
3月の終わりの午後だった。
コースの端に並んだ教習車のフロントガラスに、花粉の混じった膜が薄くかかっていた。
指でなぞると、乾いた音がした。
城北ドライビングスクールは、この月で閉まる。
私はここで、指導員を2年半つとめた。
父は、35年つとめた。
父の教習車は、冬でも助手席側の窓が、指二本ぶん開いていた。
私はそれを、ただの癖だと思っていた。
そして父のことを、腕の悪い指導員だと思っていた。
補助ブレーキばかり踏む人だと、そう聞かされて育ったからだ。
父が定年を迎えたのは2年前になる。
私が商社を辞めてこの教習所に入ったのは、その半年前だ。
引き継ぎらしい会話は、ひとつもなかった。
朝、更衣室で顔を合わせると、父は「おう」とだけ言った。
私も「おう」と返した。
35年勤めた男と、入ったばかりの息子。
話すことは、いくらでもあったはずだった。
けれども私たちは、14年前からずっとそうだった。
18歳の3月、私がこの教習所に通いはじめたとき、父は言った。
「俺は教えん」
理由は言わなかった。
私は別の指導員について二段階を終え、検定に受かった。
父はそのあいだ、私の車に乗らなかった。
息子を教えるのが面倒なのだと、私は思った。
あるいは、下手な運転を見たくないのだと思った。
どちらにしても、腹が立った。
その腹立ちを、私は14年、そのままの形で持っていた。
閉所が決まったのは、去年の11月だ。
教習生の数が、10年で半分以下になった。
3月の末で営業を終え、建物は夏に解体されるという。
決まった週に、私は実家へ寄った。
父に伝えるためだった。
父は炬燵で新聞を広げていた。
腰を痛めてから、父は杖をつく。
「うちの教習所、3月で閉まります」
父は新聞から目を上げなかった。
「そうか」
「建物も壊すそうです」
「そうか」
台所から母が顔を出した。
「お父さん、35年よ」
「35年でも40年でも、閉まるもんは閉まる」
父はそう言って、新聞をめくった。
その言い方が、私には他人事に聞こえた。
35年いた場所がなくなるのに、この人は何も感じないのだ。
玄関を出るとき、母が小さな声で言った。
「お父さん、あんたが入ったこと、近所に全部言うて回ったんよ」
私は、そうですか、とだけ答えた。
書類の整理は、いちばん新しい私に回ってきた。
保存期間の過ぎた原簿。
古い配車表。
検定の台帳。
倉庫の段ボールは、全部で48箱あった。
指二本ぶんの窓
倉庫の鍵を開けると、冷えた埃の匂いがした。
紙と、インクと、油の混じった匂いだ。
奥の壁際に、4号車のナンバープレートが立てかけてあった。
父が最後まで乗っていた車だ。
車体はもう業者に引き取られ、プレートだけが残っていた。
「懐かしいねえ」
振り向くと、三谷さんが立っていた。
事務の三谷さんは、この教習所で28年、配車をやってきた人だ。
閉所のあとは、娘さんのいる千葉へ行くと聞いていた。
「4号車ね」
三谷さんはプレートを指でつついた。
「木戸さんの車は、いつも窓が開いとったねえ」
「寒くなかったんですかね」
「寒いに決まっとるでしょう」
三谷さんは笑った。
「冬の朝なんか、コースの端にあの車だけ白い息が出とったもの」
私は曖昧にうなずいた。
父の癖については、所内にいくつも話が残っている。
窓のこと。
発進の前に、必ずワイパーを一往復させること。
そして、補助ブレーキを踏むのが早いこと。
「踏むのが早い人だったって、聞きました」
私がそう言うと、三谷さんは少し黙った。
「そうねえ」
それだけ言って、事務所へ戻っていった。
その日の午後、私は白岩さんの教習に入った。
白岩さんは68歳の女性だ。
60を過ぎてから、免許を取りに来た。
ご主人が腰の手術をして、車に乗れなくなったのだという。
山あいの家から、いちばん近いスーパーまで7キロあるそうだ。
第二段階に入って、もう7回目だった。
白岩さんは、教習のたびに小さなノートを持ってくる。
前の時間に言われたことが、鉛筆で書き写してある。
右折は、対向車の運転手の顔を見る。
交差点の中では止まらない。
字は丁寧で、行がゆるく下がっていた。
「学校の勉強も、こうやってやっとったらよかったです」
白岩さんはそう言って笑った。
けれども、路上に出ると別人になる。
ハンドルを握りしめ、指の関節が白くなる。
肩が、耳の高さまで上がる。
交差点の手前で、いつも足がすくむ。
車内は、人工皮革と消毒スプレーの匂いがする。
ウインカーの音だけが、規則正しく鳴りつづける。
その音が、白岩さんの呼吸を余計に速くしているように思えた。
「白岩さん、大丈夫ですよ」
私はそう言った。
言いながら、この言葉に中身がないことを知っていた。
大丈夫ですよと言われて大丈夫になる人は、はじめから震えていない。
その日も、私は一度だけ補助ブレーキを踏んだ。
横断歩道の手前で、白岩さんのブレーキが遅れたからだ。
車が停まったあと、白岩さんはしばらく前を見ていた。
それから、小さな声で言った。
「すみません」
私は「いえ」と答えた。
それ以外に、何も言わなかった。
教習が終わって、白岩さんは次の予約を取らずに帰った。
受付の奥から、三谷さんが私を見ていた。
私は目をそらした。
月曜と木曜の午後
配車表が出てきたのは、31箱目からだった。
A3の紙を半分に折って綴じた、手書きの束だ。
いまは全部パソコンで組むが、2016年までは紙で回していたらしい。
いちばん古いもので2003年。
横軸に時限、縦軸に指導員の名前が並んでいる。
私は父の行を目で追った。
木戸孝三。
月曜と木曜の午後だけ、枠が半分しか埋まっていない。
2011年の表も、2013年の表も、2016年の表もそうだった。
ほかの指導員の行は、どの曜日もびっしり黒い。
父の行にだけ、週に二回、白い帯が走っている。
私はそれを見て、納得した。
指名が入らなかったのだ。
合格率の低い指導員を、生徒は選ばない。
当たり前の話だった。
納得したのに、胸のあたりが重くなった。
父はこの白い帯を、何年も見ていたことになる。
私は自分の端末の予定表を開いてみた。
私の枠は、朝から夕方まで一列に詰まっている。
詰まっているほうが、指導員としては安心なのだ。
空いた枠は、自分が求められていない証拠に見える。
父の白い帯を、私はずっとそういうものとして見ていた。
夕方、事務所で三谷さんにその束を渡した。
「これ、廃棄でいいですかね」
三谷さんは老眼鏡をかけて、表をめくった。
そして、父の行で指を止めた。
「あら、懐かしい」
「指名、入らなかったんですね」
軽い調子で言ったつもりだった。
三谷さんは顔を上げた。
「亮くん」
入った頃の呼び方だった。
「あれはね、空けとった枠よ」
私は意味が分からなかった。
「空けとった、というのは」
「入れんかったの。わたしが」
三谷さんは表の白い部分を指でなぞった。
「木戸さんに言われたんよ。月曜と木曜の午後は、半分あけといてくれって」
「なんでですか」
「そら、入れるためよ」
三谷さんは、当たり前のことのように言った。
「急にキャンセルが出た子。ほかの先生が、もう無理やって言うた子」
三谷さんは指を折った。
「日本語がまだようわからん子。あと、何回落ちても来る人ね」
「それを、全部ですか」
「全部じゃないよ。入るぶんだけ」
三谷さんは表を閉じた。
「でも、入れる場所がないとどうにもならんでしょう。だから空けとくの」
私は配車表を見直した。
白い帯は、白いままではなかった。
よく見ると、あとから鉛筆で書き足された名前が、いくつも入っている。
ボールペンの枠の中に、鉛筆の字が重なっている。
当日に入れた印だ。
カタカナの名前もあった。
同じ名前が、月曜と木曜に何度も出てくる人もいる。
「この人、何回も入ってますね」
私が指したところを、三谷さんはのぞきこんだ。
「ああ、その子はね」
三谷さんは目を細めた。
「7回落ちたの」
「7回」
「8回目で受かって、いまはコンビニの配送に乗っとるんよ」
三谷さんは表をもう一枚めくった。
「去年の暮れ、木戸さんとこに菓子折り持って行ったって聞いたわ」
私は、そんな話を父から聞いたことがなかった。
「木戸さんね、ああいう子を断らんかったから」
三谷さんは湯呑みに茶を注いだ。
「そのぶん、数字はね」
そのあとを、三谷さんは言わなかった。
「いつからですか」
「わたしが配車に回されたときには、もうそうだったねえ」
三谷さんは天井を見て考えた。
「2011年よ。わたしが配車を引き継いだのが」
補助ブレーキの踏み方
次の日、私は検定の台帳を開いた。
2003年から2020年まで、卒業検定の結果が指導員別に残っている。
父の合格率は、たしかに低かった。
所内の平均より、10ポイント近く低い年もある。
私は電卓を出して、別の数字を出してみた。
途中で来なくなった生徒の数だ。
期限を過ぎて、教習を終えないまま抜けていく人が毎年いる。
台帳の欄外に、小さな印が付いている。
数え終えて、私はしばらく電卓を見ていた。
父の担当で抜けた人は、17年で4人だった。
ほかの指導員は、少ない人でも年に2人か3人いる。
分母が、はじめから違っていた。
父は、落ちる人を最後まで抱えていたのだ。
昼休み、私は田所さんに聞いた。
田所さんは55歳で、父の10年あとに入った指導員だ。
「うちの父、補助ブレーキを踏むのが早かったって、本当ですか」
田所さんは弁当の蓋を閉じた。
「早かったよ。誰よりも早かった」
「やっぱり」
「でもな、木戸さん」
田所さんは私を、父と同じ苗字で呼ぶ。
「踏んだあとが、ほかの人と違ったんだ」
「あとが」
「踏むだろ。生徒は固まる。自分が失敗したと思うからな」
田所さんは、助手席で足を踏むしぐさをした。
「そこで木戸さんは、必ず同じことを言った」
私は待った。
田所さんは、少し声を低くした。
「いまのは、俺が踏んだ。あんたは何も間違えとらん」
私は箸を持ったまま、動けなかった。
「毎回ですか」
「毎回。判で押したようにな」
田所さんは笑った。
「だから早く踏めたんだよ。踏んだあとに、生徒を沈ません自信があったから」
田所さんは湯呑みを置いた。
「一人、いまでも覚えとる子がおる」
「はい」
「二段階で、俺が投げた子でな」
その生徒は、路上に出るたびに謝り続けたのだという。
「謝るのが癖になっとった。謝りながら運転しよるんだ」
田所さんは自分の膝を叩いた。
「俺は、向いてないんじゃないかと言ってしまった」
「その子は」
「木戸さんに回った。木戸さんは、何も言わんと引き受けた」
「受かったんですか」
「受かったよ。11回目でな」
田所さんは、そのとき笑わなかった。
「11回だぞ。普通、こっちが先に折れる」
私は自分の教習を思い返した。
私は踏むたび、黙っていた。
謝らせて、こちらは「いえ」と答える。
それで済ませてきた。
2年半、ずっとそうしてきた。
その週の木曜、白岩さんが教習に来た。
予約は入っていなかった。
三谷さんが、当日の枠にねじ込んだのだ。
路上に出て、最初の交差点で白岩さんの足が止まった。
私は補助ブレーキを踏んだ。
車が停まった。
白岩さんの肩が上がるのが、横目に見えた。
「いまのは、私が踏みました」
声が少し裏返った。
「白岩さんは、何も間違えていません」
白岩さんは、前を向いたまま何度かまばたきをした。
それから、ふっと肩が下りた。
「先生」
「はい」
「それ、言うてもろたの、初めてです」
私は窓を指二本ぶん開けた。
2月の風が入ってきた。
白岩さんが「寒い」と言って笑った。
その笑いで、車の中の空気が動いた。
閉じた箱の中で、人は自分の息の音ばかりを聞くのだ。
原簿の束のいちばん下
48箱目は、指導員のロッカーから出た私物だった。
定年で辞めた人が、置いていったものだ。
湯呑み、老眼鏡、使いかけの軍手。
その中に、父の名前を書いた茶封筒があった。
封は開いていた。
中には、教習原簿の控えが数枚入っていた。
コピーだ。
どれも父が担当した生徒のもので、備考欄が黒く埋まっている。
私は一枚ずつ読んだ。
右左折の確認が遅い。
停止線の手前で、一度だけ深く息をさせる。
次回は住宅街から入る。
本人は一本道が怖いと言うが、怖いのは対向車のほうだ。
字はどれも小さく、行の端まできっちり使ってある。
この字を、私は家で見たことがあった。
子どもの頃、父は炬燵の上に原簿を広げていた。
老眼鏡をずらして、鉛筆の尻で頭を掻きながら書いていた。
母が「ご飯」と呼んでも、しばらく動かなかった。
私はそれを、家に仕事を持ち込む面倒な人だと思っていた。
いちばん下の一枚を引き出して、私は手が止まった。
名前の欄に、木戸亮とあった。
14年前の3月。
18歳の私の原簿だった。
担当指導員の欄には、木戸孝三と書いてある。
父の字だ。
父は私の車に乗らなかったと、私はずっと言ってきた。
それは正しくなかった。
あの日のことは、順番に思い出せる。
3月の夕方で、県道の街路樹はまだ裸だった。
門を出て、最初の信号で停まった。
父は助手席で、窓を指二本ぶん開けた。
「行けるか」
「行けます」
信号が青になった。
足が上がらなかった。
後ろの車が、クラクションを鳴らした。
もう一度、鳴らされた。
手のひらが、ハンドルの革に貼りついていた。
父が補助ブレーキを踏んだ。
「降ります」
私はそう言って、シートベルトを外した。
父はハザードを出して、運転を代わった。
教習所まで戻る道で、父は一言も話さなかった。
いつも生徒に言う言葉を、息子には言わなかった。
それが、私の初回の路上教習だ。
翌週から、私の担当は別の指導員に変わった。
父は「俺は教えん」と言った。
私はそれを、見放されたのだと受け取った。
備考欄には、父の字で二行あった。
一行目。
初回路上 8分 中止。
その下に、少しインクの色の違う字で、もう一行。
月・木 午後 空ける。
私は配車表の束を、もう一度引っぱり出した。
2011年より前の表を探した。
2009年。
2010年。
父の行は、月曜も木曜も、午後まで黒く埋まっていた。
白い帯は、どこにもなかった。
父は、私を降ろしたその日から、月曜と木曜の午後を空けはじめていた。
私は倉庫の床に座った。
原簿の紙が、指の下でわずかに湿っていた。
父は辞めなかった。
そのかわりに、週に二回、誰も入れない穴を自分の予定表に開けた。
最後の路上教習
白岩さんが卒業検定に受かったのは、3月の26日だった。
コースの端で合格を伝えると、白岩さんは両手で顔を覆って、しばらく動かなかった。
「スーパーまで、7キロです」
白岩さんは、ノートをしまいながらそう言った。
閉所の日、父が来た。
杖をついて、門のところに立っていた。
「片づいたか」
「だいたい」
私たちは柵にもたれて、しばらく黙っていた。
アスファルトの継ぎ目に、若い草が伸びはじめていた。
「窓、開けたか」
父が言った。
「開けました」
父はうなずいた。
それだけだった。
原簿のことは言わなかった。
言えば、そんなものは捨てえ、と言うに決まっている。
4月から、私は隣の市の教習所に移る。
私の車も、冬のあいだ、助手席側の窓が指二本ぶん開いている。
寒いと言われたら、もう少しだけ、と答えることにしている。