彼女の遺言

坂の途中に、小さな活版印刷所がありました。

海から吹き上げる風が、開け放した窓から機械のあいだを通り抜けるたびに、紙とインキの匂いをわたしの鼻先まで運んできました。

わたしは高校を出てすぐ、その印刷所で刷り上がった紙を数える仕事につきました。手先が不器用で、ほかにできることも見つからなかったからです。

インキと、鉛と、機械油。三つの匂いが混ざりあったあの薄暗い刷り場が、わたしはどうしようもなく好きになっていきました。

活版という仕事が、もう時代遅れになりかけていることは、子どものわたしにも薄々分かっていました。それでも、あの場所には、急いではいけない静けさがありました。

志乃さんは、その印刷所のたった一人の職人見習いでした。年はわたしと同じでしたが、活字を拾う指先だけは、いつも職人のように黒く汚れていました。

棚に向かって背筋を伸ばして立つ志乃さんの後ろ姿を、わたしはよく、紙束の陰からそっと眺めていました。

「これがね、拾うのが一番むずかしい字なの」

あるとき志乃さんは、米粒ほどの活字を一本つまんで、わたしの手のひらの真ん中に載せてくれました。

指の腹に触れた鉛の粒は、真夏でもひやりと冷たく、見た目よりもずっと重たいのでした。

「小さいでしょう。でも、これがたった一本抜けるだけで、文がぜんぶ崩れてしまうの。だから最後まで、気が抜けないのよ」

志乃さんは、そう言っていたずらっぽく笑いました。前歯が少しだけ覗く、その笑い方が好きでした。

「わたしね、いつか自分の言葉を、自分の手で組んでみたいの。」

文選箱に活字を並べながら、棚に向かってそう呟いたときの横顔を、わたしはいまでも、まぶたを閉じればはっきりと思い出せます。

省吾さんは、志乃さんの恋人でした。隣町の製本所で、刷り上がった紙を折り、本の背をひとつずつ糸で綴じる仕事をしていました。

聞けば、二人が出会ったのも、この刷り場だったそうです。製本所から紙を受け取りにきた省吾さんが、組版に見入ったまま、しばらく口をきかなかったのだとか。

刷った紙を綴じるのが省吾さん、その紙のもとになる言葉を組むのが志乃さん。二人は、いつもそういう並びで、まるで一冊の本のようでした。

夕方になると、省吾さんは決まって、自転車を押して坂をのぼってきました。

「志乃、まだ終わらんのか」

「もう少し。この一行だけ、組ませて」

二人のやりとりを、わたしは紙を数えながら、聞くともなしに聞いていました。数字を数える声が、なんども頭のなかで飛んでしまいました。

三人で飲む番茶が、一日のなかでいちばん静かで、いちばんあたたかい時間でした。安物の茶葉なのに、あの刷り場で飲むと、不思議と甘く感じられました。

志乃さんには、一本だけ、人にはやらせずに大切にしている活字がありました。

「ゆ」の字の、少し肩の欠けた、古い一本です。

「これね、拾おうとするとみんな避けるの。刷ると、そこだけかすれてしまうから」

それでも志乃さんは、その欠けた「ゆ」を、捨てずに棚のいちばん手前に置いていました。

「欠けていても、ちゃんと役に立つ日がくるのよ。字にだって、ひとつずつ居場所があるんだから」

そう言って、志乃さんは指の先で、その欠けた肩を、いとおしそうに撫でていました。

ある雨の日のことです。

客足もすっかり途絶えていたので、志乃さんが、わたしに組版の真似ごとをさせてくれました。

活字は、拾うそばから指を真っ黒に汚しました。一本拾って、置いて、また一本。順番も高さも、まるで揃いませんでした。

「順番をひとつ間違えるだけで、もう読めない文になってしまうの。だから、拾いながら、いつも心のなかで読むのよ」

志乃さんの手つきは、目で追えないほど速く、それでいて少しの迷いもありませんでした。指が文字を覚えている、というのは、こういうことなのだと思いました。

わたしが半日かけて組んだ一行は、字の背丈もばらばらで、まるで意味をなしていませんでした。

「難しいでしょう。でもね、一度組んで紙に刷ってしまえば、言葉はもう消えないの」

「消えない?」

「うん。手紙よりも、声よりも、ずっと長く残る。だから活字って、こわいくらいに正直なのよ」

屋根を打つ雨の音のなかで聞いたその言葉を、あのときのわたしは、ただ軽く聞き流していました。

いまになって、ようやくその意味が、胸の奥に深く刺さってきます。

その年の夏、町の花火大会の晩に、三人で堤防に座ったことがありました。

志乃さんと省吾さんは、少し離れて並び、同じ空を見上げていました。

わたしは、その二人の横顔を、花火の光が照らしたり、闇に沈めたりするのを、ただ眺めていました。

うらやましい、という気持ちと、ずっとこのままでいたい、という気持ちが、胸のなかで静かにまじりあっていました。

帰り道、志乃さんは、鞄の底から線香花火を三本だけ取り出しました。

「いちばん最後まで火が残った人が、勝ちね」

三人で暗い道端にしゃがんで、赤い火の玉が落ちるのを、息を止めて見つめました。

最後まで散らずに残ったのは、志乃さんの一本でした。

「わたしの勝ち」と、志乃さんは、暗がりのなかで小さく笑いました。

最後に三人でゆっくり会ったのは、次の春でした。

桜の花びらが、刷り場の窓の桟にまで吹き込んでくる、あたたかな午後でした。

「二人は、結婚しないの」

わたしが何気なく尋ねると、省吾さんは湯呑みに目を落として、めずらしく口ごもりました。

「うん、まあ……そのうち、な」

志乃さんは、それには何も言わず、ただ静かに笑っていました。

その笑い方が、どこか少しさびしそうだったことを、わたしはずっとあとになって思い返すことになります。

志乃さんの体に異変が見つかったのは、それからいくらも経たない頃でした。

頭の奥に、小さな影があるのだと聞きました。むずかしい名前を聞かされましたが、わたしにはよく分かりませんでした。

分かったのは、それが、志乃さんの言葉を少しずつ奪っていく影だ、ということだけでした。

入院した志乃さんのもとへ、省吾さんは毎日通いました。仕事の行きと帰り、雨の日も、一日も欠かさずでした。

わたしも、暇を見つけては見舞いに行きました。病室には、いつも志乃さんの文選箱が、そっと置いてありました。

病室の窓からは、あの坂の町と、印刷所の色あせた赤い屋根が、豆粒のように小さく見えました。

「印刷所、まだちゃんとやってる?」

「やってるよ。志乃さんが戻る場所、ちゃんと空けて待ってるからね」

志乃さんは、点滴の管の向こうで、うっすらと笑いました。頬が、会うたびに少しずつ細くなっていくのが、つらくてなりませんでした。

「戻れたらね、いちばんに組みたい言葉があるの」

「なあに、それ」

「秘密。刷り上がったら、あなたにいちばんに見せてあげる」

その約束を、わたしは子どものように、指折り数えて楽しみにしていました。

ある日の見舞いのとき、志乃さんは、枕元に置いた文選箱を、わたしのほうへそっと押しました。

「これ、あなたにあずかっておいてほしいの。わたしの手より、あなたの手のほうが、あったかいから」

「あずかるって……戻ってきたら、すぐ返すからね」

「うん。すぐ、ね」

志乃さんは、そう言って、静かに目を閉じました。その約束が果たされる日は、とうとう来ませんでした。

省吾さんは、面会の時間になると、いつも文庫本を一冊、上着の内ポケットに入れて持ってきていました。

眠っている志乃さんの枕元で、低い声で、その本を読んで聞かせるのです。

「聞こえていなくても、いいんだ。声だけでも、そばにあればな」

省吾さんは、照れくさそうに、そう言いました。

わたしは、病室の扉の外でそれを聞きながら、二人の時間を邪魔しないように、そっと引き返しました。

廊下の窓から差し込む夕日が、やけに長く床にのびていたのを、いまでも憶えています。

けれど、頭の奥の影は、季節が変わるごとに、少しずつ濃くなっていきました。

夏の初め、志乃さんは、目を覚ましている時間よりも、眠っている時間のほうが長くなりました。

面会のたびに、交わせる言葉が、一つ、また一つと、こぼれ落ちるように減っていきました。

それでも志乃さんは、時折、白い布団の上で、指先だけをかすかに動かすことがありました。

何かを拾い、そっと並べているような、あの組版のときの手つきでした。

「志乃、無理すんな。ほら、手ぇ、こんなに冷たいぞ」

省吾さんは、その細くなった指を、大きな両手でそっと包みました。

わたしは、それ以上は見ていられなくて、廊下に出て、壁にもたれて泣きました。

志乃さんが逝ったのは、わたしたちが二十五になった夏でした。

蝉の声が、やけに遠くに聞こえる、よく晴れた朝のことでした。

告別式の手伝いに行くと、省吾さんは喪服のまま、式場の隅にちんまりと座って、煙草をくゆらせていました。

「……なんて言ったら、いいのか、わたし、わからないよ」

わたしが泣きながらそう言うと、省吾さんは、不思議なほど穏やかな顔をこちらに向けました。

「そうだな。でも、これで志乃は、もう誰のものにもならんって、決まったからな」

にっこりと、笑ってそう言ったのです。

わたしは、その笑顔がこわくて、たまらなくなって、また涙があふれました。

省吾さんは、まあまあ、と言いながら、わたしの肩を抱いてくれました。

その手が、こらえきれずに細かく震えていたことに、わたしはちゃんと気づいていました。

出棺のときでした。

「これが、最後のお別れになります」

係の人が、そう静かに告げた、まさにその途端のことです。

省吾さんが、膝から崩れるように、その場にくずおれました。

子どものように口を大きく開けて、声を上げて泣きはじめたのです。

ずっと、ずっと、たった一人でこらえていたのだと、わたしはそのとき初めて分かりました。

その泣き声を聞きながら、わたしもまた、人目もはばからず泣きました。

火葬場からの帰り道、省吾さんは、ひとことも口をききませんでした。

ただ、上着の内ポケットを、ときどき、確かめるようにそっと押さえていました。

あとになって知ったことですが、そこには、役所でもらってきた一枚の紙が、四つに畳んで入っていたそうです。

治ったら、二人で名前を書いて出すはずだった、その紙でした。

数日が過ぎ、少し落ち着いたころ、省吾さんから電話がありました。

どうしても見てほしいものがあるから、印刷所に来てほしい、と言うのです。

訪ねていくと、省吾さんは刷り場の真ん中に、ぽつんと立っていました。

作業台の上には、組み上がった活版が一つ、まるで宝物のように、そっと置いてありました。

「志乃が、入院する前の晩に、ここで一人で、遅くまで組んでたんだ」

省吾さんの声は、少しかすれていました。

志乃さんは、自分の言葉を、本当に組み上げていたのです。

あの雨の日に「いつか自分の手で組んでみたい」と言った、その約束を、志乃さんは最後の力を振りしぼって、果たしていたのです。

「刷ってやりたいんだ。志乃の、いちばんの願いだったろうから。でも、俺一人じゃ、どうしても手が足りなくて」

わたしは、黙って、大きくうなずきました。

インキを練り、ローラーに薄くのばし、まっさらな紙を、指が震えないように気をつけて合わせました。

二人で、印刷機の重い把手を、ゆっくりと引きました。

機械が、ごとん、と腹の底に響くような、低い音を立てました。

刷り上がった紙の上で、志乃さんの言葉が、くっきりと立っていました。

墨の匂いのまだ乾かない紙の上に、志乃さんの声で、こう組まれていました。

「うそつき。でも、すごく嬉しかった」

「治ったら結婚しようって、あなたは言ったよね」

「本当にそうなったらいいなって、わたし、何度も何度も、夜の病室で思ったの」

「わたしには、あなたの代わりなんて、どこを探しても見つからない」

「だから、わたしはずっと、あなたのもの。それだけは、変わらないから」

「だけどね、わたしの代わりは、もう組んであるから。」

「落ち込んだあなたを、いちばんそばで励ましてくれる人を、わたしはちゃんと知ってるの」

「その人に、どうかこの紙を見せてあげて。ほんとうに、ありがとう。じゃあね」

わたしは、刷り上がったばかりの紙を手に持ったまま、しばらく、その場から動けませんでした。

インキの匂いのなかで、涙が、あとからあとから、紙を汚さないようにと顔を背けてもなお、こぼれ落ちました。

「これ、たぶん……君のことだと、思うんだ」

省吾さんが、紙の端に目を落としたまま、静かにそう言いました。

わたしは、ずっと前から、省吾さんのことが好きでした。

言えないまま、ただ志乃さんのいちばんの親友として、二人のそばにいたのです。

志乃さんは、きっと、そのわたしの気持ちに、とうに気づいていたのでしょう。

自分のいなくなったあとの一行を、わたしという活字で、そっと組んで逝ったのです。

省吾さんは、その紙を薄い額に入れて、製本所の机の前に飾ったそうです。

わたしたちは、それからしばらく、どちらからともなく、会うのをためらいました。

会えば、志乃さんの気持ちに甘えてしまうようで、こわかったのです。

けれど、あの欠けた「ゆ」の字が、いつも棚の手前から、わたしを見ていました。

欠けていても、ちゃんと居場所がある。志乃さんの声が、そう聞こえた気がしたのです。

それから、いくつもの季節が過ぎました。

わたしは、あの坂の途中の印刷所を、継ぐことになりました。

省吾さんとは、少しずつ、また前のように言葉を交わすようになりました。

はじめは、印刷所の道具の話ばかりでした。

この機械の調子が悪い、あの活字が足りない、そんな他愛のないことです。

けれど、道具の話をしているあいだだけ、わたしたちは志乃さんのことを、笑って話すことができました。

「志乃なら、この組み方、きっと怒るぞ」

「うん。もっと丁寧に、って言うと思う」

二人で笑うと、あの刷り場に、昔の静けさが、少しだけ戻ってくるのでした。

去年の春、わたしたちは、ごくごく小さな式を挙げました。志乃さんの写真を、いちばん前の席に置いて。

志乃さんが最後に組んだあの版は、いまも刷り場の棚の上に、崩さずにそのまま置いてあります。

ときどき、その一行を、わたしは黒く汚れた指の先で、そっと撫でます。

冷たい鉛の粒が、志乃さんの指先の記憶そのもののように、思えてならないのです。

この春から、若い子が一人、見習いに入りました。

紙を数えるその子の丸い背中が、昔のわたしに、なんだかそっくりなのです。

わたしは、あの欠けた「ゆ」の字を、その子の手のひらの真ん中に、そっと載せてやりました。

「これね、拾うのが一番むずかしい字なのよ」

志乃さんに教わったその言葉を、わたしはいま、こうして次の手へと受け渡しています。

いまは、わたしがその活字の前に立っています。

一本拾って、心のなかで読んで、また一本。

消えない言葉を、わたしは今日も、志乃さんに教わったとおりに、一行ずつ組んでいます。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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