花束を持ったおじいちゃん

七時十六分。

天竜川の東を走る単線の、上りの一番混まない電車。

私はそれに乗って、二つ先の町の高校へ通っている。

高校二年の五月まで、その十六分という数字を、私はただの数字だと思っていた。

朝はいつも足りない。

髪を結ぶ時間も、朝ごはんを噛む時間も、オーボエのリードを削る時間も。

その日の私は、鞄より重い黒いケースを提げて、ホームのベンチに座っていた。

コンクールの選抜から外れた、翌朝だった。

音が鳴らないのはリードのせいだと、思いたかった。

隣に、誰かが腰を下ろす気配がした。

「ええ朝だに」

振り向くと、白い帽子をかぶったおじいさんが、小さな花束を膝に載せていた。

オレンジ色の花だった。

菊にしては丸くて、ひまわりにしては小さい。

私がそれを見ていると、目が合った。

「きれいだら」

「……はい。すごく」

「金盞花いうんだ」

おじいさんは花束をこちらへ少し傾けて、見せてくれた。

茎の根元は、濡れた新聞紙で巻いてあった。

その上から、輪ゴムが二重に留めてあった。

「二重にしとくと、走っても落ちんでな」

走る、という言葉がその人の年格好と噛み合わなくて、私は少し笑ってしまった。

おじいさんも笑った。

笑うと、目尻の皺が扇の骨みたいに開いた。

電車が来て、私たちは同じ車両に乗った。

おじいさんは扉の脇に立ち、花束を胸の高さで抱えていた。

混んでもいないのに、座ろうとしなかった。

花が潰れるからだと、あとになって気づいた。

次の朝、私は五分早く家を出た。

理由は自分でもよくわからなかった。

ベンチには誰も座っていなくて、少しがっかりして、そのことに自分で驚いた。

「おはよう」

階段のほうから声がした。

おじいさんは今日も、同じオレンジの花束を持っていた。

「今日も、どこかに届けるんですか」

「そうだに。毎日、届けると決めとる」

「毎日?」

「毎日」

それ以上は聞かなかった。

聞いてはいけない気がした、というより、聞かなくても十分にあたたかい話に思えたのだ。

その日から、七時十六分までの十数分が、私の一日でいちばん静かな時間になった。

母には言わなかった。

知らないお年寄りと毎朝話しているなんて、心配されるに決まっていたからだ。

それに、説明できる気がしなかった。

何を話しているのかと聞かれても、答えられるようなことは何ひとつ話していなかった。

天気の話。

電車が一分遅れた話。

ホームの端に生えた草が、去年より高いという話。

そういうことばかりを、私たちは飽きもせず話していた。

おじいさんは、若い頃に種苗店をやっていたと言った。

町の人が春の種を買いに来る、小さな店だったらしい。

「花の種はな、袋のまま置いといたらいかん。湿気を吸うで」

「じゃあ、どうするんですか」

「乾かして、紙に包んで、名前と年を書く。それだけだに」

それだけのことを、その人はとても大事そうに言った。

「店は、いつまでやってたんですか」

「二十年ちょっと前に閉めた。種を買う人がおらんようになってな」

「今はみんな、苗を買うから」

「そうだに。苗のほうが早いし、確かだで」

おじいさんは、膝の上の花束を少し持ち上げた。

「けど、苗は次に繋がらん」

「繋がらない」

「一年で終わりだに。種は、終わらん」

そのときの私は、それを園芸の話として聞いていた。

私は自分の楽器のことを話した。

リードが薄すぎると音が裏返ること。

厚すぎると息が入らないこと。

ちょうどいい厚さは、削っている最中には絶対にわからないこと。

「難しいもんだに」

「難しいです」

「けど、削らんことには始まらんら」

その言い方が可笑しくて、私は声を出して笑った。

笑ってから、自分が久しぶりに笑ったことに気づいた。

選抜から外れてから、家でも学校でも、ずっと口の端が下がったままだった。

「あんた、笑うとええ顔しとるに」

「……そうですか」

「そうだに。息が吸える顔しとる」

息が吸える顔、という言い方を、私はそれまで聞いたことがなかった。

けれど楽器を吹く人間にとって、それは思いのほか的確な褒め言葉だった。

その朝の練習で、私のリードは久しぶりに素直に鳴った。

お礼がしたくて、次の日、私は水筒に多めにお茶を入れていった。

紙コップも二つ、鞄に忍ばせた。

ホームでそれを差し出すと、おじいさんは目を丸くした。

「わしに」

「はい。いつも花、見せてもらってるので」

「見とるだけだに」

「見るのも、もらってることだと思います」

おじいさんはしばらく紙コップを両手で包んで、それから一口飲んだ。

「うまい」

たったそれだけのことで、私はその日一日、機嫌が良かった。

それから冬まで、私は毎朝、水筒を二人分にした。

おじいさんは腰が悪いと言っていた。

ベンチから立つとき、いつも一度、膝に手を置いた。

「若いうちに重いもん持ちすぎたんだに」

「無理しないでくださいね」

「無理せんと届かんもんもあるでな」

その言葉を、私はそのとき、ただの冗談として聞いた。

梅雨に入った朝のことを、よく覚えている。

横なぐりの雨で、ホームの屋根の下まで濡れていた。

おじいさんは、花束にビニール袋をかぶせていた。

自分の肩はぐっしょり濡れているのに、花だけが乾いていた。

「傘、こっちに寄せてください」

私が傘を差し出すと、おじいさんは首を振った。

「わしは濡れてもええ。乾くで」

その日、私はオーディションをもう一度受けることになっていた。

朝から指が冷たくて、リードケースを開ける手が震えた。

それを見て、おじいさんが言った。

「あんた、今日は何かあるだら」

「……わかりますか」

「顔に書いてある」

おじいさんは花束の中から、いちばん小さな一本を抜いて、私に差し出した。

「持っときな」

「え、でも、届ける分が」

「一本くらい減っても、怒られん相手だに」

その一本を、私は筆箱に入れて学校へ行った。

筆箱の中で、花はすぐに萎れてしまった。

それでも私は、捨てられなかった。

三日経って、乾いた花びらが筆箱の底で粉になっていた。

指先でそれをつまむと、かすかに草の匂いがした。

結果は、また落選だった。

それでも次の朝、私はホームでその話を全部した。

悔しかったことも、後輩の音のほうが澄んでいたことも、それを認めたくない自分のことも。

おじいさんは最後まで黙って聞いて、それから言った。

「来年の春の分は、もう採ってあるでな」

「……種の話ですか」

「そうだに。今年咲かんかった株も、種は採れる」

私はその言葉を、慰めだと思った。

今年だめでも来年がある、という、ありふれた励ましだと。

秋の初めに、おじいさんが来なくなった。

最初の朝は、寝坊かと思った。

二日目は、風邪かと思った。

三日目から、私は毎朝走るようになった。

四日目、私は駅員さんに聞いた。

白い帽子の、花束を持ったおじいさんを知らないかと。

駅員さんは首をかしげた。

「毎朝おられましたけどねえ。降りる駅までは、ちょっと」

五日目、私は改札の外まで出て、駅前のバス停の時刻表を眺めた。

そこに答えがあるはずもないのに、何かを見ていないと落ち着かなかった。

一週間が過ぎた。

二週間が近づいた。

朝の十数分が、ただの待ち時間に戻っていくのが怖かった。

六時半に家を出て、ホームの端から端まで見て、階段の上まで確かめて、それでも誰もいない。

ベンチの、いつもおじいさんが座っていた側だけが、やけに広く見えた。

私は名前も知らなかった。

降りる駅も、住んでいる町も、何ひとつ知らなかった。

毎朝あんなに話していたのに、私はその人を探す手がかりを、一つも持っていなかった。

二週間目の朝、階段の下で、知らない男の人に呼び止められた。

「あの、失礼ですけど」

私が身構えると、その人は慌てて頭を下げた。

「うちの父が、いつもここで話しとった子やと思うんですが」

その人は、笑うと目尻の皺が扇の骨みたいに開いた。

おじいさんは、川向こうの病院にいた。

「夏の終わりに、畑で倒れましてね」

息子さんは、廊下を歩きながら、前を向いたまま話した。

「腰やと言うとったんですが、腰やなかったんです」

「……そうですか」

「父が、あの駅で待っとる子がおるはずやから、もう待たんでええと伝えてくれと。それだけ、毎日言うもんで」

病室の扉の前で、私は一度立ち止まった。

入ってすぐには、その人がおじいさんだとわからなかった。

頬がこけて、腕が私の手首と変わらない太さになっていた。

「来たんか」

目を開けて、おじいさんは私を見た。

声だけが、ホームで聞いていたときのままだった。

「来ました」

それしか言えなかった。

おじいさんは、しばらく天井を見ていた。

「花の届け先、まだ言うとらんかったな」

「……はい」

「女房だに」

予感はしていた。

それでも、胸の底が静かに沈んだ。

「十二年前に、先に逝ってな」

「毎朝、お墓に」

「そう。駅から坂を上って、二十分」

二十分。

その数字を聞いた瞬間に、私は輪ゴムのことを思い出した。

二重にしとくと、走っても落ちんでな。

あの人は、毎朝走っていたのだ。

腰が悪いと言いながら、膝に手をついて立ち上がりながら、坂を二十分。

私が笑った日の朝も、雨で肩を濡らした日の朝も。

無理せんと届かんもんもあるでな。

あの言葉は、冗談ではなかった。

「なんで、教えてくれなかったんですか」

「言うたら、あんた、気ぃ遣うら」

おじいさんは、そこで少しだけ笑った。

「朝はな、なんも背負わんでええ時間にしといたほうがええ」

窓の外で、風が街路樹を鳴らしていた。

私はベッドの脇の椅子に座り直した。

「オーディション、また落ちました」

「そうか」

「三回目です」

「そうか」

おじいさんは、慰めなかった。

頑張れとも、次があるとも言わなかった。

ただ、ゆっくりと二回、うなずいた。

そのうなずき方が、なぜかいちばん効いた。

点滴の管が、腕の内側で少し引きつれていた。

私はそれを見ないようにして、窓のほうを見た。

「あんた、辞めるつもりか」

「……わかりません」

「辞めてもええ」

思いがけない言葉に、私は顔を上げた。

「けど、辞めるなら、いっぺんちゃんと吹いてから辞めな」

「ちゃんと、って」

「誰にも聞かせんつもりで、いっぺん」

その日から、私は毎朝、河原でオーボエを吹くようになった。

誰も聞いていない場所で、点数のつかない音を出した。

不思議なことに、そのほうがよく鳴った。

おじいさんが逝ったのは、それから十九日後だった。

私は間に合わなかった。

最後に会った日、帰り際に交わした言葉は、たしか、また来ますね、だった。

その返事を、私は覚えていない。

覚えていないことが、今でもいちばん悔しい。

学校の廊下で息子さんからの電話を受けて、そのまま走って、それでも間に合わなかった。

四十九日が過ぎた冬の日曜日、息子さんが私を畑に連れて行ってくれた。

天竜川の段丘の上の、小さな畑だった。

枯れた茎が、整然と並んで残っていた。

畝の幅が、どこも同じだった。

腰の悪い人が、一列ごとに何度膝をついたのだろうと考えて、私は目を伏せた。

畑の隅に、物置ほどの小屋があった。

中の棚に、紙の小袋がびっしりと並んでいた。

ひとつひとつに、鉛筆で名前と年が書いてある。

金盞花。

そのとなりも、金盞花。

その下の段も、ぜんぶ金盞花だった。

「母のなんです」

息子さんが言った。

「母は毎年、秋に種を採って、こうやって名前と年を書いて仕舞う人でした」

「……お母さんが」

「父は、母が最後に採った種を蒔いて、そこからまた種を採って、また蒔いて。十二年、それを繰り返しとったんです」

小屋の中は、乾いた土と紙の匂いがした。

窓が一つもないのに、埃っぽくはなかった。

毎日、誰かが風を通していた部屋の匂いだった。

私は棚のいちばん端を見た。

いちばん古い袋の字は、丸くてやわらかかった。

途中から、少し角ばった字に変わっていた。

変わった年が、奥さんが亡くなった年だった。

毎朝あの人が抱えていた花束は、買ってきた花ではなかった。

十二年かけて、奥さんの手から一度も離れずに続いてきた花だった。

息子さんが、棚のいちばん手前から一袋取って、私に差し出した。

「これ、父が」

受け取ると、紙の袋は思ったより軽かった。

鉛筆の字が、角ばっていた。

金盞花、と書いてあった。

そのとなりに書かれていた年は、来年の春だった。

倒れる前の夏に、あの人はもう、来年の分の種を採り終えていた。

あれは、今年だめでも来年があるという話ではなかった。

自分がいない春にも、あの花が咲くようにしておいた、という話だった。

そして、その袋を渡す相手を、あの人はもう決めていた。

私は袋を両手で包んで、しばらく動けなかった。

「あの」

「はい」

「私、名前も知らないんです」

息子さんは、少し驚いた顔をした。

それから、笑った。

「父も、あなたの名前は知らんかったですよ」

「……えっ」

「駅の子、としか言うとらんかった」

私たちは、半年のあいだ毎朝顔を合わせて、互いの名前を一度も呼ばなかった。

それが寂しいことなのか、そうでないのか、私にはまだわからない。

ただ、名前を知らないままでも、人は誰かの朝を支えられるのだと思った。

三月の終わりに、私は種を蒔いた。

家の裏の、日当たりだけはいい猫の額ほどの土に。

説明書きは何もなかったから、深さも間隔も、全部自分で決めるしかなかった。

削っている最中には、絶対にわからない。

あの人の言葉を、そのとき初めて思い出した。

けど、削らんことには始まらんら。

四月の半ばに、芽が出た。

細くて、頼りなくて、雑草と見分けがつかなかった。

私は毎朝、学校へ行く前にそこへしゃがんだ。

水をやりすぎて、一度、根を腐らせかけた。

母が見かねて、ホームセンターの袋を買ってきてくれたことがある。

「これ、同じ花じゃないの」

「違うの」

「同じでしょう」

「違うんだよ」

うまく説明できなくて、私はその袋を戸棚の奥に仕舞った。

母は何も言わずに、それきり口を出さなくなった。

五月に、オレンジ色が土から出てきた。

菊にしては丸くて、ひまわりにしては小さい花だった。

私は五本だけ切って、根元を濡れた新聞紙で巻いた。

輪ゴムを、二重に留めた。

七時十六分。

私は今朝も、その電車に乗る。

ベンチの隣は空いていて、これからもずっと空いているのだと思う。

駅を三つ過ぎて、坂を上る。

二十分の坂は、走ってもやっぱり二十分かかる。

息が上がって、汗が背中を伝って、それでも花は落ちない。

坂の上には、墓石が二つ並んでいる。

片方の前に三本、もう片方の前に二本置く。

分け方に決まりはない。

ただ、どちらにも同じ花が要るのだと思っている。

墓石を拭いて、水を替えて、それから少しだけ坂の下を眺める。

ここから駅は見えない。

見えないところまで、あの人は毎朝走ってきていた。

七時十六分の電車には、あの頃と同じ人たちが乗っている。

紺のスーツの女の人。

いつも文庫本を読んでいる眼鏡の学生。

みんな、おじいさんがいたことも、いなくなったことも知らない。

それでいいのだと思う。

誰かの朝は、そうやって静かに入れ替わっていく。

秋になったら、私はまた種を採る。

紙に包んで、名前と年を書く。

それだけのことを、これから何十年か続けるのだと思う。

あの人が私に渡したかったのは、たぶん花ではなかった。

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