夫は靴を外へ向けて並べた

夕暮れの玄関と靴を整える女性

「靴は、外に向けて置くもんだ」

結婚してからの十年で、夫がいちばん多く口にしたのは、その一言でした。

平成三年の春、私たちは川沿いの団地の四階に住んでいました。

五号棟の四〇二号室。

ベランダに出ると、川面の匂いと、隣の製パン工場の甘い湯気とが、風の向きで入れ替わる場所でした。

夫の修一さんは市の水道局に勤めていて、朝は六時に出て、夜の七時前には帰ってきます。

帰ってくると、まず玄関にしゃがみます。

私の靴を、娘の美穂の靴を、それから自分の靴を、つま先を外へ向けて、一足ずつ並べ直すのです。

そのときだけ、あの人の背中は妙に丸くなりました。

私は台所からその音を聞いていました。

三和土に靴の底が触れる、こつ、こつ、という乾いた音です。

その音がするたび、胸の奥が細かくざらつきました。

私のやり方が気に入らないのだ、と思っていたのです。

玄関くらい、好きに使わせてくれてもいいではありませんか。

「そんなに気になるなら、はじめから私が置きませんよ」

あるとき、たまらずにそう言いました。

あの人は顔を上げませんでした。

「いや、いい」

返事はいつもそれだけです。

言い返してくれたら、まだ楽だったのに、と思いました。

あの人には、夏でも靴下を脱がない癖がありました。

風呂上がりでも、脱衣所ですぐに新しいものを履いてしまいます。

一度だけ、寝入ったあとに、掛け布団から足がはみ出ているのを見ました。

右の足の甲に、うすい桃色のまだらが、地図のように広がっていました。

指先で触れると、そこだけが少し硬く、体温の伝わり方が違いました。

翌朝に尋ねると、あの人は味噌汁の椀から目を離さずに答えました。

「子どものころの火傷だ」

それ以上は、何も。

あの人とは見合いでした。

昭和五十六年の秋、市民会館の喫茶室で、私は二十一、あの人は二十六でした。

仲人さんが席を外したあと、会話が完全に止まりました。

沈黙が苦しくて、私は窓の外の雨の話をしました。

あの人は、うん、とだけ言いました。

帰りぎわ、下駄箱の前で、あの人は私のパンプスを揃えてくれました。

つま先を、出口のほうへ向けて。

その手つきだけが、やけに丁寧でした。

この人は、口は重いけれど、乱暴な人ではないのだろう。

私が結婚を決めた理由は、それだけだったように思います。

あの人は福井の生まれで、身内の話をほとんどしない人でした。

結婚のとき、あちらから来たのは伯母さんがひとりきりです。

親戚づきあいのない家に嫁いだのだと、私はどこかで納得していました。

納得と諦めは、ずいぶん近い場所にあります。

雷の鳴る夜だけ、あの人は必ず起き出しました。

寝間着のまま廊下を歩き、台所へ行きます。

そして勝手口の鍵を、かちり、と開けるのです。

閉めるのではありません。

開けるのです。

初めて気づいた夜、私は跳ね起きて追いかけました。

「あなた、何をしているの」

「ああ」

「不用心でしょう。この団地、去年も自転車を取られた人がいるのよ」

「そうだな」

「そうだな、じゃなくて」

あの人は暗い台所に立ったまま、勝手口の擦りガラスを見ていました。

ガラスの向こうで、稲光が一度だけ白く走りました。

その光に、あの人の頬骨のあたりが浮かびました。

怖がっている顔ではありませんでした。

何かを、じっと待っている顔でした。

「朝になったら閉める」

そう言って、あの人は寝室に戻りました。

私は鍵を閉め直しました。

翌朝、その鍵はまた開いていました。

美穂が三歳の冬、夜中に高い熱を出したことがあります。

四十度近くありました。

私は毛布に娘をくるんで、玄関で靴を履こうとして、手が震えて足が入りませんでした。

あの人は先に外へ出て、階段の下から私を呼びました。

「そのまま履け」

言われて足を下ろすと、靴はもう外を向いていて、ただ、するりと入りました。

あの晩は、急患の受付まで自転車の後ろに乗せてもらいました。

私は片手で娘を抱き、片手であの人の背広の背中を掴んでいました。

背広から、水道局の作業服と同じ、鉄の匂いがしました。

診察が終わって外に出ると、空が白みかけていました。

「間に合ったな」

あの人はそう言って、それきり何も言いませんでした。

私はそのとき、間に合った、という言葉の重さを、まだ知りませんでした。

秋には、団地の防災訓練がありました。

自治会の役員さんが笛を吹いて、住民が非常階段に並ぶだけの、形ばかりのものです。

皆さん、サンダルのまま、笑いながら降りてきます。

あの人だけが、きちんと靴を履いていました。

美穂を抱き上げ、階段の踊り場で一度立ち止まり、下の段数を目で数えていました。

役員さんが冗談めかして言いました。

「水道局さんは真面目だなあ」

笑い声が起こりました。

私は、その輪の中で一緒に笑いました。

笑いながら、頬が熱くなっていました。

恥ずかしかったのです。

この人はどうして、こんなに大袈裟なのだろう、と。

その夜、私は玄関の靴を、わざと全部、内側に向けて揃えました。

子どもじみた仕返しでした。

あの人は帰ってきて、いつものようにしゃがみました。

そして黙って、一足ずつ、外へ向け直しました。

こつ、こつ、と音がしました。

「どうして何も言わないの」

私の声は、自分でも驚くほど尖っていました。

「十年よ。十年、あなたは私の置いた靴を直し続けているのよ」

「私のすることは、そんなに間違っているの」

あの人はしゃがんだまま、三和土を見ていました。

肩が一度、上下しました。

「間違ってない」

「じゃあ、どうして」

返事はありませんでした。

あの人は立ち上がり、洗面所で手を洗い、いつもの席に座って、いつものように味噌汁をすすりました。

その背中を見ながら、私は、この人とは一生話が通じないのだと思いました。

美穂が六歳の冬のことです。

年が明けて、まだ松の内でした。

深夜の二時ごろ、私は肩を強く揺すられて目を覚ましました。

あの人の手でした。

「起きろ」

その声の低さで、体が先に動きました。

部屋の空気が、いつもと違っていました。

正月の餅を焼いたときの匂いに似て、けれども甘くない、油の混じった焦げた匂いです。

窓の外が、うすい橙色に染まっていました。

三号棟の二階から、火が出ていました。

サイレンはまだ聞こえません。

誰かが階段で叫んでいました。

私は美穂の布団に飛びつきました。

あの人は、もう玄関にいました。

三和土に膝をついて、三足の靴を、手前にそろえていました。

つま先は、全部、外を向いていました。

私は美穂を抱えたまま、その靴に足を入れました。

かかとを踏むことも、向きを直すことも、要りませんでした。

ただ、まっすぐ入りました。

美穂の小さな運動靴も、あの人が娘の足に、片方ずつ履かせました。

「ゆっくりでいい」

あの人はそう言いました。

玄関のドアを細く開けると、白い煙が階段の吹き抜けを上ってきていました。

あの人はすぐにドアを閉めました。

「こっちだ」

台所を抜け、勝手口へ回りました。

勝手口の鍵は、あの夜も開いていました。

あの人は把手を引くだけで、外廊下に出ました。

冷たい風が、私の顔から一気に熱を奪いました。

非常階段の鉄の段は、霜で白くなっていました。

あの人は美穂を背負い、私の手首を掴んで、一段ずつ降りました。

掴まれた手首が、痛いくらいでした。

その痛みが、私を落ち着かせました。

下の広場に出たとき、消防車のサイレンがようやく近づいてきました。

火は三号棟の一室で止まり、その家のご夫婦も、下の階の方も、みんな無事でした。

広場には、パジャマのまま裸足で立っている人が何人もいました。

スリッパの片方だけを履いている奥さんもいました。

コンクリートの上で、皆さん、足の指を丸めていました。

私は自分の足元を見ました。

私の足は、きちんと靴の中にありました。

美穂の足も、あの人の足も、靴の中にありました。

そのとき、胸の奥で、何かが静かに裏返りました。

翌朝、三号棟の奥さんが、両足に包帯を巻いて広場に座っていました。

裸足で階段を降りるとき、割れたガラスを踏んだのだそうです。

「靴がね、どこにあるか分からなくて」

奥さんは、笑おうとして、うまく笑えていませんでした。

「暗いと、あんなに分からないものなんですね」

私は、はい、としか言えませんでした。

その帰り道、あの人は一言も口をききませんでした。

四〇二号室に戻って、玄関でしゃがみ、いつもの手つきで靴を並べ替えました。

こつ、こつ、という音が、その朝はやけに長く続きました。

私は台所に立ったまま、その音を聞いていました。

聞きながら、この音は小言ではないのかもしれない、と初めて思いました。

火事から半月ほどして、福井の伯母さんが訪ねてきました。

火事のことを人づてに聞いて、様子を見に来たのだと言います。

あの人は仕事でした。

伯母さんは八十を過ぎていて、玄関で靴を脱ぐのに時間がかかりました。

私が手を貸そうとすると、伯母さんは三和土に並んだ靴を見て、動きを止めました。

「まだ、やっとるんやね」

「え」

「靴。外へ向けて」

私は返事ができませんでした。

お茶を出すと、伯母さんは湯呑みを両手で包んだまま、しばらく黙っていました。

それから、独り言のように話しはじめました。

「修一が六つのときにね、家が焼けたんですよ」

「冬の、風の強い晩でした」

「うちの村は家が寄り合って建っとったから、一軒に火が入ると、すぐでした」

私は膝の上で手を握りました。

「あの子はね、真っ暗な中で、自分の靴を探しとったんです」

「土間に、どこかにあるはずやと思って、手で探って」

「見つからんでね」

湯呑みの中で、お茶が小さく揺れていました。

「お母さんが、あの子を背負って出たんです」

「それきり、戻ってこられんかった」

伯母さんは、そこで一度、目を閉じました。

「朝になってね、あの子だけが、焼け跡に立っとりました」

「あの子の右の足の甲のまだらは、焼けた地面を裸足で歩いた跡です」

台所の窓の外で、風が鳴りました。

私は、あの人の足の甲に触れた夜の、硬い感触を思い出していました。

あれは、火傷という一言で片づけられていい傷ではありませんでした。

「村では、火の出た家のことを、あまり口にせんのです」

「あの子も、そういうもんやと思って育ちました」

「言わんのは、忘れたからやない」

「言うたら、あの晩の土間に、また降りていかんならんからです」

「うちに引き取ってからね、あの子は毎晩、寝る前に土間へ降りるんです」

「わたしらの下駄も、みんなの靴も、外へ向けて並べ替えて」

「六つの子がですよ」

「やめなさいと言うたこともありました」

「そしたらあの子、こう言うんです」

伯母さんは、湯呑みを畳に置きました。

「靴は、外に向けて置くもんや」

「そうしとけば、みんな、逃げられるやろ」

私の膝に、水が落ちました。

自分が泣いていることに、そのとき初めて気づきました。

十年です。

私は十年、この人の小言を数えていました。

言い返さないことを、無関心だと思っていました。

返事をしないことを、私を見ていない証拠だと思っていました。

違いました。

あの人は十年のあいだ、私たちを逃がす支度をしていたのです。

毎晩、しゃがんで。

毎晩、黙って。

言葉にすれば、六つのあの夜の土間に、また戻らなければならないから。

だからあの人は、こつ、こつ、と音だけで伝えていたのです。

私はその音を、十年、聞き間違えていました。

帰りぎわ、伯母さんは三和土で自分の靴に足を入れながら、こう言いました。

「あんた、あの子の靴も、外へ向けてやってな」

「あの子は、自分のぶんだけは、いつも後回しにするんです」

見送ってから玄関を見ると、たしかに、あの人の革靴だけが少し斜めでした。

私はしゃがんで、それをまっすぐ、外へ向けました。

三和土は、思っていたよりずっと冷たいものでした。

十年、この冷たさに膝をついていた人がいたのです。

その日、あの人は七時前に帰ってきました。

いつものように玄関にしゃがみ、いつものように靴を並べ替えました。

私は台所から出て、その背中の後ろに座りました。

「あなた」

「ん」

「私の靴、いつもありがとう」

あの人の手が、止まりました。

ずいぶん長いあいだ、止まっていました。

背中が、一度、大きく息を吸って、ゆっくり吐きました。

「そうか」

それだけです。

けれど、そのときの「そうか」は、十年ぶんの返事でした。

あの人は立ち上がり、洗面所で手を洗いました。

水の音が、いつもより長く続いていました。

顔を洗っているのだと、私は思いました。

その夜の味噌汁は、少ししょっぱくなってしまいました。

あの人は、何も言わずに全部飲みました。

翌週の日曜日、あの人は美穂を連れて、団地の非常階段を一緒に降りました。

手すりの高さと、段の数を、娘に数えさせていました。

「じゅうよん、じゅうご」

「そうだ。よく覚えたな」

あの人が娘を褒めるのを、私はそのとき初めて聞きました。

あれから三十五年が経ちました。

団地はもうありません。

あの人を見送って、今年で七年になります。

最後の入院のとき、あの人はベッドの脇の私の靴を見て、少しだけ笑いました。

「向き、いいな」

それが、あの人がまともに交わした最後の冗談でした。

私は今も、玄関の靴を外へ向けて置きます。

一人暮らしですから、置くのは自分の一足きりです。

それでも、しゃがんで、つま先を外へ向けます。

三和土は冷たく、膝が痛みます。

その痛みの中で、あの人の丸い背中を思い出します。

先月、美穂が孫を連れて泊まりに来ました。

五歳の男の子で、脱いだ靴を、そこらじゅうに放り出します。

美穂がしゃがんで、その小さな靴を拾い、そろえていました。

そして、こう言いました。

「靴はね、外に向けて置くものなんだって」

「じいじが、そう言ってたの」

孫は、へえ、と言っただけで、走っていってしまいました。

それでいいのだと思います。

意味を知らないまま、手だけが覚えていく。

あの人が私に十年かけて渡してきたのも、たぶん、そういうものでした。

玄関の三和土に、小さな靴と、私の靴が、外を向いて並んでいます。

いつでも、出ていけるように。

いつでも、帰ってこられるように。

こつ、こつ、という音を、私は今でも、夕方の七時前になると待っています。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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