フィルムの一枚目は空けておく

フィルムの一枚目は空けておく

雪の匂いというものを、私はあの町で初めて知りました。

父の仕事の都合で、私が大阪から雪国の高校へ移ったのは、二年生の冬のことです。

転校の初日、教室の窓の外は、見たこともないほどの白でした。

屋根も、道も、川さえも、すべてが雪に沈んでおりました。

私は、その白さと同じくらい、心細く立っておりました。

いま私は写真館を営んでいて、毎日フィルムの一枚目を空けてから、仕事にかかります。

三十年前に教わった手順を、いまだに変えられずにいるのです。

教わった相手は、卒業式を三日後に控えた朝に、もういない人になりました。

「大阪から来たんやろ。なんかしゃべってみ」

クラスの誰かが、面白半分に言いました。

私が口を開くたび、みんながどっと笑いました。

訛りが、おかしいのだそうです。

「なんやそのイントネーション」「もういっぺん言うてみ」

笑いは、日を追うごとに、少しずつ棘を含んでいきました。

私はやがて、教室で口を開くのをやめました。

しゃべらなければ、笑われることもない。そう思ったのです。

昼休みになると、私は決まって、誰もいない渡り廊下の隅にいました。

冷たい窓に額をつけて、白い校庭を、ただ見ていました。

母が作ってくれた弁当を、その隅で、味もわからないまま口に運びました。

大阪の友達は、今ごろ、みんなで笑いながら食べているのだろう。

そう思うと、卵焼きが、やけにしょっぱく感じました。

窓の外では、雪が、音もなく降り積もっていくばかりでした。

ある日、こらえきれずに、そこで一人、泣いていた時のことです。

背中のほうで、かしゃり、と乾いた音がしました。

私はそれを、庇の雪が落ちた音だと思いました。

「そんな顔してたら、雪より冷たなるよ」

声のするほうを見ると、女の子が立っていました。

同じクラスの、七海さんでした。

いつも窓際で、古いカメラをいじっている子でした。

「ほら、笑いなよ!」

彼女は、そう言いました。

「私、あんたの大阪弁、好きやで。笑ってる顔は、もっと好き」

そして、返事も待たずに、手にしたカメラを構えました。

かしゃり、と、さっきと同じ音がしました。

「今の、いい顔やった。びっくりして、笑いかけとった」

私は、自分がどんな顔をしていたのか、わかりませんでした。

ただ、頬を伝っていた涙が、いつのまにか止まっていました。

渡り廊下の隅の窓

大阪にいたころの私は、どちらかといえば、よくしゃべる子どもでした。

友達を笑わせるのが、得意なほうだったのです。

それが、この町では、笑われる側に変わってしまいました。

ある日、私が国語の教科書を読まされた時のことです。

一文を読み終えるたびに、教室のどこかで、くすくすと笑いが漏れました。

先生が注意しても、その笑いは、じっとりと教室に残りました。

私は席に座ったまま、自分の声が、ひどく醜いもののように思えました。

それからは、当てられても、できるだけ短く、小さな声で答えました。

大阪の町の、あの騒がしさが、たまらなく恋しくなりました。

商店街の呼び込みの声。友達と笑い転げた放課後。

それらは全部、この雪の下に、埋もれてしまった気がしました。

それから私は、写真部に入りました。

七海さんが、いるからでした。

部室は、暗室の薬品の匂いが、いつも染みついておりました。

彼女は、町のあちこちを撮って歩く子でした。

雪をかぶった地蔵。凍った川面。湯気の立つ銭湯の煙突。

そして、なぜだか、笑っている私の写真ばかりを。

「なんで、僕ばっかり撮るん」

「あんたの笑った顔、撮ってると、こっちまで楽しなるからや」

彼女はそう言って、また、かしゃりとシャッターを切りました。

入部した日、私は彼女がフィルムを詰めるところを、初めて横で見ました。

裏蓋を閉めてから、彼女は何も撮らずに、一度だけ巻き上げたのです。

「なんで、一枚ぶん飛ばすん」

「一枚目はな、たいてい光が入っとるから。捨てるぶんや」

七海さんは、どのフィルムも、一枚目を空けてから撮りはじめる人でした。

私はそれを、律儀な人の癖なのだと思っていました。

部室の棚には、彼女の撮ったフィルムが、缶の中に何十本と眠っていました。

どれも、油性ペンで日付だけが書いてあります。

「いつか全部焼くん」

「焼かへん。焼きたいのだけ焼くんや」

「もったいないやん」

「もったいないくらいで、ちょうどええねん」

その言い方が、私にはよくわかりませんでした。

暗室の赤い明かり

不思議なもので、笑っていると、本当に嫌なことが減っていきました。

訛りをからかわれても、私は笑って返すようになりました。

すると、いつのまにか、からかう声も消えていきました。

気がつけば、私の周りには、話しかけてくれる友達が、何人もできていました。

あの時の私を救ったのは、間違いなく、七海さんのあの一言でした。

冬のある日、私たちは二人で、暗室にこもりました。

現像液に浸した印画紙に、ゆっくりと像が浮かび上がってきます。

赤い明かりの中、彼女の横顔が、静かに光っていました。

外の世界の音が、ぴたりと止む、あの静けさが好きでした。

赤い明かりの中でだけは、訛りも、笑われた記憶も、遠くなりました。

七海さんの、薬品で少し荒れた指先が、印画紙を挟むのを、私はよく見ていました。

「浮かんでくる瞬間が、いちばんええねん」

「何もなかった紙に、光が戻ってくるみたいで」

その言葉を、私は、彼女がいなくなってから、何度も思い出しました。

「写真ってな、その一瞬を、ずっと閉じ込めとくんやで」

「閉じ込める、か」

「そう。何年経っても、その日の光と、その日の顔は、消えへん」

薬品の、つんとした匂いがしました。

印画紙を液に沈めると、白い紙の中に、まず輪郭のない灰色が滲みます。

それが少しずつ濃くなって、目の位置が決まり、最後に口もとが現れます。

顔というのは、口もとから戻ってくるのだと、私はそのとき知りました。

浮かび上がってきたのは、雪の校庭で笑う、私の顔でした。

「ほら、ええ顔。これ、あんたにあげる」

私は、その一枚を、大事に鞄の奥にしまいました。

本当は、その時、伝えたい言葉がありました。

けれど、口にすれば、この穏やかな時間が壊れてしまう気がして、言えませんでした。

好きだから。好きすぎたから、失うのが、恐かったのです。

告白の機会なら、それまでに何度もありました。

二人で校門を出る帰り道。暗室で並んで作業した夕暮れ。

そのたびに、喉まで言葉が出かかりました。

けれど、いざとなると、声が、雪の中に消えていくのです。

もし断られたら、この距離さえ失ってしまう。

それが、どうしても、恐かったのです。

今日こそ。明日こそ。そう思っているうちに、季節は過ぎていきました。

雪をこいだ坂の上

春が近づいたある休日、七海さんは私を、町を見下ろす丘へ連れていきました。

雪をこいで坂を登ると、息が白く、喉の奥がひりひりしました。

頂上に立つと、町が、雪の中に静かに広がっていました。

屋根から立ちのぼる湯気。凍った川の、鈍い光。

「どう。あんたの嫌いなこの町も、上から見たら、案外きれいやろ」

彼女は、そう言って、缶コーヒーを二つ、鞄から取り出しました。

手のひらに載せると、じんわりと温かく、指の先までしみました。

一口飲むと、甘くて、少し焦げたような味がしました。

「私もな、昔、よその町から越してきた口やねん」

彼女は、遠くを見ながら言いました。

「最初は、誰ともしゃべれんかった。せやから、あんたの気持ち、ちょっとわかんねん」

「そうやったんや」

「そのとき私を助けてくれたんが、カメラやった」

「ファインダー覗いとると、独りでも、平気やったから」

彼女は、そのカメラを、そっと撫でました。

「せやから、次は私が、誰かを助ける番やと思っとってん」

その横顔を、私は、忘れられません。

雪あかりが、彼女の睫毛を、白く縁取っていました。

帰り道、私は一つだけ尋ねました。

「あの日、渡り廊下で、なんで僕に声かけたん」

彼女は、少し間を置いてから答えました。

「なんとなく、や」

その「なんとなく」を、私は三十年かけて、疑うことになります。

放課後、校庭に、その冬いちばんの雪が積もった日のことです。

七海さんは、いきなり雪玉を作って、私に投げてきました。

「ぼんやりしとらんと、逃げなよ!」

不意打ちの雪玉が、私の肩で、ぱっと白く散りました。

私は思わず、雪玉を作って投げ返しました。

二人で、雪まみれになって、追いかけ合いました。

気がつくと、私は、腹の底から声を出して笑っていました。

この町に来て、初めて、本当に笑ったのです。

その瞬間を、彼女はしっかりと、カメラに収めていました。

「ほら、やっぱり。あんた、笑うと、ええ顔しとる」

頬に触れた雪の冷たさと、白い息と、彼女の笑い声。

あの午後のことは、今も、鮮やかに覚えています。

三年生になり、卒業が近づいてきました。

私は、ようやく覚悟を決めました。

そのころには、私にも、何でも話せる友達ができていました。

卒業を控えたある夜、私はその友達に、初めて打ち明けました。

「僕、卒業式の日に、七海に、好きやって言おうと思うねん」

「ええやん。あいつ、絶対喜ぶで」

友達は、自分のことのように、笑ってくれました。

私は、駅までの雪道を、その言葉を練習しながら帰りました。

好きです。ずっと、あなたに救われてきました。

何度言っても、頬が熱くなりました。

軒先の氷柱から、雫が、ぽたり、ぽたりと落ちていました。

その音が、春の足音のように聞こえました。

空いたままの席

卒業式の、三日前の朝でした。

いつものように、七海さんに「おはよう」を言おうと、教室を見回しました。

けれど、彼女の席は、空いたままでした。

入試も近いから、休みなのだろう。私は、そう思うことにしました。

やがて、担任の先生が、教室に入ってきました。

その顔が、いつもと、まるで違っていました。

先生は、しばらく黙ってから、絞り出すように言いました。

「七海さんが、昨日の帰り道……車に、はねられて」

「今朝、病院で、息を引き取りました」

教室が、しんと静まり返りました。

次の瞬間、あちこちで、すすり泣きが起こりました。

けれど、私は、泣けませんでした。

何を言われているのか、まるで理解できなかったのです。

みんなが泣いている中で、私は一人、ただ、彼女の空いた席を見ておりました。

それからの三日間を、私は、どう過ごしたのか、よく覚えていません。

ごはんも、喉を通りませんでした。

誰かが、席に白い花を一輪、置いていました。

三日目の昼、私はいつもの渡り廊下の隅に立ちました。

窓の外では、あの日と同じように、雪が音もなく降っていました。

背中のほうで、かしゃり、という音がしないか、私はしばらく待ちました。

庇の雪だけが、どさりと落ちました。

放課後、私は一人、写真部の暗室に入りました。

薬品の匂いの奥に、まだ、彼女のいた気配が、残っている気がしました。

壁には、彼女が焼いた写真が、何枚も、洗濯ばさみで吊るされていました。

そのどれもが、笑っている、私の顔でした。

お通夜の日、私は、棺の中の彼女を見ました。

眠っているような、静かな顔でした。

祭壇の遺影は、彼女自身が、いつか自分で撮った一枚だったそうです。

焼香の列に並びながら、私は、彼女との日々を思い返していました。

渡り廊下で声をかけてくれた、あの日の白い光。

雪玉を投げ合って、腹の底から笑った、あの午後。

缶コーヒーの温もりと、丘から見た町の景色。

そのどれもが、彼女がいなければ、生まれなかった時間でした。

だからこそ、私は、泣き顔ではなく、笑顔を返したかったのです。

気がつくと、私は、笑っていました。

涙を流しながら、彼女の遺影に向かって、精一杯、笑っていました。

周りの目に、それがどう映ったかは、わかりません。

それでも、私は笑い続けました。

それが、彼女への、たった一つの返事だと思ったからです。

二年後の同窓会で、一人の女子が、ためらいがちに私に言いました。

「あんた、知らんかったやろ。七海な……あんたのこと、好きやってんで」

「転校してきた最初の日から、気になっとったんやって」

「窓の外ばっかり見て、寂しそうにしとるあんたを、放っとけんかったって」

「あの子、自分もつらい思いしてきたから、余計に、な」

私は、うつむいたまま、何度もうなずくことしかできませんでした。

あの渡り廊下で声をかけてくれたのは、偶然ではなかったのです。

ずっと、見ていてくれた。ずっと、気にかけていてくれた。

その席で、私はようやく、通夜でさえ流せなかった涙をこぼしました。

好きだった。私も、ずっと、好きだった。

伝えられなかった言葉が、今ごろになって、胸を突き破っていきました。

それでも、その夜の私には、まだ足りないものがありました。

彼女が私を見つけた、いちばん最初の一秒を、私は知らなかったのです。

フィルムの一枚目の光

四十九日の頃、七海さんのお母さんが、私を訪ねてきました。

そして、彼女の使っていた、あの古いカメラを、私に差し出しました。

「この子、あなたに持っていてほしいって、前に言うてたんです」

カメラの中には、まだ、撮り終えていないフィルムが一本、残っていました。

私は、その最後の一本を、学校の暗室で、自分の手で現像しました。

赤い明かりの中、印画紙に、ゆっくりと像が浮かんできます。

写っていたのは、笑っている、私の顔ばかりでした。

雪合戦の日の私。丘の上の私。暗室の赤い光の中の私。

彼女は、私の笑顔を、こんなにもたくさん、閉じ込めていたのです。

そして、最後のコマに、彼女自身が写っていました。

誰かにシャッターを頼んだのでしょう。

雪の校庭で、彼女は、精一杯の笑顔を、こちらへ向けていました。

写真の裏には、鉛筆で、小さくこう書いてありました。

「あんたの笑顔が、私の宝物」

私は、その一枚を胸に、暗室で、声を殺して泣きました。

あの日、暗室で言えなかった言葉を、私は、遅すぎる声で、彼女に返しました。

「僕も、好きやったよ。ずっと」

部室に残っていた彼女のフィルムを、私が全部焼いたのは、その春休みでした。

どの一本も、一枚目は真っ黒でした。

光が入って潰れた、彼女の言うとおりの「捨てるぶん」です。

ただ、最後の一本だけが、違っていました。

最後のフィルムの一枚目にだけ、像が焼きついていたのです。

一枚目に写っていたのは、まだ泣いている私でした。

渡り廊下の窓を背にして、額を冷たいガラスにつけたままの、転校生の顔です。

あの日、私が庇の雪だと思った、かしゃり、という音。

あれは、雪ではありませんでした。

彼女は、声をかける前に、一枚撮っていたのです。

だから「びっくりして、笑いかけとった」と言えた。

直前の顔を、彼女だけが、見ていたのですから。

そして、その一枚を、彼女は誰も焼かない場所へ入れました。

一枚目は捨てるぶんだと、自分で決めていた、あの場所へ。

いま私が使っているのは、七海さんが遺した、あの古いカメラです。

シャッターを切る前に、私は必ず一度、相手の笑う前の顔を見ます。

泣いていても、こわばっていても、そこから口もとだけが動きはじめる瞬間があります。

待つあいだ、私はいつも、フィルムの一枚目のことを考えています。

笑う前の顔を見ていた人だけが、その人の笑顔を待てるのだと思うのです。

名前を呼んだだけで私を救った担任の話や、言えないまま終わった幼馴染の話も、同じ後悔から書き残しました。

ほら、笑いなよ。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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