
毎月第一木曜の午後三時、浜田さんは改札の脇の窓口に立つ。
作業着の袖口には、いつも薄く白い粉がついている。
「白いテープの傘を、忘れました」
遺失物の届出書を差し出して、浜田さんは毎回、同じ言い方で切り出す。
私がこの駅の遺失物取扱所に配属されたのは、三月のことだった。
二十七歳。窓口に立つのは初めてで、まず覚えたのは、傘の種類の聞き分けだった。
黒い折りたたみ傘だけで、一日に十本は預かる。
その中で、浜田さんの傘だけは、一度も窓口に現れたことがない。
届出書の特徴欄は、毎回、同じ文字で埋まっていた。
黒の長傘。持ち手に白いテープ。親骨が一本、少し曲がっている。
ボールペンの字は小さく、角ばっていて、四月も五月も六月も、一画も崩れなかった。
「今月も、見つかりませんでした」
私が頭を下げると、浜田さんは決まって、ほんの少し笑う。
「そうですか。ありがとうございます。また来月、お願いします」
それだけを言って、帰っていく。
怒らない。粘らない。探してくれとも言わない。
傘一本のために、毎月、仕事を抜けてくる人にしては、あまりに静かだった。
七月の第一木曜は、朝から雨だった。
窓口の庇を叩く雨粒の音が、改札の電子音に混ざって、聞き取りにくいほどだった。
浜田さんは、濡れた作業着の肩を、手のひらで二度払って現れた。
傘は、さしていなかった。
「お持ちの傘は、ありますか」
思わず聞くと、浜田さんは首を振った。
「雨の日は、持たないことにしているんです。また忘れますから」
冗談のような言い方なのに、顔は少しも笑っていなかった。
私はタオルを一枚、引き出しから出して差し出した。
受け取った指は、白い粉でざらついていて、石膏のような乾いた匂いがした。
町工場で、陶器の型を作っているのだと、あとで吉岡さんに教わった。
その日、浜田さんは届出書を書き終えるまで、窓口の脇に置いた小さな丸椅子に、一度も座らなかった。
白いテープの傘の特徴欄
前任の三宅さんは、この春で定年を迎え、再雇用の期間も終えて窓口を去った。
三宅さんが残していった引き継ぎノートは、角の丸くなった大学ノートだった。
開くと、鉛筆の匂いと、保管庫の湿った紙の匂いが、同時に立ちのぼった。
遺失物の受付手順、警察への引き渡しの期限、傘の札の付け方。
どれも几帳面な字で、余白に小さな図まで描いてある。
その中に、一行だけ、手順のどれにも当てはまらない項目があった。
「第一木曜の浜田さんの届出は、必ず受理する。特徴欄は、こちらから補わない」
「補わないって、どういうことですか」
先月、研修で隣に立っていた先輩の吉岡さんに、私は聞いた。
「さあ。三宅さんは、昔から浜田さんにだけは、そうだったよ」
吉岡さんは、肩をすくめて棚の整理に戻った。
八月には、窓口に紙袋が置かれていた。
中身は、まだ青い小ぶりな梨が三つだった。
「三宅さんに」と、浜田さんは言った。
「三宅さんは、もう、おられないんです」
私が告げると、浜田さんは、ほんの一拍、黙った。
「そうでしたね。じゃあ、窓口のみなさんで」
紙袋の底には、梨と同じ重さの、長い年月が沈んでいるように思えた。
私は梨をひとつ、事務室の流しで洗って、吉岡さんと半分に分けた。
皮のすぐ内側の、冷たい甘さが、舌の奥に残った。
その夜、私は届出書の綴りを、保管庫の棚から引っぱり出した。
浜田さんの分だけで、背表紙の太い綴りが、三冊もあった。
最初の一枚の日付は、二十五年前の十一月になっている。
月に一枚。間が抜けた月はない。
特徴欄の文字は、二十五年前から一字も変わっていなかった。
黒の長傘。持ち手に白いテープ。親骨が一本、少し曲がっている。
同じ人が、二十五年、同じ傘を、同じ言葉で探し続けている。
そんなことが、あるのだろうか。
私は綴りを閉じて、しばらく、保管庫の蛍光灯の唸りを聞いていた。
翌朝、出勤してきた吉岡さんに、綴りの話をしてみた。
「ああ、それ。あの人、雨の日も雪の日も、第一木曜だけは来たよ」
「台風の日もですか」
「台風の日は、窓口が閉まるから、翌日に来た。それで、日付は書き換えない。必ず木曜の日付で出すんだ」
「律儀ですね」
「律儀っていうか」吉岡さんは言葉を探して、棚のほこりを指で拭った。
「約束みたいなもんじゃないの。誰と交わしたのかは、知らないけど」
その言い方が、妙に耳の奥に残った。
青い傘立ての一番奥
保管庫の奥には、青いプラスチックの傘立てがひとつ、壁に寄せて置いてある。
引き継ぎの初日、三宅さんは、そこだけは指さしで済ませた。
「あの青い傘立ての一番奥は、触らなくていい」
理由は、聞いても教えてもらえなかった。
三か月が過ぎた十月の終わり、棚卸しの日が来た。
預かり期限を過ぎた傘を、警察へ送る日だ。
吉岡さんが休みで、私ひとりで保管庫に入った。
傘は百二十本あまり。札を確かめて、一本ずつ束ねていく。
青い傘立てだけが、最後に残った。
触らなくていい、と言われた一番奥の一本は、札の紐が、ひどく擦り切れていた。
指先で札を返すと、預かり日の欄に、日付が、びっしりと重ね書きされている。
月に一度。二十五年ぶん。
最後の日付は、九月の第一木曜だった。
三宅さんが窓口に立った、最後の月だ。
札の裏には、日付のほかに、鉛筆で小さな丸が付けてあった。
丸の数を数えると、日付の数と、ぴたりと合った。
浜田さんが来た月には、丸。来られなかった月はなかったから、丸は途切れなかった。
二十五年ぶんの丸は、ひとつずつ、少しだけ形が違っていた。
急いで描いた丸。ためらって、閉じきれなかった丸。ゆっくり、二度なぞった丸。
札の紐は、何度も結び直されて、最後は、結び目の形で太く固まっていた。
私は、傘をそっと床に寝かせ、札の紐を、指でほどこうとして、やめた。
これは、私がほどいていいものではない気がした。
私は息をのんで、傘を、傘立てから引き抜いた。
青い傘立ての一番奥から、白いテープの巻かれた持ち手が現れた。
黒の長傘。親骨が一本、少し曲がっている。
テープは何度も巻き直されて、端が、飴色に透けていた。
見つからないはずの傘は、私の足元の保管庫に、ずっと、あった。
三宅さんの引き継ぎノート
私はノートを、もう一度、最初から読み直した。
最後のページの、さらに裏表紙の内側に、鉛筆の薄い字があった。
「傘は返さない。浜田が、来なくなるから」
私は、その場で三宅さんの携帯に電話をかけた。
呼び出し音は、六回で途切れた。
「はい、三宅です」
畑にでもいるのか、風の音がひどく入っていた。
「引き継ぎノートの、裏表紙の字を見ました」
しばらく、返事がなかった。
「そうか。あれは、消そうと思って、消せなかった」
「白いテープの傘は、保管庫にあるんですね」
「ある。二十五年、ある」
「どうして、返さなかったんですか」
風の音のむこうで、三宅さんは、息を吐いた。
「あいつ、あの傘を取りに来た日、笑ったんだよ。ありがとうって。そのとき思った。返したら、もう、この窓口で笑ってくれない」
「それは、三宅さんの都合です」
「そうだな。ずるい友達だよ、俺は」
電話を切ったあとも、私は保管庫の蛍光灯の下で、傘の持ち手を握っていた。
テープの白は、手の脂を吸って、ほとんど黄色に近かった。
「あの日、傘を預かったのは俺だ。取りに来たのは、あいつだけだった」
三宅さんと浜田さんは、高校の同級生だったらしい。
卒業のあと、浜田さんは町工場へ、三宅さんは鉄道会社へ入った。
二十五年前の十一月、浜田さんの奥さんが、家を出ていった。
その夜、浜田さんは、電車に傘を忘れた。
遺失物の窓口にいた三宅さんが、その傘を預かった。
白いテープは、浜田さんが、奥さんに初めて貸した日の目印だったという。
返せば、浜田さんは、もうこの窓口に来る理由をなくす。
一人暮らしになった浜田さんに、毎月、話をする相手は、ほかにいなかった。
だから三宅さんは、傘を青い傘立ての奥へ隠した。
見つかりませんでしたと、毎月、頭を下げ続けた。
浜田さんは、分かっていたのではないか。
私は、ノートの字を指でなぞりながら、そう思った。
怒らない人だった。粘らない人だった。
本当に探している人は、あんなふうには笑わない。
第一木曜の午後三時
十一月の第一木曜は、よく晴れていた。
朝から、私は何度も保管庫に降りた。
傘は、青い傘立ての奥から、手前の棚へ移してあった。
移したのは、私だ。見つかったことにするのか、まだ見つからないことにするのか、前の晩まで決められなかった。
吉岡さんには、何も話していない。
「顔、こわいよ」
昼過ぎ、吉岡さんが缶コーヒーを置いていった。
「いつも通りでいいんだ。いつも通りが、一番むずかしいけどさ」
缶の熱が、手のひらに、じんわり染みた。
改札の向こうでは、午後の電車が、ホームの端から端へ、ゆっくりと滑り込んでくる。
ブレーキの金属の匂いが、窓口まで、うっすらと流れてきた。
窓口の庇の下で、私は午後三時の改札を見ていた。
黒い折りたたみ傘が、また一本、落とし物の棚に増えている。
浜田さんは、時計の針と同じくらい正確に、人混みの端から現れた。
作業着の袖口に、白い粉がついていた。
「白いテープの傘を、忘れました」
いつもの言葉が、いつもの声で、窓口の仕切り板を越えてきた。
私は届出書を受け取らず、保管庫から持ってきた傘を、カウンターに置いた。
浜田さんの目が、傘の持ち手に落ちた。
白いテープの傘は、二十五年前と同じ重さで、カウンターの上に横たわっていた。
窓口の蛍光灯が、曲がった親骨の影を、細く長く、仕切り板に落としている。
浜田さんの喉が、一度だけ、動いた。
「見つかりました」
そう言うと、浜田さんは、長いあいだ、動かなかった。
「……そうですか」
「三宅さんが、二十五年、預かっていました」
「ええ。知っています」
思いがけない返事だった。
「先月、三宅が、最後に言いました。傘はずっと、ここにあるって」
浜田さんは、持ち手のテープを、人差し指で、そっと押さえた。
「取りに来なかったのは、私です。三宅が毎月、見つかりませんでしたと言う声を聞きに、来ていたんです」
「声、ですか」
「あいつの、すみませんの言い方が、昔のままで」
浜田さんは、そう言って、カウンターの木目を見つめた。
その目尻に、窓口の光が、細い線になって溜まっていた。
私は何も言えずに、傘の曲がった親骨を、見ていた。
二十五年の重さは、軽い布の傘に、案外、ちょうど収まるものらしい。
窓口の外で、改札の電子音が、ひっきりなしに鳴っている。
浜田さんは、傘を受け取らなかった。
カウンターに両手を置いて、少しだけ、頭を下げた。
「この傘は、もう少し、預かってもらえませんか」
「期限は、とっくに過ぎています」
「ですよね。でも、来月も、届出を出してもいいでしょうか」
私は、傘を両手で持ち上げた。
思ったより軽くて、乾いた布の匂いがした。
「受理します」
「ありがとう」
「ただ、特徴欄は、私も補いません」
浜田さんは、はじめて、声を出して笑った。
その日の夜、私は届出書の綴りの最後に、新しい一枚をはさんだ。
傘はとうに見つかっていて、見つからないことにしていたのは、二人のほうだった。
次の木曜も、その次の木曜も、私は、同じ言葉で、頭を下げるだろう。
毎月第一木曜の午後三時、浜田さんは改札の脇の窓口に立つ。