
「一枚だけで、いいんです。」
駅前の写真店で、はじめてその人にそう言われたのは、去年の十一月だった。
のちに彼女は、一枚だけの写真を毎月焼きに来る客になる。けれどその日の私は、操作に迷っているだけの客だと思っていた。
プリント機の前で、女性がひとり固まっていた。
三十前後。紺のコートに、小ぶりの革の鞄。スマホを握った指が、画面の上で止まっている。
私は二十八で、この店に勤めて六年になる。カウンターを出て、声をかけた。
「お困りですか」
「たくさん選ぶと、決心が鈍るので。一枚だけで、いいんです。L判で」
画面に、台所の写真が映っていた。
白いテーブルの端。青いマグカップがひとつ。その向こうに、曇った窓。
人はいない。料理もない。片付きすぎて、住んでいる気配が薄い台所だった。
「窓ガラスの端だけ、暗くしてもらえますか」
彼女は、画面の右下を指で押さえた。そこだけガラスが白く光って、映り込んでいる。
「反射ですね。補正でやってみます」
ブラシで角をなぞると、光はゆっくり沈んだ。彼女は息を止めるように、それを見ていた。
「ありがとうございます。そのくらいで」
排出口から、温かい紙が滑り出た。インクと熱の匂いがした。
十円玉が四枚、カウンターに並んだ。きっちり四枚。
窓ガラスの端
彼女は、翌月も来た。その次の月も来た。
いつも、月のはじめの朝。開店して間もない時間に、紺のコートかカーディガンで現れる。
十二月は、みかんが三つ載った皿だった。二月は、やかんから立つ湯気。三月は、窓辺に挿した桜の枝。
どれも、同じ台所の同じ角度だった。そして毎回、同じことを言う。
「窓ガラスの端だけ、暗くしてもらえますか」
私は黙ってブラシを握った。彼女の写真の隅には、いつもスマホのレンズか照明の白い反射があるのだと思っていた。
店長は、そんな私を見て鼻を鳴らした。
「L判一枚で、四十円だろう。紙代とインクを引いたら、あの人は店の赤字だぞ」
「でも、毎月ちゃんと来てくれます」
「機械の前に三十分もいる客を、ありがたがるな」
確かに、彼女は長かった。一枚の写真の前で、画面を拡大したり戻したりする。
後ろに並んだ年配の男性が、わざとらしく舌打ちをした日もある。彼女は肩をすぼめて、それでも手を止めなかった。
私は、彼女の背中に向けられた視線のほうが、居心地が悪かった。
「お客様、こちらの機械も空いてますよ」
そう案内して、その男性を隣へ誘導した。彼女は小さく頭を下げ、私の顔は見なかった。
急がない人だった。まるで、その一枚で何かを間違えたら取り返しがつかないみたいに。
焼き上がった写真は、必ず白い封筒に入れて帰る。封筒は、店で売っている百円のものだ。
宛名は、カウンターの隅で書く。ボールペンの先が紙を擦る、乾いた音がした。
『あおば台リハビリテーション病院 七〇三号室 柏木湊様』
覗くつもりはなかったが、宛名は嫌でも目に入った。
宛名の下の差出人の欄は、いつも空白のままだった。
遠距離の恋人なのだろう、と私は勝手に決めていた。入院している相手に、部屋の写真を送る。優しい人だと思った。
私自身は、スマホに三千枚の写真を溜めて、一枚も焼いたことがない。焼いた写真を誰かに送る、という発想がなかった。
だから余計に、彼女の一枚が重く見えた。
店長は、その夜の閉店作業中に、ぽつりと言った。
「昔はな、写真は焼いてはじめて写真になったんだ。ネガを透かして、一枚ずつ選んで、金を払った。選ぶ手間も、写真のうちだった」
「今は、選ばなくても全部残りますもんね」
「残るだけだ。見返さなきゃ、ないのと同じだろう」
私は返事をしなかった。ただ、スマホの三千枚よりも、彼女の一枚だけの写真のほうが、ずっと遠くまで届く気がしていた。
二つ目のマグカップ
一月の最初の朝、彼女は来なかった。
雪が降っていた。駅前の道は白く、傘をさした人たちが肩をすぼめて通り過ぎていく。
店長は、「ほらみろ、飽きたんだ」と笑った。私は笑えなかった。
次の日、彼女は髪を濡らして現れた。コートの肩に、雪が溶けた跡が残っている。
「昨日、行ったんですけど。病院の前まで」
「入れなかったんですか」
「入れました。でも、ロビーで引き返しました。足が、動かなくて」
そう言って、彼女はスマホを差し出した。雪の降る窓の写真だった。
白いテーブルの端に、青いマグカップ。窓の外は、灰色の空と、細かく舞う雪。
「暗くしてもらえますか。窓ガラスの端だけ」
私は、はい、とだけ答えた。いつもより丁寧に、ブラシを動かした。
五月の写真には、マグカップが二つ並んでいた。
青い方の隣に、白い方。取っ手の向きが、互い違いになっている。
「増えましたね」
思わず口にすると、彼女は目を細めた。
「彼、昔はコーヒー派で。私が紅茶派だったんです。毎朝、どっちが先に湯を沸かすかで喧嘩して」
「喧嘩するほど」
「今はどっちでもいいから、ただ並べたくて」
その声は、湯気のように軽かった。軽く言わなければ、持ちこたえられない重さなのだと、私は思った。
その晩、私は自分のスマホを開いた。母の誕生日に撮った、縁側の写真が出てきた。三年前の日付だった。
翌朝、開店前の機械で、その一枚を焼いた。私にとって、はじめてのL判だった。
紙は少し温かく、角が指に触れた。画面で見ていたときより、母の背中が小さかった。
封筒に入れて、実家へ送った。差出人の欄には、迷わず自分の名前を書いた。
店長が、その月から、何も言わなくなった。
ある日、レジの横に新しい貼り紙が出た。『L判プリント 一枚から承ります』。店長の字だった。
彼女は、それを見て、小さく笑った。
一枚だけの写真の裏
八月の朝は、傘立てが濡れていた。
湿った空気の中で、プリント機は何度も紙詰まりを起こした。直すたびに、彼女は「すみません」と頭を下げる。
やっと焼き上がった一枚を、彼女は両手で受け取った。表を見て、裏を見て、また表を見る。
「あの」
気づくと、私のほうから口を開いていた。
「遠くにいるお相手さんですか。毎月、送っておられる」
彼女は、少しだけ笑った。
「近いです。電車で四十分」
「近いのに、送るんですか」
「会えないんです。会うと、あの人を苦しめるので」
私は返す言葉を探して、手元の領収書の束を揃えた。紙の角が、指に刺さるように硬かった。
彼女は、封筒の角を爪で何度もなぞりながら話した。
婚約者の湊さんは、去年の秋に自転車で転んだ。頭を強く打ち、命は助かったが、ここ六年ぶんの記憶が戻らない。
六年。彼女と出会ってからの全部だ。
「私の顔を見ると、思い出そうとして、頭が痛くなるそうです。呼吸も浅くなって。先生に、顔はまだ見せないほうがいいと言われました」
「それで、台所の写真を」
「帰る家のことなら、思い出さなくても怖くないでしょう。看護師さんが毎月、読み上げてくれているそうです。ここに帰ってくるんですよ、って」
雨の音が、店の天井を叩いていた。
彼女は封筒を鞄にしまい、小銭入れから十円玉を出した。やはり、四枚。
「返事は、来るんですか」
「まだ一度も」
そう答えて、彼女は傘を開いた。開く前に、ほんの一瞬だけ、店の外の雨を見た。
私は、その日から、ブラシを握る手が少し慎重になった。
慎重にしたところで、できることは変わらない。窓ガラスの端を暗くする。ただそれだけだ。
それだけのことを、彼女は毎月、頼み続けた。
九月の終わり、店長が、閉店後のレジを締めながら言った。
「あの客の一枚だけの写真が、どうも頭から離れん。お前も、そうだろう」
「はい。毎月、次はどんな台所だろうって、楽しみにしてしまって」
「楽しみにするのは、悪くない。ただ、あの人の楽しみは、もっと切実だ」
店長は、売れ残った百円の封筒を、きれいに揃えて棚に戻した。
私は、窓の外の暗い駅前を見た。電車が来るたびに、人の波が改札から溢れ、また引いていく。
その中のどこかに、彼女がいるような気がして、しばらく目を離せなかった。
家に帰ってからも、台所の青いマグカップが、瞼の裏に残っていた。湯気の立たないカップほど、よく見えるものはなかった。
翌朝の通勤電車では、窓ガラスに映った自分の顔を、はじめてじっと見た。眠そうな、ただの男の顔だった。
九月は、麦茶のポットだった。結露した水滴が、ガラスの表面を伝っていた。
ポットの横に、メモ用紙が一枚貼られていた。『おかえり』。
彼女は私が見ているのに気づくと、慌てて画面を閉じた。それから、少し迷って、また開いた。
「読まれなくても、いいんです。書いておくだけで」
「届いてますよ、きっと」
無責任な言葉だと、自分でもわかっていた。けれど、ほかに言えなかった。
その夜、私は十二か月ぶんの写真を、頭の中で並べてみた。青いマグカップ、みかんの皿、雪の窓、桜の枝。
どれも、まったく同じ位置から撮られていた。毎月、彼女は同じ場所に立って、同じようにスマホを構えていたのだ。
同じ角度で、同じ高さで。まるで、そこが彼女の決まった席であるかのように。
十二枚目の窓
十月のはじめ、彼女は開店と同時に飛び込んできた。
走ってきたのだろう。肩が上下していた。いつもの紺のコートではなく、薄い黄色のカーディガンだった。
「見てください」
差し出されたのは、折り目のついた便箋が一枚。鉛筆で書かれた、傾いた字だった。
『まど、の、なかに、だれか、いる気がします。会ってみたいです。 かしわぎ』
読み終えても、私はしばらく顔を上げられなかった。
彼女の声が震えていた。
「十二枚目で、はじめて返事が来たんです。看護師さんが、封筒ごと届けてくれて」
「窓の中の、誰か」
「そう言うんです」
「お返事は、どうするんですか」
「まだ決めていません。でも、会うなら、窓の中の人として会いたいんです。いきなり顔を見せるのではなくて」
彼女は、いつもの台所の写真を画面に出した。十二枚目のデータ。白いテーブル、青いマグカップ、窓。
そして、彼女は言った。
「今月は、暗くしなくていいです」
私は、意味がわからなかった。
それでも画面の右下を拡大した。毎月、私がブラシでなぞってきた、あの白い反射の角だ。
画素が粗くなる。光の中に、輪郭が浮かんだ。
スマホを構えた腕。肩。こちらを見ている、小さな顔。
毎月、私がブラシで暗くしていた窓ガラスの隅には、彼女の顔があった。
反射ではなかった。レンズの光でもなかった。
彼女は、毎月、自分が写り込んでしまった台所の写真を撮り、自分の顔だけを私に消させていたのだ。
「ずっと、すみませんでした。理由も言わずに」
「いえ」
それ以上は、声にならなかった。私は、何も消さずに、そのまま印刷のボタンを押した。
温かい紙が排出口に出てくる。インクの匂いが、いつもより濃い気がした。
彼女は十円玉を四枚並べ、封筒に写真を入れた。カウンターの隅でボールペンを取り、宛名を書き、手を止めた。
差出人の欄に、はじめて名前を書いた。
『三浦 澪』
文字は、ほんの少し震えていた。
先週、彼女はまた来た。ひとりではなかった。
店の外のガラスの向こうに、杖をついた背の高い男性が立っている。彼女が振り返ると、その人は、困ったように片手を上げた。
「思い出したわけじゃないんです。でも、会ってみてもいいって」
彼女は、プリント機の前に立った。
「一枚だけで、いいんです。今度は、暗くしないでください」