七時十六分。
天竜川の東を走る単線の、上りの一番混まない電車。
私はそれに乗って、二つ先の町の高校へ通っている。
高校二年の五月まで、その十六分という数字を、私はただの数字だと思っていた。
朝はいつも足りない。
髪を結ぶ時間も、朝ごはんを噛む時間も、オーボエのリードを削る時間も。
その日の私は、鞄より重い黒いケースを提げて、ホームのベンチに座っていた。
コンクールの選抜から外れた、翌朝だった。
音が鳴らないのはリードのせいだと、思いたかった。
隣に、誰かが腰を下ろす気配がした。
「ええ朝だに」
振り向くと、白い帽子をかぶったおじいさんが、小さな花束を膝に載せていた。
オレンジ色の花だった。
菊にしては丸くて、ひまわりにしては小さい。
私がそれを見ていると、目が合った。
「きれいだら」
「……はい。すごく」
「金盞花いうんだ」
おじいさんは花束をこちらへ少し傾けて、見せてくれた。
茎の根元は、濡れた新聞紙で巻いてあった。
その上から、輪ゴムが二重に留めてあった。
「二重にしとくと、走っても落ちんでな」
走る、という言葉がその人の年格好と噛み合わなくて、私は少し笑ってしまった。
おじいさんも笑った。
笑うと、目尻の皺が扇の骨みたいに開いた。
電車が来て、私たちは同じ車両に乗った。
おじいさんは扉の脇に立ち、花束を胸の高さで抱えていた。
混んでもいないのに、座ろうとしなかった。
花が潰れるからだと、あとになって気づいた。
※
次の朝、私は五分早く家を出た。
理由は自分でもよくわからなかった。
ベンチには誰も座っていなくて、少しがっかりして、そのことに自分で驚いた。
「おはよう」
階段のほうから声がした。
おじいさんは今日も、同じオレンジの花束を持っていた。
「今日も、どこかに届けるんですか」
「そうだに。毎日、届けると決めとる」
「毎日?」
「毎日」
それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない気がした、というより、聞かなくても十分にあたたかい話に思えたのだ。
その日から、七時十六分までの十数分が、私の一日でいちばん静かな時間になった。
母には言わなかった。
知らないお年寄りと毎朝話しているなんて、心配されるに決まっていたからだ。
それに、説明できる気がしなかった。
何を話しているのかと聞かれても、答えられるようなことは何ひとつ話していなかった。
天気の話。
電車が一分遅れた話。
ホームの端に生えた草が、去年より高いという話。
そういうことばかりを、私たちは飽きもせず話していた。
おじいさんは、若い頃に種苗店をやっていたと言った。
町の人が春の種を買いに来る、小さな店だったらしい。
「花の種はな、袋のまま置いといたらいかん。湿気を吸うで」
「じゃあ、どうするんですか」
「乾かして、紙に包んで、名前と年を書く。それだけだに」
それだけのことを、その人はとても大事そうに言った。
「店は、いつまでやってたんですか」
「二十年ちょっと前に閉めた。種を買う人がおらんようになってな」
「今はみんな、苗を買うから」
「そうだに。苗のほうが早いし、確かだで」
おじいさんは、膝の上の花束を少し持ち上げた。
「けど、苗は次に繋がらん」
「繋がらない」
「一年で終わりだに。種は、終わらん」
そのときの私は、それを園芸の話として聞いていた。
私は自分の楽器のことを話した。
リードが薄すぎると音が裏返ること。
厚すぎると息が入らないこと。
ちょうどいい厚さは、削っている最中には絶対にわからないこと。
「難しいもんだに」
「難しいです」
「けど、削らんことには始まらんら」
その言い方が可笑しくて、私は声を出して笑った。
笑ってから、自分が久しぶりに笑ったことに気づいた。
選抜から外れてから、家でも学校でも、ずっと口の端が下がったままだった。
「あんた、笑うとええ顔しとるに」
「……そうですか」
「そうだに。息が吸える顔しとる」
息が吸える顔、という言い方を、私はそれまで聞いたことがなかった。
けれど楽器を吹く人間にとって、それは思いのほか的確な褒め言葉だった。
その朝の練習で、私のリードは久しぶりに素直に鳴った。
お礼がしたくて、次の日、私は水筒に多めにお茶を入れていった。
紙コップも二つ、鞄に忍ばせた。
ホームでそれを差し出すと、おじいさんは目を丸くした。
「わしに」
「はい。いつも花、見せてもらってるので」
「見とるだけだに」
「見るのも、もらってることだと思います」
おじいさんはしばらく紙コップを両手で包んで、それから一口飲んだ。
「うまい」
たったそれだけのことで、私はその日一日、機嫌が良かった。
それから冬まで、私は毎朝、水筒を二人分にした。
おじいさんは腰が悪いと言っていた。
ベンチから立つとき、いつも一度、膝に手を置いた。
「若いうちに重いもん持ちすぎたんだに」
「無理しないでくださいね」
「無理せんと届かんもんもあるでな」
その言葉を、私はそのとき、ただの冗談として聞いた。
※
梅雨に入った朝のことを、よく覚えている。
横なぐりの雨で、ホームの屋根の下まで濡れていた。
おじいさんは、花束にビニール袋をかぶせていた。
自分の肩はぐっしょり濡れているのに、花だけが乾いていた。
「傘、こっちに寄せてください」
私が傘を差し出すと、おじいさんは首を振った。
「わしは濡れてもええ。乾くで」
その日、私はオーディションをもう一度受けることになっていた。
朝から指が冷たくて、リードケースを開ける手が震えた。
それを見て、おじいさんが言った。
「あんた、今日は何かあるだら」
「……わかりますか」
「顔に書いてある」
おじいさんは花束の中から、いちばん小さな一本を抜いて、私に差し出した。
「持っときな」
「え、でも、届ける分が」
「一本くらい減っても、怒られん相手だに」
その一本を、私は筆箱に入れて学校へ行った。
筆箱の中で、花はすぐに萎れてしまった。
それでも私は、捨てられなかった。
三日経って、乾いた花びらが筆箱の底で粉になっていた。
指先でそれをつまむと、かすかに草の匂いがした。
結果は、また落選だった。
それでも次の朝、私はホームでその話を全部した。
悔しかったことも、後輩の音のほうが澄んでいたことも、それを認めたくない自分のことも。
おじいさんは最後まで黙って聞いて、それから言った。
「来年の春の分は、もう採ってあるでな」
「……種の話ですか」
「そうだに。今年咲かんかった株も、種は採れる」
私はその言葉を、慰めだと思った。
今年だめでも来年がある、という、ありふれた励ましだと。
※
秋の初めに、おじいさんが来なくなった。
最初の朝は、寝坊かと思った。
二日目は、風邪かと思った。
三日目から、私は毎朝走るようになった。
四日目、私は駅員さんに聞いた。
白い帽子の、花束を持ったおじいさんを知らないかと。
駅員さんは首をかしげた。
「毎朝おられましたけどねえ。降りる駅までは、ちょっと」
五日目、私は改札の外まで出て、駅前のバス停の時刻表を眺めた。
そこに答えがあるはずもないのに、何かを見ていないと落ち着かなかった。
一週間が過ぎた。
二週間が近づいた。
朝の十数分が、ただの待ち時間に戻っていくのが怖かった。
六時半に家を出て、ホームの端から端まで見て、階段の上まで確かめて、それでも誰もいない。
ベンチの、いつもおじいさんが座っていた側だけが、やけに広く見えた。
私は名前も知らなかった。
降りる駅も、住んでいる町も、何ひとつ知らなかった。
毎朝あんなに話していたのに、私はその人を探す手がかりを、一つも持っていなかった。
二週間目の朝、階段の下で、知らない男の人に呼び止められた。
「あの、失礼ですけど」
私が身構えると、その人は慌てて頭を下げた。
「うちの父が、いつもここで話しとった子やと思うんですが」
その人は、笑うと目尻の皺が扇の骨みたいに開いた。
※
おじいさんは、川向こうの病院にいた。
「夏の終わりに、畑で倒れましてね」
息子さんは、廊下を歩きながら、前を向いたまま話した。
「腰やと言うとったんですが、腰やなかったんです」
「……そうですか」
「父が、あの駅で待っとる子がおるはずやから、もう待たんでええと伝えてくれと。それだけ、毎日言うもんで」
病室の扉の前で、私は一度立ち止まった。
入ってすぐには、その人がおじいさんだとわからなかった。
頬がこけて、腕が私の手首と変わらない太さになっていた。
「来たんか」
目を開けて、おじいさんは私を見た。
声だけが、ホームで聞いていたときのままだった。
「来ました」
それしか言えなかった。
おじいさんは、しばらく天井を見ていた。
「花の届け先、まだ言うとらんかったな」
「……はい」
「女房だに」
予感はしていた。
それでも、胸の底が静かに沈んだ。
「十二年前に、先に逝ってな」
「毎朝、お墓に」
「そう。駅から坂を上って、二十分」
二十分。
その数字を聞いた瞬間に、私は輪ゴムのことを思い出した。
二重にしとくと、走っても落ちんでな。
あの人は、毎朝走っていたのだ。
腰が悪いと言いながら、膝に手をついて立ち上がりながら、坂を二十分。
私が笑った日の朝も、雨で肩を濡らした日の朝も。
無理せんと届かんもんもあるでな。
あの言葉は、冗談ではなかった。
「なんで、教えてくれなかったんですか」
「言うたら、あんた、気ぃ遣うら」
おじいさんは、そこで少しだけ笑った。
「朝はな、なんも背負わんでええ時間にしといたほうがええ」
窓の外で、風が街路樹を鳴らしていた。
私はベッドの脇の椅子に座り直した。
「オーディション、また落ちました」
「そうか」
「三回目です」
「そうか」
おじいさんは、慰めなかった。
頑張れとも、次があるとも言わなかった。
ただ、ゆっくりと二回、うなずいた。
そのうなずき方が、なぜかいちばん効いた。
点滴の管が、腕の内側で少し引きつれていた。
私はそれを見ないようにして、窓のほうを見た。
「あんた、辞めるつもりか」
「……わかりません」
「辞めてもええ」
思いがけない言葉に、私は顔を上げた。
「けど、辞めるなら、いっぺんちゃんと吹いてから辞めな」
「ちゃんと、って」
「誰にも聞かせんつもりで、いっぺん」
その日から、私は毎朝、河原でオーボエを吹くようになった。
誰も聞いていない場所で、点数のつかない音を出した。
不思議なことに、そのほうがよく鳴った。
※
おじいさんが逝ったのは、それから十九日後だった。
私は間に合わなかった。
最後に会った日、帰り際に交わした言葉は、たしか、また来ますね、だった。
その返事を、私は覚えていない。
覚えていないことが、今でもいちばん悔しい。
学校の廊下で息子さんからの電話を受けて、そのまま走って、それでも間に合わなかった。
四十九日が過ぎた冬の日曜日、息子さんが私を畑に連れて行ってくれた。
天竜川の段丘の上の、小さな畑だった。
枯れた茎が、整然と並んで残っていた。
畝の幅が、どこも同じだった。
腰の悪い人が、一列ごとに何度膝をついたのだろうと考えて、私は目を伏せた。
畑の隅に、物置ほどの小屋があった。
中の棚に、紙の小袋がびっしりと並んでいた。
ひとつひとつに、鉛筆で名前と年が書いてある。
金盞花。
そのとなりも、金盞花。
その下の段も、ぜんぶ金盞花だった。
「母のなんです」
息子さんが言った。
「母は毎年、秋に種を採って、こうやって名前と年を書いて仕舞う人でした」
「……お母さんが」
「父は、母が最後に採った種を蒔いて、そこからまた種を採って、また蒔いて。十二年、それを繰り返しとったんです」
小屋の中は、乾いた土と紙の匂いがした。
窓が一つもないのに、埃っぽくはなかった。
毎日、誰かが風を通していた部屋の匂いだった。
私は棚のいちばん端を見た。
いちばん古い袋の字は、丸くてやわらかかった。
途中から、少し角ばった字に変わっていた。
変わった年が、奥さんが亡くなった年だった。
毎朝あの人が抱えていた花束は、買ってきた花ではなかった。
十二年かけて、奥さんの手から一度も離れずに続いてきた花だった。
息子さんが、棚のいちばん手前から一袋取って、私に差し出した。
「これ、父が」
受け取ると、紙の袋は思ったより軽かった。
鉛筆の字が、角ばっていた。
金盞花、と書いてあった。
そのとなりに書かれていた年は、来年の春だった。
倒れる前の夏に、あの人はもう、来年の分の種を採り終えていた。
あれは、今年だめでも来年があるという話ではなかった。
自分がいない春にも、あの花が咲くようにしておいた、という話だった。
そして、その袋を渡す相手を、あの人はもう決めていた。
私は袋を両手で包んで、しばらく動けなかった。
「あの」
「はい」
「私、名前も知らないんです」
息子さんは、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
「父も、あなたの名前は知らんかったですよ」
「……えっ」
「駅の子、としか言うとらんかった」
私たちは、半年のあいだ毎朝顔を合わせて、互いの名前を一度も呼ばなかった。
それが寂しいことなのか、そうでないのか、私にはまだわからない。
ただ、名前を知らないままでも、人は誰かの朝を支えられるのだと思った。
※
三月の終わりに、私は種を蒔いた。
家の裏の、日当たりだけはいい猫の額ほどの土に。
説明書きは何もなかったから、深さも間隔も、全部自分で決めるしかなかった。
削っている最中には、絶対にわからない。
あの人の言葉を、そのとき初めて思い出した。
けど、削らんことには始まらんら。
四月の半ばに、芽が出た。
細くて、頼りなくて、雑草と見分けがつかなかった。
私は毎朝、学校へ行く前にそこへしゃがんだ。
水をやりすぎて、一度、根を腐らせかけた。
母が見かねて、ホームセンターの袋を買ってきてくれたことがある。
「これ、同じ花じゃないの」
「違うの」
「同じでしょう」
「違うんだよ」
うまく説明できなくて、私はその袋を戸棚の奥に仕舞った。
母は何も言わずに、それきり口を出さなくなった。
五月に、オレンジ色が土から出てきた。
菊にしては丸くて、ひまわりにしては小さい花だった。
私は五本だけ切って、根元を濡れた新聞紙で巻いた。
輪ゴムを、二重に留めた。
※
七時十六分。
私は今朝も、その電車に乗る。
ベンチの隣は空いていて、これからもずっと空いているのだと思う。
駅を三つ過ぎて、坂を上る。
二十分の坂は、走ってもやっぱり二十分かかる。
息が上がって、汗が背中を伝って、それでも花は落ちない。
坂の上には、墓石が二つ並んでいる。
片方の前に三本、もう片方の前に二本置く。
分け方に決まりはない。
ただ、どちらにも同じ花が要るのだと思っている。
墓石を拭いて、水を替えて、それから少しだけ坂の下を眺める。
ここから駅は見えない。
見えないところまで、あの人は毎朝走ってきていた。
七時十六分の電車には、あの頃と同じ人たちが乗っている。
紺のスーツの女の人。
いつも文庫本を読んでいる眼鏡の学生。
みんな、おじいさんがいたことも、いなくなったことも知らない。
それでいいのだと思う。
誰かの朝は、そうやって静かに入れ替わっていく。
秋になったら、私はまた種を採る。
紙に包んで、名前と年を書く。
それだけのことを、これから何十年か続けるのだと思う。
あの人が私に渡したかったのは、たぶん花ではなかった。