左足の甲に顎をのせて待つ犬

温かな玄関と眠る子犬

ミントは、靴を履く私の左足の甲に、必ず顎をのせた。

生後二か月で預かった夜から、一日も欠かさなかった。

段ボール箱で届いた黒いラブラドールは、両手に収まるほど軽かった。

名前はミントといった。協会から届いた書類に、そう書いてあった。

私は二十九歳で、市役所の窓口で転入届を受け付けている。

犬を飼った経験はない。

それでも手を挙げたのは、盲導犬になる仔犬を一歳まで家庭で預かる、パピーウォーカーという仕組みを知ったからだった。

預かるだけで、飼うわけではない。

一歳になれば、訓練センターへ返す。

面談の日、職員の神田さんは、最初にそのことを話した。

「情が移るのは当然です。でも、お返しする日は必ず来ます」

穏やかな声だった。

私は「はい」と答えた。

深く考えていなかったのだと思う。

家には、ケージと毛布と、小さな水入れが増えた。

夜中、ミントは鼻を鳴らして鳴いた。

私は何度もベッドを抜け出して、暗い廊下に座り込んだ。

手を差し入れると、ミントは指をくわえて、静かになった。

朝まで、二人とも、あまり眠れなかった。

初めての朝、ミントは私より先に起きて、玄関のたたきに座っていた。

出勤前、私は靴ひもを結ぶとき、いつも左足を前に出す。

子どもの頃からの癖だ。

左足を出して、しゃがんで、ひもを引く。

その足の甲に、ミントがそっと顎をのせた。

重みは、湯たんぽの半分ほどもなかった。

温かくて、少し湿っていて、私は立ち上がれなくなった。

ミントは目を閉じていた。

睫毛が、思っていたより長かった。

靴を履き終えて足を引くと、ミントは仕方なさそうに顎を床へ落とした。

それから毎朝、同じことが続いた。

直してくださいと言われた

仔犬の訓練は、思っていたより地味だった。

呼ばれたら来る。座る。待つ。

拾い食いをしない。

公園のベンチで、私はわざとのど飴を落としてみた。

ミントは飴をじっと見て、それから私の顔を見た。

拾わなかった。

尻尾だけが、小さく揺れていた。

「えらいね」と言うと、ミントは満足そうに鼻を鳴らした。

小学生の男の子が、ベンチの前で立ち止まった。

「触っていい?」

「ごめんね、今は訓練中なの」

男の子はつまらなそうに口を尖らせた。

「じゃあ、見るだけ」

彼はしばらく黙ってミントを見て、それから言った。

「この犬、お姉さんの足ばっかり見てるね」

「そうかな」

「好きなんだよ、きっと」

子どもの言葉は、まっすぐで、少し痛かった。

月に一度、神田さんが様子を見に来た。

ミントの歯と爪を見て、歩き方を見て、記録用紙に何かを書き込んでいく。

三か月目の訪問の日、神田さんは玄関で靴を履く私を見ていた。

「ひとつだけ、気になります」

「玄関のあれです」

私は左足を前に出したまま、顔を上げた。

「立ち止まっているとき、人の足に触れる癖は、直してください。」

「盲導犬は、使用者さんの体に頼らず、自分の足で立って待つ犬ですから」

「触れてしまうんですか」と私は聞いた。

「完全に触れます」神田さんは、少しだけ笑った。「悪い癖ではないんです。ただ、お仕事の場では、決まりが優先になります」

私は直そうとした。

靴はベンチに座って履くことにした。

ミントを廊下の奥に待たせたこともある。

けれど私が靴を履いて玄関に出ると、ミントは走ってきて、結局、私の足の甲を探した。

ある朝は、試しに右足から履いてみた。

ミントは困った顔で、右足と左足を交互に見た。

それから鼻先で左の甲を押して、そこへ顎をのせた。

直らなかった。

私の朝は、いつも慌ただしかった。

起きるのが遅く、駅までは小走りで、散歩のときもつい足が速くなる。

急ぐと、ミントは立ち止まって、私の左足の甲に顎をのせた。

リードを引いても動かない。

雨の日、傘をたたむ私の足元で、ミントは濡れた顎を足の甲に押しつけた。

靴下に水がしみて、冷たかった。

それでも私は、足を引かなかった。

ミントの顎の温度だけが、濡れた靴下の中で、はっきりしていた。

しばらくして、ミントは自分から顎を上げた。

週末は、電車に乗る練習をした。

ミントを連れて、各駅停車の端の席に座る。

発車の揺れにも、扉の開く音にも、ミントは動じなかった。

ただ、改札を抜けるとき、私の歩幅が乱れると、立ち止まってこちらを見上げた。

隣の席の老婦人が、目を細めた。

「この子は、誰かの目になるのね」

「そのつもりで、預かっています」

そう答えたものの、私は自分が誰の目も持っていないような気がした。

昼休みに、同僚の藤井さんが言った。

「梨花さん、最近、足元ばっかり見てない?」

「犬がね、足の上に顎をのせるの」

「それ、甘えてるだけじゃない?」

「そうかもしれない」

私はお弁当の蓋を開けて、笑ってみせた。

「ゆっくり行こう」

私は毎朝、そう声に出した。

ミントに言っているつもりで、本当は、自分に言っていた。

そんな日々が、十二か月続いた。

センターの玄関で

前の晩、私はミントの毛布を洗った。

洗濯機の中で、黒い毛が渦を巻いた。

干し終えたベランダで、夜風が毛布の端を揺らした。

「明日は、早いからね」

言っても、分からないはずだった。

それでもミントは、自分の寝床に戻らず、朝まで私の足元から離れなかった。

返す日は、秋晴れだった。

訓練センターの玄関は、ガラス張りで、床が白く光っていた。

消毒液と、犬の毛のにおいがした。

神田さんが、書類の束を持って出てきた。

その上に、小さな封筒がのっていた。

「生えかわりのときに抜けた、乳歯です。お返ししますね」

封筒を振ると、米粒のような音がした。

私は封筒を、上着の内ポケットにしまった。

その夜まで、一度も開けなかった。

「十二か月間、ありがとうございました」

私は頷いた。

声を出すと、何かが崩れる気がした。

「ミントは、ここから訓練に入ります。合格するかどうかは、半年後に分かります」

「合格できなかったら、どうなるんですか」

「別の道を探します。家庭犬になることもあります」

神田さんは評価シートを閉じた。

「備考欄には、あの癖のことを書いておきます」

その言葉が、胸の底に落ちた。

直せなかったのは、私だ。

私が甘かったから、ミントは不合格になる。

そう思った。

私はしゃがんで、ミントの首輪に手を添えた。

靴ひもは、結んであった。

それでもミントは、私の左足の甲を探して、顎をのせた。

いつもの重さだった。

「ごめんね」と私は言った。「直せなくて、ごめんね」

ミントは目を閉じたまま、動かなかった。

神田さんがそっと手を添えて、ミントを抱き上げた。

ガラスの扉の向こうで、黒い背中が小さくなっていった。

帰りの電車で、私は自分の左の靴を、ずっと見ていた。

空っぽの靴だった。

その夜、私はミントの毛布を畳んで、ベッドの脇に置いた。

使う人のいない毛布は、いつまでも、犬のにおいがした。

引き出しの案内状

それから、玄関で靴を履くたびに、足の甲が軽かった。

軽いことが、これほど心もとないとは思わなかった。

協会からは、ときどき封筒が届いた。

近況のお知らせ、会報、寄付のお願い。

私は封を切れなかった。

母から電話があった。

「ミントちゃんのこと、もう忘れた?」

「忘れるわけないでしょ」

「だったら、封筒くらい開けなさいよ」

母はそれだけ言って、天気の話に変えた。

電話を切ってから、引き出しの前まで行って、戻ってきた。

ミントの名前が、不合格の知らせとして載っている気がした。

封筒は、玄関横の引き出しにたまっていった。

春には、川沿いで黒い犬を見るたびに、目で追った。

どれも、ミントではなかった。

窓口の仕事も、少しだけ変わった。

白杖をついた男性が来庁した日、私は書類を一枚ずつ読み上げた。

「ここが氏名の欄です。印鑑は、右下に」

男性は、私の声の方向に顔を向けて、ゆっくり頷いた。

出口まで付き添うとき、私はいつもより歩幅を落とした。

自動ドアの手前で、男性が立ち止まって言った。

「ここで止まってもらえると、助かります」

私は慌てて足を止めた。

誰かの足を止めるのは、案外むずかしいのだと思った。

二年がたった。

十月のはじめ、手書きの宛名の封筒が混じっていた。

差出人は神田さんだった。

「盲導犬との交流会のご案内。かつてのパピーウォーカーの皆さまへ」

そう印刷された紙の隅に、ボールペンの字があった。

「梨花さんに、会わせたい人がいます」

私は、しばらく引き出しの前に立っていた。

行くかどうか、決められなかった。

日曜の朝、私は靴ひもを結ぼうとして、左足を前に出した。

足の甲には、何ものっていなかった。

ひもを強く引いて、家を出た。

左足の甲の重さ

道すがら、横断歩道の手前で、赤信号を待った。

私の足は、止まらずに半歩出ていた。

急いでいたのだ。いつもの癖で。

目の前をトラックが通り、風が前髪を持ち上げた。

足の甲は、軽いままだった。

会場の公民館には、十数頭の黒や黄色の犬がいた。

床にはカーペットが敷かれていて、犬たちは行儀よく伏せていた。

コーヒーの香りと、人の声が、部屋にぬるく満ちていた。

「梨花さん」

神田さんが手を振った。

隣に、背の高い青年が立っていた。

足元に、黒いラブラドールが座っている。

ミントだった。

すぐに分かった。

耳の形が、同じだった。

耳の内側に、小さな傷跡があった。

最初の冬に、私が爪を切りすぎてつけた傷だった。

「拓海です」青年は、少しずれた方向へ頭を下げた。「初めまして」

「梨花です。ミントの……」

「パピーウォーカーさん、ですよね。ずっと会いたかったんです」

私は、言葉が出なかった。

ミントは、私の足元に来なかった。

拓海さんの左側に座ったまま、前を向いている。

仕事をしている犬の姿だった。

「ミントは、仕事中は誰にも寄っていかないんです」と拓海さんは言った。「でも、横断歩道の手前と、改札の手前では、必ずやることがあって」

「やること」

「僕の左足の甲に、顎をのせるんです」

息が止まった。

拓海さんは笑った。「僕は昔から、せっかちで。白杖の頃は、何度も段差で転びました」

「僕が急ぐと、ミントは立ち止まって、僕の左足の甲に顎をのせるんです。」

「ゆっくり行こう、と言われているみたいで」

「ミントが来る前は、改札を抜けるたびに、肩に力が入っていました」

「今は、止まる場所を足の甲が覚えているんです」

拓海さんは自分の左の靴を、軽く持ち上げて見せた。

「最初は、くすぐったかった。今は、ないと落ち着かない」

「去年の冬、ホームで電車に乗り遅れそうになったとき、ミントは動きませんでした。引いても、びくともしなくて」

「そのすぐあとに、僕の前を快速が通過しました」

拓海さんの声は、静かだった。

直せなかった癖は、拓海さんの左足の甲の上で、横断歩道の手前を知らせる合図になっていた。

神田さんが、評価シートの写しを一枚、私に見せた。

備考欄には、私が直せなかった癖の名前が、赤い字で書いてあった。

その横に、鉛筆で一行、添えてあった。

帰り際、玄関で、私は靴を履こうとして左足を前に出した。

ひもを結ぼうとしゃがんだとき、爪が床を鳴らす音がした。

拓海さんの小さな合図で、ミントが一歩だけ、こちらへ来た。

靴を履く私の左足の甲に、ミントは二年ぶりに顎をのせた。

重みは、湯たんぽの半分ほどもなかった。

二年前と同じ重さだった。

私は靴ひもを結ぶ手を止めて、少しのあいだ、動かなかった。

「ゆっくり行こう」

今度は、声に出さなくてもよかった。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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