階段の四段目だけが沈んでいた

夕暮れの階段と猫たち

トメは、いつも階段の四段目にいた。

三段目でも、五段目でもない。

その段だけが、うちで一番くたびれていた。

理由を、俺は31になるまで知らなかった。

12年ぶりに実家へ戻ったのは、去年の秋だ。

前の勤め先は、印刷会社の営業だった。

8年いて、夏に畳んだ。

畳んだのは会社のほうで、俺のほうではない。

それでも、30を過ぎてから仕事を探すのは、思っていたより難しかった。

夜の清掃なら、経験がなくても採ってもらえた。

都内のビルを、人がいなくなってから磨いて回る仕事だ。

アパートを引き払ったのは、そのあとだ。

始発で帰るなら、群馬の家から通っても変わらない。

母には、電話で一言だけ伝えた。

「しばらく置いてくれ」

「ああ」

それで話は終わった。

母は、俺がなぜ帰ってきたのかを訊かなかった。

訊かれないほうが楽だった。

楽だと思っていることが、少し後ろめたくもあった。

玄関を開けたとき、最初に目に入ったのは母の背中ではなかった。

階段だった。

その四段目に、猫がいた。

トメだ。

16歳になる雌猫で、母が拾ってきた。

拾ってきたのは、父がこの家を出ていった年だ。

俺が19のときだった。

「トメって、変な名前だよな」

名前をつけた日に、俺はそう言った。

母は台所から顔も上げずに答えた。

「もう、これで打ち止めってことだいね」

何の打ち止めなのかは訊かなかった。

訊かなくても、わかる気がした。

トメは俺を見て、耳だけ動かした。

それきり、動かなかった。

12年ぶりに帰ってきた人間に対して、これ以上ないくらい失礼な態度だった。

俺は靴を脱いで、その段を跨いで二階へ上がった。

12年のあいだに、母から電話が来たのは一度だけだ。

父が再婚したと、それだけを伝える電話だった。

「そうか」

「うん」

「それだけ」

「それだけ」

通話時間は、あとで見たら40秒だった。

俺のほうからかけたことは、一度もない。

かけない理由を、自分でもうまく言えなかった。

追ってこなかった朝のことを、たぶんまだ持っていたのだと思う。

自分の部屋は、出ていった日のままだった。

机も、カーテンも、押し入れの襖の破れも、同じ位置にある。

母は膝が悪かった。

半年前から、二階へは上がらなくなっていた。

寝るのも食べるのも、一階の和室ですませている。

だから二階は、誰も使っていないはずだった。

それにしては、部屋の空気が乾きすぎていなかった。

俺はそのとき、その違和感を言葉にしなかった。

台所のにおいは、12年前と同じだった。

しょうゆと、炊きたての米と、少し焦げた油のにおい。

母は俺の分の茶碗を、何も言わずに出した。

ためらう手つきではなかった。

「仕事、何時から」

「終電で出る」

「じゃあ、夕方に炊くわ」

会話は、それだけだった。

テレビの音が、やけに大きく聞こえた。

トメは食卓には来なかった。

階段のほうから、たまに、爪が板を掻く音がした。

母は、俺宛ての郵便物を階段の一番下の段に積んでおいた。

手渡せばいいのに、必ずそこに置く。

「二階に持ってってよ」

「あんたが持ってきな」

そのやりとりが、週に一度あった。

封筒の数は、少しずつ減っていった。

住所を変えれば減るものだと、初めて知った。

母が二階へ上がらなくなった経緯は、あとから聞いた。

去年の春、階段の途中で膝が抜けて、動けなくなったらしい。

自分で救急車を呼んで、玄関の鍵を開けて待っていたという。

近所の人がそれを知ったのは、翌日だった。

「なんで俺に言わないんだよ」

「言ってどうすんの」

「どうもしないけどさ」

「じゃあ、いいだんべ」

それきり、母はその話をしなかった。

それからは、寝るのも食べるのも一階だと言った。

座布団を無視する猫

夜の仕事は、体の時間を裏返す。

昼に寝て、夕方に起きて、終電で現場に入る。

帰ってくるのは、たいてい朝の7時だ。

そのたびに、トメは四段目にいた。

朝でも、夕方でも、真夜中でも。

撫でようと手を伸ばすと、尻尾の先だけを二回振った。

それは撫でていいという合図ではなく、邪魔だという合図だった。

俺は毎回、その段を跨いで上がるようになった。

11月に入って、朝が冷えるようになった。

ある朝、帰ってくると、四段目に座布団が敷かれていた。

紺色の、縁のほつれた小さいやつだ。

母が敷いたに決まっていた。

トメは、その座布団の横に座っていた。

板の上に、きっちり座っていた。

「トメ、そっちのほうが寒いだろ」

言ってみたが、聞く気配はなかった。

夕方、起きてきた俺に母が言った。

「あの子、座布団に乗らないんだいね」

「見た」

「昨日から3回敷き直したんだけど」

「無駄だと思うよ」

「そうかい」

母はその晩も敷き直した。

翌朝も、トメは板の上にいた。

一週間、それが続いた。

母は毎晩敷いて、トメは毎朝その横に座っていた。

八日目の夜、母は座布団を持って和室へ戻った。

「あの子、ぜいたくなんだいね」

その言い方がおかしくて、俺は笑った。

声を出して笑ったのは、この家では12年ぶりだった。

母は笑わなかったが、湯呑みを持つ手が少しだけ止まった。

正月は、二人で雑煮を食べた。

母の雑煮は、醤油で、角餅で、鶏と小松菜しか入っていない。

12年前と、まったく同じだった。

父の話は、どちらからも出なかった。

母はトメの分の鶏を、小皿によけていた。

「あの子、鶏だけは食べるんだいね」

「腎臓、悪いんだろ」

「ひとかけらだけ」

母は小皿を持って、階段の下に立った。

そこから先へは上がれない。

「持ってってやんな」

俺が四段目まで運んだ。

トメは小皿に顔を突っ込んで、鶏をひとかけら食べた。

母は下から、それを見上げていた。

見上げている時間が、思っていたより長かった。

神田のビルの帯

現場は、神田の8階建てのビルだった。

深夜1時に入って、朝の5時に出る。

床を洗って、水を吸って、ワックスをかける。

その繰り返しを、階ごとにやる。

3階の廊下には、はっきりした帯が2本あった。

1本は、受付から給湯室へまっすぐ伸びている。

もう1本は、非常階段の扉から喫煙所へ、斜めに横切っていた。

斜めのほうは、途中で一度、壁のほうへ寄っていた。

寄ったところの壁に、肩の高さの黒ずみがあった。

誰かが毎晩そこに寄りかかって、少しだけ休んでいたのだと思った。

同じ班の年上の人に話したら、笑われた。

「そんなの見て、何になるんだい」

「何にもならないです」

本当に、何にもならない。

ただ、床は嘘をつかない。

現場では、艶の落ちた帯を見れば、その人が何年どこを歩いたかがわかる。

誰も見ていない場所ほど、床は正直だった。

それを10年やってきた。

自分の家の階段については、一度も見たことがなかった。

斜めの帯の主は、あとでわかった。

夜中に見回りをしている警備の人で、股関節を悪くしていた。

「壁に手ェつくと、楽なんだよ」

その人は笑いながらそう言った。

床の減り方は、本人が黙っていることまで教えてしまう。

12月の終わりに、トメを動物病院へ連れていった。

母は膝のせいで車に乗るのが辛いから、俺が一人で行った。

キャリーの中で、トメは一度も鳴かなかった。

「16歳だと、こんなもんですよ」

獣医はそう言って、数値の書かれた紙を渡した。

腎臓が、ゆっくり悪くなっているらしい。

朝と晩に、白い粉薬を餌に混ぜることになった。

「階段、上がらせないほうがいいですか」

訊いてから、自分でおかしいと思った。

「上がりたがるなら、いいです」

「そうですか」

「猫は、意味のないことはしませんから」

その言葉を、俺は帰りの車の中で二回思い出した。

階段の四段目の音

その段を踏むと、ぎ、と鳴る。

四段目だけが、踏むと小さく鳴った。

ほかの段は鳴らない。

ある晩、俺は言った。

「階段、直すよ」

「なんで」

「四段目、沈んでる。踏むと鳴るし」

「直さなくていいよ」

母の声は、思ったより強かった。

「危ないだろ。膝も悪いんだし」

「もう上がらないから、関係ないよ」

「トメが躓いたらどうすんの」

「あの子は躓かないよ」

話はそこで終わった。

理由は、最後まで言わなかった。

俺は少し腹が立った。

12年ぶりに帰ってきて、家のことをひとつ直したかった。

それだけのことだ。

母は、俺に何かをさせる気がないように見えた。

訊かない代わりに、頼まない。

そういう人だと思っていた。

次の日から、俺は四段目を跨ぐのをやめた。

踏めば鳴るが、鳴らせばいいと思った。

母は何も言わなかった。

ただ、鳴るたびに和室の襖が少しだけ開いた。

四段目の音は、この家でいちばん小さな音だ。

それでも、和室までは、ちゃんと届いていたらしい。

その夜、水を飲みに降りた。

四段目で、足が止まった。

理由はない。

ただ止まった。

体が覚えている段差みたいなものだろうと思った。

下の和室からは、テレビの音が消えていた。

襖の下から、細い光だけが漏れていた。

俺は、その光をしばらく見ていた。

自分がなぜ立ち止まっているのか、そのときはわからなかった。

年が明けて、母の膝の手術が決まった。

人工関節を入れる手術で、入院は2週間だという。

「大したことないよ」

母はそう言ったが、渡された書類の束は薄くなかった。

俺は夜勤を二日休んで、病院まで送った。

待合室で、母は自分の膝の話をしなかった。

「あの子の薬、朝と晩だからね」

「わかってる」

「階段のとこに水置いといて」

「なんで階段」

「あの子、あそこから動かないから」

それが、入院前の最後の会話になった。

家に戻ると、四段目にトメがいた。

いつもと同じ場所だ。

ただ、向きが違った。

それまでトメは、玄関のほうを向いて座っていた。

その日は、二階を向いていた。

背中しか見えなかった。

俺は水の皿を三段目に置いて、跨いで上がった。

手術の翌日、面会に行った。

母はベッドの背を起こして、窓のほうを見ていた。

「トメは」

「ちゃんと薬飲んでる」

「水は」

「三段目に置いた」

「四段目じゃないんかい」

「四段目には、あの子が座ってるから」

母は少しだけ笑った。

笑ったのを見たのは、帰ってきてから二度目だった。

「あんた、二階で寝てるんかい」

「うん」

「そう」

それだけ言って、また窓のほうを見た。

母のいない家は、音が減った。

テレビも、換気扇も、味噌汁の湯気も止まっている。

残ったのは、俺の足音と、四段目のきしみだけだった。

一人の夜は、長かった。

作る相手がいないと、飯は作らない。

コンビニの袋のまま、台所で食べた。

トメが、夜中に一度だけ鳴いた。

階段のほうだった。

見にいくと、階段の四段目に座って、二階を向いていた。

鳴いたのは、それきりだ。

俺はその晩、一番下の段に座って、しばらくトメを見ていた。

郵便物はもう、一通も積まれていなかった。

二日目の夜、俺はホームセンターへ行った。

同じ幅の杉板と、釘と、バールを買った。

母には黙っていた。

退院してきたときに、黙って直っているほうがいいと思った。

それが親孝行だと、そのときは本気で思っていた。

はずした踏み板

階段の四段目の板を外すのに、10分もかからなかった。

釘は4本。

どれも、頭が沈むほど深く打ってあった。

外した板を、一階の廊下まで持っていった。

裏を見た。

何もなかった。

文字も、紙も、埃のほかには何も貼られていない。

がっかりした自分に、少し笑った。

手のひらが灰色になっていた。

40年ぶん、誰にも触られなかった埃の色だ。

板を廊下の床に置いた。

がたついた。

片側が浮いている。

指で押すと、こっと鳴った。

反対側を押しても、鳴らない。

俺は板を持ち上げて、蛍光灯に透かした。

板は、壁側だけが指一本ぶん沈んでいた。

それが、おかしかった。

階段は、ふつう手すり側が減る。

人は手すりを持って上がるからだ。

手すり側の面は、ほとんど平らだった。

減っていたのは、壁のほうだった。

壁のほうを踏むのは、壁に手をついて立ち止まる人だけだ。

神田の3階の、斜めの帯を思い出した。

あれは、休む人の帯だった。

壁に手をつくのは、楽になりたい人だ。

体を預けて、そこで一度止まる人だ。

この家の階段で、そんなことをする人間に心当たりはなかった。

俺は板を持ったまま、階段へ戻った。

四段目のところに立って、壁を見た。

壁紙は、もとは白かったはずだ。

腰より少し低いあたりに、うすい染みがあった。

手のかたちをしていた。

指の付け根と、親指の腹のあたりだけが濃い。

自分の手を、そこに当ててみた。

合わなかった。

俺の手は、その染みより上に来た。

15センチくらい上だ。

膝を折ってしゃがむと、ようやく指の位置が合った。

母の背は、俺より15センチ低い。

手が震えているのがわかった。

寒さのせいだと思いたかった。

壁のくろずみ

そこまでは、わかった。

わからないことが、ひとつ残った。

自分の手を当てたとき、手のひらが別のところに触れていた。

そこにも、染みがあった。

壁の黒ずみは、二つあった。

低いほうと、高いほう。

低いほうが母で、高いほうは俺だった。

その高さに覚えがあることを思い出すのに、少しかかった。

19の夏、父と母は毎晩のように言い争っていた。

俺は二階の部屋を出て、階段を降りた。

五段目までは、声が届かない。

三段目まで降りると、居間からこちらが見える。

四段目だけが、聞こえて、見えない段だった。

俺はそこに立って、壁に手をついて、毎晩それを聞いていた。

そして、その夏の終わりに家を出た。

出ていく朝、母は台所から出てこなかった。

追ってこないのだと、そのとき思った。

俺は二階へ上がって、自分の部屋の電気を点けた。

そして、降りた。

五段目に立った。

廊下の壁は、暗いままだった。

四段目に降りた。

壁に、細い光の帯があった。

扉の下から漏れた光が、廊下の壁に映っていた。

三段目に降りた。

光は、もう見えない。

四段目だけだった。

母は、毎晩ここまで上がっていたのだ。

部屋の明かりがあるかどうか、それだけを確かめて降りていた。

空いたままの部屋の前で、12年。

何度上がったのかは、わからない。

数えたところで、意味もない。

わかるのは、板が指一本ぶん沈むまで、ということだけだった。

二階の空気が乾ききっていなかったのは、そのせいだった。

俺はもう一度、壁に顔を近づけた。

指で、高いほうの染みを撫でた。

指の腹に、灰色がついた。

低いほうを撫でた。

何もつかなかった。

低いほうの黒ずみだけ、埃が乗っていなかった。

俺は板を戻した。

釘は、同じ穴に打った。

最後の一本だけ、頭を沈めずに残した。

踏めば、ぎ、と鳴るようにした。

2週間後、母が帰ってきた。

杖をついて、玄関で靴を脱ぐのに時間がかかった。

「階段、直したかい」

「直してない」

「そうかい」

母はそれだけ言って、和室へ入っていった。

トメが、襖の前まで迎えに出ていた。

あの段から降りたところを、俺は初めて見た。

その夜、俺は四段目をわざと鳴らしてから上がった。

下から、声がした。

「おやすみ」

12年ぶりだった。

次の朝、母は和室から出てこなかった。

昼になって、台所で米を研ぐ音がした。

二人分だった。

俺は部屋の電気を点けたまま、布団に入った。

扉の下から、光が細く廊下へ出ていく。

四段目に立てば、それが壁に映って見えるはずだ。

医者は、母にもう階段は使うなと言っている。

だから今度は、俺が降りる。

トメは、今夜も階段の四段目にいる。

俺は、その段で足を止める。

泣ける話・感動する実話まとめ|ラクリマ

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