
その箱だけは、持ち上げても段ボールの重さがしなかった。
側面には、油性ペンの太い字で「最後に開ける箱」と書いてあった。
ほかの箱には、台所、和室、本、と部屋の名前が並んでいる。
この箱だけが、中身の名前を持っていなかった。
引越しの現場では、段ボールの重さは、そのまま持ち主の暮らしの重さだ。
僕はそう思って、この仕事を続けてきた。
九月の終わり、残暑の厳しい朝だった。
僕は引越しセンターの作業員で、その日は団地の四階から荷物を下ろす仕事だった。
行き先は、同じ市内の高齢者向け住宅だ。
エレベーターのない棟で、階段の踊り場には、色あせた防犯ポスターが貼られたままになっていた。
依頼人は、小野寺ふみさん。
高齢のひとり暮らしと聞いていたが、玄関で僕らを迎えた背筋は、まっすぐだった。
「荷物は少ないんですよ。お手間は取らせません」
その言葉どおり、箱の数は少なかった。
先輩の田所さんが、手際よく廊下に養生テープを貼っていく。
テープを引く、乾いた音が団地の廊下に響いた。
僕は箱を抱えては、階段のほうへ並べていった。
最後に、あの軽い箱へ手を伸ばした。
「それは、私が持っています」
ふみさんは、玄関に置いたパイプ椅子に腰かけ、箱を膝に載せた。
「重くないですか。僕が持ちますよ」
「軽いでしょう。ほとんど何も入っていないの。」
「それなら、なおさら僕が運びます」
「下に着くまで、ここで抱えさせてください」
声は静かだった。けれど、引く気配はなかった。
田所さんが、僕の背中を肘で突いた。
「客の言うとおりにしろ。時間は、俺が詰める」
午後には、次の現場が待っている。
僕は、時計の針ばかり気にしていた。
ふみさんは、そんな僕の顔をちらりと見て、箱の上で両手を組んだ。
二列の鉛筆の線
先に、台所を片づけた。
流しの下の戸棚には、使い込まれた鍋が二つ、きちんと重ねてあった。
取っ手の黒い樹脂が、手の形に少しだけ削れている。
長く使われた道具は、持ち主の手の大きさを覚えているものだ。
僕はそれを新聞紙で包み、箱に収めた。ふみさんは、玄関から目だけでその手元を追っていた。
和室から、荷物を出す番になった。
座卓と、小さな箪笥と、折りたたまれた座布団が三枚。
畳の匂いが、閉め切った部屋の熱に混じって立ちのぼっていた。
網戸の外で、蝉が一匹、まだ鳴いている。
和室の入口の柱には、鉛筆の線が二列に並んでいた。
線のそばには、日付と名前が、小さな字で書き込まれている。
左の列には「ひさし」の名前が続き、線は下から上へ、少しずつ高くなっていた。
右の列は、きっと弟か妹の分だろうと、僕は思った。
柱は、運べない。
当たり前のことなのに、僕は妙に落ち着かなかった。
「柱は、持っていけないんですよね」
気がつくと、玄関に向かって声をかけていた。
「そうなの。持っていけないの」
ふみさんは、少し笑った。
「写真を撮りましょうか。僕のスマホでよければ」
「いいえ」
短い返事だった。
「写真にしたら、軽くなってしまうから」
その意味は、そのときの僕には分からなかった。
箪笥は、田所さんと二人で、横にして運ぶ。
柱の角には、毛布を厚く巻いた。
こすらないように、息を詰めて、一歩ずつ通した。
毛布の端が柱に触れるたび、玄関のほうで、ふみさんが身じろぎをする気配がした。
「あの婆さん、息子は来てねえのか」
階段を下りながら、田所さんが小声で言った。
「仕事だそうです。段取りは、全部メールでした」
「見積もりの電話も、一本もなかったな」
「忙しいんでしょう」
そう答えながら、僕は少し苛立っていた。
自分の母親の引っ越しに、顔も出さない人がいる。
荷物を運ぶだけの僕が、腹を立てる筋合いではないのに。
すべて下ろし終わると、ふみさんは箱を座面にそっと置き直して、台所から盆を持ってきた。
置くときも、両手だった。
麦茶の入ったコップが、三つ。
「冷蔵庫に、これだけ残してあったの。飲んでいってください」
氷が、からん、と鳴った。
僕と田所さんは、立ったまま一息に飲んだ。
冷たさが喉を下りていくあいだ、ふみさんは自分のコップに口をつけず、柱のほうを見ていた。
「息子さんは、遠くなんですか」
田所さんが、遠慮なく聞いた。
「名古屋です。十八の春に出て行って、それきり。盆と正月に、電話が来るくらい」
「たまには顔を見せろって、言ってやらないと」
「言わないの」
ふみさんは、コップを盆に戻した。
「言ったら、あの子は来てしまうから」
田所さんは、返事をしなかった。
助手席のシートベルト
トラックの運転席に田所さん、真ん中に僕、窓側にふみさん。
ふみさんは、乗り込むとすぐ、箱を膝に載せた。
「足元に置いてもいいですよ」
「落ちたら、困るでしょう」
ふみさんはシートベルトを引き出し、箱ごと自分の体に巻いた。
カチリ、と留め金の鳴る音がした。
田所さんが、バックミラー越しに僕を見て、肩をすくめた。
団地の敷地を出ると、道は緩い下り坂になる。
街路樹の影が、フロントガラスの上を流れた。
「この坂を、毎朝、歩いたの」
ふみさんが言った。
「息子の小学校の送り迎えで。ランドセルが、あの子の背中より大きくてね」
「かわいかったでしょうね」
「ええ。それから急に、私を追い越したの。気がついたら、見上げていた」
窓の外を、小さな文房具店が過ぎていった。
「あそこで、鉛筆を買ったのよ」
「柱の線を引く、ですか」
「毎年、あの子の誕生日に」
ふみさんは、箱の上の両手を、ゆっくり組み直した。
「あなたは、ご実家に帰っているの」
急に聞かれて、僕はフロントガラスを見たまま答えた。
「正月くらいです」
「お母さんは、お元気?」
「元気だと思います。多分」
「多分じゃ、だめよ」
ふみさんの声は、叱るというより、教えるような調子だった。
「声を聞かないと、背は測れないの」
言葉の意味を考えているうちに、信号が青に変わった。
僕は、聞き返しそびれた。
ミラー越しに、田所さんの目が、一度だけこちらを向いた。
何も言わずに、すぐ前へ戻った。
高齢者向け住宅は、街路樹に囲まれた白い三階建てで、ふみさんの部屋は一階の角だった。
窓が南向きで、午後の光が床に長い四角を作っている。
箪笥と座卓を置き、冷蔵庫の位置を決め、段ボールを壁際に積んだ。
田所さんが、床にコップを置いて、傾きを確かめる。
「畳じゃねえんだな」
「ええ。フローリングです。慣れるまで、足が冷たいかしら」
「靴下、重ねてください」
無骨な助言に、ふみさんはようやく声を出して笑った。
最後に開ける箱の約束
作業が終わり、受け取りのサインをもらう段になった。
ふみさんは、書類にボールペンを走らせたあと、椅子の上の箱を、両手で僕のほうへ押し出した。
「お願いがあります」
「はい」
「これを、あなたに預けたいの」
僕は、箱を見た。
「最後に開ける箱、ですよね」
「来週の土曜日に、あの団地の部屋へ、新しいご家族が入るそうなの。管理の方から聞きました。引越しは、お宅の会社に決まったと」
「そうなんですか」
「その日、荷物が全部入って、いちばん最後に、この箱を開けてほしいの。ご家族の目の前で」
「僕が、ですか」
「引越しの人は、最後まで残るでしょう。その家に、いちばん最後までいる人だもの」
僕は、答えに詰まった。
「その日、僕が担当とは限りません。別の班かもしれないです」
「ええ。でも、あなたが来る気がするの」
根拠のない言い方だった。
なのに、断れなかった。
受け取った箱は、やはり軽かった。
軽いのに、両腕の内側に、ずしりと何かが残った。
「中身を、見てもいいですか」
「だめ。それは、最後」
ふみさんは、はじめて、いたずらを隠す子どものような顔をした。
帰りのトラックで、田所さんが言った。
「預かっちまって、いいのか。変なもんでも入ってたら、どうする」
「手紙でも入ってるんじゃないですか」
冗談のつもりだった。
「で、来週の土曜はどうすんだ」
「入ります」
「ほかの班の現場だぞ」
「班長に頭を下げます。その代わり、日曜に出ます」
田所さんは、ハンドルを叩いて笑った。
「箱ひとつで、休みを潰す奴があるか」
「潰すんじゃなくて、仕事です」
自分で言って、少し驚いた。
営業所に戻ると、僕は箱を自分のロッカーの上に置いた。
その夜、シフト表を書き換えた。
消しゴムのカスを払う指が、なぜか、いつもより慎重だった。
来週入る家族
土曜日は、朝から晴れていた。
同じ団地の四階、同じ玄関。
ふみさんのいない部屋は、がらんとして、柱の線だけが、あの日のまま残っていた。
入居するのは、若い夫婦と、三歳の男の子だった。
男の子の名前は、蒼汰くん。
玄関に入るなり、廊下を端から端まで駆けて、母親に叱られた。
「すみません、元気で」
「いいえ。元気がいちばんです」
荷物は、前の住人よりずっと多かった。
ベビーベッド、洗濯機、段ボールの山。
田所さんと僕と、もう一人の班員で、昼過ぎまでかけて運び込んだ。
蒼汰くんは、運ばれていく箱を見つけるたび、中へ入ろうとした。
そのたびに、父親が抱き上げた。
母親は、新しい壁紙の角を、何度も確かめていた。
「ここ、傷がつかないようにお願いします」
「はい。角には養生を入れます」
僕は答えながら、和室の柱にも、念のため養生を巻いた。
鉛筆の線が、毛布の下で息をひそめているように見えた。
巻き終えたあとも、手のひらに、ざらついた木の感触が残った。
午後、すべてが部屋に収まった。
サインをもらったあと、僕はトラックから、あの箱を持ってきた。
「お預かりしているものがあります」
夫婦は、顔を見合わせた。
「前に住んでいた小野寺さんから、荷物がすべて入ったあと、お二人の前で開けてほしいと頼まれました」
「小野寺さんって、柱の線の」
父親が、和室のほうを見た。
「内見のとき、不動産屋さんが言っていたんです。あの線は、消さなくていいですよって」
僕は、箱を畳の上に置いた。
ガムテープの端に、爪をかけた。
ぺり、と音がして、蓋が開いた。
箱の底に、短くなった鉛筆が一本と、折りたたんだ紙が一枚あるだけだった。
鉛筆の芯は、きれいに削られていた。
紙を開くと、細い字が、便箋の端から端まで並んでいた。
僕は、声に出して読んだ。
新しくこの部屋に入られる方へ。
和室の入口の柱に、鉛筆の線があります。
左の列は、息子の久志の背です。三つの春から十八の春まで、毎年、誕生日に測りました。
どうか、お子さんの背も、そこに続けてください。柱は、私の引っ越し先へ持っていけないので。
右の列は、私の背です。息子を測るたび、隣で自分も測りました。
線は、年ごとに低くなっています。笑ってください。でも、消さないでください。
読み上げる声が、途中でかすれそうになって、僕は咳でごまかした。
顔を上げて、柱を見た。
左の列は、ひさしさんの背だ。一年も欠けずに、線が上へ上へと伸びている。
右の列は、年を追って低くなっていた。
右の列に並んでいたのは、弟でも妹でもなく、息子の隣で測り続けた、ふみさん自身の背だった。
奥さんが、口元を押さえた。
僕は、鉛筆を父親に差し出した。
「測ってあげてください」
蒼汰くんは、柱の前に立った。
踵を柱につけて、背筋を伸ばす。
頭の上に、父親の平たい手が載った。
鉛筆が、すっと横に走った。
蒼汰くんの線は、ひさしさんの最初の線と、ほとんど同じ高さにあった。
父親は、その横に、ゆっくり「そうた」と書いた。
帰りのトラックで、田所さんは何も聞かなかった。
空になった箱を、僕は膝に載せた。
持ち上げても、やはり段ボールの重さはしなかった。
けれど、腕に残るものは、来たときより、ずっと重かった。
ポケットのスマホが、やけに熱い。
今夜、実家に電話をかけよう。
空になった最後に開ける箱にも、僕はシートベルトを掛けた。