母の煮物が濃くなった春

夕暮れの里山を歩く女性と自転車

「もうちょっと濃いめにしてな」

台所の入口から、母がそう言った。

右手首に白い湿布を貼って、左手で戸口の柱をつかんでいる。

私は母の鍋の前に立っていた。

母の煮物は、私が高校2年の春から濃くなった。

それまでは薄い味だった。

出汁の匂いのほうが先に来るような、頼りない味だ。

それがある春を境に変わって、そのままになった。

しょっぱい、と私は何度も言った。

母は笑うだけで、味つけを戻さなかった。

22年、ずっとだ。

母が転んだのは3月のはじめだった。

柿畑の斜面で足をすべらせて、右手をついたらしい。

骨にひびが入っていると、町の整形外科で言われたそうだ。

電話をくれたのは隣の田代さんで、母ではなかった。

私は名古屋から車を走らせた。

揖斐川の堤防を越えると、窓から入る風の匂いが変わる。

土と、刈られたあとの草の匂い。

実家の前に停めたとき、母はもう玄関に立っていた。

「そんな、来んでもよかったのに」

それが第一声だった。

十日ばかり泊まることにした。

夫には電話で伝えた。

小学2年の娘は、春休みに入ってから連れてくればいい。

その娘が去年の正月に言ったことを、私はまだ覚えている。

「おばあちゃんのおみそ汁、しょっぱい」

テーブルの下で、私は娘の膝を軽く叩いた。

母は聞こえないふりをして、漬物の皿を回した。

実家の台所は、私が子どものころから何も変わっていない。

流しの横の壁に、母の字で書いた献立の紙が貼ってある。

日に焼けて、もう読めない。

ガス台には黄色い琺瑯の両手鍋が置いてある。

縁の一か所が欠けて、下の鉄が黒くのぞいている。

私が生まれる前からある鍋だ。

「ちょっと大きすぎるんと違う」

中学のころ、そう言ったことがある。

「ちょうどええんよ」

母はそれだけ言って、蓋を閉めた。

右手首の湿布

翌朝から、私が台所に立った。

母は椅子に座ってそれを見ている。

左手で湯呑みを持ち、右手は膝の上に置いたままだ。

「大根、もうちょい厚う切って」

「水は足さんといてな」

「砂糖が先、醤油はあと」

指示だけはやたらと細かい。

「自分でやったほうが早い、いう顔しとるな」

「しとらんよ」

「しとるわ」

母は笑った。

笑うと目尻の皺が深くなる。

母は40年、町はずれの縫製工場でパートをしていた。

料理を習ったことはない。

それでも味つけの手順には、妙な決まりがあった。

火を止める時間も分単位で決まっている。

厚揚げは最後の5分で入れる。

「煮すぎると身がしぼむもんで」

そう言って、母は柱の時計を見た。

できあがった煮物を、私は二つの器によそった。

母の前に置くとき、母は左手で湯呑みを引き寄せた。

これは昔からだ。

母は食事のとき、必ず白湯を横に置く。

そして私の前にも、もう一つ湯呑みを置くのだった。

「これ、飲みながら食べ」

子どものころ、私はそれを行儀が悪いと思っていた。

ごはんに水を飲むのは、味の薄いのを誤魔化すようで嫌だった。

だから一度も飲まなかった。

その晩も、私は湯呑みに手をつけなかった。

母は白湯をひと口すすって、それから箸を取った。

「おいしいわ」

「濃すぎやろ」

「ちょうどええ」

母は左手で、危なっかしく大根を割った。

三日目の昼に、隣の田代さんが柿の枝を持ってきた。

渋抜きに失敗したという話を、十五分ほどした。

母は左手で茶を淹れようとして、急須を傾けすぎた。

湯が受け皿にあふれて、田代さんが慌てて布巾を取った。

「由紀ちゃん、無理せんでええって」

「これくらい、無理のうちに入らんわ」

「入るわ。娘さんおるんやで」

母は私のほうを見ずに、「おるうちだけやで」と言った。

田代さんが帰ったあと、母はこぼれた茶をひとりで拭いていた。

左手で布巾を絞るのに、ずいぶん時間がかかった。

私は黙って見ていた。

手伝えば、この人は次から何も言わなくなる。

それくらいのことは、三十八年も娘をやっていれば分かる。

その日の夕方だった。

五時を回ったころ、母が急に立ち上がった。

そして玄関のほうを見た。

何も聞こえない。

犬も鳴いていないし、車の音もしない。

「どうしたん」

「なんでもない」

母はまた椅子に座った。

けれど五時半にもう一度立って、今度は土間まで下りた。

サンダルをつっかけて、引き戸を十センチだけ開けた。

外は薄い橙色をしていた。

山の上のほうだけが、まだ明るい。

母はしばらくそこに立っていた。

それから、何も言わずに戻ってきた。

「寒いやろ」

「風が入っただけや」

その日の献立は、私が勝手に決めた鮭の塩焼きだった。

母は半分だけ食べて箸を置いた。

母の煮物の水加減

四日目、母がまた煮物をつくれと言った。

大根と里芋と厚揚げ。

昨日つくったばかりだ。

「昨日食べたやん」

「ええから」

母の声が、少しだけ硬かった。

私は黙って大根を剥いた。

母の煮物のつくり方は、順番まで決まっている。

鍋に大根を敷いて、そのあいだに里芋を落とす。

だしを張るのは材料の背が隠れるまで。

そこから先は水を一滴も足さない。

「なんでそんなに濃いめなん」

手を動かしながら、私は訊いた。

訊いたのは、たぶん22年ぶりだった。

「そのほうが、もつもんで」

母は湯呑みを持ったまま、そう言った。

もつ。

台所の言葉としては普通だ。

けれど私たちの家は、いつも二人だった。

つくったものは、その日のうちになくなった。

もたせる必要など、どこにもなかったはずだ。

父が家を出ていったのは、私が高校1年の夏だった。

名古屋の工場に単身赴任して、三年目の夏に帰ってこなくなった。

離婚の話が整ったのは、それからさらに二年あとだ。

母は縫製工場の勤めを昼までから夕方までに延ばした。

帰りは七時を過ぎた。

私は学校から帰っても、家には入らなかった。

鍵を持たされていなかったからだ。

そのころのことを、私は長いあいだ、あまり思い出さなかった。

思い出しても、どうにもならない種類の記憶だと思っていた。

煮物ができあがって、私は蓋を取った。

湯気が顔に当たって、醤油の匂いが濃く立った。

やっぱり濃い。

味見をした舌の奥が、きゅっと縮んだ。

「ちょっと足すわ」

私が水差しに手を伸ばすと、母が鋭く言った。

「あかん」

その声に、私は手を止めた。

母は自分でも驚いたような顔をして、すぐに言い直した。

「……足したら、味が抜けてまうもんで」

私は水差しを戻した。

母が湯呑みの白湯をすすった。

その音が、やけに大きく聞こえた。

軒下に伏せた容器

五日目の朝、ごみを出しに外へ出た。

玄関の軒下に、四角い保存容器が二つ伏せて置いてあった。

洗ってある。

蓋も別にして、きちんと立てかけてあった。

うちの容器ではない。

うちのは丸い琺瑯のやつで、母はプラスチックを嫌う。

「これ、誰の」

台所に持って入ると、母は目を上げた。

ほんの一瞬だけ、視線が容器で止まった。

「どっかの人が、間違えて置いてったんやろ」

「間違えて、洗って置いてくん」

「知らんわ、そんなもん」

母はそう言って、湯呑みに口をつけた。

私は容器を流しの下にしまった。

そのとき、蓋の裏に細い傷がいくつも入っているのに気づいた。

食洗機の傷ではない。

何年も、何年も、洗われ続けた容器の白いくもりだった。

その日の午後、母が改まった顔で言った。

「ちょっと、頼みたいことがあるんやけど」

「なに」

「あの煮物な。届けてほしいとこがあるんよ」

私は洗い物の手を止めた。

「届ける」

「自転車で十分ちょっと。堤防の下の、小柳さんとこ」

小柳。

その名前を、私は二十年ぶりくらいに聞いた。

「自転車屋の」

「もう、店はたたんどるけどな」

母は左手で、四角い容器を指した。

さっき私がしまったばかりの容器だ。

「それに詰めてくれたらええから」

「……いつから」

「なにが」

「いつから届けとるん」

母は答えなかった。

代わりに、右手首の湿布を左手でそっと押さえた。

「手ぇ、こんなでな。自転車に乗れんのよ」

「小柳さんとこ、二人だけなん」

「息子さんは岐阜市におるわ。年に二回くらいやろ」

「じゃあ、普段は」

「二人でな。おじいさんは腰やってから、ほとんど寝とる」

母はそこで言葉を切った。

それ以上は説明しない。

説明しないのは、この人の癖だ。

父のことも、離婚のことも、母はほとんど何も言わなかった。

私はそれを冷たさだと思っていた時期がある。

私は容器を出して、煮物を詰めた。

大根を四つ、里芋を六つ、厚揚げを二枚。

「もうちょい入れて」

母が後ろから言った。

「汁も。汁が大事やで」

言われたとおりにすると、容器はずしりと重くなった。

私は母の自転車の前かごに、それを新聞紙でくるんで載せた。

前かごの底に、四角い跡が白く残っていた。

塗装が剥げて、針金の地金が見えている。

ちょうど容器ひとつぶんの大きさだった。

小柳自転車店の土間

堤防沿いの道は、昔とほとんど変わっていなかった。

用水路が道と並んで走っている。

幅は一間ほどで、水は思ったより速い。

三月の風はまだ冷たくて、耳の先が痛くなった。

十二分で着いた。

小柳自転車店の看板は、まだ外壁に残っていた。

青い地に白い字で、自転車の絵が描いてある。

下半分は錆びて読めない。

シャッターは閉まっていて、その横が住居の玄関だった。

呼び鈴を押すと、しばらくして戸が開いた。

小柄なおばあさんが、顔だけ出した。

「あら」

その人は私を見て、それから前かごの新聞紙を見た。

「今日は、あんたかいな」

「母が、手を痛めまして」

「聞いとるよ。田代さんとこから」

おばあさんは戸を大きく開けて、私を上がり口まで入れた。

家のなかは、油と、ゴムの匂いがした。

自転車屋をやめて十五年経っても、その匂いは抜けないらしい。

奥から、テレビの音が低く聞こえた。

「うちの人は、耳が遠なってな」

「小柳さん、お元気ですか」

「九十一やで。元気も何もあるかいな」

おばあさんは笑って、容器を受け取った。

受け取り方が慣れていた。

両手で下から支えて、傾かないように胸まで上げる。

何百回もやった人の手つきだった。

「毎度、すまんことです」

「いえ」

「ほんまにな。水曜と土曜、二十二年。一遍も休まんと」

私は、上がり口に立ったまま動けなくなった。

二十二年。

「二十二年、ですか」

「そら覚えとるわ。うちの人が腰やってから、ずっとやもん」

おばあさんは容器を框に置いて、私の顔を見上げた。

「あんた、土間の子やろ」

土間。

その言葉で、いっぺんに戻ってきた。

コンクリートの床の冷たさ。

空気入れのレバーの重さ。

パンクを直すときの、水を張ったたらいの音。

あの店の土間には、木の丸椅子が一つ置いてあった。

私は高校1年のあいだ、ほとんど毎日そこに座っていた。

学校から帰っても家には入れないから、堤防を自転車で下って、店に寄った。

宿題をひろげると、小柳さんは何も言わずにストーブをこちらへ向けた。

おばあさんが、決まって柿の種とあられを小皿に出した。

七時前になると、母が自転車で迎えに来た。

「ほんなら」とだけ言って、母は頭を下げた。

上がったことは、一度もなかったと思う。

「よう似とるわ、お母さんに」

おばあさんはそう言って、奥へ声を張った。

「おとうさん、由紀ちゃんとこの娘さんやて」

テレビの音が少し小さくなった。

返事は聞こえなかった。

帰り道、私は自転車を押して歩いた。

空の容器が前かごで軽く鳴った。

理由は、すぐに思いついた。

私が五歳のとき、この用水路に落ちかけたことがある。

春先で、水の多い日だった。

縁の草に足を取られて、上半身から水に入った。

引き上げてくれたのが、自転車を押していた小柳さんだった。

その話は、母から何度も聞かされて育った。

だから母は、あの家に恩がある。

煮物を届けるのは、その恩返しなのだ。

そう考えると、全部が収まった。

収まりすぎて、なぜか足が重くなった。

用水路の水が、三月の光を細かく割っていた。

風が止むと、水の音だけが残る。

堤防を上がりきったところで、私は自転車を止めた。

数が合わない。

私が五歳だったのは、三十三年前だ。

おばあさんが言ったのは、二十二年。

十一年、ずれている。

黄色い琺瑯の鍋

家に戻ると、母は台所にいた。

左手で、使った鍋を洗おうとしている。

私は容器を流しに置いて、タオルで手を拭いた。

「二十二年やって」

母の背中が止まった。

「奥さんが言うとった。水曜と土曜、二十二年って」

「……そんなに経つかね」

「五歳のときの話やと思っとった」

母は水を止めた。

しばらく、換気扇の音だけがしていた。

「あれは、あれや」

それだけ言って、母は布巾を取った。

私は聞き出すのをやめた。

訊いたところで、この人は言わない。

四十年そうだったのだから、今さら言うはずがない。

その夜、布団のなかで天井を見ていた。

二十二年前。

私が高校2年に上がる春だ。

そのころ何があったかを、順番に並べてみた。

父が帰ってこなくなって、二年目。

母が勤めを延ばして、一年目。

そして私は、高校1年の終わりに、母に言ったのだった。

三学期の終業式の日だ。

玄関で靴を履きながら、背中越しに言った。

「もう、小柳さんとこ行かんでええよ」

「なんで」

「鍵、自分で開けられるもん」

その春から、私は家の鍵を持った。

学校から帰って、誰もいない台所で麦茶を飲むようになった。

土間の丸椅子には、二度と座らなかった。

そして、その春から、母の煮物が濃くなった。

私が通わんようになった日から、母が通いはじめとったんや。

布団のなかで、私は目を開けたまま動けなかった。

一年間、あの人たちは私を土間に置いてくれた。

ストーブをこちらへ向けて、あられを出して、七時まで。

母はその一年ぶんを、二十二年かけて運んでいた。

水曜と土曜。

一遍も休まずに。

そして私には、一度も言わなかった。

言えば、私が土間の子だったことを、私自身に思い出させてしまう。

母が黙っていたのは、たぶん、そういうことなのだと思う。

翌朝、私は母より早く起きて、台所に立った。

黄色い琺瑯の鍋に、大根を敷いた。

だしを張って、砂糖を先に入れた。

水は、一滴も足さなかった。

母が起きてきて、私の手元をのぞいた。

「濃いめにしとるか」

「しとる」

「そうか」

母は椅子に座って、湯呑みを引き寄せた。

私は白湯を汲んで、自分の前にも置いた。

母がそれを見た。

何も言わなかった。

その晩、母は自分の椀に白湯を少し足した。

指先が隠れるくらいの、ほんのわずかだった。

ずっとそうしていたのだと、そのとき初めて気づいた。

母は濃い味が好きになったわけではない。

二軒ぶんを、一つの鍋で炊いていただけだ。

薄めていたのは、母の椀だけだった。

だから母は、私の前にもいつも湯呑みを置いたのだ。

これ、飲みながら食べ、と言って。

私は二十二年、それを一度も飲まなかった。

十日が過ぎて、私は名古屋へ帰った。

春休みに、娘を連れてもう一度実家へ行った。

母の手首はまだ細い布を巻いていたが、包丁は握れるようになっていた。

娘は煮物の大根を一口食べて、目を丸くした。

「おかあさんの味や」

母が湯呑みの向こうで、少しだけ笑った。

帰りに、私は町のホームセンターで両手鍋を買った。

琺瑯の、同じ黄色いやつだ。

家の四人には、どう見ても大きすぎる。

それでも私は、その鍋で炊く。

夫が箸を止めて、この前こう言った。

「ちょっと濃ないか」

「そのほうが、もつもんで」

そう答えてから、自分の声に驚いた。

水曜と土曜、私はまだ誰にも届けていない。

それでも母の煮物は、いまも濃い。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。