
「補聴器の電池が、すぐ減るんだ。不良品じゃないのか」
水野さんは、いつもその一言から店に入ってきた。
駅前の商店街の端に、補聴器の店がある。
私はそこで、認定補聴器技能者として働いていた。
お客さんの耳の形を見て、音の聞こえ方を調べ、機械を合わせる仕事だ。
水野さんは、雨でも風でも、毎週かならず同じ時間にやって来た。
ガラス戸が開くと、乾いたベルが鳴る。
その音のあとに、決まって「補聴器の電池が」と声がした。
ジャケットの内側から、小さな電池ケースを出して、カウンターの上に置く。
ケースの中は、空だった。
使い切った電池が、きれいに並んで入っている。
私は、それを見るたびに、少し息を止めた。
「また、ですか」と言いかけて、いつも飲み込んだ。
店長の江口さんに、頭の中で叱られる気がしたからだ。
「お客さんの『また』は、こっちの『はじめて』だぞ」
江口さんの口癖だった。
私は笑顔を作って、新しい電池を一週間ぶんだけ袋に入れた。
水野さんは箱で買わなかった。
「余ると、もったいない」と言って、一週間ぶんしか持って帰らない。
そのくせ、一週間ぶんは、一週間もたなかった。
水野さんの補聴器は、最新の機種だった。
息子さんが選んだのだと、最初の日に聞いた。
小さくて、肌の色に近くて、耳にかければほとんど目立たない。
けれど、水野さんが耳にかけているところを、私は一度も見なかった。
来店するたび、補聴器は上着の胸ポケットに入っていた。
シャツの胸のところに、安全ピンで留めてある。
「耳に付けると、かゆいんだ」
最初に尋ねたとき、水野さんはそう言った。
「胸のほうが、落ち着く」
私は、そういうお客さんもいるのだと思った。
補聴器を嫌がる人は、珍しくない。
付けたり外したりを繰り返して、電池だけが先に減る人もいる。
だから、私は最初、それが原因だと考えた。
けれど、胸ポケットの補聴器は、箱から出したばかりのように静かだった。
耳にかけていないなら、電池が減る理由がわからない。
私は水野さんの前で、補聴器を机に置いて、電池の蓋を開けた。
端子を拭いて、バネを確かめる。
どこにも、おかしなところはなかった。
「機械の故障かもしれません。メーカーに送って、調べてもらいましょうか」
そう言うと、水野さんは、少し黙った。
「何日、かかる」
「一週間ほどです」
「それは、困る」
短く言って、補聴器を握りしめた。
関節の太い指だった。
爪の先に、薄く油の跡が残っている。
長く工場で働いた人の手だと、あとで知った。
「毎晩、使うんだ。ないと、困る」
私は、それ以上は言えなかった。
耳にかけない補聴器を、毎晩使う。
その二つが、私の中でどうしても重ならなかった。
補聴器の電池が減る夜
結局、補聴器は検査に出さなかった。
代わりに、店の機械で使用の記録を読み出した。
最近の補聴器は、いつ、どれくらいの音量で動いたかを覚えている。
その日の夕方、水野さんが帰ったあとで、私はパソコンの画面を開いた。
記録を見て、私は首をかしげた。
昼間は、ほとんど動いていない。
朝も、動いていない。
毎晩、八時を少し過ぎたころから、二時間あまり。
その時間だけ、補聴器は全力で動いていた。
音を拾う側の部品も、電波を飛ばす側の部品も、ずっと働いている。
電池が早く減って当然の使い方だった。
ただ、耳にかけていない機械が、どうして毎晩その時間に働くのか。
「夜更かしして、ラジオでも聞いてるんじゃないか」
江口さんは、画面をのぞいて、そう言った。
「ラジオなら、耳に付けるはずです」
「それも、そうだな」
江口さんは腕を組んで、天井を見た。
次の週、私は、思いきって尋ねてみた。
「水野さん、夜の八時ごろ、補聴器を何かに使っていらっしゃいますか」
水野さんの顔が、ふっと固くなった。
「何も、使っとらん」
「記録に、残っているんです。毎晩、二時間くらい」
「だから、何も、使っとらんと言ってる」
声が少し大きくなった。
待合の椅子に座っていた、別のお客さんが振り向いた。
水野さんは、そのことに気づいて、帽子のつばを下げた。
「電池を、くれ」
私は、袋に電池を入れて渡した。
水野さんは、代金をきっちり数えて、トレーに置いた。
ベルが鳴って、ガラス戸が閉まった。
私は、そのあとしばらく、悔しい気持ちで立っていた。
疑っているつもりはなかった。
けれど、あの言い方は、疑う人間の言い方だったと思う。
江口さんが、黙って私の肩を叩いた。
「聞かれたくないことが、ある人なんだろう」
それが、私の聞いた最後の「いつもの水野さん」だった。
雨の台所に届けた箱
水野さんは、次の週から、来なくなった。
ガラス戸のベルが鳴るたびに、私は顔を上げた。
入ってくるのは、別の客ばかりだった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎた。
三週間めの月曜の朝、江口さんが、住所の書かれたメモを私に渡した。
「電池、持っていってやれ」
「でも、ご自宅まで行くのは」
「お客さんが困っていないか、見に行くだけだ。仕事のうちだよ」
その日は、朝から雨だった。
私は電池を二箱、紙袋に入れて、傘をさした。
水野さんの家は、商店街から十五分ほど歩いた住宅地にあった。
古い二階建てで、庭に、枝のよく手入れされた柿の木が立っている。
呼び鈴を押すと、長い間のあとで、戸が少しだけ開いた。
水野さんは、パジャマの上にカーディガンを羽織っていた。
頬がこけて、目の下が黒かった。
「風邪をこじらせてな。店に行けなかった」
「電池を、お届けに来ました」
水野さんは、紙袋と私の顔を、交互に見た。
それから、ゆっくり戸を開けた。
「上がっていくか。茶くらい、出す」
台所は、きちんと片づいていた。
流しに、茶碗がひとつ。箸もひとつ。
小さな鍋に、味噌汁の残りが入っている。
食卓の端に、黒くて平たい機械と、タブレットが置いてあった。
タブレットの画面は、暗い。
けれど、機械の横に、見慣れたものが立てかけてあった。
シャツだ。
胸ポケットに、安全ピンで補聴器が留められている。
シャツは、わざわざ、食卓の椅子の背に掛けてあった。
補聴器の先は、台所のほうへ向いている。
私は、それを見て、息を呑んだ。
「これは、何を」
水野さんは、薬缶を火にかけながら、しばらく答えなかった。
やがて、背中を向けたまま言った。
「うちの奴は、あおば苑にいる」
「奥様、ですか」
「和江という。もう、家のことが、わからなくなってきてな」
薬缶の口から、細い湯気が上がる。
「夜になると、帰りたいと泣くそうだ。ここが家だと言っても、わからん」
「それで」
「職員の人が、教えてくれた。家の音を聞かせてやったら、落ち着くかもしれんと」
水野さんは、薬缶を持ったまま、振り返った。
「孫に頼んで、こいつを置いた。補聴器の音を、そのまま、あっちのタブレットに流せるそうだ」
私は、あっ、と声が出た。
補聴器が、電話のように使える機種だった。
拾った音を、無線で、遠くへ送ることができる。
耳にかけない理由が、やっとわかった。
あの補聴器は、水野さんの耳ではなく、水野さんの台所の耳だったのだ。
味噌汁がしょっぱい
「毎晩、八時になると、飯を作る」
水野さんは、急須に茶葉を入れながら、話しつづけた。
「包丁を使う。水を流す。換気扇を回す。相撲の中継を、つけっぱなしにする」
「全部、奥様に」
「流れるそうだ。あいつは、その音を聞きながら、眠る」
言い終えて、水野さんは、少し照れたように笑った。
「俺は、何を話していいか、わからん男でな。声を掛けても、ろくな話はできん」
「だから、音を」
「ああ。音だけなら、俺にも、できる」
その音を送るために、補聴器の電池は毎晩、二時間あまり、全力で減りつづけた。
不良品などではなかった。
あれは、毎晩ちゃんと、誰かのために働いていたのだ。
私は、店で水野さんを疑った自分を、思い出した。
記録を読んで、首をかしげていた自分が、ひどく幼く思えた。
「ごめんなさい」
「何が」
「何も、わかっていなかったのに、あんなことを聞いて」
水野さんは、返事をせずに、湯呑みを私の前に置いた。
そのとき、台所の隅の機械が、小さな音を立てた。
食卓のタブレットの画面が、ぱっと明るくなった。
あおば苑の小野さんという職員が、画面の中でこちらに会釈した。
時計を見ると、まだ昼の十一時だった。
「あ、すみません。奥様が、今日はお昼から、ご主人の音が聞きたいと」
小野さんは、申し訳なさそうに言った。
「この時間は、いつもはお休みなんですが」
「かまわん。つなげてやってくれ」
水野さんは、シャツの胸ポケットの補聴器を、指で軽く叩いた。
私は、湯呑みを持ったまま、立ち上がれなくなった。
補聴器が、わずかに鳴った。
電話が通じるときの、小さな合図の音だった。
水野さんは、少しも気づかない。
耳にかけていないから、聞こえないのだ。
私は、思わず口を開いていた。
「水野さん。失礼します」
返事を待たずに、胸ポケットの補聴器を外した。
手のひらで音量を確かめて、水野さんの右の耳に、そっとかけた。
「何を、する」
「一度だけ、耳に」
水野さんの顔が、凍りついた。
小さなスピーカーから、ひどく遠くのような、かすれた声が流れた。
「……あんた、今日の味噌汁は、しょっぱいねえ」
水野さんは、息を止めた。
手から、湯呑みが落ちそうになった。
私は、慌てて、その湯呑みを受け止めた。
「和江」
水野さんの唇が、そう動いた。
「和江、聞こえるか」
「聞こえとるよ。あんたの、ねぎを刻む音」
かすれた声が、少し笑った。
「今日は、昼から聞かせてくれて、嬉しいねえ」
水野さんは、椅子に崩れるように座り込んだ。
両手で、顔を覆った。
肩が、小さく震えた。
私は、ただ、立っていた。
水野さんは、毎晩、台所の音を送っていた。
返事は、毎晩、届いていた。
けれど、水野さんは、一度も、自分の耳に補聴器を付けたことがなかった。
だから、返事を、一度も、聞いたことがなかったのだ。
どれくらい、そうしていただろう。
小野さんが、画面の中で、そっと目をぬぐっていた。
水野さんは、やっと顔を上げて、涙をこらえるような目で、私を見た。
「ずっと、返事が、あったのか」
「はい。多分、ずっと」
「あいつは、毎晩、何か言っとったのか」
「小野さんに、伺ってみましょう」
タブレットの中で、小野さんが、何度も頷いた。
「毎晩、おっしゃってます。『今日も、ありがとうねえ』って」
水野さんは、また、顔を覆った。
台所に、雨の音と、補聴器の中の、小さな笑い声が、いつまでも残っていた。
電池はいくらでも減っていい
次の週の月曜、ガラス戸のベルが、乾いた音で鳴った。
顔を上げると、水野さんが立っていた。
頬の色は、戻っていた。
そして、右の耳に、補聴器がかかっていた。
「補聴器の電池が、すぐ減るんだ」
水野さんは、いつもの調子で、そう言った。
けれど、声に、棘がなかった。
「はい」
「箱で、くれ」
私は、少し驚いて、水野さんの顔を見た。
「箱で、よろしいんですか」
「余っても、いい」
水野さんは、ジャケットの内側から、からの電池ケースを出して、カウンターに置いた。
それは、ずいぶん、古びていた。
「毎晩、減るんだ。何でか、わかるか」
「はい」
私は、うなずいた。
「毎晩、奥様と話していらっしゃるからです」
水野さんは、鼻の頭を、赤くして笑った。
江口さんが、奥の棚から、電池の大きな箱を抱えて出てきた。
何も言わずに、カウンターの上に、どん、と置いた。
水野さんは、代金を、いつもより丁寧に数えた。
紙袋を受け取って、胸に抱えるようにして、外へ出ていった。
ガラス戸が閉まる前に、水野さんは、一度だけ、振り返った。
「ありがとうな」
右の耳に、小さな補聴器が、夕方の光を受けて、ほのかに光っていた。
私は、その背中が商店街の人波にまぎれるまで、見送っていた。
江口さんが、隣で、鼻をすすった。
「な。お客さんの『また』は、こっちの『はじめて』だろ」
私は、笑って、うなずいた。
補聴器の電池は、いくらでも減っていい。
あの人の夜が、続くかぎり。