雪の降る町の、坂の途中に、小さな珈琲店があった。
看板には店の名前も書かれていなくて、ただ橙色の電球がひとつ、軒先にぶら下がっていた。
僕が高校三年の秋から冬にかけて、毎晩その灯りを目印に坂を上っていた。
坂の下から見上げると、その灯りは星の低いところにあるように見える。
雪の夜はことに、そう見えた。
あの灯りが、僕には最後の勉強机だった。
※
父の工場が傾いたのは、僕が二年の終わりの頃だった。
従業員が三人辞めて、二人になって、最後は父と母だけになった。
塾は九月で辞めた。月謝を払えないと言い出したのは僕のほうで、父は「もう少し待て」と言ったけれど、待っている時間がないことは僕にも分かっていた。
辞めた塾の自習室は、当然ながら塾生専用だ。家では、父が夜通し機械の音を立てている。図書館は八時で閉まる。
家で勉強できない理由を、僕は誰にも説明したことがない。
父の工場は、家の裏にそのまま繋がっていた。板一枚を隔てた向こうで、旋盤が回り続けている。
従業員がいなくなってから、父はその音を夜通し止めなくなった。止めると、注文の数に間に合わないのだ。
母は工場の事務と、朝のパート先を掛け持ちしていた。
ある晩、僕が水を飲みに台所へ下りると、父が作業着のまま流しの前に立って、両手で顔を洗っていた。
「起きとったんか」
「喉が渇いて」
「そうか」
それだけの会話だった。父は僕に、勉強はどうだとも、塾はどうしたとも、一度も聞かなかった。
聞けないのだと、そのとき分かった。聞いてしまえば、辞めさせたのが自分だと認めることになる。
だから僕は、あの珈琲店の灯りを見つけたことを、家では一度も話さなかった。
行き場を探して坂を上っていたとき、あの橙色の灯りを見つけた。
扉を押すと、豆を挽く音と、暖房のにおいがした。
カウンターの中に、四十半ばくらいの女の人が立っていた。
「いらっしゃい」
僕はメニューを見て、いちばん安い珈琲が四百円だと知って、財布の中の小銭を思い出した。
「……お冷やだけ、いいですか」
言ってから、自分でも情けなくなった。
店長さんは何秒か僕を見て、それから笑った。
「ちょうどよかった。新しい豆の試作しててね。飲んでくれる人、探してたの」
出てきたのは、湯気の立つ珈琲だった。舌に残る酸味が強くて、正直、おいしいとは思えなかった。
「どう?」
「……ちょっと、酸っぱいです」
「やっぱりね。じゃあ次の試作もお願いするわ」
その日から、僕の席は窓際のいちばん奥の二人がけになった。
試作品の珈琲は、それから三か月のあいだ、一度も途切れなかった。
どんな店でも、三か月も試作を続けはしない。それに気づくのに、僕は三か月かかった。
※
店の中には、時計がふたつあった。
ひとつは壁の丸い掛け時計。もうひとつは、レジの脇に置かれた小さな置き時計で、こちらは五分ほど進んでいた。
店長さんは、閉店の時間が近づくと、決まって置き時計のほうをちらりと見た。
僕はそれを、閉店を気にしているのだと思っていた。
レジの後ろの壁には、市のカレンダーが貼ってあった。
日付のいくつかに、鉛筆で小さな丸がついていた。丸は、月に三つか四つ。
「それ、何の印ですか」
「ああ、これ? 自分の反省」
「反省」
「そう。うまくいかなかった日に、つけるの」
僕は、売り上げの悪い日のことだと思っていた。
店長さんについて、僕が知っていることは今も多くない。
名字が宮本ということ。姪がひとりいること。昔、少しだけ教える仕事をしていたこと。
それから、朝は六時に家を出るということ。これは、あとから計算して分かったことだ。
開店は十時だった。二時間かけて来て、二時間かけて帰る。店にいる時間より、移動している時間のほうが長い日もあったはずだ。
なぜこの町で店を開いたのかと、一度だけ聞いたことがある。
「坂の途中だから」
「坂の、途中」
「上る途中の人と、下りる途中の人が、両方通るでしょう」
当時の僕には、その意味がよく分からなかった。
いまは、少しだけ分かる気がする。
※
十月の終わりに、こんなことがあった。
僕が模試の結果を鞄から出したまま、突っ伏して眠ってしまったのだ。
目を覚ましたのは、閉店の二十分前だった。
僕の前には、湯呑みに入った茶と、ラップに包まれたおにぎりがふたつ置いてあった。
「まかないの残り。捨てるのもったいないから」
「まかない、ないですよね。ここ、店長さんひとりだし」
「……よく見てるね」
店長さんは困ったように笑って、布巾でカウンターを拭きはじめた。
おにぎりは、まだ温かかった。海苔がしっとりして、指にくっついた。
塩の加減が、母の握るものとは違っていた。少し濃くて、その濃さが、なぜか喉の奥にきた。
僕は前を向いたまま食べた。顔を上げたら、たぶんまずいことになると分かっていた。
※
十一月に入って、店長さんが言った。
「うち、すぐそこだから。閉店したあとも、居ていいよ」
「え」
「片付けしてるあいだ、明かりはつけとくし。どうせ電気代は同じだから」
僕は、その言葉を疑わなかった。疑う理由がひとつもなかったからだ。
それから僕は、二十一時の閉店のあとも、二十二時、遅いときは二十三時まで、その席で勉強するようになった。
店長さんは、客の帰った店で、豆の袋を並べ替えたり、伝票を整理したり、床を磨いたりしていた。
ときどき、僕の手が止まっているのを見て、こう言った。
「そこ、分からないの」
「英語の、この構文が」
「見せて。ああ、これ、うちの姪も同じところで詰まってた」
店長さんの説明は、学校の先生よりずっと分かりやすかった。
僕が驚いた顔をすると、少し得意そうに肩をすくめた。
「昔、教える仕事してたのよ。ちょっとだけね」
店を閉めたあとの珈琲店は、昼間とはまったく違う場所だった。
換気扇の音と、僕がシャープペンを走らせる音と、店長さんが皿を重ねる音だけがあった。
雪の日は、外の音がぜんぶ吸い込まれて、いっそう静かになった。
あの三か月の静けさを、僕は今でも、人生でいちばん集中できた時間だったと思っている。
十二月の半ばに、一日だけ、客が僕しか来なかった日がある。
猛烈な吹雪で、坂を上れる人がいなかったのだ。
店長さんは午後からずっと、カップを磨いていた。同じカップを、何度も。
「今日、閉めなくていいんですか」
「一人でも来る人がいるうちは、開けとくの」
「僕、注文してないですよ」
「試作品、飲んでるでしょう」
そう言われて、僕は返す言葉をなくした。
その日の珈琲は、いつもより濃かった。冷える日は濃くするのだと、店長さんは言った。
「お客さんの体温で味を決めるの。喫茶店って、そういう仕事」
僕はそれを、いい言葉だと思ってノートの端に書き留めた。
いまでもその走り書きは、当時のノートの角に残っている。
大晦日も、店は開いていた。
「正月に行くとこのない人が、たまに来るから」
その日の客は、僕を入れて三人だった。年配の男の人がひとりと、若い女の人がひとり。
三人とも、それぞれ離れた席で、黙って座っていた。
誰も言葉を交わさなかったのに、その店の中はふしぎと寂しくなかった。
一月のある日、店の扉が開いて、母が入ってきた。
僕は驚いて立ち上がった。母がこの店を知っているはずがなかった。
母はコートの雪も払わずに、カウンターの前で頭を下げた。
「息子が、ご迷惑をおかけしております」
「迷惑なんて、とんでもない」
「うちが、ちゃんとしてやれないもので」
母の声が途中で細くなったので、僕は目を逸らした。
店長さんは、カウンターから出てきて、母の手を取った。
「お母さん。あの子ね、いっぺんも弱音を吐かないんですよ」
「そうですか」
「そうです。だから、こっちが勝手に手伝いたくなるだけで」
母は、僕のほうを見なかった。ただ、もう一度頭を下げて、珈琲を一杯だけ飲んで帰った。
母が出ていったあと、店長さんは何も言わずに、僕のカップに湯を注ぎ足した。
「勉強、続けなさい」
それだけだった。
※
二月の入試の日、僕は始発の電車で試験会場へ向かった。
鞄の底に、前の晩に店長さんが持たせてくれた小さな包みが入っていた。
開けると、飴がふたつと、紙が一枚。
「ゆっくり読みなさい。急いでも一問しか変わらないけど、焦ると三問落とすから」
僕はその紙を、試験のあいだ、机の左上に置いておいた。
合格発表の日、僕は坂を駆け上がった。息が切れて、扉の前で一度立ち止まって、それから押した。
店長さんは、開店前の準備をしている最中だった。
「受かりました」
店長さんは、手に持っていた布巾を落とした。
拾おうともせずに、両手で口を覆って、しばらくそのまま立っていた。
「……そう」
「そうって」
「ごめん、他に言葉が出てこない」
その日、店長さんは僕から一円も取らなかった。
「今日は試作品じゃないから」
そう言って出てきたのは、あの酸っぱい豆ではなく、深く煎った、甘い香りのする珈琲だった。
入試の前の週、僕は一度だけ、深夜まで残ったことがある。
日付が変わる少し前に顔を上げると、店長さんがカウンターに腰かけて、うたた寝をしていた。
腕を組んで、背筋を伸ばしたままの、器用な眠り方だった。
僕は音を立てないように荷物をまとめて、置き手紙を書こうとして、やめた。
扉を開けると、鈴が鳴った。店長さんが飛び起きた。
「あ、ごめん。寝てた」
「すみません、遅くまで」
「いいの。わたし、すぐそこだから」
あのとき店長さんは、右手で目をこすりながら、左手で置き時計を裏返した。
僕はそれを、寝ぼけて時計に手が当たったのだと思っていた。
いまなら分かる。時刻を、僕に見せたくなかったのだ。
※
真実を知ったのは、進学して二年目の夏だった。
帰省したときに店へ寄ると、僕の知らないアルバイトの女の子がカウンターに立っていた。
店長さんは仕入れに出ていて、僕はその子としばらく話した。
「宮本さん、いい人ですよね」
「はい。高校のとき、すごくお世話になって」
「わたしも助けられてます。……でも、あの人、家すごく遠いんですよ」
「え。近所じゃないんですか」
「まさか。電車を三つ乗り継いで、そこからバスです。片道二時間かかるって」
僕は、その場で言葉を返せなかった。
二十三時に店を出れば、家に着くのは午前一時を回る。
バスはとっくにないから、最後の区間は歩くしかない。
それを、三か月。
赤の他人の、成績のいいわけでもない高校生ひとりのために。
「なんで、そんな」
「聞いたことあります。そしたら、笑って言うんですよ」
その子は、宮本さんの口真似をしてみせた。
「電気代は同じだから、って」
店を出て、僕は坂を下った。
下りながら、三か月ぶんの夜を、一晩ずつ数えるみたいに思い返した。
僕がシャープペンを走らせていたあいだ、あの人は帰る算段をしていたのだ。
置き時計が五分進めてあった意味も、そのとき分かった。
あれは、閉店を早めるための時計ではない。自分の終電から逆算して、五分ぶんの余裕を作るための時計だった。
僕が顔を上げるたびに、あの人は掛け時計のほうを指して「まだ大丈夫」と言った。
進んだ置き時計を見ていたのは、自分のためだけだったのだ。
※
僕は、あのカレンダーの丸を思い出した。
うまくいかなかった日に、つける印。
月に三つか四つ。あれは売り上げの話ではなかったのだ。
最終の電車に間に合わなかった日。歩いて帰った日。翌朝、寝不足のまま開店の準備をした日。
そのすべてを、あの人は「自分の反省」と呼んでいた。
僕を待たせたことも、僕を追い出したことも、一度もなかったのに。
あの人は三か月のあいだ、終電の消えた街を二時間かけて帰りながら、僕には「すぐそこだから」と笑っていた。
僕はその嘘の上で、毎晩、暖かい席に座って、志望校に受かったのだ。
僕はいまでも、あの三か月を思い出すたびに、同じところで胸が詰まる。
あの人が僕にくれたのは、席でも珈琲でもなかった。
「あなたがここに居ても、誰も困らない」ということを、三か月かけて証明してくれたのだ。
十七歳の僕にとって、それ以上に必要なものは、この世になかった。
※
その夏の終わりに、僕はもう一度店を訪ねた。
開店前の時間を選んだ。豆を挽く音がして、店長さんが顔を上げた。
「あら。帰ってたの」
僕は座らずに、扉のところで頭を下げた。
「家、遠いんですね」
店長さんの手が、一瞬だけ止まった。
「……誰から聞いたの」
「バイトの子です」
「あの子はもう。口が軽いんだから」
店長さんは笑おうとして、うまく笑えていなかった。
それから、豆の入った缶を棚に戻して、カウンターに両手をついた。
「わたしね、十九のときに、同じことをしてもらったことがあるの」
「同じこと、ですか」
「働きながら学校に通ってて、行き場がなくてね。駅前の食堂のおばさんが、閉店後も座らせてくれた」
店長さんは、窓の外の坂を見ながら言った。
「そのおばさんも、家が近いって言ってた。あとで知ったけど、嘘だった」
僕は、扉の把手を握ったまま動けなかった。
「返そうと思ってもね、その人はもういないの」
「じゃあ、僕は」
「うん。そのうち、誰かにね」
店長さんは、そう言って、初めて僕を客ではないもののように見た。
「急がなくていいよ。三十年くらい、時間はあるから」
帰り際、僕は店の中をゆっくり見回した。
掛け時計も、置き時計も、あの頃と同じ場所にあった。
レジの後ろのカレンダーは新しくなっていたが、鉛筆の丸は、もうひとつもついていなかった。
僕はそのことに、ひどく安心した。
※
あれから十四年が過ぎた。
僕は坂の下の町を出て、いくつか職を変えて、また似たような坂のある町に戻ってきた。
僕はいま、地方の小さな設計事務所で働いている。夜まで灯りのついている職場だ。
去年の秋から、近所の高校生がひとり、うちの事務所の会議室で勉強している。
親御さんが病気で、家に居場所がないのだという。
僕は彼に、こう言った。
「俺、どうせ残業だから。電気代は同じだし」
彼は数学が苦手で、僕は数学しか教えられない。
最初の月は、ほとんど口をきかなかった。彼が黙って解いて、僕が黙って赤を入れる。それだけだった。
三か月目のある晩、彼が顔を上げずに言った。
「なんで、こんなことしてくれるんですか」
僕は、宮本さんの答え方を思い出した。
「そのうち分かるよ」
「はぐらかしてません?」
「うん。だいぶ、はぐらかしてる」
彼は少しだけ笑って、また問題に戻った。
その笑い方が、十四年前の自分に少し似ていた。
僕の家は、事務所から歩いて三十五分かかる。バスはとっくにない時間だ。
彼はそれを、疑っていない。
あの夜の坂道を、宮本さんがどんな顔で歩いていたのか、僕はいまだに知らない。
けれど、雪の日に一人で歩いていると、なぜだかまったく寒くないことだけは、分かるようになった。
軒先の橙色の電球は、いまも坂の途中で灯っている。
僕はときどきその下で足を止めて、扉を押さずに帰る。
三十年くらい、時間はあるから。あの言葉を、僕はまだ使い切っていない。
あの人の嘘を、まだ返し終えていないからだ。