埃まみれのパンチパーマ
地震で水道が止まった能登の坂道。豆腐屋の店先に伸びた列で、三度並んで三度とも順番を譲った彫り物の男は、湯気にだけ礼を言って去りました。誰も名前を知らないその人が…
地震で水道が止まった能登の坂道。豆腐屋の店先に伸びた列で、三度並んで三度とも順番を譲った彫り物の男は、湯気にだけ礼を言って去りました。誰も名前を知らないその人が…
十勝の除雪車に乗る私は、兄の長靴がなぜ右足だけすり減るのか知らずにいました。封も切られぬままロッカーの底に眠っていた合格通知、柱に一本もない兄の背比べの線、二十…
深夜の土石流で母と妹を失った、十四歳の夏でした。救助にあたった自衛隊員がこぼした「ごめんなぁ」という一言の本当の意味を、私は十九年後、堰堤の草を刈りながら知るこ…
盆地の桃農園で暮らす、血の繋がらない兄と私。無口な兄が黙って払ってくれた入学金、姪のために限界まで差し出した輸血。そして姪の結婚式で読まれた一通の手紙が、継いだ…
五十年のあいだ、薬を一粒も飲まずに逝った銭湯の祖父。葬儀のあと、常連の理髪師が届けてくれた手紙には、生まれたばかりの私の命と引き換えに立てた誓いが綴られていまし…
七時十六分の電車。ホームで隣に座るおじいさんは、毎朝オレンジ色の花束を抱えていました。輪ゴムを二重に留める理由も、来年の春の種をもう採り終えていた理由も、私は何…
山の観測員だった夫を沢に奪われて四度目の冬。妻は毎朝、三つ目の渡し石を見おろしてから家に戻ります。甘い卵焼き、桜の櫛、所長の夜の電話。一周忌に開いた野帳の余白と…
雪深い温泉町で、十九歳の私は独りで娘を育てていました。玄関の履物をいつもそろえてくれた咲。あの子が遺した小さな習慣の本当の意味に私が気づいたのは、何年もあとのこ…
餌をやると、翌朝きまって沓脱ぎ石の右の端にどんぐりが一つ置いてある。お礼だと思っていました。けれどその置き場所には、私が越してくる三年も前から決まっていた理由が…
駅裏の小さな卓球場に、毎日ひとりで通う高校生がいました。彼が球出し機をいちばん速くする理由を、店主は長いあいだ知りませんでした。亡き父と交わした約束と、返せなか…
海の見える坂の町の活版印刷所で、わたしと志乃と省吾は出会いました。志乃が昏睡に落ちる前の晩、一人きりで組んでいたのは、自分自身の言葉でした。彼女が遺した最後の版…
藍染職人の継母を、私は最後まで「お母さん」と呼べなかった。青い手が苦手だった私を川から押し上げ、そのまま帰らなかった人。遺された日記のダイヤル錠は、私の誕生日で…
塾を辞めた高校生だった僕に、坂の途中の珈琲店の店長さんは「うち、すぐそこだから」と言って閉店後の席を貸してくれました。二年後に知ったその嘘の本当の重さと、十四年…
十七歳の誕生日に、育ての母だと知らされた私は、母を「おばさん」と呼び、差し出された手紙さえ、その場で丸めて捨ててしまいました。その翌日、母は突然この世を去ります…
社会人になって初めての給料で母に何か贈りたかったのに、素直になれず「こんな安物かよ」と口走ってしまった三千円のエプロン。三年後に見つけた家計簿の余白が、その値札…