
店のいちばん奥、水道の脇に、白いバケツがひとつ置いてある。
挿さっているのは、売り物にならない花ばかりだ。
茎の折れたスプレーバラ。
開きすぎたトルコキキョウ。
配送のあいだに色の抜けたガーベラ。
うちではそれを、はね出しの花と呼んでいる。
捨てはしない。
夕方、シャッターを半分だけ下ろして、そのバケツの水を替える。
それが一日の最後の仕事だ。
そして毎月14日だけ、そこからはね出しの花が一輪、消える。
盗まれるのではない。
電話が鳴って、いつも同じ注文が入るのだ。
「はね出しのを、一輪だけ」
取りに来るのは、毎回ちがう人だった。
制服の高校生のときもあれば、作業着の男の人のときもある。
赤ん坊を抱いた女の人が来たこともあった。
3年のあいだ、私はその意味を考えなかった。
考えたくなかった、というほうが正しいと思う。
3年前の春に黙って消えた人のことを、思い出したくなかったからだ。
名前は湊といった。
付き合っていたのは4年。
別れ話をした覚えはない。
ある日、短い文面が届いて、それきりになった。
「ひなたは、水をやりすぎる」
それだけだった。
意味はすぐにわかったつもりでいた。
重い、ということだろう。
世話を焼きすぎる、ということだろう。
私は花屋で、湊は花のことを何ひとつ知らない人だった。
その人にまで、花のたとえで振られたのだ。
笑うしかなかった。
実際、あの夜は声を出して笑った。
笑いながら、店の裏で、バケツの水を全部流した。
それでも翌朝には、新しい水を張っていた。
店は駅前の商店街の、いちばん端にある。
みつば花店という。
伯母から継いで、今年で6年目になる。
パートの千代さんと二人で回している。
千代さんは68歳で、耳が少し遠い。
そのかわり、人の顔をよく覚えている。
「今日の子、初めての子じゃったね」
14日の夕方、千代さんはよくそう言った。
私はいつも、そうですねえ、とだけ返していた。
この店の一日は、朝の6時に市場へ行くところから始まる。
帰って、水を吸わせて、切り戻して、桶に立てる。
9時にシャッターを上げる。
あとは一日、誰かの節目に要る花を売る。
入学、卒業、結婚、見舞い、開店祝い。
うちのような店に来るのは、たいてい急ぎの人だ。
今日の今日で必要になって、駅のほうから走ってくる。
だから私は、人の節目にだけ会う。
その人が翌日どうなったかは、知らないままになる。
それが十年、当たり前だった。
はね出しの花だけは、そのどれにも使えない。
祝いにも、見舞いにも、仏花にもならない。
使い道のないまま、水だけを飲んでいる。
水道の脇のバケツ
湊と出会ったのは、雨の日だったらしい。
らしい、というのは、私が覚えていないからだ。
付き合いはじめた頃、湊は一度だけこう言った。
「おれ、前に一回だけ、この店で花もろたことがある」
私は本気にしなかった。
うちはただの町の花屋で、花を配るような店ではない。
「気のせいじゃない?」
そう言うと、湊は、そうかもなあ、と笑った。
それきり、その話はしなくなった。
湊は夜の仕事をしていた。
自動販売機の補充と、その周りの配送を回る仕事だ。
夜の10時に家を出て、明け方に帰ってくる。
私は朝の6時に市場へ行く。
すれ違いの4年だった。
それでも湊は、週に二度は店に寄った。
寄っても、何も買わない。
奥のパイプ椅子に座って、私が水切りをするのを見ているだけだ。
花の名前は、いつまでたっても覚えなかった。
バラとカーネーション以外は、ぜんぶ「その白いやつ」で済ませていた。
唯一覚えたのが、スターチスだった。
「これ、枯れても色が変わらんのやろ」
ドライフラワーになる、と教えたら、妙に気に入ったらしい。
それから湊は、スターチスだけは名前で呼んだ。
明け方に帰る湊と、朝の6時に出ていく私は、玄関ですれ違うだけの日が多かった。
それでも週に一度は、二人でカップ麺を食べた。
湊は、いつも私のぶんのお湯を先に入れた。
自分のは、待っているあいだに伸びた。
「先に食べや」
そう言って、湊は折り込みチラシを読んでいた。
興味があるわけではないらしい。
読む物が、そこにしかなかっただけだ。
一度だけ、湊が怒ったことがある。
店の蛍光灯が二本切れたまま、私が一週間そのままにしていたときだ。
「暗いところで刃物使うな」
隣の電器屋に脚立を借りて、その日のうちに替えてくれた。
替えながら、こう言った。
「ひなたは、自分のことは後回しにするけん」
私は下から脚立を押さえていた。
そのときは、褒められたのだと思っていた。
湊の話を、私はあまり知らない。
親のことも学校のことも、聞けば答えるが、自分からは言わなかった。
知っているのは、高校を出てすぐ働きはじめたことくらいだ。
あとは、字を書くのが苦手だということ。
配送の伝票を書くのに、いつも時間がかかると言っていた。
「一枚書くのに、二枚しくじる」
笑って言うので、私も笑っていた。
一度、バケツの前にしゃがんでいたことがある。
私は水切りの手を止めずに言った。
「それ、売り物にはならんのよ」
湊は、茎の折れたスプレーバラをつまみ上げた。
「捨てるん?」
「捨てんよ」
そのとき私は、たぶん少し得意げだったと思う。
「この子ら、売り物にならんだけで、枯れてはないんよ」
湊は、ふうん、と言った。
それだけだった。
覚えているはずがないと思っていた。
私自身、今年の春まで忘れていたのだから。
はね出しの花の行き先
最初の電話は、湊が消えた月の14日にかかってきた。
夕方の、店じまいの少し前だった。
「あの、はね出しの花って、売ってもらえますか」
若い男の声だった。
私は受話器を持ったまま、しばらく黙っていた。
はね出し、というのは、うちの店の中でしか使わない言葉だ。
千代さんと私と、あとは湊しか知らない。
「……いくらでもいいなら」
そう答えた自分の声が、少し震えていた。
取りに来たのは、制服の高校生だった。
まったく知らない子だった。
その子はバケツの前で長いこと迷って、開きすぎたトルコキキョウを選んだ。
そして220円を、小銭で払った。
どなたかに、と聞くと、首を横に振った。
「自分に」
そう言って、帰っていった。
翌月の14日も、電話が鳴った。
次は作業着の男の人だった。
その次は、赤ん坊を抱いた女の人。
その次は、スーパーの袋を提げた、私と同じくらいの年の人。
赤ん坊を抱いた人のことは、よく覚えている。
片手で抱いたままでは、バケツの前にしゃがめなかった。
私が三本ほど抜いて見せると、その人は真ん中の一本を指さした。
色の抜けたガーベラだった。
「これ、うちの子とおんなじ色じゃ」
そう言って笑った。
赤ん坊は寝ていた。
作業着の人は、ひとことも喋らなかった。
バケツの前で指を一本ずつ茎に当てて、いちばん折れている一本を選んだ。
折れているほうがいい理由を、私は聞かなかった。
220円を置いて、軽く頭を下げて帰っていった。
みんな、はね出しの花、という言い方をした。
みんな、220円をぴったり用意していた。
私は値段を決めた覚えがない。
最初の高校生に、いくらでもいいと言ったきりだ。
それなのに、3年間、一度も金額がずれなかった。
千代さんは面白がっていた。
「ひなたちゃん、あんた知らんうちに宗教でも始めたんかね」
「やめてください」
「ほんなら、お告げじゃ」
千代さんは自分で言って自分で笑い、レジ横のおかきをかじった。
私も笑った。
笑いながら、14日の夕方だけ、シャッターを下ろすのを少し遅らせるようになった。
そのあいだに、私も二度ほど人に会った。
友達が連れてきた人と、市場で知り合った人だ。
どちらも悪い人ではなかった。
二度目のとき、相手に言われた。
「ひなたさん、まだ誰か待っとるでしょう」
そんなことはない、と答えた。
その夜、家に帰ってから、バケツのことを考えた。
店の水道は、私が閉めなければ止まらない。
誰かが替えなければ、水は濁ったままになる。
それだけのことを、ずいぶん長く考えていた。
220円の備考欄
一昨年の冬、私は一度、バケツをやめようとした。
仕入れが上がって、うちのような小さい店から順に苦しくなった年だ。
はね出しの花は、捨ててしまえば手間がかからない。
水を替える15分が、惜しくなっていた。
千代さんに言うと、あっさり頷いた。
「ええんじゃない。あんたの店じゃもん」
その日、私はバケツを裏に出した。
空にして、逆さに伏せた。
次の朝、シャッターを開けて、まっさきにそこを見た。
水道の脇に、何もなかった。
それだけのことなのに、店じゅうが知らない場所みたいに見えた。
結局その日の夕方、私はバケツを戻して水を張った。
理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、14日が近かった。
去年の秋から、うちも注文をネットで受けるようにした。
台帳がわりに、履歴が残る。
それを眺めていて、私はひとつ気がついた。
14日の注文だけ、いつも備考欄が空だった。
ほかの注文には、必ず何か書いてある。
お祝いです。仏花で。名前は入れないで。
14日だけが、まっさらだった。
そのとき私は、勝手にひとつの筋書きを立てた。
湊が、どこかから私の店に花を頼み続けているのだ、と。
取りに来る人がちがうのは、自分では来られないからだ、と。
そう思ったら、指先が冷たくなった。
3年ぶんの恨みが、一日で溶けそうになった。
我ながら、単純だと思う。
今年の3月、私は確かめることにした。
履歴に残っていた番号に、こちらからかけた。
出たのは、知らない女の人だった。
年配の、はっきりした声だった。
「あら、花屋さん」
「……先月、花を取りに来られた方ですか」
「そうよ。あれ、いいわねえ」
私は、思い切って聞いた。
「あの、どなたかに、うちの店のことを聞かれました?」
女の人は、少しだけ黙った。
それから、こう言った。
「券をもらったのよ」
「券?」
「うん。小さい紙。夜勤明けに、病院の前でね」
「病院の……前」
「うちの人が入院しとってね。ずっと付き添いよったのよ」
「そうですか」
「そしたら夜中に、自販機を入れ替えに来る人がおって」
私は、息を吸ったまま止めた。
「缶コーヒーの釣りを落としたわたしに、拾いながら渡してくれたの」
「……その方の顔、覚えてますか」
「顔はねえ。暗かったし、帽子かぶっとったし」
女の人は、少し申し訳なさそうに言った。
「でも、字が下手じゃったのは、よう覚えとるわ」
私は受話器を持ち直した。
「……どんな紙ですか」
「今ね、財布に入っとるわ。読むわね」
紙のこすれる音がした。
小さな紙の切れ端
女の人は、ゆっくり読んでくれた。
「みつば花店で、はね出しの花を一輪もらえます。220円です。毎月14日」
そこまでは、私も想像していた。
問題は、その続きだった。
「売り物にならんだけで、枯れてはないそうです」
受話器を耳に当てたまま、私は水道の脇を見た。
バケツの水が、夕方の光を返していた。
「それと、いちばん下にね、こう書いてあるわ」
「……はい」
「もろたら、次の人に回してください」
券は、回っていた。
3年かけて、私の知らないところを。
夜勤明けの看護助手から、その人の息子の同級生へ。
その子から、コンビニで隣に並んだ作業着の人へ。
私が毎月見ていた「ちがう人」は、そういうことだった。
誰も、私の名前を知らなかった。
誰も、湊の名前を知らなかった。
最初に書いた人が誰なのかも、もう誰も知らない。
電話の向こうで、女の人が続けた。
「わたしね、あの券、もう次に回したのよ」
「……どなたに」
「同じ階におった、若い奥さん。赤ちゃん抱えて、毎晩泣いとったけえ」
私は、赤ん坊を抱いた人のことを思い出した。
色の抜けたガーベラを指さした人だ。
「あの、その方、うちに来られました」
「ほんと?」
女の人の声が、急に明るくなった。
「ほんなら、ちゃんと届いとるんじゃね」
私は、はい、とだけ答えた。
それ以上は、声が出なかった。
電話を切ってから、私はレジの下の古い封筒を出した。
湊が置いていった合鍵と、解約の紙が入っている。
捨てられずにいたものだ。
その底に、折りたたんだ紙が一枚あった。
3年前、掃除のときに床から出てきたものだ。
意味がわからないまま、封筒に入れておいた。
広げると、湊の字だった。
下手な字で、同じ文面が書いてある。
書き損じだった。
「はね出しの花」の「はね」のところで、線が二重になっている。
一枚目を書き上げるのに、何度も失敗したのだろう。
私はその紙を、しばらく持っていた。
湊は、私のために花を頼んでいたのではなかった。
私に会いたかったわけでもなかった。
ただ、あの日の言葉を、外へ配っていただけだった。
私がバケツの水を替えるのをやめたら、その日のうちに終わる約束だ。
それなのに券には、期限が書かれていなかった。
3年間、私は毎月14日に、まだ替えていますと返事を出していたことになる。
知らないまま、ひとつも欠かさずに。
切り花にやる水の話
湊が店に来たのは、それから2か月後だった。
5月の、よく晴れた日の夕方。
シャッターを半分下ろしたところだった。
作業着ではなく、襟のあるシャツを着ていた。
髪が短くなっていた。
「久しぶり」
私は、水を張ったばかりのバケツを持ったまま突っ立っていた。
手が震えて、水がこぼれた。
湊は、それを見て少し笑った。
「相変わらず、こぼすなあ」
私は何か言おうとして、何も言えなかった。
3年ぶんの言葉は、全部、順番がわからなくなっていた。
湊は、店の中をゆっくり見回した。
「変わっとらんな」
「……変えるお金がないだけ」
そう答えたら、湊が声を出して笑った。
その笑い方だけは、3年前とまったく同じだった。
私は、自分が何を失くしたのかを、そのときやっと具体的に理解した。
湊は、奥のパイプ椅子を見た。
座らなかった。
立ったまま、こう言った。
「あのとき送ったやつ、ずっと謝りたかった」
「……水をやりすぎる、っていうやつ?」
「うん」
湊は、頭のうしろをかいた。
「おれ、あれ、うまいこと言うたつもりやったんよ」
そして、私の顔を見ずに続けた。
「水やりすぎたら、根が腐るやろ」
「……うん」
「おれといたら、ひなたが駄目になる思て」
私は、自分の口から音が出るのを聞いた。
笑い声だった。
湊が驚いた顔をした。
「切り花には、根がないんよ」
言ってから、涙が出てきた。
「切り花は、水をやりすぎても、腐らんのよ」
湊は、しばらく黙っていた。
それから、小さい声で言った。
「……それ、あとで知った」
湊は、そのあと、ぽつぽつと3年のことを話した。
仕事は変えていない。
夜の道順も、ほとんど同じらしい。
券は、最初の年に30枚ほど書いて、それきり書いていないという。
「あとは、勝手に回っとる」
「……知らんかったん?」
「知らん。おれ、店には来れんし」
来られない理由を、湊は言わなかった。
私も聞かなかった。
湊は、水道の脇のバケツに近づいた。
中を覗き込んで、ふっと息を吐いた。
「あの子ら、まだ捨てとらんのやな」
湊は、一輪だけ選んだ。
色の抜けかけたスターチスだった。
「これだけ、名前がわかるけん」
私は220円を受け取らなかった。
湊は財布から小銭を出して、レジの横に置いて帰った。
券は、今も私の知らないどこかを回っているらしい。
取りに来る人に、私はもう何も聞かない。
バケツの前で迷う時間を、好きなだけ使ってもらう。
湊とは、月に一度だけ会うようになった。
戻ったわけではない。
3年は、返ってこない。
それでも今日も、シャッターを半分だけ下ろして、バケツの水を替える。