壊れた乾燥機を直さない父

雨夜のノスタルジックなコインランドリー

父が壊れた乾燥機を直さない理由を、私は長いあいだ、ただの怠けだと思っていた。

駅前の小さなコインランドリーで、父が夜の管理人を始めたのは、勤め先を辞めた春のことだった。

父は電気工事ひと筋の人だった。

家のコンセントも、古い扇風機も、近所の頼みごとも、工具箱ひとつで片づけてきた。

その父が、七番の乾燥機だけは、半年たっても直さない。

七番の扉には、色の褪せた貼り紙が斜めに貼ってある。

「故障中 使用できません」

マジックの字は父のものではなかった。

前の管理人が残した紙を、父は剥がしもしなかった。

私は月に一度、母に持たされた煮物を届けに、夜の店へ顔を出していた。

母は実家で先に寝ている時間だ。

父は店の受付の椅子で、新聞を広げている。

自動ドアが開くと、洗剤の甘い匂いと、ドラムの回る低い音が、いっぺんに肌へ寄ってくる。

乾燥機の並ぶ壁は、どの扉も丸い窓の奥でオレンジの熱をためていた。

七番だけが暗い。

「直せばいいのに」

私が言うと、父は新聞から目を上げなかった。

「直す必要はない」

「お客さんが困るでしょう」

「困らんよ」

それ以上は、何も言わなかった。

父はもともと口数の少ない人だ。

私は煮物の容器をカウンターに置いて、自販機で缶コーヒーを一本買った。

苦い。

喉を通る苦さが、胸の少し手前で、ゆっくり冷めていく。

この店では、時間まで洗剤の匂いがした。

熱い缶を両手で包むと、指先がじんと痺れた。

カウンターの端には、客が忘れた片方だけの手袋が、洗濯ばさみで留めて並べてある。

持ち主の現れないものは、父が月に一度、きれいに洗って畳み直す。

「落とし物」と書いた札も、父の字だった。

几帳面で、少し右に傾いた字だ。

家では一度も見たことのない種類の字だった。

子どものころの私は、この人の背中ばかり見ていた。

夜勤から帰った父は、玄関で作業靴を揃えてから、黙って風呂場へ向かった。

話しかける隙は、どこにもなかった。

深夜に来る中学生

その夜、自動ドアが開いたのは、日付が変わる少し前だった。

制服姿の男の子が、スーパーの白いレジ袋を提げて入ってきた。

中学生だろう。

肩に、学校指定のかばんが重たそうに食い込んでいる。

「いらっしゃい」

父が言った。

声が、いつもより半分、低かった。

男の子は軽く頭を下げて、まっすぐ七番の前へ行った。

袋から、濡れたものを乾燥機へ移していく。

体操服と、靴下と、タオルだった。

湿った布の匂いが、私のところまで届いた。

鼻の奥が、きゅっと縮んだ。

生乾きの匂いだけは、今でも鼻の奥に居座っている。

男の子は財布から百円玉を出して、七番の投入口に落とした。

カラン、と軽い音がして、百円玉は返却口へ戻ってきた。

もう一度入れる。

また戻る。

「あ、今日も機嫌いいや」

男の子は小さく笑って、扉を閉め、スタートのボタンを押した。

ドラムが回りはじめた。

窓の中で、体操服の白が、ゆっくり裏返っていく。

袖口に縫いつけた名前が、回るたびに見え隠れした。

手縫いの糸は、ところどころ解けかけていた。

母親の手か、本人の手か、私には分からなかった。

熱が、窓の奥からじわりと立ちのぼる。

「壊れてるから、お金いらないんですよね、ここの七番」

男の子が、受付の父に言った。

「たまにな。気まぐれなやつだ」

父は新聞を見たまま答えた。

「他のは、百円だとぜんぜん乾かなくて」

「七番は、よう乾く」

「ですよね」

男の子は椅子に腰かけ、スマートフォンを伏せて、丸い窓の中の布をずっと眺めていた。

父は黙って立ち上がり、自販機で麦茶を一本買うと、男の子の隣の椅子にそっと置いた。

「飲め」

「あ、ありがとうございます」

男の子はキャップを回した。

ぱき、と小さな音がした。

乾燥が終わると、袋に温かい布を詰め直して、私にも軽く会釈をした。

「お邪魔しました」

自動ドアが閉まる。

彼の足音が、駅の夜に溶けていった。

七番の窓には、まだ微かな熱が残っていた。

父は扉を開け、忘れ物がないか、手のひらでそっと確かめた。

指先が、布の温もりを探すように、奥まで届いていた。

私は小声で父に言った。

「あの子、壊れてるのをいいことに、ただで使ってるんじゃない?」

父の手が、止まった。

「黙って見とけ」

初めて聞く、低くて硬い声だった。

私はそれ以上、何も言えなかった。

壊れた乾燥機と百円玉

それから三度、私は夜の店へ通った。

父の動きが、気になったからだ。

父は閉店の前に、七番の投入口へ指を入れて、戻ってきた百円玉を数えていた。

下の小さな蓋を外して、工具を当てる。

直しているのかと思えば、そうではなかった。

ネジを締め直し、蓋を戻して、また指で投入口をなぞるだけだ。

壊れた乾燥機の前で、父は何をしているのだろう。

月末の夜は、さらに妙だった。

月末の夜、父は菓子缶から百円玉を数えて、売上箱へ入れていた。

缶の蓋には、マジックで日付が並んでいる。

一枚ずつ、指の腹で縁をなぞるように、父は数えた。

「お父さん、それ、何」

「ちょっとした貯金だ」

「売上箱に入れる貯金って、あるの」

「ある」

父はそれだけ言って、缶の蓋を閉めた。

私は内心でため息をついた。

この人は、いつもこうだ。

大事なことは、閉まった扉の向こうに置いたまま、こちらには背中しか見せない。

帰りの電車で、私は煮物の空き容器を膝に抱え、窓に映る自分の顔を見た。

怒っているのか、拗ねているのか、自分でも分からなかった。

別の夜には、タクシーの運転手が入ってきた。

乗務の合間に、毛布を乾かしに来る常連らしい。

「管理人さん、七番はまだ直らんのかい」

「ああいう機械なんです」

「ふうん。働き者の機械が一台くらい休んどっても、罰は当たらんか」

運転手は三番に毛布を押し込み、百円玉を二枚入れた。

重たい音がして、ドラムが唸りをあげる。

父は、七番のほうを、一度も見なかった。

見ないようにしているのだ、と私は気づいた。

来なくなった夜

翌週、男の子は来なかった。

その次の週も来なかった。

父は一時間おきに自動ドアを見て、七番の扉を布で拭いた。

拭くところなど、どこにもないのに。

「あの子、どうしたのかな」

「知らん」

返事は短かったが、布を持つ手は止まらなかった。

雨の降る晩だった。

自動ドアのガラスを、細い雨が筋になって流れていた。

父は閉店の時刻を過ぎても、店の明かりを消さなかった。

「帰らんのか」

「もう少しだけ」

私は父の隣に立って、雨の匂いを吸い込んだ。

濡れたアスファルトと、遠くの踏切の音と、洗剤の甘さが、混ざっていた。

傘を持った客の影が窓に映るたび、父は顔を上げた。

そのたびに、違う人だった。

日付が変わっても、男の子は来なかった。

父は小さく息を吐いて、やっと照明のスイッチに手をかけた。

三週目の夜、自動ドアが開いた。

入ってきたのは、あの男の子と、その後ろに立つ細い女性だった。

女性は深く頭を下げた。

「息子が、いつもお世話になっています」

「いえ」

「私が入院しているあいだ、ここの七番を使わせてもらっていたと聞きました」

「壊れとるだけです」

「壊れた乾燥機でも、この子は、毎晩ここへ来るのが楽しみだったそうです」

母親の声が、かすかにふるえた。

「うちは、洗濯機を買い換える余裕がなくて」

男の子が、うつむいた。

その手に、百円玉が一枚、握られている。

「これ、いつも戻ってきてたけど、今日は、ちゃんと払いたくて」

父は、受付から出てきた。

作業靴の音が、床に低く響いた。

父は百円玉を受け取らなかった。

かわりに、男の子の手を、両手で包んだ。

「七番は、壊れとる」

「えっ」

「壊れとるもんから、金は取れん。そういう決まりだ」

そんな決まりは、どこにもない。

けれど男の子は、やっと笑った。

返却口の百円

二人が帰ったあと、店には私と父だけが残った。

ドラムの音も止まり、冷蔵庫の唸りのような静けさが降りてきた。

「お父さん」

「なんだ」

「七番、本当は壊れてないんでしょう」

父は、答えなかった。

長い沈黙のあとで、七番の蓋を開け、中の配線を私に見せた。

コインの通る道に、細い銅線が一本、別の回路へ渡してあった。

投入口は、硬貨を受け取らずに返す。

そのかわり、扉を閉めてボタンを押せば、いつでも熱が入る。

結び目ひとつ、被覆の剥き方ひとつに、長い年月の手が見えた。

私は、父の仕事を、ちゃんと見たことがなかった。

子どものころに見ていたのは、作業靴を揃える背中だけだった。

配線の丁寧さは、靴の揃え方と、同じ種類のものだった。

「どうして」

「あの子がな、最初に来た夜、百円を入れて、戻ってきて、一瞬だけ、ほっとした顔をしたんだ」

「ほっとした」

「払えない子が、払わんで済んだときの顔だ。だから、壊れたことにした」

父は工具を床に置いた。

「払わせてやれ、と言う人もおる。でもな、あれは、払えんのを知られたくない顔だった」

喉の奥が、熱くなった。

「それで、月末に缶の百円を」

「七番が受け取らなかった分は、俺が出す。店には迷惑をかけん」

売上箱へ入れていた百円玉は、七番が受け取らなかった分の、父の払いだった。

「なんで、そこまで」

父は私の顔を見ず、七番の丸い窓を見ていた。

「お前の体操服の生乾きの匂いは、俺も知っとる。」

息が、止まった。

小学四年の秋、母が入院した。

父は夜勤で、朝まで帰らなかった。

私は風呂場で体操服を洗い、固く絞って、窓際に吊るした。

乾かないまま着ていった朝、教室の隅で、誰かが鼻をつまんだ。

そのことを、私は誰にも言わなかった。

笑われた朝の、校庭の砂の乾いた匂い。

手の甲に残った、洗剤の泡のぬめり。

どちらも、まだ消えていなかった。

父にも。

「見たの」

「朝に帰ったら、風呂場に、小さい体操服が下がっとった。雫が、床まで垂れとった」

「……言ってくれれば」

「言うたら、お前が、自分で洗ったことを恥ずかしがると思った」

父の声は、いつもの低さのままだった。

「今になって、やっと機械の使い方が分かった」

父は、苦笑いに近い形に唇を曲げた。

「あの夜勤の合間に、乾燥機を回してやることも、俺は思いつかんかった。だから今、誰かのために回しとる」

私は七番の扉に手を当てた。

ガラスの向こうはもう冷めていたのに、指の下に、あの朝の濡れた布の重さが、はっきりよみがえった。

七番の「故障」は、電気屋だった父が、いちばん丁寧に作った仕事だった。

いまも私は、月に一度、煮物を提げて夜の店へ行く。

七番の扉には、色の褪せた貼り紙が斜めに貼ってある。

「故障中 使用できません」

紙の字が薄くなるたび、父は同じ文字を、上から一画ずつなぞって濃くしている。

直さない、というより、守っているのだと、今は分かる。

先週は、男の子が高校の制服で来た。

背が伸びて、ズボンの裾が少し短い。

彼は七番の前に立ち、百円玉を落として、戻ってきた音を聞いて、振り返った。

「機嫌、いいですね、今日も」

父は新聞の陰で、短く答えた。

「ああ。長いこと、機嫌がいい」

丸い窓の奥で、洗剤の甘い匂いが、また熱に変わっていく。

私は缶コーヒーをもう一本買って、父の机に置いた。

苦いはずなのに、今夜は少し、甘かった。

駅のほうから、最終電車の走る音が遠く聞こえてきた。

私は缶を両手で包んだまま、その音が消えるまで、七番の扉を見ていた。

怠けだと思っていた父の背中は、七番の窓の熱を、まっすぐに守っていた。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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