
朝いちばんに焚き口の火を落とすと、浴室の湯気がゆっくりと天井へ吸われていく。
湯気が薄れるにつれて、壁のペンキ絵が上のほうから順に現れる。
青い空。
雪をかぶった稜線。
裾野の松林。
そして最後に、女湯の側の、裾のあたりだけが白いまま残る。
塗られていない場所が、四十三年、そこにあった。
※
瀬戸内に向いた鹿ノ川という町で、潮湯という銭湯をやっている。
祖父が建てて、父が継いで、俺が三代目ということになっている。
ということになっている、というのは、本当は俺の順番ではなかったからだ。
町にはタオルの工場が七つあった。
今は二つだ。
糸くずと機械油の匂いをつけた男たちが、四時半になると坂を自転車で下りてきて、うちの暖簾をくぐった。
下足札の落ちる音が、夕立みたいに続いた時代がある。
今は一日に十二人。
多い日で十五人。
湯を沸かす重油の値のほうが、売上より重い。
それでも、湯は落とさなかった。
一日十二人でも、その十二人は毎日おなじ十二人だ。
四時四十分に来る人。
五時十分に来る人。
六時を過ぎてから、必ず自転車のブレーキを鳴らして来る人。
暖簾の外の音だけで、誰が来たかわかる。
番台の椅子は、座面の右の角だけが黒く光っている。
俺の座り癖ではない。
父の癖でもない。
兄の癖だ。
十二年しか座っていない人の癖が、四十三年座った俺の癖より、まだ濃く残っている。
だから俺は、いつも左に寄って座る。
※
浴室の富士は、男湯と女湯にまたがって、一枚で描いてある。
仕切りの壁で真っ二つに切られているから、男湯からは右半分しか見えない。
女湯からは左半分しか見えない。
一枚の絵なのに、誰も一度に全部を見たことがない。
その左の裾、女湯の側の、腰から下くらいの高さに、塗られていない部分がある。
畳半分ほどの、白いところ。
下地のモルタルが、そのまま出ている。
客に聞かれるたび、俺は「絵描きが仕事を途中で放ったんです」と答えてきた。
四十三年、そう答えてきた。
※
俺が絵を描くようになったのは、兄のせいだ。
小学三年のとき、潮湯の富士が塗り替えられた。
大阪から来た絵師が朝から入って、昼までに前の絵を消した。
白くなった壁を見て、俺は学校へ行くのをやめた。
脱衣所の隅に座って、夕方まで見ていた。
父に見つかって、脱衣籠で頭を叩かれた。
そのとき兄が、洗い場から濡れた手のまま出てきて言った。
「わしが休ませた」
兄は中学一年で、嘘のつき方が下手だった。
父は兄のほうを二回叩いて、それで終わった。
十年経って、俺が高校を出て大阪へ行くと言ったとき、父は、絵なんぞ、と言った。
兄は湯船の縁に腰かけて、こう言った。
「二人おって、両方が湯屋やっても仕方なかろう」
それで話は済んだ。
済んだと、俺は思っていた。
※
昭和五十八年の春まで、俺は大阪にいた。
銭湯のペンキ絵を描く梶山稔という人のところで、三年目の見習いをしていた。
朝、脚立を担いで電車に乗る。
昼までに古い絵を消して、午後から描く。
湯を落としている二時間のあいだに描き上げないと、その日の営業に間に合わない。
だから絵師の仕事は、うまいより先に、速い。
消すのは、俺の役目だった。
前の絵の上に、白い下地を刷毛の腹で叩き込んでいく。
何十年ぶんの、誰かの富士が、二時間で消える。
最初のころ、俺は手が止まった。
梶山さんは何も言わず、俺の横で倍の速さで消した。
「消せんやつは、描けん」
そう言われて、次の現場からは止まらなくなった。
梶山さんは、俺の空の描き方だけを褒めた。
「お前の空は、湯気を吸うわ」
それだけ言って、あとは何も言わない人だった。
俺は絵で食っていくつもりだった。
家は兄が継いでいたし、兄には嫁も子もいた。
俺の帰る順番は、どこにもなかった。
※
四月に、佳世さんから電話がきた。
兄嫁だ。
「お義兄さん、入院しとる」
それだけしか言わなかった。
帰ると、兄は病室の窓際で、算盤を膝に載せていた。
重油の伝票を計算していた。
「なんや、絵は」
「休みもろた」
「休みか」
兄は算盤を伏せて、それきり黙った。
五月の終わりに、兄は戻らぬ人となった。
三十二だった。
葬式のあいだ、耕平は九つ、灯は二つだった。
耕平は借り物の上着の袖が長すぎて、指が半分しか出ていなかった。
灯は佳世さんの背中で、ずっと眠っていた。
※
兄が最後に俺に言ったのは、病室で算盤を伏せたあとの一言だ。
「二十年、頼むな」
俺は、灯が二十二になるまでという意味だと思った。
つまり、絵は二十年やめろということだと思った。
わかった、と言った。
それだけの会話だった。
※
七月に、俺は一度だけ大阪へ戻った。
梶山さんに、やめますと言いに行くためだ。
工房の土間に、脚立と絵の具の缶と、刷毛の入った木箱を全部置いてきた。
洗って、乾かして、毛先を上にして並べた。
梶山さんは、木箱の蓋を閉めて、こう言った。
「そうか」
引き止められると思っていた。
引き止められたら、それを言い訳にして、もう少しだけ大阪にいるつもりだった。
そうか、の二文字で、俺の逃げ道はふさがった。
帰りの電車で、指の匂いを嗅いだ。
テレピン油の匂いは、もうしなかった。
※
それからの二十年は、思い出そうとすると、湯気の向こうみたいにぼやける。
具体的なことだけが、いくつか残っている。
耕平は、宿題を番台でやった。
家の座敷でやればいいのに、わざわざ木の階段を降りてきて、番台の下に座り込む。
俺の足のあいだに、消しゴムのカスが溜まった。
小学四年の秋、耕平が下を向いたまま聞いた。
「おじさん、いつ大阪帰るん」
「帰らんよ」
「ふうん」
耕平はそれ以上聞かず、消しゴムのカスを集めて、指で押し固めて丸くした。
丸くしたのを、俺の下駄箱の隅にそっと置いた。
なんでそんなことをするのか、聞かなかった。
※
灯は、風呂から上がると、必ず裸のまま男湯の暖簾をくぐってきた。
佳世さんが慌てて追いかけてくる。
灯は俺の膝に手をついて、決まって同じことを言った。
「おじちゃん、きょうも白いよ」
富士の裾のことだ。
三つの子が、毎日それを言いに来る。
「そのうち塗るわ」
俺は毎日そう返した。
灯が小学校に上がる頃には言わなくなったから、四年か五年は続いたことになる。
子どもの言うことだと思っていた。
白いものが白い、と言っているだけだと思っていた。
※
佳世さんは、昼はタオルの検品、夜は病院の付き添いに出ていた。
朝の六時に帰ってきて、二階の物干しでタオルを干す。
うちのタオルは、工場の検品で撥ねられたものを安く分けてもらっていたから、どれも端が歪んでいた。
歪んだタオルが、朝日の中で三十枚くらい揺れていた。
俺は焚き口の前から、それを見上げていた。
一度だけ、無理せられんように、と声をかけたことがある。
佳世さんは、洗濯挟みを口にくわえたまま、こっちを見ずに言った。
「あんたが言う台詞やないわ」
笑っていた。
俺も笑った。
そのあと、焚き口の前でしばらく座っていた。
※
耕平は工業高校の塗装科に入った。
進路の紙を見せに来たとき、俺は、なんで塗装や、と聞かなかった。
聞けば、答えが返ってくる。
答えが返ってきたら、俺は何かを背負わされる気がした。
佳世さんが、洗い場のタイルを磨きながら言った。
「あんたに聞いてほしかったんと違うんかね」
俺は聞かなかった。
耕平は卒業して、隣の市の塗装屋に入った。
灯は准看から看護師になって、市民病院に移った。
二人とも、二十年より少し早く、俺の手から出て行った。
※
平成十五年の、暑い夏だった。
夕方、暖簾を出しに玄関へ出たら、杖をついた男が道の向かいに立っていた。
麦わら帽子をかぶって、こっちを見ていた。
客かと思って、どうぞ、と声をかけた。
男は帽子のつばを少し上げて、言った。
「番台、賑やかでええなあ」
そのとき番台には耕平がいて、常連の島田さんの背中を流すために袖をまくっていた。
男はそれだけ言って、坂を上って行った。
俺は暖簾を出して、忘れた。
※
今年の二月に、ボイラーの継ぎ手が抜けた。
三十年前の型で、部品が出ない。
作らせれば二百万を超えると言われた。
一日十二人の湯屋に、二百万の理由はない。
俺は七十だ。
耕平と灯を呼んで、座敷で話した。
耕平は畳を見て、うん、と言った。
灯は、ふうん、と言って、それから言った。
「最後の日、決めてよ」
「なんで」
「なんででも」
三月の最後の土曜と決めた。
佳世さんに電話をしたら、わかった、とだけ言って切れた。
※
最後の土曜の朝、俺はいつもより早く火を入れた。
昼過ぎに、耕平が軽トラで来た。
荷台に足場のパイプと、養生シートと、脚立が二つ積んであった。
「何する気や」
「まあまあ」
灯は白衣のまま来て、脱衣所の体重計に乗って、針が振れんと言って笑った。
四時半になっても、客は来なかった。
耕平が回覧板を回して、今日は五時からです、と常連に伝えていたらしい。
五時に暖簾を出したら、島田さんを先頭に、二十七人が並んでいた。
四十三年で、いちばん多い日になった。
島田さんは、いちばん最後まで湯に浸かっていた。
八十六だ。
もう、体を洗うのも人の手を借りる。
上がるとき、俺の顔を見ずに言った。
「明日から、どこで背中流してもらうかのう」
俺は、すんません、としか言えなかった。
島田さんは番台の前で立ち止まって、下足札を返さずに、上着のポケットに入れた。
「これ、もろうとくで」
俺は、どうぞ、と言った。
※
九時に暖簾を下ろした。
湯を落として、床の水を切って、換気扇を回した。
湯気が抜けて、富士が全部出てきた。
そのとき、玄関の戸が開いた。
杖の音がした。
梶山さんだった。
八十二になっていた。
麦わら帽子はかぶっていなかったが、俺はすぐにわかった。
「あの夏の人ですね」
梶山さんは笑って、脱衣所の籐椅子に腰を下ろした。
「二十年目の夏に、いっぺんだけ、ここまで来たんや」
「なんで、声をかけんかったんです」
「番台に、若いのが座っとった」
耕平のことだ。
「まだ、この家に人がおるなと思うてな」
梶山さんは、風呂敷包みを膝の上でほどいた。
中から出てきたのは、刷毛が一本と、茶色い封筒だった。
刷毛は、俺が四十三年前に洗って、毛先を上にして木箱に並べた、あの中の一本だった。
毛が、まだ真っ直ぐだった。
※
封筒の表には、兄の字で梶山稔様と書いてあった。
裏に、昭和五十八年三月と入っている。
兄が入院する前だ。
「お前の兄さん、大阪まで来たんや」
「兄が」
「わしの工房まで、汽車で。お前には内緒やと言うてな」
俺は封を開けた。
便箋は一枚だけだった。
『弟に、家を継がせんといてください。あれは絵をやる人間です。』
その下に、行を空けて、日付を変えた字が書き足してあった。
震えていた。
病室で書いた字だ。
『ただ、耕平と灯が大人になるまでの二十年は、あれに任せます。』
『二十年経ったら、迎えに来てやってください。』
俺は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
二十年、頼むな。
あれは、頼まれていたのではなかった。
期限を切られていたのだ。
兄は、俺が絶対に継ぐと知っていた。
知っていて、二十年で足りると踏んだ。
俺は、四十三年かけた。
便箋を折り直そうとして、指が震えて、うまく折れなかった。
梶山さんが、籐椅子から手を伸ばして、封筒の口を持っていてくれた。
「四十三年、重かったやろ」
「軽かったです」
嘘だった。
※
「あの白いとこな」
梶山さんが、壁のほうを杖の先で指した。
「わしが空けたんや」
「え」
「お前の兄さんに言われてな。弟が塗る分だけ、残しといてくれ、と」
俺は女湯へ回った。
白い部分の前に立って、手を伸ばした。
指先が、上の縁にちょうど届いた。
爪先立ちも、屈みもいらない。
白い場所は、二十七の俺の手が届く高さで、きっちり止めてあった。
四十三年、毎朝それを見て、絵描きが仕事を放ったのだと思ってきた。
放ってあったのではない。
置いてあったのだ。
※
「おじちゃん」
灯が、女湯の入口に立っていた。
白衣の上から、うちの半纏を着ていた。
「あたし、白いよって毎日言うてたやろ」
「言うとった」
「あれ、兄ちゃんに毎日言えって言われとったんよ」
耕平が、脚立を抱えて後ろに立っていた。
「病室のドアの外におったんや」
耕平が言った。
「父さんが、電話で誰かに言うとった。弟にあの裾を塗らせてやってくれ、って」
九つだった。
意味はわからんかった、と耕平は言った。
わからないまま、二つの妹に、毎日そう言わせた。
そうしておけば、いつか誰かが塗ると思ったのだと。
「おじさん、忘れてまうと思ったから」
耕平は、そう言って脚立を立てた。
※
養生シートを敷いて、足場を組んだ。
耕平が調色した。
四十三年前の絵の具と、今の絵の具は違う。
耕平は、隣の塗ってある部分の色を、明かりを当てて何度も見比べて、白と黄土と、ほんの少しの緑を足した。
「これでどうです」
俺は刷毛を受け取った。
梶山さんの刷毛だ。
いや、俺が置いていった刷毛だ。
握ると、木の柄の腹に、親指のあたる窪みがあった。
俺の窪みだった。
最初のひと刷毛を、白の下の縁に置いた。
手が、覚えていた。
裾野は、下から上へ、色を薄くしながら抜いていく。
抜きすぎると、山が浮く。
抜かなすぎると、山が沈む。
梶山さんが、籐椅子から声をかけた。
「もうちょい、湯気を吸わせ」
俺は、三十分ほどで塗り終えた。
刷毛を置いて、後ろへ下がった。
灯が、脱衣所の戸口から覗いていた。
「ちゃんと、山になっとる」
佳世さんが、その後ろで何も言わずに立っていた。
四十三年、この人は俺に一度も礼を言わなかった。
言われなくてよかったと、そのとき初めて思った。
※
「おじさん、こっち」
耕平が、男湯と女湯に、脚立を一つずつ立てた。
仕切りの壁は、天井まで届いていない。
上のほうが、換気のために三十センチほど空いている。
湯があるときは湯気で何も見えない。
湯を落とした夜だけ、その隙間が開く。
俺は女湯側の脚立に上った。
耕平は男湯側に上った。
壁の上の隙間から、はじめて、富士が一枚に見えた。
右の稜線から、左の裾まで。
四十三年この家にいて、一度も見たことのない絵だった。
塗ったばかりのところだけが、まだ濡れて、少し暗かった。
「揃うか」
「揃いますよ」
耕平が言った。
俺は、脚立の上で泣いた。
四十三年ぶりだった。
※
翌朝、火は入れなかった。
焚き口の前に立ったが、することがなかった。
耕平が、足場のパイプを軽トラに積んでいる。
灯は、脱衣所の体重計に乗って、また針が振れんと笑っている。
佳世さんが、番台の椅子の座面を、手のひらで撫でていた。
右の角の、黒く光っているところだ。
「二十年で出て行っとったらな」
灯が、体重計の上から言った。
「あたし、おじちゃんの顔も覚えとらんかったわ」
俺は何も言えなかった。
兄が切った期限を、俺は二十三年も超過した。
超過した分だけ、この子らの中に、俺の顔がある。
※
梶山さんは、来月から一緒に来いと言った。
もう脚立に上れんそうだ。
上のほうは弟子に描かせて、裾のあたりだけ、俺が塗ればいいと。
七十の見習いだ。
四十三年ぶんの遅刻だが、遅刻届は、兄が先に出してくれていた。
※
暖簾を外して、たたんだ。
浴室の戸を閉める前に、もう一度、女湯の壁を見た。
一晩で乾いていた。
継ぎ目は、目を凝らしても、どこだかわからない。
塗られていない場所は、もう、どこにもなかった。