兄はコンビニの氷を買って帰った

夕暮れの家路と灯る窓

「今日は三袋な」

兄は毎晩そう言って、白い袋を提げて帰ってきた。

中身は氷だ。

スーパーではなく、コンビニで売っている四角い袋の氷。

うちの冷蔵庫には製氷機がついている。

壊れてもいない。

それでも兄は、夏のあいだ毎日、コンビニの氷を買って帰った。

私はそれを、十年近く、ただの無駄遣いだと思っていた。

兄の亮太は31歳になる。

米子の設備屋で、エアコンや給湯器の取り付けをしている。

夏は朝の6時に出て、帰りは9時を回る。

首の後ろがいつも日に焼けて、皮が剥けていた。

私は市内の総合病院の医事課にいる。

受付で保険証を受け取り、会計の伝票を打つ。

一日に何百枚も名前を見る仕事だ。

母はスーパーの惣菜売り場に出ている。

三人で、母方の祖母が遺した古い家に住んでいた。

父が家を出たのは、私が中学2年の秋だった。

知り合いの保証人になって、その相手がいなくなった。

車も、家の裏の畑も、知らないうちに人手に渡った。

母は何も言わずに働きに出た。

兄は高校を2年でやめて、今の設備屋に入った。

私は、父の顔を思い出さない練習をして大人になった。

だから兄が氷を買って帰るたび、私は嫌な言い方をした。

「製氷機、あるのに」

台所の流しに氷の袋を置きながら、兄は笑うだけだった。

「コンビニのは、溶けにくいだけん」

そんなわけがない、と私は思っていた。

氷は氷だ。

兄は昔から、そういうところがあった。

理屈の合わないことを、真顔で言う。

中学生の私に「炭酸は縦に振ったら抜けん」と教えたのも兄だ。

母がそれを聞いて、台所で吹き出していた。

あの家には、まだ笑う体力が残っていた。

その夏、氷の袋の音は、うちの夜の音だった。

玄関が開いて、床に置かれる、ざらっという音。

母はその音で、兄が帰ったのを知った。

私はその音で、また買ってきた、と思った。

コンビニの氷は、一袋で200円くらいする。

毎日買えば、ひと月で6,000円になる。

私はそれを計算したことがある。

計算して、言わなかった。

言えば喧嘩になるとわかっていたからではない。

言っても、兄は笑ってやめないとわかっていたからだ。

その夏は、記録的に暑かった。

病院の待合の自動ドアが開くたび、外の熱が足元まで入ってきた。

兄の会社は繁忙期で、盆も交代で出ていた。

帰ってきた兄の作業着は、塩を吹いて白くなっていた。

それでも兄は、まっすぐ台所には来なかった。

軽ワゴンのドアを開けたまま、荷台で何かを積み替えている。

その音が、毎晩10分ほど続いた。

「何しとるの」

一度だけ聞いたことがある。

「片づけ」

それだけだった。

軽ワゴンの助手席

兄の軽ワゴンには、助手席に人を乗せられなかった。

工具と、ダクトの端材と、丸めた養生シート。

その上に、いつも青い保冷バッグが置いてあった。

飲み物用にしては大きい。

弁当を入れるにしては、形が合わない。

私が助手席に触ると、兄はさりげなく荷物を寄せた。

「汚れるけん」

そう言って、私を後ろに座らせた。

その夏、家の冷凍庫からは保冷剤が減っていた。

母が買ってくるアイスの箱についてくる、あの白いやつだ。

うちは昔から、それを捨てずに溜める家だった。

子どもの頃、私はそこに油性ペンで落書きをした。

うさぎの顔を描いて、耳を長くしすぎて、母に叱られた。

その落書きの保冷剤も、いつのまにか見当たらなくなっていた。

代わりに兄の弁当箱には、濡らしたタオルが巻いてあった。

朝、母が「保冷剤どこやったの」と聞いた。

「知らん」

兄はそう言って、タオルを絞った。

私は洗面所でその音を聞いていた。

面倒な人だな、とだけ思った。

それから、三袋の日があった。

兄が「今日は三袋な」と言うのは、決まって火曜と金曜だった。

ほかの日は一袋。

理由を聞いたことはある。

「そういう日だけん」

答えになっていない。

母は笑って、麦茶を注いでいた。

「あんたら、どっちも変だわ」

その言い方が母らしくて、私も笑った。

うちは、父のことを話さないぶん、よく笑う家だった。

思い返すと、兄の夜は毎日おなじ形をしていた。

6時に出て、9時すぎに軽ワゴンが停まる。

エンジンを切ってから、玄関が開くまでが10分。

その10分のあいだに、氷の袋の数が減っていた。

一袋買ってきた日は、台所に置かれるのが半分。

三袋の日は、台所には一袋しか来ない。

私は数えていたわけではない。

ただ、麦茶を作るときに足りないことがあった。

「氷、買ってきたんじゃないの」

「溶けたわ」

兄は真顔でそう言った。

8月の米子で、10分で溶ける氷はない。

それでも私は、そこで止めた。

兄に嘘をつかれるのは、慣れていた。

高校をやめた日も、兄は「勉強が向いとらん」と言った。

母が働きに出た理由も、兄は「気分転換だわ」と言った。

兄の嘘は、いつも誰かを守るための形をしていた。

だから私は、聞かないことで返事をしていたのだと思う。

兄は、家では父の話を一度もしなかった。

母もしなかった。

うちでは、父は天気の話より遠い場所にあった。

一度だけ、母がお盆に仏壇の前で言ったことがある。

「あの人、ご飯食べとるんかね」

兄は何も答えなかった。

台所で、麦茶の氷を割る音だけがした。

私は、母がその話をしたことに腹を立てていた。

今から思えば、兄はそのとき、答えを持っていた。

持っていて、黙っていた。

窓口に立った人

その人が窓口に立ったのは、8月の終わりの水曜だった。

受付の順番票は128番。

私は名前を呼んだ。

「三隅さん」

返事をして立ち上がったのは、痩せた男の人だった。

髪はほとんど白かった。

作業着の胸に、清掃会社のロゴが入っていた。

顔を上げた瞬間、私は自分の声が遠くなるのがわかった。

父だった。

十二年ぶりだった。

父は私を見た。

一瞬だけ、目が止まった。

でも、何も言わなかった。

「保険証、お預かりします」

私は自分の口からそう出たのが信じられなかった。

父は財布から保険証を出した。

指が黒くて、爪が短かった。

「今日は初診ですか」

「はい」

「症状は」

「腰が」

それだけのやりとりだった。

私は伝票を打ち、番号を読み上げた。

父は頭を下げて、待合の椅子に座った。

背中が丸かった。

昔はもっと、大きい人だと思っていた。

会計のとき、父は小銭を数えて出した。

十円玉が足りなくて、もう一度数え直した。

後ろに人が並んでいた。

私は「ゆっくりで大丈夫です」と言った。

自分でもわからないくらい、事務的な声だった。

父は「すみません」と言った。

他人に言う言い方だった。

父が出ていったあと、隣の席の子が言った。

「今の人、三隅さんと同じ名字ですね」

「多いですよ、この辺」

私はそう答えた。

その日の残りを、どうやって働いたのか覚えていない。

帰って、母にも兄にも言わなかった。

言えば、何かが崩れる気がした。

崩れたのは、その週の金曜だった。

その日、私はカルテの住所の欄を見なかった。

番号を打つときも、指で隠していた。

見たら、行かないといけなくなる気がした。

夜、家に帰ると、兄が台所で麦茶を沸かしていた。

薬缶から湯気が上がっていた。

「ただいま」

「おかえり」

それだけで、私は自分の部屋に上がった。

布団の上で、父の指を思い出していた。

爪が短くて、指の節が太くなっていた。

昔、父の指は、私の自転車のチェーンを直す指だった。

黒くなった手を、洗面所で長いこと洗っていた。

その洗面所の鏡の高さが、今も私の目の高さに合っていない。

父はそこに立って髭を剃っていた。

そういうことばかり、いくつも出てきた。

私は十二年、そのどれも思い出さないようにしてきた。

思い出さない練習は、思い出す練習の裏返しだった。

翌日も、私は普通に働いた。

順番票の番号を読み上げ、保険証を返した。

何百人ぶんの名前を見て、その中に父はいなかった。

いないことに、少しほっとしている自分がいた。

そのことが、いちばん嫌だった。

コンビニの氷が三袋

金曜の午後、母から職場に電話があった。

兄が現場で倒れた、と言う。

6階建てのビルの屋上で、室外機を据えている最中だったらしい。

熱中症だった。

運ばれたのは、私が働いている病院だった。

処置室のカーテンを開けると、兄が点滴の管をつけて寝ていた。

顔が赤くて、唇だけが白かった。

「大げさだわ」

目を開けた兄が、そう言った。

「点滴打っとる人が言う台詞じゃないが」

母がそう言って、兄の腕を軽く叩いた。

兄は笑おうとして、うまく笑えていなかった。

一晩入院することになった。

会社の人が兄の軽ワゴンの鍵を持ってきて、私に渡した。

「明日の朝までに、道具だけ会社に戻してもらえたら」

私は駐車場でその鍵を握っていた。

運転席に座ると、兄の匂いがした。

汗と、シリコンと、日焼け止めの匂い。

兄の軽ワゴンは、ワイパーのゴムが新しかった。

灰皿には、レシートが折って入れてあった。

コンビニの氷のレシートだった。

日付を見ると、先週の火曜だった。

助手席には、あの青い保冷バッグがあった。

ファスナーを開けた。

中には保冷剤が十枚ほど、きれいに並べて入っていた。

一枚だけ、白い面に薄く絵が残っていた。

耳の長すぎるうさぎだった。

指が止まった。

後部座席には、コンビニの氷が三袋。

まだ半分以上、形が残っていた。

ダッシュボードに、名刺の裏を使ったメモが挟んであった。

「弥生町 コーポ紅屋 103」

その下に、小さい字で曜日が書いてあった。

火と、金に、丸がついていた。

今日は金曜だった。

氷は、三袋あった。

私は病室に戻らなかった。

戻ったら、兄に聞いてしまう。

聞けば、兄はまた嘘をつく。

そのほうが、兄には都合がいいのだと思った。

軽ワゴンを出したのは、夕方の6時前だった。

弥生町は、駅の南の古い住宅地だ。

車一台がやっとの道が、川沿いに曲がって続いている。

コーポ紅屋は、その突き当たりにあった。

外壁の塗装が浮いて、雨の跡が黒い筋になっていた。

外階段は鉄で、上るたびに乾いた音が鳴った。

103は一階の一番奥だった。

表札はなかった。

代わりに、ガムテープに黒いペンで名字が書いてあった。

三隅。

私の名字だった。

私は氷の袋を提げたまま、その前に立っていた。

チャイムを押す指が、なかなか動かなかった。

押したら、十二年が終わってしまう気がした。

押さなかったら、十二年が続くだけだ。

そう思った瞬間に、指が動いていた。

中で、椅子を引く音がした。

103号室の冷蔵庫

ドアが開いて、父が出てきた。

病院で見たのと同じ作業着だった。

父は私を見て、それから氷の袋を見た。

「亮太は」

最初に出てきたのは、その一言だった。

「熱中症で、病院に」

「そうか」

父はそう言って、少し黙った。

「大したことは」

「ないです。明日には出られます」

父はうなずいて、ドアをもう少し開けた。

「暑いけん、入って」

部屋は六畳と、小さい台所だった。

エアコンはなかった。

窓際に扇風機が首を振っていた。

その前に、洗面器がひとつ置いてあった。

水が張ってあって、底に溶けかけの氷が沈んでいた。

父はそこに、私が持ってきた袋から氷を足した。

音が、部屋の中でやけに大きく聞こえた。

「これが、いちばん涼しいだわ」

父はそう言って笑った。

冷蔵庫は、私が子どものころ家にあったのと同じ型だった。

父が扉を開けると、中はほとんど空だった。

冷凍室の扉が、閉まりきっていなかった。

霜が分厚く張って、製氷皿が奥で凍りついていた。

「これが、もう氷にならんくてな」

父はそう言った。

コンビニのは溶けにくいだけん、と兄は言っていた。

そうではなかった。

あの部屋の冷蔵庫は、氷ができんかった。

それだけのことだった。

冷凍室の手前に、白い保冷剤が並べて入れてあった。

うさぎの耳が、こちらを向いていた。

父がそれを一枚取って、タオルに巻いた。

「これ、首に当てとくと、ちがうだわ」

差し出された手を、私は受け取れなかった。

父は私に座布団を出した。

色の抜けた、薄いやつだった。

自分は台所の床に、そのまま座った。

「仕事は」

「病院で、受付を」

「そうか」

父は水曜のことを、何も言わなかった。

私も言わなかった。

壁に、清掃会社のシフト表が画鋲で留めてあった。

月曜から金曜の欄に、時間が書き込んである。

火曜と金曜だけ、夜の10時から朝の6時までになっていた。

「夜勤の日は」

私は聞いた。

「昼に寝るだわ」

父はそう言って、天井を指した。

「ここは二階の熱が落ちてくるけん、昼がいちばん暑い」

洗面器の氷は、昼のあいだに溶けきるのだと父は言った。

だから、その日は多めに要る。

火曜と金曜。

三袋の日。

私は、氷の袋の数の意味を、そこで知った。

兄は十年、そういう計算をしていた。

私は十年、その計算を無駄遣いと呼んでいた。

父は、私の仕事のことも、母のことも聞かなかった。

聞く権利がないと思っているのが、座り方でわかった。

背中を丸めて、膝の上で手を組んでいた。

その手の甲に、湿布の跡が四角く残っていた。

「腰は」

私が聞くと、父は少し驚いた顔をした。

「もう、ええだわ」

嘘だと思った。

父も、兄とおなじ嘘のつき方をした。

薬缶がふたつ

台所のガス台に、薬缶がふたつ並んでいた。

ひとつは、底の黒くなった古いやつ。

もうひとつは、まだ青い色が残っている新しいほうだった。

父は新しいほうを持ち上げて、コップに麦茶を注いだ。

氷を三つ入れて、私の前に置いた。

「これ、亮太のだわ」

父はそう言った。

私は意味がわからなかった。

「亮太が来る日は、こっちを沸かす」

「……二本、要ります?」

「要らん」

父は自分の古いほうから、自分のぶんを注いだ。

「こっちが、わしの」

そして、青いほうを指した。

「これは、実咲が来たときの」

名前を呼ばれたのは、十二年ぶりだった。

私は、コップを持ったまま動けなかった。

「いつ来ても出せるように、沸かしとくだわ」

「でも、私は」

「来んかった」

父は、怒っていない声でそう言った。

「だけん、亮太が飲んどった」

父は湯呑みを両手で持った。

「減っとらんかったら、わしが捨てるけん」

「捨てたら、次から沸かさんようになるけん、って」

「あの子が、そう言った」

私は、コップの中の氷が鳴る音を聞いていた。

麦茶は、少し薄かった。

何度も沸かし直した味だった。

私はそれを、全部飲んだ。

父は何も言わずに、洗面器の氷を箸の先で回していた。

帰るとき、父は玄関まで出てこなかった。

台所に座ったまま、「気をつけて」とだけ言った。

外は、まだ明るかった。

翌朝、私は病室に行った。

兄は点滴を外して、ベッドに座って麦茶のパックを飲んでいた。

「行ってきた」

私がそう言うと、兄は動きを止めた。

パックを膝の上に置いて、しばらく窓の外を見ていた。

「なんで言わんかったの」

「言うたら、行かないかんようになるがん」

私が水曜に、住所の欄を指で隠したのと、同じ理由だった。

兄は私をよく知っていた。

「お兄ちゃんは、許しとるの」

私は聞いた。

兄は、首を横に振った。

「許しとらんよ」

はっきりした声だった。

「一回も許しとらん」

「ほんなら、なんで」

兄は麦茶のパックをつぶした。

「お前がいつか行く気になった日に、あの部屋が無かったら困るけん」

それだけだった。

兄がしていたのは、父を助けることではなかった。

私が行く日のために、行き先を残しておくことだった。

氷も、保冷剤も、そのためだった。

「麦茶、飲んだか」

「飲んだ」

「そうか」

兄は天井を見た。

「ほんなら、当番はおしまいだわ」

兄は、私のぶんの麦茶を、十年ぶん飲んどった。

9月の終わりの火曜に、私は一人で弥生町へ行った。

まだ暑い日だった。

途中のコンビニで、氷を三袋買った。

レジの人が「保冷剤いりますか」と聞いた。

私は「大丈夫です」と答えた。

うちには、耳の長すぎるうさぎがいる。

川沿いの道を歩いて、突き当たりで曲がった。

私は白い袋を三つ提げて、外階段を上がった。

ガムテープの表札の前で、今度はすぐにチャイムを押した。

中で、椅子を引く音がした。

父がドアを開けて、氷の袋を見た。

それから、ガス台のほうを振り返った。

青い薬缶が、火にかかっていた。

「ふたつとも、要るようになったな」

父はそう言った。

私は靴を脱いで、座布団に座った。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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