
木曜の夜、妻の青い点が、また動かなかった。
授業を終えた教室で、私は鞄の底からスマートフォンを出す。
家族で入れている位置共有のアプリを開くと、地図の端に、小さな青い点がひとつ灯っている。
商店街の外れの、名前も知らない通りだ。
駅からも、自宅からも離れている。
私が上着を着て、塾の鍵を閉めて、階段を降りるまで、その点はほんの少しも動かなかった。
アプリを入れたのは、父が施設に移った春だった。
呼び出しの電話に二人とも出られないと困るから、と言い出したのは千尋のほうだ。
千尋は、信用金庫の窓口に立っている。
残業の少ない職場のはずなのに、初夏から、木曜だけ帰りが遅くなった。
一度だけ、朝の台所で訊いた。
「木曜、いつも遅いね」
千尋は味噌汁の椀を持ったまま、少し間を置いた。
「締めの作業が、重なるのよ」
嘘が下手な人だと思った。
目の端が、左へ逃げる。
私はそれ以上、何も言わなかった。
疑っている、と言えるほどの勇気もなかったのだと思う。
ただ、点が止まっている時間を数えた。
最初の木曜は、一時間。
次の木曜は、二時間近く。
先々週は、二十二時の少し前まで。
数えている自分が、生徒の答案に赤を入れるときより、ずっと細かい人間に思えた。
その日の授業でも、中学生の生徒に「先生、顔が怖い」と言われた。
「方程式が難しいからだよ」と私は答えた。
本当は、アプリの青い点のことしか考えていなかった。
生徒が笑って、解き直した答案を差し出した。
赤ペンを持つ手が、少しだけ震えた。
妻の青い点が動かない夜
その木曜は、雨あがりだった。
駅前に自転車を置いて、商店街のアーケードを歩いて抜ける。
シャッターの多い通りだ。
半分は閉まったまま、半分は夜でも明かりを残している。
惣菜屋の揚げ油の匂いが、濡れた舗道から立ちのぼっていた。
アーケードの天井で、雨だれが不規則に落ちる。
足音が、自分のものなのに、誰かの尾行のように聞こえた。
妻の青い点は、アーケードを抜けた先の細い路地を指している。
私は歩きながら、言うべきことを組み立てた。
誰と会っているのか。
いつからなのか。
家のことは、どうするつもりなのか。
どれも、遅刻を叱るときの口調に似ていて、自分で嫌になった。
足を速めるたびに、靴の中で雨水が小さく鳴る。
途中の自販機で、温かい缶コーヒーを買おうとして、やめた。
何も持っていないと、その場に立ち尽くしてしまいそうだった。
ふいに、子どもの頃の夜が浮かんだ。
父は郵便局の仕分けの仕事で、帰りがいつも遅かった。
私は布団の中で、玄関の外の音を待った。
ちり、ちり、と二度だけ鳴る音。
それが聞こえると、父が帰ってきたのだと分かった。
安心して、そこでやっと眠れた。
その父が、三年前の秋に施設へ移った。
ものを忘れていく病気だった。
いまの父は、私の名前を呼ばない。
「お兄さん、いつもすみませんね」
面会のたびに、父は丁寧に頭を下げる。
私は「いえ」と答えて、持っていった羊羹の包みを剥く。
実家を片づけた日のことも、思い出した。
業者のトラックが来る前、千尋は「ちょっと牛乳買ってくる」と言って、財布も持たずに出ていった。
戻ったのは、一時間後だった。
牛乳は、持っていなかった。
袖口に、黒いしみがついていた。
私は何も訊かなかった。
訊く余裕が、あの日の私にはなかった。
路地の入口で、足が止まる。
妻の青い点は、もう目の前の通りの、奥の奥にあった。
岡部輪業の油の匂い
路地の突き当たりに、一軒だけ明かりのついた店があった。
ガラス戸の上に、色の剥げた木の看板が掛かっている。
「岡部輪業」。
地図に出ていた名前と、同じだった。
自転車屋だ。
拍子抜けして、それから、別の不安が来た。
自転車屋の主人と、妻が、夜に何をしているのか。
ガラス戸の向こうに、千尋がいた。
見たことのない灰色の作業エプロンをつけて、髪をひとつに束ねている。
手には、大きなレンチを持っていた。
その横に、白い頭の男が立っている。
七十近い、背の低い人だった。
男が何か言うと、千尋は声を出して笑った。
家ではもう長く聞いていない、喉の奥から出る笑い方だった。
私は戸の前で、用意してきた言葉を全部なくした。
戸を引くと、機械油の匂いが顔に当たった。
奥のラジオから、野球の中継が小さく流れている。
「あ」
千尋が振り向いた。
レンチを持ったまま、固まっている。
「来ちゃった」
「来ちゃった、って、なに」
思ったより低い声が出た。
白い頭の男が、ゆっくり頭を下げる。
「岡部です。旦那さんですか」
「……はい」
「まあまあ、ええところに。ちょうど、仕上げの前でな」
千尋が慌てて、作業台の奥の布を引っぱった。
布の下に、何かが逆さまに吊られている。
隠しきれなかった赤色が、天井の電球の下で光った。
細い赤いフレーム。
ゆるく曲がったハンドル。
荷台の、丸く削れた角。
息が、止まった。
「それは」
「ごめんなさい」
千尋が、小さな声で言った。
「サプライズに、したかったの」
「それは、親父の自転車だろう」
自分の声が、店の壁にぶつかって戻ってくる。
「捨てたはずだ」
「うん」
「業者に頼んで、持っていかれたはずだ」
「うん。持っていかれる前に、拾った」
千尋は、レンチをそっと作業台に置いた。
「どうして、勝手に」
「勝手だと思う。ごめん」
「いつから」
「五月から。毎週、木曜の夕方に来て、九時まで」
「五か月も」
「ここ二週間は、塗装の乾くのを待ってただけ」
「待って、ここで、何してたんだ」
「岡部さんと、お茶を飲んでた」
千尋が、肩をすくめた。
奥から、岡部さんの声がした。
「将棋もな」
謝りながら、千尋は目を逸らさなかった。
いつも左へ逃げる目が、まっすぐ私を見ていた。
岡部さんが、咳払いをひとつした。
「奥さんは、毎週ここへ来てな。錆びを落として、ネジを一本ずつ磨いて。私はほとんど、手を出しとらんのです」
返す言葉がなくて、私は出された湯呑みを両手で受けた。
ほうじ茶の熱さが、掌にしみた。
「奥さんはな、最初の晩、スポークの数も知らなんだ」
岡部さんが、少し得意そうに言った。
「いまは、目をつぶっても数えよる」
千尋が「やめてください」と顔を赤くした。
その顔を、私は何年も見ていなかった。
「ただな、旦那さん」
岡部さんは、吊られた車体の前に歩いていった。
ハンドルの上の、小さな金色の丸を、指先で撫でる。
「部品は、ほとんど替えました。でも、ベルだけは、直さんでええと、奥さんが言わはって」
ベル。
そのとき初めて、私はハンドルの上に目を向けた。
古い真鍮の、小さなベルだった。
縁が欠けている。
子どもの私が、何度も指で弾いて作った欠けだった。
粗大ごみの日の牛乳
岡部さんは気を利かせて、奥へ湯を足しにいった。
店には、私と千尋と、吊られた赤い自転車だけが残った。
「あの日ね」
千尋が、台の端に腰を寄せて言った。
「牛乳を買いに出るふりをして、集積所まで走ったの」
「走った?」
「トラックが来る前に。いちばん上に載ってた」
千尋は両手で、見えない車体を持ち上げる形をした。
「お義父さんの自転車が、ごみの山の上で、傘みたいに空を向いてた」
「見てられなかった」
「それで、岡部さんに電話したの」
「どうして、この店を」
「お義父さんが、昔ここで買った自転車だって、前に聞いたから。岡部さんが軽トラで来てくれて」
財布も持たずに出ていった理由が、やっと分かった。
牛乳を買わずに戻ってきた理由も、袖の黒いしみも。
私は作業台に寄りかかった。
「俺が捨てたかったの、分かってたのか」
「分かってたよ」
千尋は静かに言った。
「錆びてるからでも、場所をとるからでもなくて」
私は答えなかった。
壊れたベルの話を、結婚する前の夜に、千尋にしたことがある。
父の自転車のベルは、押すと、二度しか鳴らなかった。
中のバネが折れていて、三度目の音は出ない。
父は、直さなかった。
夜勤明けの朝も、仕分けで遅くなった夜も、門の前で必ず二度だけ鳴らして、自転車を引いて入ってきた。
大人になって、私はその音が怖くなった。
父が私の名前を忘れてからは、特にそうだった。
最初に忘れたのは、郵便局までの道だった。
次に、朝食を食べたかどうかを。
それから、私が何をしている人間かを、訊くようになった。
扉を開けても、そこにいる父は、私を知らない。
その想像が、二度の音に重なった。
片づけの日、物置の自転車を見た私は、逃げるように業者の名前を書いた。
「話してくれたでしょう」
千尋が言った。
「壊れたベルの音で、お義父さんが帰ってきたって分かったって」
「あの話を聞いたとき、羨ましかったの」
「羨ましい?」
「私の父は、帰ってくる音なんて、何もない人だったから」
千尋は笑って、すぐ真顔になった。
「だから、あの音だけは、なくしたらいけないと思った」
「手で直せるのは、部品だけだって、岡部さんが言ってた」
「記憶のほうは、直せないから」
「岡部さんに、言ったの。ベルは直さないでください、二回しか鳴らないのがいいんです、って」
私は、うまく息ができなかった。
壊れたものを捨てた夫と、壊れたままを拾った妻が、同じ台所で毎朝、味噌汁を飲んでいた。
あおば苑の中庭
日曜の午後、岡部さんが軽トラを出してくれた。
荷台に赤い自転車を載せて、三人で、あおば苑へ向かった。
揺れるたびに、ロープで押さえた車体が、ベルを鳴らしそうになる。
そのたびに、千尋が手で押さえた。
「まだ、鳴らさないで」
誰に言うでもなく、千尋が言った。
中庭の芝の上に、自転車を降ろす。
タイヤには新しい空気が入っていた。
赤い塗装は、秋の日を吸って、深い色になっていた。
職員さんが、車椅子の父を押してきてくれた。
父は膝に毛布をかけたまま、ぼんやり芝の上を見ている。
「今朝から、窓の外ばかり見てらしたんですよ」
職員さんが、小声で言った。
「何かが来るのを、待っているみたいに」
「お父さん」
千尋が膝をついて呼んだ。
「見てください」
父の目が、動いた。
赤い車体。
ハンドル。
荷台。
父の手が毛布から出て、ゆっくり前へ伸びた。
指が、サドルを撫でる。
グリップを握る。
それから、親指が、ベルの上に置かれた。
中庭が、静かになった気がした。
ちり、ちり、と二度だけ鳴った。
父は、顔を上げた。
私を見た。
知らない人を見る目では、なかった。
「ただいま」
父が言った。
「遅うなった」
喉の奥が、焼けるようだった。
私は父の前に膝をついて、両手で、その手を包んだ。
冷たくて、乾いていて、油の匂いは、もうしなかった。
「おかえり」
声が、割れた。
「おかえり、父さん」
父は、うなずいた。
私の名前は、呼ばなかった。
それでいい、と思った。
父は、私をお兄さんとも呼ばなかった。
ただ、門の前に立って、二度だけベルを鳴らす、昔の夜の人に戻っていた。
千尋が直さなかったのは、ベルではなく、父が毎晩、門の前で言い続けた「ただいま」だった。
帰りの軽トラの荷台は、空っぽだった。
自転車は、父の部屋の窓の下に置いてもらった。
職員さんが、週に二度は、ベルを鳴らしにきてくれるという。
岡部さんを商店街の入口で降ろすと、千尋が助手席から身を乗り出して、深く頭を下げた。
「来週の木曜は、もう来なくていいんですか」
岡部さんがそう言って、千尋が、困った顔で私を見た。
「来ればいい」
私は言った。
「今度は、俺も行く」
「油まみれになるよ」
「いいよ」
夜、台所で湯を沸かしながら、私はスマートフォンを出した。
アプリの地図を開くと、青い点がふたつ、重なって灯っている。
千尋のぶんと、私のぶんだ。
流しの前で、千尋が背中を向けて、袖をまくっていた。
右の袖口に、まだ少し、黒いしみが残っている。
落とさなくていい、と私は思った。
翌週の木曜、私は初めて、閉めたばかりの教室から、岡部輪業まで歩いた。
隣を、千尋が歩いている。
妻の青い点は、今度は私の隣で、同じ速さで動いていた。