階段の四段目だけが沈んでいた
トメはいつも階段の四段目にいた。三段目でも五段目でもなく、その段だけが家でいちばんくたびれている。12年ぶりに実家へ戻った俺は、母が直すなと言い張るその板を、入…
トメはいつも階段の四段目にいた。三段目でも五段目でもなく、その段だけが家でいちばんくたびれている。12年ぶりに実家へ戻った俺は、母が直すなと言い張るその板を、入…
今日は三袋な。兄は毎晩そう言って白い袋を提げて帰ってきた。家には製氷機があるのに、兄は夏のあいだ毎日コンビニの氷を買って帰る。私はそれを十年、無駄遣いだと思って…
店の奥、水道の脇の白いバケツには、売り物にならないはね出しの花が挿してある。毎月14日、そこから一輪だけが消える。電話をかけてくるのは毎回ちがう人で、みんな22…
海沿いの営業所に入って二年目、私はまだ誰からも名前で呼ばれなかった。誰も乗っていないのに、夕方の便で辻堂前のボタンが鳴る。配線の不良だと思った私に、定年間近の先…
夫は毎晩、玄関で靴を外へ向けて並べ直しました。几帳面な小言だと思い、私は十年も腹を立てていたのです。隣の棟が燃えた冬の夜、その手つきの意味をようやく知りました。…
土曜の三時、最前列の右端にいつも同じ子が座っていた。照明が落ちた数秒だけ、その子は声を出せた。三十年後、閉館の決まったプラネタリウムに現れた整備士が、肘掛けに残…
湯屋の富士は、女湯の裾だけが四十三年ずっと白いままだった。絵描きが仕事を放ったのだと、私はずっと思っていた。廃業を決めた最後の夜、大阪から来た兄弟子が差し出した…
泣ける話。昭和の山頂測候所で三時間ごとの観測を続けた私と、雪の道を荷を担いで上がってきた歩荷の保坂さん。ひとりで冬を回したあの年、彼は三日に一度登ってきた。四十…
父が遺した十七の巣箱のうち、一箱だけがいつも空だった。三年ぶりに雪を掘り返した私を待っていたのは、いつのまにか増えた三つの箱と、十六の夏にこの高原へ来た青年の話…
炭鉱町の銭湯で、兄はいつも底にひびの入った木桶を選び、壁を三度叩いた。番台の私はそれを妹を急かす苛立ちだと思い込み、三十五年ものあいだ薄情な子どもだと決めつけて…
利根川べりの河岸の町で左官を続けた姉と、七つで黙ることを選んだ弟。父が最後に残した蔵の鏝絵の人影は、三つではなく四つだった——兄弟姉妹の泣ける話。六十四年後に白…
北関東の工業団地の町に転校してきた、日本語のたどたどしい同級生。わたしは一度だけ、彼を見捨てた。合唱コンクールの日、耳の聞こえないはずの彼の父が客席で立ち上がり…
教室で一年間声が出せなかった十四歳のわたしに、担任は給食の献立だけを読ませた。〈壁に読め〉と鉛筆で書かれた藁半紙。十四年後、声を失った恩師が病室で綴った一枚の筆…
子どもは望めないと告げられた日、私は好きだからこそ、彼に別れを切り出した。けれど彼は、裏の畑に植えた二本の若木の根元に、生まれるはずだった子の名を彫った名札を、…
兄の嫁として来た佐和子さんを、私は二十年「姉さん」と呼べずにいた。秋の川が兄を連れて行った日、親族の前で「この子は私の妹です」と言い切った人。その言葉の本当の意…