
颯くんが下ろしたブラインドの羽根は、一番上の一枚だけ、いつも少し開いていた。
指一本にも満たない隙間だった。
気づいたのは、学童保育で働きはじめて二か月目の、十月の夕方だった。
私は小学校の空き教室を借りた学童の、遅番のスタッフだった。
前の仕事は、コールセンターの事務だった。
子どもは苦手ではないが、得意でもなかった。
出勤は午後一時で、退勤は午後七時。
その六時間のいちばん最後に、閉め作業がある。
床を掃く。鉛筆の削りかすを集める。忘れ物を棚へ戻す。
ワックスと麦茶の匂いが、夕方の教室には薄く残っていた。
窓の外は、もう十月の暗さだった。
街灯が点くと、校庭の端の鉄棒が、細い影になって伸びる。
ブラインドを下ろして、机の上の卓上ランプを点け、廊下の電気を消す。
最後に、ガラス戸の鍵を回す。
その夕方も、教室に残っているのは、三年生の颯くんだけだった。
「先生、ブラインド、おれがやる」
そう言って、窓の前の紐に両手をかけた。
ブラインドの紐は、私が引くと固く、颯くんが引くと素直に下りた。
コツがあるのだという。
「紐をちょっと左に回してから引くんだよ」
何度教わっても、私は同じ力の入れ方ができなかった。
羽根が一枚ずつ重なって、窓の外の街灯の色を消していく。
最後に、一番上の一枚だけが、ほんの少し開いたまま止まった。
私は踏み台に上がって、その一枚を指で閉じた。
颯くんは何も言わず、私の指先を見ていた。
その目が一瞬だけ曇ったことに、そのときの私は、気づかなかった。
引き継ぎノートの一行
引き継ぎノートは、薄い大学ノートだった。
表紙には、前任の緑川先生の丸い字で「ひまわり教室 閉め作業」とある。
緑川先生は、十年この教室にいたベテランだった。
九月の終わりに、家の事情で急に辞めた。
ノートの十ページ目までは、手順が細かく並んでいた。
おやつの在庫の数え方。出席表の綴じ方。保護者への電話の言い回し。
最後の行だけが、ほかと違った。
閉め作業の最後に、卓上ランプを点けたまま帰ること。
それだけだった。
理由は、どこにも書かれていなかった。
卓上ランプは、教室の隅の教員机に置かれていた。
白いガラスの笠がついた古いもので、点けると、蜂蜜の色の光が天板に丸く落ちる。
つまみを回すと、最後に「かちり」と小さく鳴った。
私は防犯のためだろうと考えた。
市の運営マニュアルには、別の決まりがある。
閉所時は、外から室内が見えないよう、窓を遮るものでふさぐこと。
だから私は、ランプを点け、ブラインドはすべて閉めた。
光は羽根の向こうに閉じ込められて、誰にも見えなかった。
その食い違いを、深くは考えなかった。
考える余裕が、なかったのだと思う。
毎日の「緑川先生なら」が、積もっていたから。
私は緑川先生に、一度だけ会っていた。
引き継ぎの最終日、廊下ですれ違ったのだ。
小柄で、よく笑う人だった。
「ブラインドの紐はね、コツがあるのよ。颯くんに聞いてね」
それだけ言って、先生は教室を見渡し、ゆっくり頭を下げた。
あの目は、何かをこらえているようにも見えた。
「緑川先生なら、片手で下ろせたよ」
二年生の美月ちゃんが、麦茶のコップを両手で持って言った。
「紐にね、話しかけてた」
「話しかけてたの?」
「うん。『今日もおつかれさま』って」
教室に笑い声が広がった。
私も笑った。笑いながら、胸の奥に、小さな釘が一本、斜めに入った。
子どもたちに悪気はない。
けれど積もった言葉は、掃いても掃いても出てくる床の埃に似ていた。
その夜、私はひとりで紐を引いた。
固い紐が指に食い込んで、赤い線が残った。
颯くんは、口数の少ない子だった。
宿題が終わると、窓際の席で図鑑を開く。
いつも同じ、雲の図鑑だった。ページの角が、丸くなっている。
「先生、字、きれいだね」
プリントに丸をつけていると、不意にそう言われた。
「ありがとう」
「緑川先生より、まっすぐ」
「……それは、褒めてるの?」
「うん。たぶん」
颯くんは真面目な顔のまま、図鑑に目を戻した。
私は赤ペンを持ったまま、しばらく笑いをこらえていた。
早番の里村さんは、朝の鍵開けを十五年続けている人だった。
交代のとき、里村さんはいつも、湯呑みをひとつ私の前に置いてくれる。
「颯くんはね、私が鍵を開けるより前に、もう門のところにいるのよ」
「え、そんなに早く?」
「そう。理由は、私も聞いてないけどね」
里村さんは笑って、それ以上は言わなかった。
十九時の十分前になると、ガラス戸が二回、静かに叩かれた。
颯くんの母親が来る合図だった。
介護施設の制服の上に、薄いコートを羽織っている。
「遅くなってすみません」
「いいえ。今日も、ブラインドの係をしてくれました」
「そうですか」
母親は、下りた窓を見て、何か言いかけた。
けれど「ありがとうございます」とだけ言って、颯くんの手を取った。
二人の背中が、廊下の暗がりに消えていく。
ランプの光だけが残った教室で、私は鍵を回した。
ブラインドの羽根の隙間
十一月に入っても、隙間は毎晩できた。
そして毎晩、私は踏み台に上がって、閉め直した。
十一月の教室は、夕方になると足元から冷えた。
私は膝掛けを出して、颯くんにも一枚貸した。
颯くんは、それを肩にかけて、雲の図鑑の続きを読んでいた。
「雲ってね、朝がいちばんきれいなんだよ」
「朝?」
「うん。でも、先生は見たことないでしょ」
図星だった。遅番の私は、朝の空を、休みの日にしか知らない。
雨の日は、迎えが重なる。
傘立てが傘でいっぱいになり、床に水たまりができた。
私は雑巾を持って走り回った。
颯くんは、黙ってモップを持ってきてくれた。
お礼を言うと、「うん」とだけ返した。
その手際のよさを、私は緑川先生に教わったものだと、決めつけていた。
ある夕方、颯くんがとうとう言った。
「直さなくていいのに」
「規則なの。外から中が見えたら、だめなんだよ」
「……ふうん」
「夜の教室が見えたら、危ないでしょう」
「見えたほうが、いいこともあるよ」
妙に大人びた言い方だった。
私は笑ってごまかして、その一枚を閉めた。
その夜、帰りの電車で、私は颯くんの言葉を思い出していた。
見えたほうが、いいこともある。
誰に、何が見えるというのだろう。
窓に映った自分の顔が、ひどく疲れて見えた。
考えているうちに、乗り換えの駅をひとつ通り過ぎた。
翌日の午後、交代のときに、里村さんがぽつりと言った。
「あれね、緑川先生の癖よ」
「え?」
「ブラインドの一枚。あの先生もいつも、一番上だけ残して帰ったの」
「颯くん、見て覚えたのね。緑川先生にべったりだったから」
「……そうですか」
声が少し硬くなったのが、自分でも分かった。
つまり颯くんは、私の閉め作業に付き合っていたのではなかった。
ここにいない人の癖を、律儀に続けているだけなのだ。
そう思うと、胸の底がすっと冷えた。
私は三か月たっても、先生と呼ばれながら、空いた席に座っているだけの人だった。
その夕方、颯くんがいつものように紐に手をかけたとき、私は言ってしまった。
「颯くん。緑川先生の真似は、もういいよ」
紐を持った手が、止まった。
「先生のやり方で、やらせてほしいの」
颯くんは何も言わなかった。
そしてその夜は、羽根を一枚残らず、ぴったり下ろした。
隙間のない窓は、鏡のように、がらんとした教室を映していた。
ガラス戸が二回、叩かれた。
「今日は、静かですね」と母親が言った。
「いつもは、帰り際に何か話してくれるのに」
颯くんは、窓のほうを一度も見なかった。
ランドセルの肩紐を握った手が、白かった。
私は鍵を回しながら、自分が何かを間違えたことは分かっていた。
けれど、何を間違えたのかは、まだ分からなかった。
七時の通りに立つ子
十二月の最初の週に、里村さんが風邪で休んだ。
代わりに私が、一度だけ早番に入ることになった。
朝の六時五十分、まだ暗い通りを、自転車で走った。
吐く息が白く、ハンドルを握る指がかじかんだ。
新聞配達のバイクが、角をひとつ曲がって消えた。
道端の植え込みに、霜が白く降りていた。
タイヤが凍った落ち葉を踏んで、かさりと鳴った。
こんなに早い時間に出勤するのは、はじめてだった。
朝の学校は、夕方とは別の建物のように、息を潜めていた。
校門が見えたとき、私はブレーキを握った。
門の前に、小さな背中が立っていた。
街灯の下で、紺色のランドセルが濡れたように光っている。
颯くんだった。
まだ七時前で、校舎のどの窓にも灯りはない。
ただ一か所を除いて。
一階の、学童の教室の窓。
ブラインドの羽根の一番上の隙間から、橙色の光が、細く一筋だけ漏れていた。
昨夜、私は、それを閉め直さなかった。
母親の迎えが早く、急いで鍵を回して、そのまま出てしまったのだ。
颯くんは、その細い光を、じっと見上げていた。
手袋をしていない両手が、赤くなっていた。
私に気づくと、振り向いた。
「あ、先生」
「どうして、こんなに早く……」
「お母さんの夜勤が早く終わる日は、ここに着いちゃうの」
「門が開くまで、ひとりで?」
「うん。十五分くらい」
「寒いでしょう」
「寒いのは、いい」
私は自分のマフラーを外して、颯くんの首に巻いた。
颯くんは嫌がらず、顎までうずめた。
洗剤の匂いがしたのか、鼻を少しだけひくつかせた。
颯くんは、窓のほうへ顎を向けた。
「暗いのが、いやなんだ。誰もいないみたいだから」
「でも、あれが見えると、誰かもういるって分かる」
「先生、昨日は直さなかったね。今日は、ちゃんと見えた」
私は何も言えなかった。
「全部閉めた日はね」
「ここ、真っ暗で。里村さんが来るまで、校舎の影ばっかり見てた」
あの夜、鏡のようだった窓を思い出した。
「真似じゃないよ」
「緑川先生が教えてくれたんだ。ランプをつけて、羽根を一枚だけ残して帰るから、朝になったら、見てごらんって」
「だからおれが、残す係になったの」
「毎晩やらないと、朝がなくなっちゃうから」
颯くんが毎晩開けていたのは、ブラインドの羽根ではなく、明日の朝の十五分だった。
私はポケットから鍵を出した。指が震えて、うまく鍵穴に入らなかった。
教室に入り、窓の前に立った。
ブラインドの紐を手に取った。
紐を左に回してから引くと、ブラインドは、はじめて素直に上がった。
朝の薄い青が、教室の床にひろがった。
颯くんが、ランドセルを下ろしながら、小さく言った。
「先生、やっとできたね」
朝のランプの色
その日の夕方、ガラス戸が二回、叩かれた。
私は先に頭を下げた。
「今朝、七時前に、校門の前で颯くんと会いました」
母親は、少しだけ目を伏せた。
「……知られてしまいましたね」
「緑川先生にお願いしたんです。ランプを点けて帰ってくださいって」
「夜勤明けが早い日は、七時に着いてしまうので」
「ひとりで待たせているなんて、人には言えなくて」
「理由は、書かないでほしいとも頼みました」
「緑川先生は、一度も聞き返さずに、続けてくださって」
あの一行に理由がなかったのは、書けなかったからだった。
「ごめんなさい。黙っていて」
「いいえ」と私は言った。「ずっと、理由も知らずに、点けていました」
「それで、十分だったんです」
母親の声は、ガラス戸の向こうの冬の空気のように、静かだった。
閉め作業のあと、私は引き継ぎノートを開いた。
最後の行の横に、鉛筆で小さく書き足した。
朝、校門の前で、待っている子のために。
ブラインドの紐を、左に回してから引いた。
一番上の隙間から、ランプの光が、窓の外の暗がりに細い橙色の線を引いた。
私が下ろしたブラインドの羽根も、一番上の一枚だけ、少し開けてある。