました。

浮かび上がってきたのは、雪の校庭で笑う、私の顔でした。

「ほら、ええ顔。これ、あんたにあげる」

私は、その一枚を、大事に鞄の奥にしまいました。

本当は、その時、伝えたい言葉がありました。

けれど、口にすれば、この穏やかな時間が壊れてしまう気がして、言えませんでした。

好きだから。好きすぎたから、失うのが、恐かったのです。

本当は、告白の機会なら、それまでに何度もありました。

二人で校門を出る帰り道。暗室で並んで作業した夕暮れ。

そのたびに、喉まで言葉が出かかりました。

けれど、いざとなると、声が、雪の中に消えていくのです。

もし断られたら、この距離さえ失ってしまう。

それが、どうしても、恐かったのです。

今日こそ。明日こそ。そう思っているうちに、季節は過ぎていきました。

言えなかった言葉が、胸の中で、少しずつ重くなっていきました。

写真部に入って、ひと月ほど経ったころでしょうか。

放課後、校庭に、その冬いちばんの雪が積もりました。

七海さんは、いきなり雪玉を作って、私に投げてきました。

「ぼんやりしとらんと、逃げなよ!」

不意打ちの雪玉が、私の肩で、ぱっと白く散りました。

私は思わず、雪玉を作って投げ返しました。

二人で、雪まみれになって、追いかけ合いました。

気がつくと、私は、腹の底から声を出して笑っていました。

この町に来て、初めて、本当に笑ったのです。

その瞬間を、彼女はしっかりと、カメラに収めていました。

「ほら、やっぱり。あんた、笑うと、ええ顔しとる」

頬に触れた雪の冷たさと、白い息と、彼女の笑い声。

あの午後のことは、今も、鮮やかに覚えています。

三年生になり、卒業が近づいてきました。

私は、ようやく覚悟を決めました。

そのころには、私にも、何でも話せる友達ができていました。

卒業を控えたある夜、私はその友達に、初めて打ち明けました。

「僕、卒業式の日に、七海に、好きやって言おうと思うねん」

「ええやん。あいつ、絶対喜ぶで」

友達は、自分のことのように、笑ってくれました。

私は、駅までの雪道を、その言葉を練習しながら帰りました。

好きです。ずっと、あなたに救われてきました。

何度言っても、頬が熱くなりました。

軒先の氷柱から、雫が、ぽたり、ぽたりと落ちていました。

その音が、春の足音のように聞こえました。

卒業式の日に、七海さんに、想いを伝えよう。

そう、心に決めたのです。

その言葉を、頭の中で、何度も何度も練習しました。

雪が溶けはじめ、軒先から、雫の落ちる音がしていました。

春は、もうすぐそこまで来ていました。

卒業式の、三日前の朝でした。

いつものように、七海さんに「おはよう」を言おうと、教室を見回しました。

けれど、彼女の席は、空いたままでした。

入試も近いから、休みなのだろう。私は、そう思うことにしました。

やがて、担任の先生が、教室に入ってきました。

その顔が、いつもと、まるで違っていました。

先生は、しばらく黙ってから、絞り出すように言いました。

「七海さんが、昨日の帰り道……車に、はねられて」

「今朝、病院で、亡くなりました」

教室が、しんと静まり返りました。

次の瞬間、あちこちで、すすり泣きが起こりました。

けれど、私は、泣けませんでした。

何を言われているのか、まるで理解できなかったのです。

みんなが泣いている中で、私は一人、ただ、彼女の空いた席を見ておりました。

それからの三日間を、私は、どう過ごしたのか、よく覚えていません。

ごはんも、喉を通りませんでした。

教室に行っても、私はただ、彼女の空いた席を、見ていました。

誰かが、そこに白い花を一輪、置いていました。

放課後、私は一人、写真部の暗室に入りました。

薬品の匂いの奥に、まだ、彼女のいた気配が、残っている気がしました。

壁には、彼女が焼いた写真が、何枚も、洗濯ばさみで吊るされていました。

そのどれもが、笑っている、私の顔でした。

私は、その一枚一枚を、長いあいだ、見つめていました。

お通夜の日、私は、棺の中の彼女を見ました。

眠っているような、静かな顔でした。

祭壇には、遺影が飾られていました。

それは、彼女自身が、いつか自分で撮った一枚だったそうです。

写真の中の彼女は、笑っていました。

焼香の列に並びながら、私は、彼女との日々を思い返していました。

渡り廊下で声をかけてくれた、あの日の白い光。

雪玉を投げ合って、腹の底から笑った、あの午後。

缶コーヒーの温もりと、丘から見た町の景色。

そのどれもが、彼女がいなければ、生まれなかった時間でした。

私が今、こうして人前に立てるのも、笑えるのも、全部、彼女のおかげでした。

だからこそ、私は、泣き顔ではなく、笑顔を返したかったのです。

それを見た瞬間、私の胸の奥から、あの言葉がよみがえりました。

ほら、笑いなよ。

私、笑ってるあんたの顔、好きやで。

気がつくと、私は、笑っていました。

涙を流しながら、彼女の遺影に向かって、精一杯、笑っていました。

人の死を前にして笑う私は、周りの目には、どう映ったでしょうか。

それでも、私は笑い続けました。

それが、彼女への、たった一つの返事だと思ったからです。

彼女が亡くなって、二年が過ぎました。

クラスの同窓会で、久しぶりにみんなと会いました。

その席で、一人の女子が、ためらいがちに、私にこう言いました。

「あんた、知らんかったやろ。七海な……あんたのこと、好きやってんで」

「高校のとき、ずっと。あんたの笑った顔が、いちばん好きやって、言うとった」

その女子は、こんなことも教えてくれました。

「七海な、あんたが転校してきた最初の日から、気になっとったんやって」

「窓の外ばっかり見て、寂しそうにしとるあんたを、放っとけんかったって」

「あの子、自分もつらい思いしてきたから、余計に、な」

私は、うつむいたまま、何度もうなずくことしかできませんでした。

あの渡り廊下で、彼女が私に声をかけてくれたのは、偶然ではなかったのです。

ずっと、見ていてくれた。ずっと、気にかけていてくれた。

その事実が、温かくて、そして、たまらなく切なくて。

私は、また、涙をこぼしました。

私は、その瞬間、こらえていたものが、一気にあふれました。

あの日、通夜でさえ流せなかった涙が、声を上げて、あふれ出したのです。

私は、みんなの前で、子どものように泣きました。

好きだった。私も、ずっと、好きだった。

伝えられなかった言葉が、今ごろになって、胸を突き破っていきました。

四十九日の頃、七海さんのお母さんが、私を訪ねてきました。

そして、彼女の使っていた、あの古いカメラを、私に差し出しました。

「この子、あなたに持っていてほしいって、前に言うてたんです」

カメラの中には、まだ、撮り終えていないフィルムが一本、残っていました。

私は、その最後の一本を、学校の暗室で、自分の手で現像しました。

赤い明かりの中、印画紙に、ゆっくりと像が浮かんできます。

写っていたのは、笑っている、私の顔ばかりでした。

雪合戦の日の私。丘の上の私。暗室の赤い光の中の私。

彼女は、私の笑顔を、こんなにもたくさん、閉じ込めていたのです。

そして、最後の一枚に、彼女自身が写っていました。

誰かにシャッターを頼んだのでしょう。

雪の校庭で、彼女は、精一杯の笑顔を、こちらへ向けていました。

写真の裏には、鉛筆で、小さくこう書いてありました。

「あんたの笑顔が、私の宝物」

私は、その一枚を胸に、暗室で、声を殺して泣きました。

あの日、暗室で言えなかった言葉を、私は、遅すぎる声で、彼女に返しました。

「僕も、好きやったよ。ずっと」

ひとしきり泣いたあと、私は、鞄からあの一枚を取り出しました。

雪の校庭で、彼女が撮ってくれた、私の笑顔でした。

もう、ずいぶん色あせて、端も少しよれていました。

けれど、あの日の光と、あの日の顔は、確かに、そこに閉じ込められていました。

私は、その写真を見ながら、もう一度、笑いました。

涙をぬぐって、彼女に恥ずかしくない顔で、笑ってみせました。

ほら、笑いなよ。

彼女の声が、今も、雪のあの町から、聞こえてくる気がするのです。

雪はやがて溶け、川は音を立てて流れはじめました。

けれど、彼女の遺したあの言葉だけは、私の中で、今も溶けずに残っています。

あれから、長い年月が流れました。

私は今、小さな写真館を営んでいます。

人の笑った顔を撮るのが、私の仕事になりました。

使っているのは、七海さんが遺した、あの古いカメラです。

少し重くて、時々調子が悪くなりますが、私はずっと、これを使い続けています。

七五三の子ども。金婚式の老夫婦。卒業する高校生。

みんなが、いちばんいい顔で笑う瞬間を、私はファインダー越しに待ちます。

そのたびに、彼女の声が、聞こえてくる気がするのです。

ほら、笑いなよ。

その一言に救われた私は、今度は、誰かの笑顔を、この一枚に閉じ込めています。

写真は、その日の光と、その日の顔を、いつまでも消さずにいてくれるから。

今でも冬になると、私はあの渡り廊下の窓を思い出します。

冷たいガラスの向こうで、雪はいつも、静かに降り続けていました。

私は今でも、つらいことがあると、あの写真を取り出します。

そして、彼女に教わったとおり、まず、笑うことにしています。

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