
露場の雪は、ひと晩で膝まで戻る。
百葉箱までの二十歩を、私は毎朝、掘り直していた。
掘っても、三日と保たない。
山では、人の通った跡がいちばん先に消える。
昭和四十八年の冬、私はそれを身体で覚えた。
藤倉岳の測候所へ辞令が出たのは、二十三の春だった。
同期は八人いて、七人は本庁に残った。
私ひとりが、地図の端にある小さな三角点の名を読み上げられた。
辞令の紙を折り畳んで、鞄の底に押し込んだのを覚えている。
麓の志戸内から歩いて五時間。
雪が来れば、それが八時間になる。
仕事は、三時間ごとの定時観測だった。
零時、三時、六時、九時、十二時、十五時、十八時、二十一時。
そのたびに露場へ出て、気温と湿度と風向と風速と積雪と雲量を読む。
戻って野帳に写し、無線で気象台へ送る。
送り終えれば、その数字はもう誰の手にも残らない。
翌朝には、次の数字が同じ欄に重ねられていく。
零時の観測が、いちばん堪える。
戸を開けると、風のほうが先に部屋へ入ってくる。
懐中電灯を口にくわえ、露場までの二十歩を掘りながら進む。
百葉箱の掛け金は、手袋をしていると外せない。
乾球と湿球の水銀を、息を止めて読む。
息をかければ、それだけで数字が変わってしまう。
読んだら扉を閉め、雪尺に光を当て、風速計の回る音を数える。
戻って野帳に写すころには、指の感覚が無い。
それを一日八回、来る日も来る日も続けた。
本庁に残った同期から、年に一度だけ葉書が来た。
新しい電子計算機が入ったとか、予報の担当になったとか、そういうことが書いてあった。
私は返事に、今日の積雪を書いた。
二年目の秋には、自分の仕事をこう考えるようになっていた。
——消えていくものを、消えるままに書き写しているだけだ。
所長の芦名さんは、私のそういう顔をよく見ていたのだと思う。
一度だけ、こう言われたことがある。
「宮下君な。天気図は、誰も読み返さんよ」
はい、と私は答えた。
「けどな。抜けた日だけは、五十年経っても分かる」
そのときは、意味が分からなかった。
※
山の上には、道がない。
正確に言えば、夏には道があり、雪が来ると無くなる。
だから冬のあいだ、私たちの米も灯油も乾電池も、人の背に乗って上がってくる。
歩荷という。
麓の杣田運送という請負が、週に一度、人をよこした。
昭和四十八年の十一月、初めて上がってきた歩荷が、保坂徳一だった。
三十二だと言った。
私より九つ上なのに、最後まで敬語を崩さない人だった。
背丈は低く、肩幅だけが妙に広い。
戸口で雪を落としてから背負子を下ろす、その手つきが、ひどく丁寧だった。
「濡らしてませんから、確かめてください」
そう言って、油紙の包みをひとつずつ開けて見せた。
米も、味噌も、乾電池も、粉ひとつ湿っていなかった。
そのころ杣田には歩荷が四人いて、他の三人はもっと若く、もっと速かった。
彼らは荷を土間に放って、湯だけ飲んで降りていく。
保坂さんだけが、毎回、包みを開けて見せた。
「そんなもの、いちいち確かめませんよ」
私が笑うと、保坂さんは真顔で首を振った。
「濡れた米を食う人の顔を、俺は見ないで帰りますから」
理屈になっていない、と思った。
けれど、その理屈にならない一言を、私は五十年覚えている。
※
保坂さんは、要領が悪かった。
尾根の風を避けて回り道をすれば楽なのに、必ず最短の稜線を行った。
そのほうが荷が濡れないのだという。
風は強いが、雪が舞っていないから、と。
おかげで登りは他の歩荷より三十分遅く、下りは一時間遅かった。
運賃は荷の重さで決まる。
同じ重さなら、速い男のほうが一日に二度稼げる。
保坂さんは、一度しか稼げなかった。
若い歩荷のひとりが、土間で足踏みしながら言ったことがある。
「あの人、勘定ができんのですよ」
稜線を行けば体力が減る、体力が減れば本数が落ちる、本数が落ちれば金が入らない。
そういう引き算ができない男なのだと、その若い歩荷は笑った。
私も、一緒になって笑った。
今でも、そのときの自分の笑い声を思い出す。
※
保坂さんは、荷を下ろすと、必ず土間の隅で帳面を開いた。
杣田で持たされている台帳だと言っていた。
日付と、品名と、貫目と、運賃を、自分で書き込む決まりになっていた。
その字を、私は一度だけ横から見たことがある。
線が太く、右上がりで、真ん中の一画がいつも長すぎる。
小学生の書く字だった。
「保坂さん、字ぃ、うまくないですね」
そう言うと、あの人は照れもせずに帳面を持ち上げてみせた。
「そうなんですよ。子どものころ、字を書く前に働きに出たもんで」
それきり、鉛筆を舐めて、また書いていた。
背負子の肩当ては、左だけが白く擦り切れていた。
右を出さないのは、若いころ肩を痛めたからだという。
だから片側だけが、木の色になるまで薄くなっていた。
※
なぜ歩荷をしているのかを聞いたのは、二年目の冬だった。
吹雪で降りられず、あの人が一晩泊まった夜のことだ。
ランプの下で、湯呑みを両手で包んだまま、保坂さんは話した。
「俺、営林署にいたんですよ。八年」
初めて聞く話だった。
「辞めたんですか」
「辞めさせられました」
湯呑みの縁を、指でなぞっていた。
「山で人が一人、戻らなくなりましてね。俺の班でした」
「保坂さんのせいですか」
「さあ。誰のせいでもないと、書類には書いてありました」
書類には、とあの人は言った。
その言い方だけが、耳に残った。
「それから、雇ってくれるところが無くて」
「杣田だけが、使ってくれたと」
「ええ。だから俺、ここが一番いいんです」
一番いい、という言葉を、あの人は少しも皮肉なく口にした。
私は何か言い返すべきだったのだと思う。
けれど、湯呑みを持つ手の甲に、凍傷の痕が黒く残っているのを見て、何も言えなかった。
その夜、あの人のほうから訊かれたことがある。
「宮下さんの仕事は、何を作るんですか」
「作りません。数字を送るだけです」
「その数字、どこへ行くんですか」
「気象台へ行って、天気図になって、翌日には捨てられます」
保坂さんは、しばらく黙っていた。
ランプの芯が、小さく鳴った。
「じゃあ、明日の朝、麓の人が傘を持って出るかどうかは」
「……まあ、少しは関わります」
「じゃあ、それでいいじゃないですか」
あの人はそう言って、湯呑みの底を飲み干した。
「俺の担ぐ米だって、食われたら無くなりますよ」
私は返す言葉を持たなかった。
今にして思えば、あのとき私は、初めて自分の仕事を弁護されたのだった。
※
保坂さんは、頼んでもいないものを、毎回ひとつ荷に入れてきた。
十二月にはみかんが六つ。
正月には鏡餅が二つ。
二月には、なぜか生きた鶏が一羽入っていた。
籠ごと土間に置かれ、三時の観測のあいだじゅう鳴いていた。
「保坂さん。これは何ですか」
「卵です」
「鶏ですよ」
「置いておけば卵になります」
芦名さんが土間で腹を抱えて笑ったのを、私はあのとき初めて見た。
鶏は結局ひとつも産まないまま、春に麓へ返された。
それでも、あの冬の測候所には鶏の声があった。
三時間おきの数字しかない場所に、数字にならないものが、ひとつだけあった。
※
三年目の冬に、戸井田さんが山を降りた。
もうひとりの観測員だった人だ。
十二月の半ばに胸を悪くして、麓の診療所へ運ばれた。
交代は年明けまで来ないと、無線で言われた。
つまり二十日のあいだ、私ひとりで八回の定時観測を回すことになった。
零時に起きて露場へ出る。
戻って三十分眠る。
三時に起きて露場へ出る。
四日目には、自分が何時に何を読んだのか、野帳を見ないと思い出せなくなった。
七日目には、露場の柵に額をつけて眠っていて、風速計の音で目が覚めた。
十日目には、湯を沸かしていることを忘れて、薬缶を三つ焦がした。
そういう冬だった。
その冬、保坂さんは三日に一度、上がってきた。
契約は、週に一度である。
「保坂さん。荷は先週ので足りてます」
土間に立ったあの人にそう言うと、帽子の雪を払いながら答えた。
「そうですか」
「そうですかって、あなた。往復十六時間ですよ」
「はあ」
「休んでください。私は大丈夫ですから」
そのとき、保坂さんは初めて、少しだけ笑った。
「宮下さん。俺、今が一番楽しいんですよ」
痩せていた。
寝不足の私の目にも分かるほど、頬の肉が落ちていた。
なのにあの人は、楽しい、と言った。
私はそれを、山が好きな男の意地だと思った。
思って、そこで止めた。
止めてしまった。
一度だけ、声を荒らげたこともある。
一月の終わり、零時の観測から戻った直後に戸を叩かれた日だ。
「もう来ないでくださいって、言ってるでしょう」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
保坂さんは戸口で雪を落とす手を止めて、はい、と言った。
それだけ言って、湯も飲まずに降りていった。
三日後、あの人はまた戸を叩いた。
私は、謝らなかった。
※
その冬、私は一度だけ、妙なものを見ている。
一月の、風のない朝だった。
保坂さんが戸口の前で背負子を下ろした。
雪は前の晩に降ったばかりで、まだ柔らかかった。
背負子を雪の上に下ろしても、へこみができなかった。
私はそれを見て、何も思わなかった。
眠っていなかったからだと言えば、言い訳になる。
ただ、覚えてはいた。
覚えていて、四十年、それが何なのか考えなかった。
※
保坂さんが最後に上がってきたのは、昭和五十年の三月十日だった。
雪はまだ深く、風だけが少し春の匂いをしていた。
その日、あの人は炭を五貫背負ってきた。
土間で油紙を開き、いつものように確かめてくださいと言った。
「保坂さん。この冬は、世話になりました」
私が言うと、帽子を取って、少しだけ頭を下げた。
「来年の冬も、来ますから」
それが、私の聞いた最後の言葉になった。
三日後、あの人は志戸内の診療所に運ばれた。
胸を悪くしていたことを、誰も知らなかった。
そのまま、保坂さんは戻らぬ人となった。
三十四だった。
葬儀は志戸内の寺で行われた。
杣田運送からは、誰も来なかった。
事務の女の人が香典だけ持ってきて、玄関で帰っていった。
雨の日で、寺の軒から落ちる水の音だけが、ずっと聞こえていた。
私は、あの会社を長く憎んだ。
人ひとりを冬じゅう歩かせて、痩せさせて、それでいて玄関で帰る。
けれど、憎むことのほかに、私は何もしなかった。
訴えるでもなく、問うでもなく、翌週もまた零時の露場へ出た。
風速計の音は、前の週とまったく同じだった。
それが、いちばん堪えた。
※
藤倉岳の測候所が無人になったのは、平成十四年のことだ。
観測は自動になり、人の要らない山になった。
建物はしばらく残り、書類だけが麓の合同庁舎へ下ろされた。
平成二十六年の秋、私はその整理を頼まれた。
六十四になっていた。
段ボールを開けて、野帳の束を年ごとに並べる、それだけの仕事だった。
三日目に、測候所のものではない帳面が一冊、混じっているのを見つけた。
表紙に、杣田運送 運搬台帳、とあった。
なぜそれが役所の書類に紛れていたのかは、今も分からない。
昭和四十九年十二月から、五十年三月までの綴りだった。
日付、荷主、品名、貫目、運賃。
五本の縦線を引いただけの、粗末な帳面である。
私は自分の名前を探すつもりで、指で行をたどった。
十二月十二日、米二斗、灯油二缶。
十二月十九日、味噌、乾電池、みかん。
そして、その次の行から、指が止まった。
十二月二十二日。
品名の欄には、二十一回とも同じ二文字が書いてあった。
空身、と。
貫目はゼロ。
運賃も、ゼロ。
日付は、三日おきに並んでいた。
十二月二十二日、二十五日、二十八日、三十一日。
一月三日、六日、九日、十二日。
そのすべてに、線の太い、右上がりの、真ん中の一画が長すぎる字で、空身と書いてあった。
私は帳面を閉じて、しばらく庁舎の窓の外を見ていた。
雪は、まだ来ていなかった。
背負子が雪にへこみを作らなかった理由が、そこでやっと分かった。
あの人は、何も担いでいなかったのだ。
荷を担がなければ、運賃は出ない。
一銭にもならない道を、往復十六時間かけて、三日ごとに歩いていた。
なぜかは、帳面のどこにも書いていない。
けれど、私は知っている。
跡は、三日で消える。
一人になった山で、もし何かが起きたとき、誰かが上がってこられるように。
そのためだけに、あの人は雪を踏み直しに来ていた。
私が「休んでください」と言った、あの日も。
私が「一番楽しい」を意地だと思って笑った、あの日も。
「もう来ないでください」と、低い声を出した、あの日も。
そのあと、あの人はまた八時間かけて、空の背負子で山を下りている。
※
台帳を見た日から、しばらく私は眠れなかった。
眠れないというより、目を閉じると露場の柵が見えた。
額をつけて眠っていた、あの柵だ。
もし、あの二十日のあいだに私が動けなくなっていたら、と考えた。
無線は三時間ごとに途切れる。
途切れたと分かってから、麓が人を出す。
出しても、道が消えていれば上がれない。
上がれるとしたら、三日以内に誰かが踏んだ跡が残っているときだけだ。
あの人は、それを知っていた。
八年、営林署の山にいた人だ。
山で人が一人戻らなくなったとき、何が足りなかったのかも、知っていた。
そして、そのことを一度も口にしなかった。
「俺、今が一番楽しいんですよ」
あれは、精一杯の強がりだったのだと、私はずっと思ってきた。
けれど、四十年たって帳面を見た今は、少し違う気がしている。
あれは強がりではなく、たぶん、本当だったのだ。
誰かの道を消さないために歩く。
八年前に選べなかったものを、あの冬、あの人は自分の手で選び直していた。
だから、楽しかった。
私はそれを、意地だと思って笑った。
笑って、止めなかった。
止めなかったことを、私は今も悔いている。
けれど、あの人が三日ごとに歩いた道を、無駄だったとは、もう思わない。
勘定ができない男だと、あのとき土間で笑った。
勘定ができていなかったのは、私のほうだった。
※
私は今、七十六になる。
志戸内の、駅から遠いほうの町に住んでいる。
山にはもう登らない。
膝が言うことをきかないし、測候所の建物も、五年前に取り壊された。
私は四十を過ぎてから所帯を持った。
子も育てた。
娘は今、麓の学校で理科を教えている。
出世はしなかった。
本庁には、とうとう一度も戻らなかった。
それでも、私の野帳には、欠測の日が一日も無い。
藤倉岳にいた十九年ぶん、一度も抜けていない。
自慢できることは、それだけだ。
ただ、三日に一度、家を出て歩く道がある。
町外れの、川沿いの、誰も通らない農道だ。
冬になれば雪が積もり、除雪車も入らない。
その先に、ひとりで暮らしている男がいる。
保坂さんの甥にあたる人で、今年で六十になる。
親しいわけではない。
年に二度も口をきかない。
私はただ、三日に一度その道を歩いて、家の前で引き返してくる。
雪の上に、私の靴の跡が残る。
それだけのことだ。
芦名さんの言葉を、私はこの歳になってようやく分かった。
天気図は、誰も読み返さない。
けれど、抜けた日だけは、五十年経っても分かる。
抜けなかった日のことは、誰にも分からないままだ。
分からないままで、いい。
跡は、三日で消える。
だから、三日に一度でいい。