店長さんの嘘

雪の降る町の、坂の途中に、小さな珈琲店があった。

看板には店の名前も書かれていなくて、ただ橙色の電球がひとつ、軒先にぶら下がっていた。

僕が高校三年の秋から冬にかけて、毎晩その灯りを目印に坂を上っていた。

坂の下から見上げると、その灯りは星の低いところにあるように見える。

雪の夜はことに、そう見えた。

あの灯りが、僕には最後の勉強机だった。

父の工場が傾いたのは、僕が二年の終わりの頃だった。

従業員が三人辞めて、二人になって、最後は父と母だけになった。

塾は九月で辞めた。月謝を払えないと言い出したのは僕のほうで、父は「もう少し待て」と言ったけれど、待っている時間がないことは僕にも分かっていた。

辞めた塾の自習室は、当然ながら塾生専用だ。家では、父が夜通し機械の音を立てている。図書館は八時で閉まる。

家で勉強できない理由を、僕は誰にも説明したことがない。

父の工場は、家の裏にそのまま繋がっていた。板一枚を隔てた向こうで、旋盤が回り続けている。

従業員がいなくなってから、父はその音を夜通し止めなくなった。止めると、注文の数に間に合わないのだ。

母は工場の事務と、朝のパート先を掛け持ちしていた。

ある晩、僕が水を飲みに台所へ下りると、父が作業着のまま流しの前に立って、両手で顔を洗っていた。

「起きとったんか」

「喉が渇いて」

「そうか」

それだけの会話だった。父は僕に、勉強はどうだとも、塾はどうしたとも、一度も聞かなかった。

聞けないのだと、そのとき分かった。聞いてしまえば、辞めさせたのが自分だと認めることになる。

だから僕は、あの珈琲店の灯りを見つけたことを、家では一度も話さなかった。

行き場を探して坂を上っていたとき、あの橙色の灯りを見つけた。

扉を押すと、豆を挽く音と、暖房のにおいがした。

カウンターの中に、四十半ばくらいの女の人が立っていた。

「いらっしゃい」

僕はメニューを見て、いちばん安い珈琲が四百円だと知って、財布の中の小銭を思い出した。

「……お冷やだけ、いいですか」

言ってから、自分でも情けなくなった。

店長さんは何秒か僕を見て、それから笑った。

「ちょうどよかった。新しい豆の試作しててね。飲んでくれる人、探してたの」

出てきたのは、湯気の立つ珈琲だった。舌に残る酸味が強くて、正直、おいしいとは思えなかった。

「どう?」

「……ちょっと、酸っぱいです」

「やっぱりね。じゃあ次の試作もお願いするわ」

その日から、僕の席は窓際のいちばん奥の二人がけになった。

試作品の珈琲は、それから三か月のあいだ、一度も途切れなかった。

どんな店でも、三か月も試作を続けはしない。それに気づくのに、僕は三か月かかった。

店の中には、時計がふたつあった。

ひとつは壁の丸い掛け時計。もうひとつは、レジの脇に置かれた小さな置き時計で、こちらは五分ほど進んでいた。

店長さんは、閉店の時間が近づくと、決まって置き時計のほうをちらりと見た。

僕はそれを、閉店を気にしているのだと思っていた。

レジの後ろの壁には、市のカレンダーが貼ってあった。

日付のいくつかに、鉛筆で小さな丸がついていた。丸は、月に三つか四つ。

「それ、何の印ですか」

「ああ、これ? 自分の反省」

「反省」

「そう。うまくいかなかった日に、つけるの」

僕は、売り上げの悪い日のことだと思っていた。

店長さんについて、僕が知っていることは今も多くない。

名字が宮本ということ。姪がひとりいること。昔、少しだけ教える仕事をしていたこと。

それから、朝は六時に家を出るということ。これは、あとから計算して分かったことだ。

開店は十時だった。二時間かけて来て、二時間かけて帰る。店にいる時間より、移動している時間のほうが長い日もあったはずだ。

なぜこの町で店を開いたのかと、一度だけ聞いたことがある。

「坂の途中だから」

「坂の、途中」

「上る途中の人と、下りる途中の人が、両方通るでしょう」

当時の僕には、その意味がよく分からなかった。

いまは、少しだけ分かる気がする。

十月の終わりに、こんなことがあった。

僕が模試の結果を鞄から出したまま、突っ伏して眠ってしまったのだ。

目を覚ましたのは、閉店の二十分前だった。

僕の前には、湯呑みに入った茶と、ラップに包まれたおにぎりがふたつ置いてあった。

「まかないの残り。捨てるのもったいないから」

「まかない、ないですよね。ここ、店長さんひとりだし」

「……よく見てるね」

店長さんは困ったように笑って、布巾でカウンターを拭きはじめた。

おにぎりは、まだ温かかった。海苔がしっとりして、指にくっついた。

塩の加減が、母の握るものとは違っていた。少し濃くて、その濃さが、なぜか喉の奥にきた。

僕は前を向いたまま食べた。顔を上げたら、たぶんまずいことになると分かっていた。

十一月に入って、店長さんが言った。

「うち、すぐそこだから。閉店したあとも、居ていいよ」

「え」

「片付けしてるあいだ、明かりはつけとくし。どうせ電気代は同じだから」

僕は、その言葉を疑わなかった。疑う理由がひとつもなかったからだ。

それから僕は、二十一時の閉店のあとも、二十二時、遅いときは二十三時まで、その席で勉強するようになった。

店長さんは、客の帰った店で、豆の袋を並べ替えたり、伝票を整理したり、床を磨いたりしていた。

ときどき、僕の手が止まっているのを見て、こう言った。

「そこ、分からないの」

「英語の、この構文が」

「見せて。ああ、これ、うちの姪も同じところで詰まってた」

店長さんの説明は、学校の先生よりずっと分かりやすかった。

僕が驚いた顔をすると、少し得意そうに肩をすくめた。

「昔、教える仕事してたのよ。ちょっとだけね」

店を閉めたあとの珈琲店は、昼間とはまったく違う場所だった。

換気扇の音と、僕がシャープペンを走らせる音と、店長さんが皿を重ねる音だけがあった。

雪の日は、外の音がぜんぶ吸い込まれて、いっそう静かになった。

あの三か月の静けさを、僕は今でも、人生でいちばん集中できた時間だったと思っている。

十二月の半ばに、一日だけ、客が僕しか来なかった日がある。

猛烈な吹雪で、坂を上れる人がいなかったのだ。

店長さんは午後からずっと、カップを磨いていた。同じカップを、何度も。

「今日、閉めなくていいんですか」

「一人でも来る人がいるうちは、開けとくの」

「僕、注文してないですよ」

「試作品、飲んでるでしょう」

そう言われて、僕は返す言葉をなくした。

その日の珈琲は、いつもより濃かった。冷える日は濃くするのだと、店長さんは言った。

「お客さんの体温で味を決めるの。喫茶店って、そういう仕事」

僕はそれを、いい言葉だと思ってノートの端に書き留めた。

いまでもその走り書きは、当時のノートの角に残っている。

大晦日も、店は開いていた。

「正月に行くとこのない人が、たまに来るから」

その日の客は、僕を入れて三人だった。年配の男の人がひとりと、若い女の人がひとり。

三人とも、それぞれ離れた席で、黙って座っていた。

誰も言葉を交わさなかったのに、その店の中はふしぎと寂しくなかった。

一月のある日、店の扉が開いて、母が入ってきた。

僕は驚いて立ち上がった。母がこの店を知っているはずがなかった。

母はコートの雪も払わずに、カウンターの前で頭を下げた。

「息子が、ご迷惑をおかけしております」

「迷惑なんて、とんでもない」

「うちが、ちゃんとしてやれないもので」

母の声が途中で細くなったので、僕は目を逸らした。

店長さんは、カウンターから出てきて、母の手を取った。

「お母さん。あの子ね、いっぺんも弱音を吐かないんですよ」

「そうですか」

「そうです。だから、こっちが勝手に手伝いたくなるだけで」

母は、僕のほうを見なかった。ただ、もう一度頭を下げて、珈琲を一杯だけ飲んで帰った。

母が出ていったあと、店長さんは何も言わずに、僕のカップに湯を注ぎ足した。

「勉強、続けなさい」

それだけだった。

二月の入試の日、僕は始発の電車で試験会場へ向かった。

鞄の底に、前の晩に店長さんが持たせてくれた小さな包みが入っていた。

開けると、飴がふたつと、紙が一枚。

「ゆっくり読みなさい。急いでも一問しか変わらないけど、焦ると三問落とすから」

僕はその紙を、試験のあいだ、机の左上に置いておいた。

合格発表の日、僕は坂を駆け上がった。息が切れて、扉の前で一度立ち止まって、それから押した。

店長さんは、開店前の準備をしている最中だった。

「受かりました」

店長さんは、手に持っていた布巾を落とした。

拾おうともせずに、両手で口を覆って、しばらくそのまま立っていた。

「……そう」

「そうって」

「ごめん、他に言葉が出てこない」

その日、店長さんは僕から一円も取らなかった。

「今日は試作品じゃないから」

そう言って出てきたのは、あの酸っぱい豆ではなく、深く煎った、甘い香りのする珈琲だった。

入試の前の週、僕は一度だけ、深夜まで残ったことがある。

日付が変わる少し前に顔を上げると、店長さんがカウンターに腰かけて、うたた寝をしていた。

腕を組んで、背筋を伸ばしたままの、器用な眠り方だった。

僕は音を立てないように荷物をまとめて、置き手紙を書こうとして、やめた。

扉を開けると、鈴が鳴った。店長さんが飛び起きた。

「あ、ごめん。寝てた」

「すみません、遅くまで」

「いいの。わたし、すぐそこだから」

あのとき店長さんは、右手で目をこすりながら、左手で置き時計を裏返した。

僕はそれを、寝ぼけて時計に手が当たったのだと思っていた。

いまなら分かる。時刻を、僕に見せたくなかったのだ。

真実を知ったのは、進学して二年目の夏だった。

帰省したときに店へ寄ると、僕の知らないアルバイトの女の子がカウンターに立っていた。

店長さんは仕入れに出ていて、僕はその子としばらく話した。

「宮本さん、いい人ですよね」

「はい。高校のとき、すごくお世話になって」

「わたしも助けられてます。……でも、あの人、家すごく遠いんですよ」

「え。近所じゃないんですか」

「まさか。電車を三つ乗り継いで、そこからバスです。片道二時間かかるって」

僕は、その場で言葉を返せなかった。

二十三時に店を出れば、家に着くのは午前一時を回る。

バスはとっくにないから、最後の区間は歩くしかない。

それを、三か月。

赤の他人の、成績のいいわけでもない高校生ひとりのために。

「なんで、そんな」

「聞いたことあります。そしたら、笑って言うんですよ」

その子は、宮本さんの口真似をしてみせた。

「電気代は同じだから、って」

店を出て、僕は坂を下った。

下りながら、三か月ぶんの夜を、一晩ずつ数えるみたいに思い返した。

僕がシャープペンを走らせていたあいだ、あの人は帰る算段をしていたのだ。

置き時計が五分進めてあった意味も、そのとき分かった。

あれは、閉店を早めるための時計ではない。自分の終電から逆算して、五分ぶんの余裕を作るための時計だった。

僕が顔を上げるたびに、あの人は掛け時計のほうを指して「まだ大丈夫」と言った。

進んだ置き時計を見ていたのは、自分のためだけだったのだ。

僕は、あのカレンダーの丸を思い出した。

うまくいかなかった日に、つける印。

月に三つか四つ。あれは売り上げの話ではなかったのだ。

最終の電車に間に合わなかった日。歩いて帰った日。翌朝、寝不足のまま開店の準備をした日。

そのすべてを、あの人は「自分の反省」と呼んでいた。

僕を待たせたことも、僕を追い出したことも、一度もなかったのに。

あの人は三か月のあいだ、終電の消えた街を二時間かけて帰りながら、僕には「すぐそこだから」と笑っていた。

僕はその嘘の上で、毎晩、暖かい席に座って、志望校に受かったのだ。

僕はいまでも、あの三か月を思い出すたびに、同じところで胸が詰まる。

あの人が僕にくれたのは、席でも珈琲でもなかった。

「あなたがここに居ても、誰も困らない」ということを、三か月かけて証明してくれたのだ。

十七歳の僕にとって、それ以上に必要なものは、この世になかった。

その夏の終わりに、僕はもう一度店を訪ねた。

開店前の時間を選んだ。豆を挽く音がして、店長さんが顔を上げた。

「あら。帰ってたの」

僕は座らずに、扉のところで頭を下げた。

「家、遠いんですね」

店長さんの手が、一瞬だけ止まった。

「……誰から聞いたの」

「バイトの子です」

「あの子はもう。口が軽いんだから」

店長さんは笑おうとして、うまく笑えていなかった。

それから、豆の入った缶を棚に戻して、カウンターに両手をついた。

「わたしね、十九のときに、同じことをしてもらったことがあるの」

「同じこと、ですか」

「働きながら学校に通ってて、行き場がなくてね。駅前の食堂のおばさんが、閉店後も座らせてくれた」

店長さんは、窓の外の坂を見ながら言った。

「そのおばさんも、家が近いって言ってた。あとで知ったけど、嘘だった」

僕は、扉の把手を握ったまま動けなかった。

「返そうと思ってもね、その人はもういないの」

「じゃあ、僕は」

「うん。そのうち、誰かにね」

店長さんは、そう言って、初めて僕を客ではないもののように見た。

「急がなくていいよ。三十年くらい、時間はあるから」

帰り際、僕は店の中をゆっくり見回した。

掛け時計も、置き時計も、あの頃と同じ場所にあった。

レジの後ろのカレンダーは新しくなっていたが、鉛筆の丸は、もうひとつもついていなかった。

僕はそのことに、ひどく安心した。

あれから十四年が過ぎた。

僕は坂の下の町を出て、いくつか職を変えて、また似たような坂のある町に戻ってきた。

僕はいま、地方の小さな設計事務所で働いている。夜まで灯りのついている職場だ。

去年の秋から、近所の高校生がひとり、うちの事務所の会議室で勉強している。

親御さんが病気で、家に居場所がないのだという。

僕は彼に、こう言った。

「俺、どうせ残業だから。電気代は同じだし」

彼は数学が苦手で、僕は数学しか教えられない。

最初の月は、ほとんど口をきかなかった。彼が黙って解いて、僕が黙って赤を入れる。それだけだった。

三か月目のある晩、彼が顔を上げずに言った。

「なんで、こんなことしてくれるんですか」

僕は、宮本さんの答え方を思い出した。

「そのうち分かるよ」

「はぐらかしてません?」

「うん。だいぶ、はぐらかしてる」

彼は少しだけ笑って、また問題に戻った。

その笑い方が、十四年前の自分に少し似ていた。

僕の家は、事務所から歩いて三十五分かかる。バスはとっくにない時間だ。

彼はそれを、疑っていない。

あの夜の坂道を、宮本さんがどんな顔で歩いていたのか、僕はいまだに知らない。

けれど、雪の日に一人で歩いていると、なぜだかまったく寒くないことだけは、分かるようになった。

軒先の橙色の電球は、いまも坂の途中で灯っている。

僕はときどきその下で足を止めて、扉を押さずに帰る。

三十年くらい、時間はあるから。あの言葉を、僕はまだ使い切っていない。

あの人の嘘を、まだ返し終えていないからだ。

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